河童の怒り
ピピピ! ピピピ! ピピピ!
安藤水則はスマホのアラームの音で水面からジャンプするイルカのように飛び起きた。
「はあ、はあ、はあ……。ひどい悪夢を見た気がする」
アラームを止め、スマホの画面を見る。時刻は朝の八時二十分を示していた。
「うわっ! なんだよこれ……」
ベッドから起き上がると、まるでバケツの水を浴びたようにシーツが濡れていた。
昨夜は二十五度越えの熱帯夜だったためか、異様に部屋の湿度が高く息苦しい。
微かに泥の匂いが混じっている気がして窓を開けると、生温い風が頬を叩く。
安藤は汗でぐっしょりと濡れた服を脱いで上半身裸になり、そのまま洗面所に向かった。
「うげえ、まるで土砂降りの雨にでも降られちまったみたいじゃん」
寝間着のシャツを雑巾のように絞ると、空のコップを満たせるほどの水が排水溝を流れていった。
ピピピ! ピピピ! ピピピ!
再びスマホのアラームが鳴り響く。
朝が弱い安藤は、十分ごとに間隔を開けて目覚ましアラームの時間を設定していたからだ。
「やべっ、もう出ないと。また怒られちまう」
高校の制服に着替え終えると、時刻は三十分。
安藤は鞄を取り、冷蔵庫から炭酸の缶ジュースを持ち出し玄関に向かうと、スニーカーのかかと部分を踏みつけながら慌てて家を出る。
朝食代わりの炭酸の缶ジュースを前方のカゴに入れ、自転車に跨り車道に出る。
「ん?」
太陽から照り付ける日差しが眩しくて、逃げるように頭を下げると道路脇の側溝に亀がひっくり返っているのを発見した。
「うわー、可哀そうに。時間が惜しいけど、これも何かの縁だ。それに、無視するのも目覚めが悪いしな」
安藤は自転車から降りて、側溝の前にしゃがみ込む。
両手両足を懸命に動かす亀を観察した後、慎重に地面へと起こしてあげた。
「俺がいて幸運だったな。次から気を付けるんだぞ」
そう声をかけるも、亀は返事もせずにノソノソと再び歩き出す。
しばらくその様子を見守っていた安藤は、炭酸の缶ジュースをカゴから取り出してプルタブを開けると、プシュと気持ちのいい音がした。そして、ゴクゴクと喉を鳴らす。
「ふぅ……一件落着。それにしても、どこか既視感があったような……。って、急がないと遅刻しちまう!」
スマホで時間を確認すると五分が経過しており、始業時間まであと十分もなかった。
川沿いにある寮と高校の間には小さな川が挟まれており、橋を渡らないといけない。自転車なら急げば五分で着く距離だ。
土手に上がり、川沿いの歩道を走る。
歩道と川の距離は短く、柵もないため大雨の時はよく教師から気を付けるように注意をされるような場所。とはいえ、普段は膝が浸かる程度の深さでしかなく、今日のように晴天の日は何てことない河原でしかない。
安藤は片手運転でペダルを踏みこみながら、もう片方の手には炭酸の缶ジュース。寝起きで乾いた喉を潤すために残りを一気に流し込んだ。
「ぷはぁ」
片手で残量を確かめるために軽く振る。そして、流れるような動作で缶を川に投げ捨てた。
ポチャン。
「よっしゃ! こっからさらにスピード上げるぜ」
安藤は両手でハンドルを握りギアを上げると、力いっぱいにペダルを踏み込む。
グングンと速度を上げた自転車は風景を歪ませていく。もはや車と変わらない速度に達していた。
橋まであと少しといったところで、ボンッと何かが自転車にぶつかり、ふわっとタイヤが浮き上がってしまう。
「やべっ!」
束の間の浮遊感。
コントロールを失った自転車は歩道を外れ、空中へ投げ出される。
タイヤを空転させながら、真横の川へと体が押しつぶされるように落ちていく。
なんとか自転車から投げ出されずにすんだ安藤は、空中でバランスを整え、近づいてくる川底を視界に捉えた。そして、衝撃に備えて軽く腰を浮かし、前傾姿勢を取る。
ポチャン。
「は?」
川底に着地するはずのタイヤは、ヌルッと川の中へと吸い込まれていく。
そのまま安藤の上半身も、ヌルッと抵抗もなく水に浸かっていく。
そして、まるで底なし沼のように全身が、ヌルッと水面へと飲まれていく。
(嘘だろ? 外から底が見えるほどの浅い川だぞ! なんで、足が着かねぇんだよ!)
地面を探すように両足をばたつかせ、必死に両手で水中を掻く。しかし、安藤の体はどんどん沈んでいく。
(やべ、息が……持たな……い)
すると、水面から光を遮るように人影が見えた。
(助け……て……)
頭上を見上げると、水面に映ったその顔はくちばしのように長い口に爬虫類のような目をした奇妙な生物だった。
人間じゃない……。そう思った瞬間、目が合った。
ニチャ……と醜悪に顔を歪めたその手には、安藤が飲んでいた缶ジュースの空き缶が握られていた。
(……河童?)
ビピピ! ピピピ! ピピピ!
その時、聞こえるはずのないスマホのアラーム音が水中で鳴り響く。
ポケットに入れていたスマホが、独りでに水面へと浮かんでいく。
もはや思考する余裕すらなかった安藤は、クモの糸に縋るように最後の力を振り絞り、手を伸ばしたのだった。




