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遺品の腕時計

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/01/31

 チク、タク、チク、タク。

 私は正確だ。

 一日にわずか三秒の誤差。それが私の誇りであり、存在意義だ。

 私の心臓は、薄いテンプという名の金属の輪。

 それが一秒間に八回振動し、アンクルと呼ばれる爪が歯車を送り出す。

 この微細で完璧な物理運動こそが、私の命だ。

 私は電池などという軟弱な電気仕掛けでは動かない。

 持ち主の腕の振り、あるいは指先による竜頭の巻き上げ。

 その人間的なエネルギーだけが、私を駆動させる。


 私の指定席は、左手首の橈骨動脈の上だった。

 裏蓋越しに伝わる、ドクン、ドクンという温かい律動。

 主人の脈拍と、私のテンプの振動。

 二つのリズムが重なり合い、私たちは四十年もの間、同じ時間を刻んできた。

 主人の体温は、私のオイルを適切な粘度に保ってくれた。

 主人の汗は、私の革ベルトに染み込み、独特の飴色へと変色させた。

 それは汚れではない。私たちが一体であるという証明書だ。


 主人は実直な男だった。

 毎朝七時、コーヒーの香りと共に私を腕に巻く。

 新聞をめくる音。

 満員電車の湿気と圧力。

 デスクワークのペンの走り。

 会議中の焦燥感による脈拍の上昇。

 帰宅後の安堵のため息。

 私はその全てを、一番近くで感じてきた。


 クオーツ時計が台頭し、やがて携帯電話が普及し、人々が時間を確認するために腕を見なくなっても、主人は私を使い続けた。

 「手のかかる奴ほど愛着が湧くんだ」

 そう言って、オーバーホールのたびに私を磨き上げた。

 時計屋の親父がピンセットで私の内臓を分解し、洗浄し、油を差す。

 その時の瑞々しい蘇生感。

 私は何度でも生まれ変わり、主人の時を刻み続けた。


 しかし、その日は唐突に訪れた。

 病院の無機質な白い天井。

 消毒液と、枯れかけた花の匂い。

 主人の脈が乱れていた。

 不整脈。

 ドクン……ドクン…………ドクン。

 頑張れ。

 私はチクタクと大きな音を立てて、彼を励ました。

 私の正確なリズムに合わせろ。

 まだ止まるな。


 だが、主人の腕は次第に冷たくなっていった。

 三十六度あった熱が、三十度、二十五度と下がっていく。

 裏蓋が冷える。

 そして。

 

 ……シーン。

 

 下の鼓動が止まった。

 医者の宣告。家族の啜り泣き。

 主人は「時間」という概念から解放された。

 けれど、私は止まれない。

 ゼンマイにはまだ力が残っている。

 主人が死んでも、私は無慈悲なほど正確に、現世の時を刻み続ける。

 チク、タク、チク、タク。

 この音だけが、静寂な病室に響いていた。

 それは主人への弔砲であり、私の孤独な独白だった。


 四十九日が過ぎた。

 私は桐箱の中で眠っていた。

 ゼンマイはとっくに切れ、私の針はあの日、午後四時三十二分で止まっている。

 主人の死と共に、私もまた死んだのだ。

 それでいい。

 他の誰の腕にも巻かれたくはない。

 私は主人の時間の一部なのだから。


 「父さんの形見、これか」

 箱が開けられた。

 息子だ。

 葬儀の時に泣き崩れていた、あの青年だ。

 大きくて、温かい手が私を取り上げる。

 「いい時計だな。まだ動くのかな」

 彼が竜頭を回す。

 カリ、カリ、カリ。

 懐かしい感触。

 ゼンマイが巻き上げられ、力が蓄積されていく。

 やめてくれ。

 私はもう動きたくない。

 主人のいない時間を刻むことに、何の意味がある?


 彼が私を軽く振った。

 テンプが揺れる。

 弾み車が回り出す。

 

 チク、タク……チク、タク。

 

 ああ。

 動き出してしまった。

 私の身体は、機械仕掛けの悲しい性で、エネルギーを与えられれば動かずにはいられない。

 「動いた」

 息子が微笑む。主人の若い頃によく似た笑顔。

 彼が私を腕に巻く。

 

 ドクン、ドクン。

 

 新しい鼓動。

 主人のものより少し速く、力強いリズム。

 皮膚の温もり。

 血管を流れる血の音。

 違う。これは主人ではない。

 けれど、この血の音には聞き覚えがある。

 主人の命が、形を変えてここに引き継がれている。


 「よろしくな」

 彼が呟く。

 私は観念した。

 そして同時に、微かな喜びも感じていた。

 私は再び、時を刻み始める。

 この新しい主人が、いつか白髪の老人になり、その脈が止まるその時まで。

 私はこの一族の時間を、チクタクと語り継ぐ語り部になろう。

 

 秒針が進む。

 新しい一秒。

 過去は死なない。

 私が動いている限り、父と子の時間は繋がっているのだ。


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