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あらあら、おかしいですね? 先に見捨てられたのは私ですが。 〜なまけ者令嬢は隣国で能力を全解放する

作者: 紺青

  ああ、体が重い、ダルい……。

 耐えがたい眠気がやってきて、目の前が真っ白になる。

 うとうとする心地よさに負けて、テーブルに突っ伏した。


「マリッサー。あらぁ、寝ちゃった」


「今日は、半分しか食べてないな……。午前中に苦手な王国史があったから疲れているんじゃないか?」


 いつものように親友のアリスはマリッサに断りもなく、髪の毛を好きにいじっている。

 金色や銀色とか美しく輝く色をしているわけでもなく、貴族令嬢らしく腰まで長いわけでもない。

 肩甲骨までの長さしかないマリッサの黒髪を、なぜかアリスは気に入っていた。


 アリスが櫛で髪を梳く手つきはとても優しくて心地いい。

 アリスの双子の兄であるルイスが食後にいつも飲んでいるコーヒーの香りが隣から漂う。


「髪飾りが無理だからね、じゃーん、今日は髪紐を持ってきましたぁ! 皮をなめしたものだから、これならまとまると思うのよね……」


「お前、毎日毎日。マリッサはおもちゃでも人形でもないぞ」


「いーじゃなーい。マリッサも嫌がってないって」


「眠ってて、本人の意思、丸無視じゃないか」


「私はちゃんとマリッサのことわかってるもん!」


「どうだか……」


「ふんっ。ルイスなんて最初はマリッサを毛嫌いしてたくせに!」


「初めはな……。公爵令嬢なのに、ぼーっとして、居眠りばっかしてたら、誰でも距離を置くだろう」


「私ははじめから、ちゃーんとマリッサのこと好きだったから!」


「お前のそれは赤ちゃんとかペットとかそういう感覚だろう?」


「ふふふ。だって、マリッサって可哀そうかわいいのよねぇ。お世話しがいがあるわぁ」


「俺だって、マリッサがさぼってるんじゃなくて、体質だってわかってからは態度を改めただろ?」


 突っ伏して眠るマリッサの頭上で、双子の若干失礼で、気ままな会話が飛び交う。

 二人の気持ちが同情でも、ペットをかまう感覚でもよかった。

 むしろ、何も持たないマリッサのなにかが二人の心を満たしているなら、うれしかった。


 二人は隣国からの留学生だ。

 マリッサと同じく黒髪黒目で、長身で人目を引く美形の男女の双子。


 成績で決められるクラス分けで一緒になり、二人の世話役を頼まれた。

 三人の在籍するクラスは、下位貴族が多い最下位のクラスだ。

 魔法もその他の学科も優秀な成績を納める二人がこのクラスにいるのは、この国の言葉が苦手だったせいらしい。


 マリッサが人の世話や案内をできるわけもなく、なんとなく馬が合って仲良くなり、今では二人にお世話されている。


 実家は隣国の裕福な男爵家で、涼やかで美しい顔立ちの双子に、はじめは近づこうとするクラスメイトもいた。しかし、双子はマリッサ以外に心を許すことはなかった。

 

「マリッサ、そろそろ起きてー。ただでさえ、ちっちゃいんだから、ごはん、がんばって食べよう!」


 ゆさゆさとアリスに肩を揺さぶられて、なんとか体を起こす。


「疲れてるなら、食べさせてやろうか?」


 ルイスにからかうように言われて、アリスから差し出されたサンドイッチにかぶりつく。


「まるで赤ちゃんみたいね。噂通りみたいね、なまけ者令嬢さんは」


「ドノヴァン公爵家も落ちたものだわ」


「でも、あの色彩に魔力なしで、あの生活態度……本当に公爵夫婦の子供なのかしらぁ?」


「隣国の男爵家の子息令嬢とはいえ、侍る者がいるところだけ、公爵家ってかんじね」


「きっと権力で言う事を聞かせているんでしょう?」


 三人の背後を通った令嬢の一団がくすくす笑いながら、聞こえるようにこちらの噂話をしている。

 ここは貴族が通う学園の食堂の一角で。

 お金を出せば借りられる個別のブースだけど、王族や高位貴族用の完璧な個室と違って、仕切りはあるが完全に遮断されてはいない。


 自分への悪口や悪意に満ちた視線を気にしないようにして、ひたすら口の中に入っているものを咀嚼するのに集中する。

 余分なことを考えることに、エネルギーを使ったらもったいない。


 それに彼女達の言っていることは悪口ではなく、事実なのだから。


 魔力優位のこの国で、魔力なしと判定され、高位貴族にはあり得ない黒髪黒目。

 さらには常に眠くて、体がだるいせいで、マナーも学力も習得できず、ろくに身についていない。


 ――ついたあだ名はなまけ者令嬢。


 マリッサと現実の世界は、膜一つ隔てたよう。

 いつも眠くて、頭がぼんやりしている。

 どこかふわふわして、現実味がない。

 常に体も重くて、だるい。

 気を抜くと眠りの世界にいざなわれてしまう。


「他人のことなんて、ほおっておいてくれればいいのに! イラつくわ~」


「どこの国の貴族も似たようなもんだな……。アリス、あんな群れて遠巻きにしか嫌味を言えない奴らの戯言を気にするな」


「そうよね。私たちは好きでマリッサと一緒にいるのよ! マリッサだけはそれをわかっていてね」


 ほんのり甘いはずの卵サンドが今日は塩辛く感じる。

 マリッサはただ、こくりと頷いた。



 ◇◇


 

 生まれてきたのが、最大の間違いなのかもしれない。


 マリッサは国に四つしかない公爵家のうち、序列二位のドノヴァン公爵家に生まれた。

 待望の長男に続く女の子の誕生に、喜んだ次の瞬間、公爵夫婦は絶句したという。


 四大公爵家は、火・水・風・土の魔法属性をそれぞれ持つ。

 ドノヴァン公爵家は水魔法の使い手で、その魔法属性を表すように青色系統の髪や瞳をしている。それなのに、生まれたマリッサは庶民に多い黒髪黒目。

 血縁を調べる魔法がなければ、マリッサは放逐されていたかもしれない。

 

 マリッサは確かに両親の血をひくと認められた。

 しかし、それなりに円満な関係だった両親の間に、マリッサのせいで亀裂が入った。


 不貞を疑われた母は精神が不安定になり、マリッサの存在を無視するようになった。

 嫡男である兄ばかりを可愛がり、マリッサはいない者として扱われた。


 それでも暴力を振るわれたり、屋敷の片隅に追いやられたりすることはなかった。

 きちんと乳母や侍女や家庭教師はつけられたし、使用人たちに世話もしてもらえた。


 父と兄は、母とは違い普通に家族としてマリッサに接してくれていた。

 色味が違う子供が生まれることは、まれにあることだし、きちんと血縁関係は証明されていたから。

 

