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【短編小説】さようなら、春

掲載日:2025/12/20

 蒸気レスわく子が外に出ると、それはまだ春だった。

「何もしなくても春だわ」

 蒸気レスわく子は笑って歩道に躍り出た。

 日曜日の陽射しは生クリームみたいに柔らかく、風も穏やかに桜を撫でては花弁を踊りに誘っていた。


 蒸気レスわく子は靴のつま先をトントンと地面に蹴り当てて踵を調整すると、スキップするように歩き出した。

 何故スキップするように歩くのかと言えばそれは春だからだ。

 夏はそんな風に歩けないし、冬は慎重に歩かないとならない。

 もしかしたら秋ならスキップするように歩けるかも知れないけれど、秋はスキップするように歩くことの他にやりたい事がたくさんある。

 だから、スキップするように歩くのは春だけだ。


 そんな春の街を歩く蒸気レスわく子の前に、ひと組のカップルがいた。

 女の方はボレロの様な上着を肩に掛けず肘と腕だけで着ていたから

「それはまだ早いんじゃないかな」

 蒸気レスわく子は小声で呟いた。

 でも、蒸気レスわく子の呟きは、先に信号を渡り切ってしまったカップルには届かなかったから、蒸気レスわく子は点滅している信号を渡らずに、赤信号が点るのを見ていた。

「スキップじゃ、間に合わないこともあるのね」


 信号を待っていた蒸気レスわく子は、ビニールのジャケットを着てきたことを少し後悔した。

 何故なら何もしていなくても外は春で、街行くひとびとは半袖や短パンで闊歩していたからだ。

 蒸気レスわく子は少し恥ずかしくなって、ビニールのジャケットを脱ぐと、手に下げていた買い物袋に押し込んだ。

 薄く光る汗が、春の風に吹かれて心地よかったので、蒸気レスわく子は肩から力が抜けていくのを感じた。


 

 信号を渡った蒸気レスわく子が八百屋を覗くと、蕗の薹やたらの芽、それに筍などが並べられていた。

「ちょっと高いな」

 ようやく訪れた春を、陶器のお皿に盛り付ける事を想像したけれど、冬の間に土から旅立った春たちは高価だったので、蒸気レスわく子は少し悩んでから買うのをやめた。

「きっと、駅前のスーパーは土地代が高いから野菜も高いのだ」

 そう考えて、蒸気レスわく子は少し歩くことにした。



 何もしなくたって外は春なのに、スーパーには選んで並べられた春があるんだな、と蒸気レスわく子は思った。

 でも、そうやって選んで並べられた春がないと、蒸気レスわく子には春と言うものが分からないかもしれない。

 そう思うと蒸気レスわく子は少し悲しくなって、今日はもう家に帰ろうかと思ってしまった。

「街に季節が無いんじゃなくて、街の人たちが季節を無くしてしまったんだわ」


 気を取り直した蒸気レスわく子は、近くのパン屋に寄って宇宙船みたいな形をしたカレーパンと、無花果と胡桃のパンを買ってから家に帰ることにした。

 オーブンレンジでパンを温めながらコーヒーを淹れていると、机に上に置いた携帯電話が鳴った。

 液晶にはバイク屋さんと表示されていたから、あまり好きじゃない電話にも素直に出る事にした。



「もしもし」

 蒸気レスわく子は出来る限り可愛い声で応えた。

「いつもお世話になっております、バイクガレージツインバードの営業担当、ペドロナス内藤です。お預かりしていたバイクの修理ができましたのでご連絡差し上げました」

 バイクの修理代はかなりの金額で、何もしなくても春なのに、もう財布が涼しくなってしまうな、と蒸気レスわく子はため息をついた。

 でも、通勤で使うのだから仕方ないと知っていたので、明日になったら取りに行く旨を伝えて、蒸気レスわく子は電話を切った。


 

 淹れたてのコーヒーが部屋をその匂いで包んだ頃、インターホンが鳴らされた。

 蒸気レスわく子は立ち上がって、今夜は蒸気レスでいられるだろうか?と考えながらスキップするように歩く蒸気レスわく子は、ドアを開けて、外に立っている男を迎え入れた。

 外に立っていた男の肩に乗っていた桜の花びらを見た蒸気レスわく子は、やはり何もしなくても外は春だなと思った。


 

 だから蒸気レスわく子は死のうと思った。

「さようなら、春!」


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