第二話 歌にならなかった声
その歌声は、たまたま聞いたはずだったのに、耳から離れなかった。
誰かのために歌うなんて、自分には関係ないと思ってた。
たぶん、彼女もそうだった。
でも、あの日の放課後、ふたりは少しだけ交差する。
自分の「声」に悩む少年と、歌うことに戸惑いを抱える少女。
ほんの仮の一歩でも、ふたりの距離は、もう昨日のままじゃいられない。
これは、まだ名前のない“つながり”が、生まれはじめる物語。
世界が静まり返った放課後、音だけが生きていた。
葵の歌声を聞いたのは、ほんの偶然だった。
放課後、ユウトは教室にいた。帰り道の途中で作曲ノートを机の中に置きっぱなしにしたことを思い出し、慌てて引き返してきたのだ。
夕焼けが教室の窓から差し込んでいて、机の影が長く伸びていた。静まり返った空間に、自分の足音だけが響いていた。
ふと、校舎の奥からかすかな歌声が聞こえた。
(……誰か、歌ってる?)
声は、音楽室のほうからだった。
吸い寄せられるようにして、ユウトはその廊下を歩いた。夕方の学校はひどく静かで、歌声だけが妙にくっきりと響いていた。
曇った窓の向こうに、ピアノの前に立つ一人の女子生徒が見えた。
(……葵?)
そっとドアを開けると、そこにいたのはやはり葵だった。クラスメイト。でも、これまでまともに話したことはなかった。
彼女は独り言のように歌っていた。誰かに聴かせるためではなく、ただ自分の中の何かを確かめるように。
その声は、教室での無表情な彼女からは想像もできないほど、やわらかく、透きとおっていた。
それは、言葉じゃ届かない感情を、音だけで伝えてくるような声だった。
(……こんな声、出せるんだ)
ユウトはドアの隙間から、息をひそめるように立ち尽くしていた。
歌い終えた葵が、ふっと窓の外を見上げた。
その横顔も、声も、なぜだか胸に残った。
その夜、ユウトは眠れなかった。
布団の中で思い出していたのは、あの声だった。
(あの声が、俺の曲にあったら……)
ノートPCを開いて、DAW(音楽制作ソフト)を起動する。
録りためたメロディに、自分の声を重ねてみる。
でも、何度録っても、何かが足りない気がする。音が、届かない。
「……やっぱ俺の声じゃ伝わんない」
音はある。でも、心を動かす音楽にはなっていない。
翌日。
放課後の音楽室。
ユウトは、昨日の声に導かれるように、再びその場所に向かった。
廊下の奥に、またピアノに向かう葵の後ろ姿が見えた瞬間、足が止まる。
(どうしよう……本当に話しかけるのか、俺)
何度も深呼吸して、拳を握る。
逃げるな。昨日、自分でそう思っただろ。
そっと、ドアをノックして開ける。
「……神崎さん」
彼女がこちらを振り返る。少し驚いたような表情。
「……何か用?」
「昨日、君が歌ってるのを……その、たまたま聞いて……」
ユウトは言葉を選びながら、目線を泳がせた。
「すごく、よかった。……それで、お願いがあるんだけど」
葵は黙って彼を見つめている。
「俺、曲を作ってて。歌も入れてるんだけど、どうしても自分の声だと合わなくて……。その、もしよかったらでいいんだけど、仮歌……手伝ってくれないかな」
一息に言い終えたあと、胸がドクンと鳴った。
沈黙。
葵はほんの少し、視線を伏せた。
「……私が?」
「うん。昨日の声、すごく印象に残ってて……その声で歌ってほしいんだ」
葵はしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。
「……無理だと思う。私、そういうの、やったことないし……」
葵は少しだけうつむいた。
「中学のとき、合唱部にいたんだ。歌うのは、ほんとは好きだった。でもね……たぶん、声が浮いてたんだと思う。音が違うとか、目立つとか、いろいろ言われて……それで、だんだん歌うのが怖くなった」
その声はどこか遠くを見るようで、過去の自分に語りかけているようだった。
「私が誰かのために歌うなんて……そんなこと、自分にできるって、思ったこともない」
その言葉の奥に、過去の痛みと、それでもまだ消えきらない小さな火のような“歌への想い”が見えた気がした。
「でも、俺の声じゃ、どうしても足りないんだ。曲に魂が入らないっていうか……」
——伝えたい音が、あるのに。
「……録音とか、勝手に使うのはやめてね」
「もちろん、そんなこと絶対しない!」
思わず前のめりになって答えると、葵がふっと笑った。
戸惑いとあたたかさが混じったような、静かな笑顔。
教室では見せたことのないその表情に、ユウトの緊張もふわりとほどけていく。
——この人に、お願いしてよかった。
まだ彼女は、首を縦に振ってはいない。
けれど、その瞳の奥に、ほんのわずかに灯った好奇心を、ユウトは見逃さなかった。
ユウトには、あの声がまだ「歌」になっていないことが、もったいなく思えてならなかった。
きっと、音楽がふたりを近づけていく。
そんな予感がした。
まだ何も始まっていない。でも、ふたりの世界に、小さな音が鳴りはじめていた。
それは、まだ名もない旋律の、はじまりだった。
今回も読んでくれてありがとう!
“ふたり”の距離感、どう映ったかな?
まだ何も始まってないけど、
何かが少しずつ動き出したような、
そんな感じを描きたくて書きました。
この物語を書こうと思った理由や、
ふたりの関係がこれからどう変わっていくのか――
そのあたりも、これから少しずつお話していけたらと思ってます。
「なんかわかるな」
「続き、気になるかも」
って思ってもらえたら、とてもうれしいです。
それではまた、次回で!