 五歳の魔力判定で、魔法属性が土で、魔力がほとんどないことがわかった。

 魔力量は高位貴族になるほど多い。下位貴族になるほど少なくなり、平民も少しは魔力を持っているらしい。

 マリッサの魔力量は平民より少なく、ほんのわずかしかない、とのことだ。


 更にマリッサが、その判定を跳ね返すような努力をしない――正確に言うとできなかったのだが――とわかると、父と兄からも静かに距離を置かれるようになった。


 マリッサは出来損ないな上に、なまけ者だった。

 常に体が重くて、眠たくて、ぼーっとしていて、気づくと居眠りしている。

 夜もしっかり眠っているし、食事の世話もしてもらっている。

 それなのに日中も眠くて眠くて、仕方ないのだ。


 魔力優位な国だけど、それなりに努力をすれば、王宮で騎士や文官、外交官になる道が開ける。

 わかっているけど、勉強をしようと本を開いても、気づいたら眠ってしまう。

 貴族令嬢として必須であるダンスやマナーを習得する体力もない。

 マナーが身についていないし、ぼーっとして気のきいたことも言えないので、家庭教師の許可が下りず他家の令嬢との交流もできない。


 マリッサの不遇に心を痛めた家庭教師も、学ぶ意欲のないマリッサをとうに見限っている。


 周りから見たら、自分が魔力なしで生まれたことに不貞腐れて、人生を諦めて投げやりになっているように見えたのだろう。

 腐っても公爵令嬢、傅かれるからなにもしなくたって、なにもできなくったって、いいだろうと。


 がんばりたくたって、がんばれないだけなのに。

 がんばれない自分が一番くやしいのはマリッサなのに。



 ◇◇



 いつもはアリスとルイスとのんびり過ごす、授業後の時間。

 マリッサは学園の面会室にいた。


「これが最後のチャンスだ」


 マリッサは目の前の婚約者の顔をぼんやりと見た。

 王太子の側近の仕事をしながら、次期公爵になるための教育を受け、公爵の補佐をして、忙しいのではないだろうか?

 多忙な彼が会いに来て、早々に不穏なセリフが飛び出て、マリッサは背筋を正す。


「君はいつになったら、やる気がでるんだい? 半年後には学園を卒業し、一年後には僕たちの結婚が控えている。婚約してから三年が経っているよね? その間、君はなにかしたかい? 高位貴族であるにもかかわらず最下位のクラスに在籍し、クラスを上げるどころか進級ギリギリの成績で。公爵夫人教育どころではないと聞いている」


 交流のなかった婚約者はマリッサのことをよくご存じのようだ。

 彼のマリッサへのダメ出しはよどみなく続き、止まる気配がない。


 今日の本題はなんだろう?

 マリッサとの婚約に不満があるなら、サックリと破棄してほしい。


 学園に在学中にわけあって、伯爵令息であった彼が筆頭公爵家を継ぐことになった。

 当時、爵位のつりあいの取れる高位貴族の令嬢がマリッサしかいなかったから、婚約しただけだ。


 そう、彼はマリッサというハズレくじを引かされた被害者。

 彼には次期公爵の妻として、ふさわしくないマリッサとの婚約を破棄する権利がある。

 

「魔力がないにしても、魔法陣構築や魔法理論を勉強するとか、マナーや語学力を磨くという道があるだろう? それすらもしていないんだろう? 君には貴族令嬢としてのプライドや責任感はないのか? やってみてダメならわかる。でも、やろうという姿勢すら見せない」


 婚約者はとても真面目で責任感の強い人だ。

 筆頭公爵家の血筋だけあって、燃えるように赤い瞳はまっすぐに未来を見据えている。


 急に公爵家を継げと言われても、腐らずに真摯に向き合い、責務をまっとうしようとしている。

 そんな彼からみたら、なまけ者のマリッサと言う存在は理解できないし、頭の痛い存在なのだろう。


 その気持ちはわかるけど、話が長い。

 これ以上話が続くと、居眠りしそうで怖い。

 でも、今日は眠るわけにはいかなかった。

 

 ――赤百合の姫がいるから。


 婚約者の義姉で、筆頭公爵家の長女。

 そして二年前に結婚して、王太子妃となった方が婚約者の隣に座っている。


 燃えるような赤い髪と瞳を持ちながら、清楚で優しい雰囲気をまとう彼女は赤百合の姫と呼ばれて、貴族はもちろん庶民からも絶大な人気を誇る。


 美しく可哀そうな公爵令嬢。

 幼くして母親を亡くし、後妻が来てから、虐げられた。

 食事や衣類は質素なもので、暴言や暴力をふるわれ、さらには後妻の娘である義妹に、自分のものを全部奪われていた。


 しかし、彼女は強く賢い人だった。

 そんな状況の中で、諦めず勉学を続け、婚約者だった王太子との仲を深めていった。


 ついには王太子と協力して、義母と義妹のしたことを告発し、後妻に惚れ込み言いなりだった父親を隠居させ、後妻と義妹を断罪し、公爵家から追い出した。


 王太子妃の不遇と王太子との真実の愛は有名な話で、小説や歌劇の題材にもなっている。


 彼女が父親を隠居させた後に、叔父である婚約者の父が公爵家当主となった。そのため、彼が自動的に次期公爵になったわけだ。


 王太子妃と婚約者は血筋で見ると従弟だが、仲は良好なようだ。


「あなたの境遇は確かに幸福なものではありません。でも、諦めるのはまだ早いです」


 婚約者が一通りマリッサへの苦情を話し終わると、彼女は突然立ち上がり、マリッサの前に跪いた。

 そして、マリッサの両手を美しいレース織りの手袋に包まれた手で握りしめる。


「王太子妃殿下、ドレスが汚れます!」


 さすがのマリッサも、おののいて悲鳴のような声をあげる。


「義姉上……王太子妃殿下は、君以上に辛い立場にいた。にもかかわらず、努力を重ね、自分の力で今の地位を勝ち取った。今は王太子妃の鏡なんて言われている。君のことを相談したら、王太子妃として忙しい中、マリッサに直々に指導してくれるって言うんだ」


