忘れん坊ニールの合言葉
とにかく僕は忘れっぽい。昨日の夜、何食べたかなんて覚えてられないし、店に来る客のオーダーだってよく間違える。まあ幸い今まで大きなトラブルに見舞われなかったんだが……
今回はやばいかもしれない。朝、起きたら隣に全裸の男。しかも完全に事後の。今までに何回かこういうシチュエーションはあったのだが、顔を見た瞬間青ざめた。
キリリとした男らしい眉、首にある月の形のタトゥー。どこからどうみても野心家で有名なヤン王じゃないか! なんでヤン王としがない飲み屋の店主である俺がヤッんだ?! 頭を抱えても振っても出てくるわけがない。忘れてしまってるんだから。
僕がパニックになっていると、ヤン王は目を覚まして背伸びをする。
「やあ、ニール。昨日のことは覚えてるか?」
「いや、あの、その」
上半身を起こすとシーツがするりと落ちて、厚い胸板には赤いキスマーク……これ、僕の仕業?
「はは、噂どおりの忘れん坊だな! この俺との時間まで忘れてしまうとは!」
ベッドを叩きながら豪快にヤン王が笑う。僕はその隣で引きつり笑いするしかなかった。
ヤン王曰く、身分を隠して夜こっそり出歩くのが日課。『忘れん坊のニール』に会うため昨日は国境近くにあるうちの店に来たらしい。閉店間際で客は他にいなかったたからカウンターで僕と話しているうちに意気投合。からの、ベッドインらしいんだけど……いやほんとに? そんな漫画みたいなこと、ある?
そもそもなぜ、『忘れん坊のニール』に会おうと思ったのか。それを恐る恐る尋ねてみる。窓から差し込む朝日がヤン王の端正な横顔を照らしていた。
「お前がなんでも忘れるという噂を聞きつけてな」
ヤン王は僕と同い年の二十七才。若くして王になった彼には気を許せる人物が少ないという。中でもなんでも話せるような相手がおらず、つねづね『話しても内容を忘れてくれる相手』が欲しいと思っていたという。いつも自信満々なヤン王なのに、ぽつりぽつりと喋る彼はそこらにいる青年そのもの。
「愚痴をいいたくて僕に会いに?」
「言葉が悪いな、だが端的に言えばそうだ。いち国民に言うべきことではないのは分かっているんだが」
つまりそれほどにまで、ヤン王は追い詰められているということなのだろう。僕と同じ歳の彼の重責を思うと胸が締めつけられた。それと同時にヤン王の悩みを知っているのは、僕一人だと思うとゾクゾクっとからだが震える。
「……昨日、僕と話してお気持ちは軽くなられましたか?」
そう聞くと、ヤン王はニカっと笑う。いつもの自信満々の笑みだ。
「人に話を聞いてもらうのはこんなにも楽になるのだな!」
僕も思わず吹き出してしまう。これだけ聞いたのに昨日ヤン王が何を愚痴ったのか、全然思い出せない。忘れて感謝されるなんてことがあるなんてと、なんだかむず痒い気持ちになった。そしてふと気が気づく。話を聞いただけなら何故身体を重ねる必要があったのか? それをヤン王に聞いてみると彼はすぐ呆れた顔をした。
「なんと、覚えていないのか? 誘ってきたのはお前からだというのに」
「えっ」
僕が誘った? そんなバカなと思いつつそう言えば以前も相手の子に言われたのを思い出した。しかも僕は挿れる方だし、お尻が痛くないということは……ヤン王に挿れちゃったってこと?
「まあいい。俺も楽しませてもらったからな。それも込みでまた会いにくる」
そう言うと、ヤン王はベッドから立ち上がり、引き締まった裸体を惜しげもなく晒した。
それから数ヶ月に一度の間隔でヤン王は閉店間際に現れるようになった。ヤン王が現れ、愚痴をこぼし、身体を重ねる。相変わらず愚痴の内容は翌日には忘れている。そんな日が続くうちに僕の気持ちに変化が現れた。
会えない夜に、ヤン王を想い出しながら自慰をするほど身体はその相性を覚えてしまった。困ったものだ。忘れやすいはずなのに、なぜこんなところだけ覚えているのだろう。ヤン王の自分にだけ見せてくれるであろう笑顔も脳裏から離れ慣れなくなっていた。
感覚的にそろそろヤン王が来る時期だなと感じていた雨の夜。カラン、とドアが開き顔を上げるとそこに居たのは白髪の年配男性と後ろには男が二人。
「あなたがニールさんですかな?」
彼の右胸には王室関係者の証である真紅の鷹を模ったブローチが輝いていた。僕は口から心臓が出そうなほど驚いてしまった。何故ならヤン王が言っていたからだ。
『ここに来ていることを知っているのは側近のマッシュだけだ』
不測の事態に備えてヤン王が話してくれたことがある。王室関係者と名乗るものがここにきたら警戒しろと。
マッシュの特徴は聞いているものの、目の前の男はそれと変わらない。しかし本当にマッシュなのか。早まる鼓動を感じながら冷静につとめる。
