バゲット
午後の部室は静かだった。
窓から差し込む光が、粉まみれの作業台を照らす。
麦野こむぎは、今日もパンを焼いている。
選んだのは、バゲット。
外はカリッと、中はしっとり。
恋愛妄想とは正反対の、硬派なパン。
「バゲットってさ、孤独に似てるよね」
こむぎがぽつりとつぶやくと、しおりが首をかしげる。
「え、どういうこと?」
「外側は硬くて、誰にも触れさせない。でも中は、案外やわらかい」
「……それ、こむぎ自身のことじゃん」
バゲットの焼き方は、食パンとはまるで違う。
高温(250℃)で一気に焼き上げることで、外皮にパリッとした食感が生まれる。
クープ(切れ目)は、焼成前に斜めに深く入れる。
「クープは、心の裂け目。そこから香りが立ち上る」
そして、焼成時には蒸気を加える。
「蒸気は、孤独の中の潤い。乾ききらないように、少しだけ優しさを残す」
妄想は、静かに始まる。
舞台はパリ。
石畳の街角、エッフェル塔の見えるカフェ。
彼女はバゲットを抱えて歩いている。
そこへ、ぶつかってくる青年。
「ごめん、バゲットが美味しそうすぎて、つい見とれて…」
こむぎは赤くなり、バゲットを差し出す。
「よかったら、半分こ、しませんか?」
現実。
クープが浅すぎて、焼き上がりが割れない。
「うわ、失敗した…」
しおりが覗き込む。
「恋もパンも、切れ目が大事ってことだね」
「それ、うまいこと言ったつもりでしょ」
「うん。ちょっと気に入ってる」
焼き上がったバゲットは、見た目は不格好だったけど、香りは完璧だった。
こむぎは一口かじる。
硬い。でも、噛むほどに味が出る。
「孤独って、悪くないかも」
そうつぶやく彼女の横で、しおりがスマホをいじっている。
「ねえ、文化祭のパン、何にする?恋するパンってテーマで」
「じゃあ…恋するバゲット?」
「それ、硬すぎて恋が始まらないよ」
ふたりは笑う。
午後の光が、バゲットの表面に金色の影を落としていた。