 彼女は庶民にも寄り添い、慈悲深いと聞く。

 そんな彼女は、なまけ者のマリッサを更生させるための切り札ということか。


「だって、あなたは恵まれていると思うの……」


 人の幸不幸は比べられるものじゃない。

 確かにマリッサは恵まれていて、ただなまけているようにしか見えないだろう。


 家族から引きはがされることなく、衣食住が整っていて、こうして親身になって心配してくれる婚約者がいる。確かに、贅沢な話だ。


「努力で、なんとかならないものはありません。わたくしにできたのですから、マリッサさんにもできます」


 まったく悪気のない正論が胸に刺さる。

 燃えるように赤い瞳に射抜かれて、それだけで逃げたくなる。

 まだ遠巻きに嫌味を言われる方がましだと、マリッサは痛感した。


「だから、わたくしと一緒にがんばりましょう。ね、マリッサさん」


 母性あふれる微笑みに、マリッサの背筋をざわっとしたものが走った。


 目の前で静かに紅茶を飲んでいる婚約者に目を向ける。

 彼の眼は父や兄と同じ。

 もう、マリッサを見限っている目だ。


 最後のチャンスだと言い、王太子妃まで巻き込んで、ただマリッサが公爵夫人にふさわしくないと証明したいだけだろう。


 勝手に婚約者に据えられて、勝手に見切られようとしている。

 ぼんやりしているマリッサでも、そのことはわかった。



 ◇◇



「マリッサ、大丈夫だった? 本当に婚約者いたんだね~」


 翌朝、学園に着くとアリスが心配そうに話しかけてきた。

 昨日の授業後に婚約者の従者に、ほとんど説明もなく連れて行かれたからだろう。


「用件はなんだったんだ? 今まで交流はなかっただろう?」


 いつもはマリッサの事情に深入りしないルイスまで、気にしているようだ。


「……うん。……将来をちゃんと考えなくちゃいけないってことかな?」


 昨日は結局、今後の具体的な話はなかった。

 ただ王太子妃に会わせて、マリッサに刺激を与えたかっただけかもしれない。

 

 その時、教室の空気がざわっと揺れた。

 まだ始業には早いが、教師が入って来たのかと思ったけど、違った。

 制服とは異なる紺色のきっちりしたワンピースをまとった女性が教室に入ってきて、教壇から教室内を一瞥した。

 

 彼女の目がマリッサをまっすぐに捉えた、気がした。


「王宮の女官の制服ね……素性を隠すつもりはないのね……」


「赤百合の紋章……王太子妃付きか? なぜ、学園に?」


 アリスとルイスがなぜ、そんなことを知っているのかということより、彼女がこちらに歩いてくることに気を取られる。


 生徒たちがさぁっと避ける中、教室後方にいるマリッサ達の方へまっすぐに向かってくる。


 そのまま無言で横を通り過ぎ、教室の後ろで全体を見回し、紙とペンを取り出した。直立不動で、教室内を静かに見つめている。


「なんだろう? なにかの試験官かな?」


「時期的に王宮の文官候補や騎士候補の行動調査とか?」


 アリスやルイスと違って、彼女の正体がわからないクラスメイト達は不安そうに彼女を見て、憶測をささやいている。

 

「その顔色からすると、マリッサの関係者ね……」


「ああ、婚約者の義姉だからか……。でも、なぜマリッサに?」


 王太子妃の微笑みを思い出して、腕に鳥肌がたった。

 

「今日はいつもの席はやめて、窓際にしよう。アリスが右隣で、俺が後ろだ」


 アリスとルイスもマリッサの様子を見て、彼女の目的がマリッサだと察したのだろう。ルイスが的確な指示を出す。


 席は自由席なので、いつも授業中は後方の席で受けて、うとうとするマリッサを前に座るルイスが隠してくれて、先生に当てられた時は隣に座るアリスがフォローしてくれていた。


 教室がざわついている隙に、彼女からの視線を遮るような配置で座る。

 それでも、彼女の視線が常にマリッサを貫いているのが感じられた。


 やがてやってきた教師達も通達されているのか、彼女を追い出すことなく、かといって説明することもなく、普段通りに授業を進めている。


 その日は休憩時間も、お昼休みも、少し離れた距離から静かに見つめる視線を感じながら過ごした。



 ◇◇



 翌日になって、マリッサは王太子妃の本気を知った。

 婚約者のお願いを鵜吞みにして、マリッサを更生させようとしている。


「わたくしはね、義母に鞭打たれていたのよ。悪い事をしたわけじゃないの。ただ、彼女の機嫌が悪いっていう理由でね」


 ――だから、ぼーっとしたり、居眠りしたりした時に、木のヘラでピシャリと手を叩かれるくらい大したことないでしょう?


 そんな彼女の心の声が聴こえる気がする。


 今日一日、学園では王太子妃付きの女官がマリッサにぴったりと張り付いていた。後ろから見つめるだけではなく。

 朝一番にアリスとルイスから引きはがされて、最前列の中央の席に座らされ、その隣に座って常に監視していた。

 マリッサが少しでも眠りかけると、ピシャリと叩かれる。


 はじめはその異様な光景に驚いていたクラスメイトも、時間が経つにつれ慣れていった。


「時間が経っているせいで、ドレスで隠せるけど跡が残っている部分もあるの。マリッサさんも多少の痛みはあるかもしれないけど、一日の最後には王宮の魔法師がきちんと傷を治すから、あなたは跡が残らないわ」


 ――だから、これは虐待じゃなくて躾なの。居眠りするあなたがいけないのよ。


 移動教室も、お昼ごはんもずっと女官が一緒で、授業後は引きずられるように王家の馬車に乗せられ、王宮へやってきた。

 そして、王太子妃の傍らで、魔法師が赤く腫れたマリッサの手に治癒魔法を施している。


 王太子妃は、治癒魔法を施すために王宮にマリッサを呼んだわけではなかった。

 

 手の甲の治癒が終わると、目の前に山のように本が積まれる。


 マリッサの問題を全て解決するつもりだ。

 マリッサの学力はいつも進級スレスレの最低レベルで、授業後に根気強くアリスとルイスがつきあってくれなければ、留年していただろう。


 でも、王太子妃はマリッサの亀のように遅いスピードにつきあってくれる気はないようだ。一気に次期公爵夫人に相応しいレベルに引き上げようとしている。


「興味のないこととか、難しいものだと眠くなってしまうかもしれないと思ったの。魔法学、言語、マナー、歴史、算術……いろいろな分野の勉強をしましょう。どれか興味を惹かれるものがきっと見つかるわ。さぁ、本を手に取って見てみてごらんなさい!」