「……はい、ニールです。あなたは王室の方ですか」
「側近のマッシュです。ヤン王が城にお連れしろとのことで迎えに参りました」
上品な微笑みの好々爺。本当のマッシュなのかもしれない。だけど僕はそれが判断できないのだ。
「申し訳ない。何かと物騒でしてね、合言葉をヤン王と決めているのです。王は成年すると名前が変わると聴きました。幼少期の彼の名をご存知でしょう? それを教えてください」
震える手を隠しながら答えると、好々爺は一瞬戸惑ったような顔を見せたがすぐに答える。
「ならずものが多いですからな。ヤン王の幼い頃のお名前は『フェルナンド・ダ・ヤン・カラット・ヴェール』です」
すらすらと名前を答える彼に、僕は目の前の棚からそっとヤン王のキープしているボトルを持った。窓の外の、雨の音が一層激しくなる。まるで僕の早まる鼓動と同じ。
「さすが王室関係者だ。長い名前もよく覚えてらっしゃる」
「我が王のお名前ですからね」
「……しかし残念ながらわたしは覚えられないんですよ」
「は?」
「物忘れが激しいわたしがこんな長い名前を合言葉にするわけがありません」
王室関係者だというものが来たら、合言葉に幼少期の名を尋ねろとヤン王は僕に言った。偽物の王室関係者であれば答えられないし、本物の王室関係者で答えられたとしてもそれはマッシュではない。合言葉など存在しないのを彼に伝えていたからだ。なにせ『忘れん坊のニール』が覚えられるはずがない。
「合言葉なんか、初めからありません」
すると目の前の好々爺は見る見るうちに顔を赤らめ、勢いよくテーブルを叩いた。
「庶民の癖に、ためしおって! もう構わん、連れて行け」
そういうと彼の後ろにいた男二人がカウンター内に侵入してきて、僕は慌てて持っていたボトルにぶら下げていたタグを咄嗟に手にする。それは小さな短剣を模したキーホルダーのようなもの。鞘をすっと抜けば小さな刃が輝く。
「それは『琥珀の召喚刃』ではないか。お前如きがもつものではない! 渡せ!」
「ヤン王が貸してくれたんだ、これを自分だと思って何かあったら鞘を抜けって!」
抜いたところでどうなるかは、知らない。いや正直言うと、忘れてしまったのだ。
「はは、『琥珀の召喚刃』は鞘を抜くだけでは召喚はできない。その先を忘れたんだろう。ヤン王がせっかく教えてくださったのだろうに!」
男たちは僕の体を羽交い締めにする。抗っているうちに一人の男が首に手を伸ばしてきた。
「ぐっ……」
頸部を圧迫され息ができない。助けて、誰か!
――ヤン王、助けて!
そう願ったと同時に床に落ちた『琥珀の召喚刃』が光を放ち、スモークと共に雄々しいシルエットが浮かぶ。やがて出て来たのはこめかみに血管を浮ばせ憤怒の形相をしたヤン王だ。
「何をしている」
その言葉だけで、僕の首を絞めていた手が緩み羽交い締めされていた腕は解かれた。好々爺は目を大きく見開き口を開けていた。
「な、なぜ真言を唱えずにヤン王を召喚できたんだ!」
言葉を吐き捨て、一目散に出口へと向かうが外に出ることは叶わなかった。もちろん男二人も。彼らはヤン王が振り放った電流鞭を受けその衝撃で床に倒れたのだ。
「ニールが真言を唱えなくていい様に、俺が細工したんだ。残念だったな」
好々爺の横っ腹を力任せに足蹴りすると、そのまま気絶し言葉を発さなくなった。
「ヤン王……!」
僕は思わず駆け寄ってその体に抱きつくと、ヤン王もまた僕の体を痛いほど抱きしめた。時間にしてほんの数分だったけど、お互いの体の暖かさにだんだんと心が落ち着いてきた。
しばらくすると、体を離しヤン王と僕はお互いを見つめる。さっきまで鬼の様な顔を見せていたのに今は子犬の様に不安そうな顔だ。
「すまない、怖い思いをさせてしまった」
「大丈夫です。あなたが色々教えてくれていたから」
するとヤン王は僕のほおを両手でつつみこみ、ゆっくりと唇を重ねてきた。思わぬ行動に僕は一瞬体が固まったが、そのキスが暖かく柔らかくて優しいものだから――僕は腕を伸ばしてヤン王の体に再度抱きついた。
捕まえた男二人は爺に雇われた傭兵で、マッシュを名乗っていたのは王室に勤める執事だった。自分を追い出そうとする勢力の一味だろう、とヤン王はお茶を飲みながら自室で教えてくれた。
事件の翌日。ヤン王は本物のマッシュと一緒に店に来た。昼間に来たものだから、まわりにいた客たちは目を白黒させていた。なぜなら彼は変装することなく首のタトゥーも隠さないまま、現れたからだ。
城に連れて行かれ、王の間に通されて部屋のあまりの広さに口が塞がらない。店に来るヤン王に慣れてしまって、彼が国王であることを忘れかけていた。まず話したのは件の執事たちのこと。これからたっぷりと尋問し、処分するのだと聞き身震いがした。
