遺品の腕時計
チク、タク、チク、タク。
私は正確だ。
一日にわずか三秒の誤差。それが私の誇りであり、存在意義だ。
私の心臓は、薄いテンプという名の金属の輪。
それが一秒間に八回振動し、アンクルと呼ばれる爪が歯車を送り出す。
この微細で完璧な物理運動こそが、私の命だ。
私は電池などという軟弱な電気仕掛けでは動かない。
持ち主の腕の振り、あるいは指先による竜頭の巻き上げ。
その人間的なエネルギーだけが、私を駆動させる。
私の指定席は、左手首の橈骨動脈の上だった。
裏蓋越しに伝わる、ドクン、ドクンという温かい律動。
主人の脈拍と、私のテンプの振動。
二つのリズムが重なり合い、私たちは四十年もの間、同じ時間を刻んできた。
主人の体温は、私のオイルを適切な粘度に保ってくれた。
主人の汗は、私の革ベルトに染み込み、独特の飴色へと変色させた。
それは汚れではない。私たちが一体であるという証明書だ。
主人は実直な男だった。
毎朝七時、コーヒーの香りと共に私を腕に巻く。
新聞をめくる音。
満員電車の湿気と圧力。
デスクワークのペンの走り。
会議中の焦燥感による脈拍の上昇。
帰宅後の安堵のため息。
私はその全てを、一番近くで感じてきた。
クオーツ時計が台頭し、やがて携帯電話が普及し、人々が時間を確認するために腕を見なくなっても、主人は私を使い続けた。
「手のかかる奴ほど愛着が湧くんだ」
そう言って、オーバーホールのたびに私を磨き上げた。
時計屋の親父がピンセットで私の内臓を分解し、洗浄し、油を差す。
その時の瑞々しい蘇生感。
私は何度でも生まれ変わり、主人の時を刻み続けた。
しかし、その日は唐突に訪れた。
病院の無機質な白い天井。
消毒液と、枯れかけた花の匂い。
主人の脈が乱れていた。
不整脈。
ドクン……ドクン…………ドクン。
頑張れ。
私はチクタクと大きな音を立てて、彼を励ました。
私の正確なリズムに合わせろ。
まだ止まるな。
だが、主人の腕は次第に冷たくなっていった。
三十六度あった熱が、三十度、二十五度と下がっていく。
裏蓋が冷える。
そして。
……シーン。
下の鼓動が止まった。
医者の宣告。家族の啜り泣き。
主人は「時間」という概念から解放された。
けれど、私は止まれない。
ゼンマイにはまだ力が残っている。
主人が死んでも、私は無慈悲なほど正確に、現世の時を刻み続ける。
チク、タク、チク、タク。
この音だけが、静寂な病室に響いていた。
それは主人への弔砲であり、私の孤独な独白だった。
四十九日が過ぎた。
私は桐箱の中で眠っていた。
ゼンマイはとっくに切れ、私の針はあの日、午後四時三十二分で止まっている。
主人の死と共に、私もまた死んだのだ。
それでいい。
他の誰の腕にも巻かれたくはない。
私は主人の時間の一部なのだから。
「父さんの形見、これか」
箱が開けられた。
息子だ。
葬儀の時に泣き崩れていた、あの青年だ。
大きくて、温かい手が私を取り上げる。
「いい時計だな。まだ動くのかな」
彼が竜頭を回す。
カリ、カリ、カリ。
懐かしい感触。
ゼンマイが巻き上げられ、力が蓄積されていく。
やめてくれ。
私はもう動きたくない。
主人のいない時間を刻むことに、何の意味がある?
彼が私を軽く振った。
テンプが揺れる。
弾み車が回り出す。
チク、タク……チク、タク。
ああ。
動き出してしまった。
私の身体は、機械仕掛けの悲しい性で、エネルギーを与えられれば動かずにはいられない。
「動いた」
息子が微笑む。主人の若い頃によく似た笑顔。
彼が私を腕に巻く。
ドクン、ドクン。
新しい鼓動。
主人のものより少し速く、力強いリズム。
皮膚の温もり。
血管を流れる血の音。
違う。これは主人ではない。
けれど、この血の音には聞き覚えがある。
主人の命が、形を変えてここに引き継がれている。
「よろしくな」
彼が呟く。
私は観念した。
そして同時に、微かな喜びも感じていた。
私は再び、時を刻み始める。
この新しい主人が、いつか白髪の老人になり、その脈が止まるその時まで。
私はこの一族の時間を、チクタクと語り継ぐ語り部になろう。
秒針が進む。
新しい一秒。
過去は死なない。
私が動いている限り、父と子の時間は繋がっているのだ。