 マリッサは本が苦手だった。

 文字を読むことはできるが、その内容を理解しようとすると、とたんに頭がまわらなくなってくる。字の上を目が滑り、なにも頭に入らない。そして、気づくと眠っているのだ。


「学園の教科書と違って、初歩的でわかりやすく書かれた本を選んでみたの! どうかしら?」


 王太子妃の期待に満ちた目に押されて、魔法学の本を手に取ってみる。

 パラパラとめくると確かに、絵や図がたくさん用いられていて、字も大きい。

 それでも、真剣に読んでいると頭がゆらゆらしてくる。

 耐え難い眠気が襲ってきた。


「マリッサさん!!」


 パンっと両手を打つ音に、目を開く。


「おかしいわねぇ、何も異常はないのに、なぜそんなに眠いのかしら?」


 王宮に着いてすぐに、王宮の医師や魔法師に体中調べられた。

 でも、おかしなところはないという。

 公爵家でも定期的に魔力量を計られ、医師による検査も受けている。

 どれだけ調べても、マリッサの魔力はほとんどゼロに近くて、体に問題はない。


「体を動かし足りないのかもしれないわ。今日はダンスと歩き方の練習をしましょう!」


 すぐにダンスとマナーの先生が呼ばれ、くたくたになるまでレッスンさせられた。

 確かに、その夜はベッドに入るとぐっすり眠れた。

 しかし、翌朝はいつも以上に体がだるい。


「マリッサさん、自分を諦めてはだめよ。やる気がないから元気も出ないのよ。きっと気持ちの問題だと思うの。小さい頃から外見のせいで、否定的な目で見られてきたでしょう? だから、何事にもやる気がでないし、自信も持てないの」


 授業後に王宮に連れて来られると、女官から報告を受けた王太子妃は眉をしかめている。

 今日は昨日より、うとうとする回数が多くて、手を頻繁に打たれていた。


「小さくてもいいの。なにか行動を起こすことで未来って変わっていくのよ。小さなことでいいわ。なにかをなしとげるのよ。それが、明日への自信に繋がるわ。わかる? 行動が大事なの」


 さすが不遇を潜り抜けてきた王太子妃殿下。

 婚約してからほとんど交流がないにも関わらず、見切った婚約者とは違って粘り強かった。

 次から次へと工夫を凝らして、なんとかマリッサを机に向かわせようとする。知識やマナーを身に着けさせようとする。


 でも、彼女の熱意がだんだんとマリッサを追い詰めていった。


 女官に見張られながら、最前列で授業を受けて、居眠りをするとピシャリと手の甲を打たれる。

 昼休みは、学園の王族用のきっちり密閉された個室で、女官にマナーを注意されながら食べる。

 休憩時間や移動教室の時もぴったりと女官が張り付いていて、注意はされるが雑談は許されない。


 授業後は王宮で、王太子妃の手配する教師達からびっしりと組まれたカリキュラムをこなした。

 栄養が偏っているのかもと、夕食も王宮で食べることになり、ここでもマナーを注意される。


 マリッサは動作が遅く、飲み込みも悪いので、結局夜遅くまで詰め込まれることになった。

 眠る前にやっと一人になれる。


 確かに、あのままではマリッサは筆頭公爵家の夫人になどなれなかった。

 もしかしたら、学園の卒業だってあやういかもしれない。

 そろそろ、将来を考えて本気で軌道修正しないといけない頃だ。


 わかっている……。

 マリッサは恵まれている。

 こんなに出来の悪いマリッサに王太子妃の女官も教師達も根気強くつきあってくれている。忙しい中、教材を準備し、カリキュラムを考えて。


 マリッサはベッドに直行したい気持ちを押さえて、机の前に座る。

 大陸共用語の教本を読もうと、本を開く。

 今日中に読むようにと宿題で渡された本はあと三冊もある。


 字を追っていると頭がぼんやりしてくる。

 気付くと本の上に突っ伏して眠っていた。


「ああ、今日もなにもできなかった……」


 なんで自分はこんなに、ダメなんだろう。

 王宮の医師や魔法師が調べても異常がないなら、マリッサは本当に意思が弱いのかもしれない。

 のそのそとベッドに向かう。


 すぐに、まぶたが重くなってくる。

 そこへ、王太子妃の言葉が頭に響く。


『魔力がないからってあきらめてはだめよ。ゼロってわけじゃないのよ。少しはあるの。少しずつ増やしていきましょうね。眠る前に自分の魔力を使い切るのよ。わたくしもそうやって、増やしていったのよ。それくらいなら、できるわよね?』


 出来の悪い子供に言い聞かせるように。


 ああ、せめてそれくらいはしなければ。


 でも、体が震える。

 ただでさえ、あるんだかないんだかわからない、わずかな魔力を放出すると体が震え、頭が真っ白になる。


 それは死への恐怖に近い。

 高い塔から飛び降りるような。

 底の見えない池へと飛び込むような。

 根源的な恐怖が湧いてくるのだ。

 眠りを飛び越えて、死へと向かってしまうような――


 震える手で魔法陣を描き、ベッドの真っ白なシーツの上にサラサラと土を生成する。

 体からなにかが絞り出されていく。

 どんどん魔力が抜けて行って、全ての力が放出される瞬間に、気を失うように眠りについた。


 もう、終わりにしたい。

 なにをがんばればいいのか、わからない。

 どうすれば、この状況がよくなるのかも、わからない。



 ◇◇



 王太子妃、直々に特訓を受けているというのにマリッサが成長する気配は一つもなかった。


 魔力も増えないし、食欲も落ちて、授業中には眠ってしまう。

 最近は女官が木のヘラで手を打っても、眠り続けてしまうほど疲れ切っていた。


 成長するどころか、体調まで悪くなった。

 これまではふわふわとだるく眠たいだけだったけど、最近は頭痛が止まらず、体の節々が痛む。


 はじめ慈悲深い微笑みを浮かべていた王太子妃もあまりに変わらないマリッサに苛立ちをみせるようになった。


「ねぇ、マリッサさん。なにを言っても罰しないと誓うわ。なぜ、あなたはなにもしようとしないの?」


「……体が重くて。やろうと思う気持ちはあるんです。……でも」


「その話は聞き飽きたわ。体に問題はないはずでしょう? わたくしはね、あなたよりよっぽど酷い栄養状態だった。体もボロボロだった。それでも、できたのよ。なぜ、あなたはわたくしより、よっぽど恵まれた状況でなにもできないの? 病気でもないのに、ここまでできないのはわざとでしょう? きっと、なにか理由があるのよね?」


