プレーン食パン
朝の光は、食パンの焼き色みたいにちょうどいい。
麦野こむぎは、制服のポケットに小さく折りたたんだ“恋愛妄想メモ”を忍ばせて、今日も校門前の曲がり角に立つ。
「食パンをかじりながら曲がり角を曲がると、運命の人とぶつかる」
昭和の少女漫画に刻まれたその法則を、彼女は信じている。
だから、毎朝焼く。自分で。湯種製法で、もっちりと。
耳まで美味しい、こだわりのプレーン食パン。
**湯種**とは、小麦粉の一部に熱湯を加えてこね、一晩寝かせてから本捏ねに加える製法。
「水分を抱き込んで、しっとり感が長持ちするの。まるで、時間をかけて育てる気持ちみたい」
こむぎはそう言う。
予熱は200度。型に入れる前に、霧吹きで水分を与える。
「水分は、心の柔らかさ。乾いたままじゃ、表面が割れちゃう」
焼き時間は28分。耳まで美味しく焼き上げるのが、こむぎ流。
かじる。
歩く。
曲がる。
……誰もいない。
風だけが、こむぎの髪を揺らす。
「今日も、ぶつからなかったか…」
パンの耳が口の中で刺さる。ちょっと痛い。
でも、焼きたての香りが心を慰めてくれる。
部室に戻ると、塩谷しおりが待っていた。
「こむぎ、またやったの?曲がり角チャレンジ」
「うん。今日は耳が強かった」
「それ、恋じゃなくてパンの話じゃん」
しおりは恋愛至上主義。
「恋しようよ!」が口癖で、こむぎの妄想にツッコミを入れる日々。
でも最近、彼女もパンの魅力に少しずつ惹かれている。
昨日は「このクラム、ふわふわすぎて恋に落ちそう」と言っていた。
こむぎは、パンを焼く。
恋愛妄想をしながら、パンを焼く。
出会いはないけど、パンがある。
それだけで、今日も生きていける。
「ねえ、しおり。明日は角食にしてみようかな」
「それって…恋の角度を変えるってこと?」
「違うよ。型に入れて焼くってこと」
「……もう、こむぎの脳内、パンでできてる」
ふたりは笑う。
パンの香りが、部室に広がっていく。
恋は来ない。でも、パンは焼ける。
それが、こむぎの朝のすべてだった。