「さて今日来てもらったのはニールに提案がある」
その言葉を合図にそばにいたマッシュがそっと退室し、二人きりになる。息を呑んでその先の言葉を待つ。変な緊張感が漂い、息苦しい。
「ニールはあの店の二階に住んでいて一人暮らしだと言っていたな」
「はい」
「両親は他界し兄弟もいない、と」
いつの間に知ったのだろうかと驚いたがもしかしたら、ベッドの中で僕が話したのかもしれない。
「では問題はない。ニール、この城に住め」
ヤン王の唐突な話に言葉を失う。城に住む、だって? そりゃこんな綺麗なところに住んで毎日ヤン王に会えるなら嬉しいけど……ヤン王はさらに付け加える。
「お前が危険な目に遭うのはこりごりだ。それにここに住めば会いに行く手間も省ける」
なんだ、効率を考えてなのかと少し胸がちくりと痛んだ。それが顔に出たのかヤン王は立ち上がり僕の目の前に立つ。僕より背が高い彼を見上げると色素の薄い茶色の瞳がこちらを見つめていた。
「すまん。言い方がおかしかったな。ニール、俺にはお前が必要なんだ。だから一緒に住んでくれないか」
必要、の意味がわからず僕は早まる鼓動を抑えながら聞いた。
「どういう意味ですか」
「ははっ、この俺にはっきり言えと指図するのか」
そう笑うと僕の顎を片手で掴む。
「俺はニールと会えないと寂しいんだ。こんな思いは初めてでな。毎日会いたいし、体を重ねたい。ニールだって俺を好いてるだろう? 俺が悦ぶところを覚えてくれているしなあ」
カァッと顔に火がついたように熱くなる。確かにヤン王を解す時、さらに挿れたあとどこを触れたら彼の反応がよくなるのかはすぐ覚えてしまったのだ。忘れん坊なのに、体が覚えていることが恥ずかしくなり僕はヤン王を軽く睨む。すると笑っていたがふいに笑みが消え、耳に口を近づけて囁いた。
「他のやつにお前が触れることが、耐えらない」
「……」
今までそんなそぶりなかったくせにと思いながらも、ヤン王の真剣な表情に鼓動が速くなる。ああもう口から心臓が出そうだ。あのヤン王が僕を好いているなんて! 窓の外から聞こえた鳥の鳴き声だけが、大きく聞こえる。
「どうだ?」
僕は意を決して、小さく頷いた。
「ヤン王。僕も、あなたが来る日が待ち遠しかった。それに……あなたの体もキスも、忘れたことはありません」
「ニール……」
「だからここに住むお話は嬉しいです。だけどあの店は続けたいのです」
「――ほぅ?」
ヤン王は少し顔を離し、僕を見つめる。射るような視線に胸が押しつぶされそうだ。
「あの店は僕の生き甲斐です。だから」
すると、ヤン王は声を出して笑い始めた。えっ、何かおかしいこと言った? 椅子に戻りどかっと腰掛けたヤン王は足を組み、こう言った。
「ここから通えばいい。なにもニールの自由を奪おうとは思ってない。お前はこの俺がそんなに器が小さい人間だと?」
「え……」
「そのかわり俺以外に体を許したら、分かってるな?」
愉快そうに口元を緩めているヤン王に、僕は心の底から叫びたくなった。
――僕はあなたが好きです、と。
ヤン王の前まですすみ僕は片膝をついてその手に触れた。そして手の甲にキスをすると頭を下げる。
「ヤン王。このニールはあなたのものです。あなたが望むことは僕の望み」
するとヤン王の大きな手が僕の髪に触れる。優しく慈しむように。
その夜。泊まっていけというヤン王の言葉に甘えて僕は食事をいただき、ふかふかのベッドのある部屋まで準備してもらった。突然のことでまだ頭の中は整理できないが、落ち着いてきたのは部屋にある甘い香りのお香のせいなのかもしれない。
灯りを消し、横になると虫の音が遠くに聞こえる。ふわふわする体がベッドに沈んでいくような感覚になっていたころ、突然部屋のドアが開いた。
「……合言葉を」
「忘れん坊ニール 」
その声はさきほど王の間で聞いた低くて重みのある、そして優しい声。合言葉などないと偽マッシュが来た時に答えたけれど実は二人だけで決めていた。そして僕はこの言葉だけは忘れることはなかったのだ。
来訪者はつかつかとベッドに近寄る。
「一人で眠らせるわけがないだろう」
声の主はヤン王だ。自分の寝室の方がよほど広いだろうに、と苦笑いしつつもこうなることを僕はどこかで望んでいた。
「……まだかなって思ってましたよ」
「こいつめ」
鼻を掴まれ、ヤン王はベッドに遠慮なく入ってきた。
それから僕は城で暮らすことになるのだけど、結局一年も立たないうちに店を畳んだんだ。それはヤン王が養子を迎え、一緒に育てて欲しいと――つまり正式に婚姻が決まったから。
そこに行き着くまでには本当に大変だったんだけど、またその話は別の機会にしよう。
【了】