「……あの、本当にがんばりたいと思っていて……でも、すぐに眠くなってしまって……」


「でも、という言葉は聞きたくないわ。マリッサさんの本音を知りたいの。魔力がなくて、外見も庶民のようだから、公爵夫人になりたくないとか。わたくしがこれだけ手を尽くしても状況が変わらないなんて、きっとなにかあるのよね? それとも義務で繋がる結婚より、恋愛結婚に憧れているのかしら?」


「……あの、本当に」


 ぱんっと手を打って、マリッサの言葉は封じられた。

 疲れた表情の中で目だけ爛々とする彼女に嫌な予感がした。


「わかったわ。足りないのはきっと愛だわ。婚約者と交流を深めたら、やる気もでるわね!」


 翌日の授業後に、王宮へ行くと王太子妃ではなく婚約者がいた。

 王太子夫婦の宮の優美な庭に用意されたティーテーブルで婚約者と向き合う。


「それで、今日は学園でなにを学んだんだ?」


「経済学と言語学と……えーと……」


「具体的には? 一番、印象に残ったことを話せ。なんでもいい。話すことで記憶も定着する」


「魔法陣の歴史で……えーと……五十年前? 違う……百五十年前に……」


 一番好きな学科である魔法陣の授業のことでさえ、頭に靄がかかったように、習ったことが引き出せない。


「もともと期待していなかったけど、君は想定を超えている。もちろん悪い意味で。王太子妃殿下には僕から話しておく。君との交流に意味はない。それではこれで失礼する」


 失敗に終わった婚約者との茶会から引き上げると、王太子妃は深いため息をついた。

「もう、わたくしの手には負えないかもしれないわ……」


 今日はいつもの王宮でのカリキュラムは免除となったので、重い体を引きずって帰宅する。いつもとは違って早い時間の帰宅だからなのか、兄と廊下でかち合った。


「相変わらずのようだな」


 普段、お互い挨拶もせず会釈をするだけなのに、兄の方から話しかけてきた。


「心配しなくていい、マリッサ」


 兄はマリッサに近づくと、肩に手を置いた。

 兄の綺麗な青色の髪がさらりと揺れる。

 爽やかな笑顔と親密な態度にマリッサは戸惑った。


「父様も母様もお前のことなど考えたくもないみたいだけど、次期当主として俺はちゃんと考えている」


 マリッサに口を挟む隙を与えない。

 心なしか肩に置かれた手に力が込められて、重く感じる。


「婚約は破棄されるだろう。当然だ。お前は王太子妃殿下が直々に指導しても変わらない。もし、お前が王太子妃殿下のように鮮やかな逆転劇を見せて、筆頭公爵家の夫人になったら、我が家も潤ったんだけど、そう上手くはいかないな」


「……申し訳ありません」


「いいんだ。元々、期待なんてしていない」


「……はい」


「婚約を破棄されて、公爵家に戻って来られると思うなよ? お前はすぐに嫁ぐことになっている」


「……嫁ぐ?」


「ウーリー伯爵の後妻として、な」


 社交界に出ていないマリッサでも知っている悪名高い貴族の名前だった。

 幼女趣味で没落寸前の幼い貴族令嬢を養女として引き取り、食い物にしているという噂がある。


「魔力なしで、マナーもダンスも家政の取り回しもできないお前は、貴族の正妻として嫁ぐのは難しいだろう。下位貴族であってもな。かといって、愛人になるにもその外見じゃ難しいだろう?」


 兄がもう片方の手もマリッサの肩に載せる。


「でも、もしかしたら魔力の高い子を生むことはできるかもしれない。だから、後妻として嫁ぐのが一番いいだろう。寛大な伯爵は、お前の外見を大変好ましいと言ってくれている。持参金なしで、身一つで嫁いでこればいいらしい。学園を卒業したら、その足で伯爵家に向かうんだ」


 兄に両肩をつかまれ封じ込められた体勢で、兄は少し身をかがめてマリッサの目を冷たいアイスブルーの瞳で見つめる。

 

「家の役に立つこともない、無駄食いする奴を置いてはおけないんだ。恨むなよ」


 兄は肩に置いた手で、マリッサの体をはじいた。

 よろめいてそのまま床に崩れ落ちる。


「不満があるなら、今からでも遅くない。婚約者に気に入られるように精進することだな」


 きちんと自分の将来を考えないといけない。

 そうしないと大変なことになる。

 わかっているのに、頭も体も痛くてなにも考えられない。



 ◇◇



 周りから追い詰められても、マリッサの毎日は変わらない。

 ぼんやりしていて、頭や体が軋むように痛くて、今日が何日かもわからない。

 毎日が霞がかったように過ぎていく。


「アリスと、ルイスは?」


 ふと気づくと、最近、双子の姿を見ていない。

 いつからだろう?

 教室を見回しても、長身で目立つ二人の姿はなかった。


「あの、アリスとルイスは欠席しているのですか?」


 近くにいたクラスメイトに思わず問いかける。

 

「そういえば、最近、姿を見ていないですね」


 普段、物静かで自分から話しかけることのないマリッサに相手は面食らっている。


「理由をご存知ですか? 体調でも崩しているんですか?」


「さぁ、詳しいことは……」


「次は移動教室ですよ」


「……はい」


 日替わりでマリッサに付いている王太子妃の女官の中で一番厳しい女性から声を掛けられる。

 アリスとスイスのことが気になりながらも、彼女の言葉に従う。


「彼らは休学届けを出して、帝国へ帰っています」


「えっ?」


 廊下を歩きながら、女官は前をまっすぐに見たまま、歩き続けている。

 普段は雑談をしない王太子妃の女官が急に話しかけて来て戸惑う。


「なんで……」


「理由など、知りません。この国に飽きたのではないですか? 彼らが休学したのは三カ月前。遊べるおもちゃがなくなって、退屈になって帰国したのでしょう」


 三カ月前というと、マリッサが王太子妃から直々に指導を受け始めた頃だ。

 思わず、足が止まる。

 彼らにとって、マリッサは退屈しのぎのおもちゃで。

 相手をできなくなったら、もう用済み。


 ――そんなことない!

