失われた婚約
「寝取られ令息と底辺令嬢が、愛を深めていくお話」の連載版です。
明日が婚約式だというのに、ジュネシス・ドーマンの心は晴れなかった。
彼は王宮文官である。執務は滞りなくこなしている。書類に不備はなく、指示も的確だと評価されている。だが、それはただの習慣に過ぎない。
指先は冷え、彼の胸の奥には、常に鈍い痛みが残っている。
理由は、分かっている。
愛してもいない相手との婚姻締結――その事実以上に、かつて愛していた相手が、もう戻らない場所へ行ってしまったことが、今も蝕んでいる。
アナベラ。
豊かな黒髪と翡翠色の瞳を持つ、婚約者だった女性。
彼女は、弟ライルと駆け落ちした。
学園卒業を目前にした、あまりにも唐突な裏切りだった。
信じていた弟。
未来を共にすると疑わなかった恋人。
その二つを同時に失った喪失感は、簡単に癒えるものではなかった。
食事は味気なく、読書も自然散策も、ただ時間を消費するだけの行為に成り下がった。
――それでも。
貴族である以上、家を継ぎ、世継ぎをもうける責務からは逃れられない。
その現実を、ジュネシスは誰よりも理解していた。
「アホか。隣に裸の女がいたら、ガバッと抱きつく。それが男だ」
そう言い切ったのは、彼の上司である侯爵家当主だった。
二十年の結婚生活、三人の子ども、今なお円満な夫婦関係。政略結婚であったことを、彼は何の躊躇もなく語る。
「出会って、そのうち情が湧けば、恋愛結婚と変わらん」
豪快な理屈に、ジュネシスは曖昧に頷くしかなかった。
情が湧く――その言葉が、ひどく遠いものに思えたからだ。
怪訝そうなジュネシスに、上司は訊く。
「だいたい、お前の好きなタイプってどんなの? こだわりどこよ。顔? 胸? 脚? 尻?」
「せ、性格とか、価値観が同じ、とか……」
上司は両手を空に向かって広げて頭を振る。
これだから、女慣れしてない奴はとか、ぶつぶつ言っている。
本当は、もっと具体的に言いたい。
動物や花が好きで、小さな子供と遊ぶのが好きで、妹みたいで、時には姉のようで……。
しかし、そんなことを言ったら、もっと馬鹿にされそうで、とても口には出せなかったのだ。
「とりあえず俺が見繕ってやるから、一度会ってみろ」
ジュネシス・ドーマンは伯爵家の嫡男である。
貴族学園を卒業し、今は文官として王宮に出仕している。
広い領地を持ち、財政的には裕福な貴族である。
この国では、十八歳で学園を卒業すると同時に、男子も女子も結婚することが多い。ジュネシスもそのつもりでいた。だいたい貴族は十歳頃には、互いの爵位や派閥を鑑みて、婚約することが多い。
ジュネシスも婚約者はいた。少し前までは。
アナベラは、豊かに波打つ黒髪と、翡翠色の瞳を持つ美しい少女だった。
政略的意味合いを持つ婚約とはいえ、ジュネシスは一目惚れした。
親は資産家だが、まだ学園生だったジュネシスの小遣いはそう多くない。だから休みの日に商会などでアルバイトして、プレゼント代に充てていた。
「うわあ、ステキ! ありがとう」
キラキラした目で喜ぶアナベラが好きだった。
アナベラからのお返しは、男爵家の庭に咲く、小さな白い花だったり、アナベラが刺繍したという、ハンカチだったりした。
ささやかだったが、それがまた、アナベラらしいと思った。
だが、学園卒業直前に、アナベラは出奔した。
ジュネシスの弟と一緒に……。そう、駆け落ちだ。
ジュネシスの知らないところで、二人は愛を育んでいたらしい。
一歳下の弟ライルは、整った顔立ちと豊かな社交性を備え、女性からの受けが良かった。
ジュネシスは絶望感に包まれた。
弟とは仲が良かったと思っていた。
ジュネシスの父、ドーマン伯爵は、ライルを勘当したのだが、ライルを可愛がっていた母が、母の持つ爵位と遠い地の領地を与え、二人はそこで暮らしている。
その後、ジュネシスの心は、何かが欠けてしまったようだ。
何を食べても美味しいと感じない。
好きだった読書や自然散策も、興味が持てなくなった。
ましてやもう一度、結婚相手を探すなんて……。
お読みくださいまして、ありがとうございました!!




