プロローグ
朝の通学路。
制服の襟を整えながら、麦野こむぎは今日も“その瞬間”を待っていた。
食パンをかじりながら、曲がり角を曲がる。
昭和の少女漫画なら、ここで運命の人とぶつかるはず。
パンが宙を舞い、瞳が交差し、恋が始まる。
そんな妄想を、彼女は毎朝繰り返している。
でも現実は、誰もぶつかってこない。
パンの耳が口に刺さるだけ。
それでも、焼きたての香りが心を慰めてくれる。
こむぎが毎朝焼くのは、湯種製法のプレーン食パン。
小麦粉の一部を熱湯でこねて一晩寝かせることで、もっちりとした食感が生まれる。
「湯種は、誠実さの象徴。時間をかけて、丁寧に向き合うことでしか得られない味」
彼女はそう語る。
予熱は200度。型に入れる前に、霧吹きで水分を与える。
「水分は、心の柔らかさ。乾いたままじゃ、表面が割れちゃう」
焼き時間は28分。耳まで美味しく焼き上げるのが、こむぎ流。
彼女が部長を務める「パン焼き同好会」は、部員2人の弱小部。
もう1人の部員、塩谷しおりは恋愛至上主義。
「こむぎ、恋しようよ!」と叫びながら、こむぎの妄想にツッコミを入れる日々。
でも最近、しおりもパンの香りに少しずつ惹かれている。
そして、まだ出会っていない“理想の男子”。
こむぎの妄想の中では、米田たけるという名前で、パン屋の息子。
曲がり角でぶつかるはずだった彼は、まだ現れていない。
でも、こむぎは信じている。
パンを焼き続けていれば、いつかその香りが誰かの心に届くと。
「食パンのパン言葉は、“誠実”」
「まっすぐで、飾らない。でも、ちゃんと心に残る」
こむぎは、そう信じている。
恋は来ないけど、パンは焼ける。
それだけで、今日も生きていける。
これは、恋愛妄想とパンへのこだわりが交差する、ちょっと切なくて、すごく美味しい青春の物語。