 心のうちで反論する。

 でも、アリスとルイスの不在は事実で、それに気付かなかった自分が情けないし、彼らがいないことが悲しい。 


「妃殿下の睡眠時間を知っていますか?」


「……え?」


 突然の話題が変わって、マリッサはついていけない。

 厳しい表情の女官はマリッサをまっすぐに見ていた。


「三時間です。あなたの世話をするようになって、女官も一人こちらに配置し、ご自身の時間も削るようになって、今はそれが二時間に減っています。それを聞いてもあなたはなにも感じないのでしょうね」


 「……」


「命じられて付いていますが、まったくそんな価値などないように思います。私がこんな話をしても無駄なのでしょうけどね」


 そう吐き捨てるように言うと、女官はマリッサを置いて姿を消した。

 教室を移動する途中で、渡り廊下に置き去りにされて途方にくれる。

 人気のない廊下の片隅に蹲る。


 重い教本は、いつもルイスが持ってくれた。

 食欲がないときは、食べやすいものをアリスが用意してくれた。


『そういう関係性を依存と言うのよ。お互いにあまりよくないわ。彼らのためにも距離を置きなさい。きちんとマリッサさんが自立して、それから対等な友情を築くべきよ』


 アリスとルイスを遠ざけなければいけない理由が爵位や国の違いと言われたら、反抗できたかもしれない。

 でも、王太子妃の正論に従うしかなかった。


 もうマリッサを本当の意味で、気にかけてくれる人はいない。


 ――アリスとルイスに会いたい。話したい。


 自分の体の感覚がなくなって、頭が真っ白になり、視界が狭まる。

 ぼんやりと視界が涙でにじむ。


 二人と一緒にいた時も絶望的な状況にいたけど、あの頃はまだ絶望の一歩手前だった。

 今は完全に世界から切り離されて一人きり。


 二人のなにげない会話を聞きながら、まどろみたい。

 二人といる時間にどれだけ自分が癒されていて、かけがえのないものだったのか失って初めて気づく。


 「アリス……ルイス……あいたい……」


 二人の名前を口にしたとたん、抱き上げられた。

 驚いて顔を上げると、黒髪の向こうに自分を心配する黒い目があった。

 至近距離で見ると黒というより藍色なんだと見当違いな思いがよぎる。

 ルイスはマリッサを横抱きにした。


「ルイス……?」


 休学しているのではないか?

 帝国へ帰ったのではないか?

 なぜここにいて、マリッサを抱き上げているのか?

 疑問で頭が埋め尽くされる。


「静かに。医務室に行く」


 頭の上から、上着がかけられた。

 疲れ切った脳が見せる幻影かと思ったが、ぎゅっと抱き着くと、ちゃんと実体のある体がそこにはあった。


 マリッサを抱えて、急ぎ足でルイスが歩いていく。

 

 移動した先で、そっとベッドに降ろされ、上着が取られると、ぎゅっと抱きしめられた。


「マリッサ!!」


 ふわりと異国の甘い香りがする。


「アリス……」


 泣いている彼女にぎゅっと胸が締め付けられる。

 三人の関係を大切に思っていたのは、自分だけじゃないのかもしれない。

 

「ごめんね。マリッサが苦しんでるのをわかっているのに、なにもできなくて……」


「アリス、仕方ない。金をいくら積んでも権力には敵わない。寝かせてやれ。体が辛そうだ」


 アリスとルイスの実家の男爵家は商売をしていることもあって、とても裕福だ。

 これまでも食堂で個室を借りたり、マリッサが食べやすい昼食を用意してくれたり、お金で解決できることは手を尽くしてくれていた。

 今回もマリッサから引きはがされて、裏で手を尽くしてくれていたのかもしれない。


「これからも直接、接触はできない。マリッサの婚約者から勧告されている。今回は名前を呼ばれたし、手を出してしまったけど……」


「……そうだったんだ。迷惑かけて、ごめんね」


 ベッドから双子を見上げると、二人とも険しい顔をしている。

 

「迷惑ではない」


「王太子妃はマリッサをどうしたいの? なんで彼女が手を回しているの?」


 アリスがベッドの傍らに跪いて、マリッサの手を握る。


「……婚約者が義姉である王太子妃殿下に頼んだの」


「なにを?」


「……私を次期公爵夫人に相応しくなるようにしてって」


「それがあの監視生活か」


「……私があまりに出来が悪いから。……時間もないし」


「目的は理解したわ。でも、なんでこんな短期間でやつれているの?」


「……わからない。私の体、どこかおかしいのかなぁ……。なんで、みんなが普通にできることができないんだろう……」


「ねぇ、マリッサ約束して。どうしても、どうしてもだめだと思った時はね……」


 アリスに優しく額を撫でられて、久々に二人と会話して、止まない頭痛がやわらいだ気がした。

 目が覚めると、二人の姿はなく、左手首にいつもアリスの髪に結ばれているリボンがあった。


 アリスとルイスの優しさに触れて、マリッサはこの事態に決着をつける決心をした。



 ◇◇



 王宮に呼び出された時点で覚悟は決まっていた。


 王太子夫婦の使用する宮の客間に、マリッサが到着した時には主要人物が揃っていた。

 婚約者、王太子妃、筆頭公爵家の当主夫婦。そして、マリッサの父と兄。

 マリッサの処遇について、本人抜きで話し合っていたのかもしれない。


「なぜ、呼び出されたか、わかるか?」


 婚約者は、ソファに座ることなくウロウロと歩きながらマリッサに告げた。


「……卒業のかかった試験を全部、無回答で提出したからでしょうか?」


「君は! 君はなんとかしようと手を尽くした周りの気持ちを踏みにじったのがわかっているのか?」


「……申し訳ありません。でも、これ以上、私に手間をかけるのは無駄だと示したかったのです」


「今回の試験の結果で、卒業できないことが決まった。公爵令嬢ということを加味しても、学園側の決定は覆せない。僕との婚約も破棄される」


「はい」

 

「……わたくしの力不足で……」


 いつものような覇気がない王太子殿下を、婚約者の両親の公爵夫婦が慰めている。


「王太子妃殿下の責任ではありません。義弟という立場に甘えて、このような荷の重いことをお願いして申し訳ありません」


 彼は王太子妃に頭を下げた。


 婚約者も、王太子妃も間違っていない。

 マリッサがただ、間違った存在なだけだ。


 この場にいるみんながマリッサを責める目で見る。

 彼らが被害者でマリッサが加害者。


「僕も彼女を見誤っていたようです。ただのなまけ者ではなくて、人間の屑だったようだ。努力をするふりもせず、人の好意を踏みにじるような」


 ああ、なるほど。

 彼は怒っていたんだな。


 いくら優秀とはいえ、いきなり公爵家の後継ぎに決まり、教育を受け、王太子の側近としての仕事をしなければならない。


 婚約者としてあてがわれたのは怠け者のマリッサで。

 彼を支えるどころか足をひっぱる存在で。

 手をかけたのに結果も出せない。

 最後にその怒りをぶつけるのも当然だろう。


「……ご期待に添えず、申し訳ありません」


「君はわかっているのか? ただでさえ、魔力なし、学力なしの令嬢だと知れ渡っている。人を虜にする外見やなにか秀でた能力があるわけでもない。貴族が通う学園を卒業できるかも危うく、王族と筆頭公爵家に睨まれているお前がこの国で生きていく術はない」


「……わかっています。だから、死んだことにしてもらえませんか?」


 マリッサの言葉にその場にいる者が息を呑んだ。


「……なにを言っているんだ、君は? この国で生きていけないからとやけになっているのか?」


「死んだことにして、隣国へ渡っていいですか?」


「自分のことさえできないお前が帝国に渡ってなにができるというんだ? 語学力も学力も魔力もない。体力もなくて、寝てばっかりいる。野垂れ死ぬのがオチだろう?」


「そのほうがこの国で肩身の狭い思いをして生きていくよりましです」


「なんだと?」


「誰かに頼らないと生きていけないなら、せめて頼る人くらいは自分で決めます」


 ノックの音と共に、王太子とルイスが入室した。


「マリッサのこと、いらないって言うなら、引き取りますってだけの話だよ」


 王太子とルイスの後ろから入室したアリスが、マリッサの肩に手を添える。

 守るように、背後に立ってくれてほっとする。


「本当に来てくれたんだね……」


 ――本当にだめになったら、このリボンに字を書いて魔力を通して。

 倒れた時に彼女がかけてくれた言葉がよぎる。

 決着をつけようと決意してすぐに、アリスを呼び出し、全てを話して協力を仰いだ。

 

「お前は隣国の男爵令息ではなかったのか?」


 ルイスは帝国の王族の正装姿だ。

 黒を基調としていて、金の刺繍で縁どられた衣装は精悍な彼に似合っている。

 事前に聞いていたけど、皇子としての姿を見るとまるで別人のようだ。


 「嘘じゃない。母の実家は男爵家だ。ただ父親が皇帝で、第四皇子っていうだけだよ」


 髪を上げて、額を出しているルイスが艶やかな笑みを見せる。


「王太子に話はついている。うちの国にも。マリッサは男爵家の養子として引き取るよ」


「……そんなことをしてなんの得があるっていうんだ? マリッサは役立たずでなにもできない。なんで、そこまでマリッサに入れ込む?」


「そうだねぇ……。マリッサはなにもできないよね。魔力もない、勉強もできない、マナーも身についてないし、ダンスもできない。でも、心が癒される。皇帝が魔力も能力もあるのにやる気がない俺達双子が国のために働くなら、マリッサを引き取っていいって言ったんだ」


「……癒しって、それじゃまるでペットじゃない! マリッサさんはそんな扱いでいいの?」


「かまいません」


 マリッサとルイスやアリスとの関係を他人に上手く説明できる気がしないし、理解してもらおうとも思わない。


「マリッサさんはそれでいいの? 今、逃げたらずっと逃げ続けることになるのよ!」


 王太子妃は、とても優しくて正しい。

 でも、マリッサが欲しいのは正論ではない。


「申し訳ありません。こんな私のために時間を使ってくださってありがとうございます。でも、もう疲れました。私は、公爵家にいてもなにも貢献できないし、お金を食い潰すだけの存在です。それでも、存在を無視されたままここにいるのは辛いです。私の存在を消して、必要としてくれる人と一緒に生きていきたいです」


「マリッサさん、その決断を後悔しないのね?」


「はい」


 彼女は疲れたようにため息をついた。

 王太子がそんな彼女に歩み寄って、肩を抱く。


「私がいなくなって、なにか問題がありますか? きちんと次の婚約者の当てもあるみたいですし」


 マリッサだって、バカじゃない。

 学園でうとうとしていると、噂話もよく拾う。


 聡明な婚約者や王太子妃は、彼の次なる婚約者を用意していた。

 彼の婚約者を決めるときに、候補に挙がった十歳年下の序列四位の公爵家の令嬢だ。

 なぜ彼女ではなく、マリッサになったのかというと、年齢差と幼いながらに金遣いと気性が荒かったせいだ。他家の令嬢としょっちゅう揉め事を起こしていたらしい。

 ぼんやりしてなにもできないマリッサより、彼女を表向きだけでも問題ないようしつけるほうがマシという結論に至ったのだろう。


「君はなにも反省していないんだな。君が次期公爵夫人にふさわしくないから、僕たちはしなくていい苦労をしているんだ!」


「ご迷惑をおかけしたことは、大変申し訳ないと思っています。元々、私がこの国の公爵家に生まれてきたことが間違いだったんです。いなくなることで、間違いが正されるんです。それでいいじゃないですか」


 父の方を見ると、娘を手放す悲壮感を漂わせている。

 けれど口角が少し上がっていて、内心はほっとしているのが伝わる。


 兄は表情を変えず、無言を貫いている。マリッサが隣国へ行こうと、訳ありの伯爵家の後妻になろうと、マリッサを処分できればどうでもいいのだろう。


 婚約者の両親である筆頭公爵夫婦も静かにこの場を見守っている。

 あらかじめ、この筋書きを王太子から聞かされていたのかもしれない。


 ルイスと目が合うと、かすかに微笑んでくれた。


 これで、彼らはマリッサという出来損ないをなかったことにして生きていくことができる。マリッサも新たな土地でささやかに生きていけたらいい。


 用意されていた書類に関係者が署名をすると、驚くくらいあっけなく、この国や公爵家から解放された。


「安心して欲しい。マリッサがなにもできないままでも一生養っていけるし、やっぱりいりませんって返品したりもしないから。そのあたりもきちんと契約書に盛り込んでいる。マリッサをこれまで育てた金額と婚約破棄の慰謝料も支払い済みだ」


 筆頭公爵家とドノヴァン公爵家が今回の話し合いで発言しなかったのは、やはり内々に話が王家から通っていて、帝国から多額の慰謝料の支払いがあったからのようだ。


「さぁ、行こうか」


 ルイスに差し出された手をとる。

 

 そのまま隣国へと向かうので、王太子の宮から続く長い外廊下を歩く。

 日の光をあびて、目を細める。


「ん?」


「どうしたの? マリッサ」


 身に纏っていた鎧が一枚ずつはがれていって、身体の重さがとれていく。

 身体の中心から力が湧いて来て、それがきちんと体中を巡っていく。

 つぼみが花開いていく直前のような感覚がした。


「んー、なんとなく体が軽いなって」


「ふふふっ。やっと、うっざい公爵家とか婚約者から解放されたからじゃなーい?」


「病は気から、って言うからな」


 久々の双子の軽口にマリッサの頬がゆるんだ。


「この国でなんにもできなかったなぁ……」


 豪華絢爛な宮殿を歩いていると、しみじみと自分は役立たずだったと思えてくる。


「大丈夫だ。俺とアリスをやる気にしたからこそ、皇帝も許可したんだから」


「慰謝料って、大丈夫だったの?」


 隣でエスコートしてくれるルイスに聞く。


「出世払いにしてもらってる。大丈夫。俺とアリスってめちゃくちゃ優秀だから。一瞬で返せるよ」


 たぶん、帝国に着いて行っても役立たずなのは変わりないけど。

 今は、アリスとルイスのやる気の素になっているという言葉を信じるしかない。


 アリスとルイスと帝国の馬車に乗り込んだ。


「あーやだやだ。ぜーんぶ、自分が正しいって思っちゃってる。うんざりだわ。マリッサ、よくがんばったわね!」


 馬車に乗り込むなり、アリスの本音がこぼれる。

 頭をなでてくれる手に、すり寄る。


 マリッサはだめな人間で、甘やかしてくれる人に寄りかかるしかできなくて。

 無能でなまけ者で。

 でも、それでもいいって言ってくれる人がいるなら、そこへ行きたい。

 正しい人から見たら、間違っていても。


 左側にルイス、右側にアリス。

 二人に挟まれて、馬車に揺られる。

 小さな車窓から街並みを見てもなんの感慨もない。

 さみしさも、やり残したことも。


「ひどいことたくさん言ってごめん。でも、あんまりマリッサを褒めると、何か秘められた能力があって連れて行くって勘違いされても困るから……」


 しばらくして、ルイスが口を開いた。


「……だって全部事実だし、私は役立たずのなまけ者で、お荷物だから」


「そんなことない。俺とアリスにとっては。……一緒にいると心地いいってことがどれだけ稀有なことなのか、あいつらがわかってないだけだ」


「まだ時間があるから、眠りなさい、マリッサ」

 

 アリスに頭を撫でられて、双子のぬくもりに挟まれて、気づいたら眠りに落ちていた。



 ◇◇



 従者によって開かれた扉を通り、コツコツとブーツの音を響かせ玉座まで歩く。

 初めてここを歩いた時は足が震えたな、なんて思い出す。

 マリッサが祖国のお隣りの帝国にやってきてからもう五年経った。


「皇帝サマ、今日はなんの御用でしょう?」


 残虐非道で手段を選ばないと噂の皇帝に、挨拶もなしに声をかけるマリッサ。

 皇帝の傍に控える宰相も、並ぶ騎士達もそれを咎めることも動揺することもない。


「あー、コイツらがお前に会わせろってうるさいからさぁ」


 無精ひげを生やし、まるで山賊の頭のような薄汚れた風貌の男がけだるげに返事する。

 こいつらといわれたのは故国からの使節団で、きちんとした正装に包まれた彼らはそのやりとりにポカンとしている。


 皇帝は女癖は悪いが、実力主義で清濁併せ持つ、施政者としては優秀な男だ。

 きちんと装うことだってできる。

 彼にとって重要な客ではない、ということだろう。


「あー、祖国で台風とそれに伴う水害で河川に甚大な被害が出たって件ですかね」


「そうそう、話が早くて助かる。偉大なる我が帝国の黒の魔法師様を派遣してほしいって言うんだよねー。どうする、マリッサ?」


「え? 自国の災害くらい自分達でなんとかしたらどうです?」


「そうだよねー。普通そう思うよね。いくら何十年に一度の巨大台風だとしてもさー。備えだってあるだろうし、こういう時こそ王族貴族が一丸となって、事に当たればなんとかなるじゃん。それを帝国の筆頭魔法師を貸せってひどい話だよねー」


 皇帝と世間話のように軽く言葉を交わしながら、使節団を一瞥する。


 えーと、皇太子夫婦に、側近と騎士達、それになぜかお父様とお兄様……。


 王宮の要職についているわけでも、外交官でもない父と兄が帯同しているということは、マリッサに狙いを定めているということだろう。

 でも、残念ながら、そちらの要望が通ることはない。


「お前は本当にマリッサなのか?」


 王太子の側近の一人にそう問われて、顔を見るけど記憶にない。


「ふふっ。覚えてないのか? 君の元婚約者じゃないか」


 マリッサをエスコートしていたルイスが耳元でささやく。


「ドノヴァン公爵家の長女として生まれたけど、黒髪黒目で魔力がなくて、しかもなまけ者で、お荷物のマリッサですよ。でも、死んで、今は帝国に根付いて生きている、別人です」


 髪や瞳の色は変わらない。

 確かに、帝国に来てから身長も伸びて、幼かった顔立ちもシャープになった。

 体型は華奢なままだけど、ちゃんと付くべき所には肉がついている。

 なにより、マリッサはこんなシャキシャキと話したことがない。

 まぁ、同一人物だと思わないだろうなと納得する。


 元婚約者がマリッサの前に駆け込んできたので、ルイスがマリッサをかばうように前に出た。


「お願いだ。今では四大魔法全てを意のままに操れるんだろう? それ以外の特殊魔法も習得していると聞いている。それに尽きることのない魔力を持っているという。今、国が大変なことになっているんだ。助けてくれないか? 君一人で何万人の人を助けることができるんだ!」


 マリッサの足元で、床にへばりつくようにして懇願している。


「えー、でもぉ、帝国の魔法師ほどじゃなくても、魔法の使い手はいっぱいいるでしょう?」


 マリッサの話し方は一緒にいる時間の長いアリスの話し方にそっくりだ。

 その軽妙で若干失礼な話し方に、元婚約者が眉をひそめた。


「……」


 マリッサは祖国の状況を知っていて、あえて正論をぶつけてみた。


 被害が大きいのは王領と筆頭公爵家の領地。

 台風災害の後の復興に必要なのは、主に風魔法と土魔法。

 序列三位と四位の公爵家に頭を下げるのが嫌なだけだ。


 元婚約者が、序列四位の土魔法の公爵家の令嬢との婚約が破談になったせいもある。

 マリッサの後に、婚約者となった令嬢は気性が荒く、他の令嬢の口に土魔法で生成した土を詰め込んだ殺人未遂事件を起こした。

 そんな因縁のある家に頭を下げたら、娘と再婚約しろと要求されかねない。


「お前は、今こそ生まれた国の役に立つべきだろう?」


 立ち上がった婚約者が、怒りのこもった目で睨みつけてくる。

 相変わらず自分が正しいと信じて疑わない様子で。


「確かに私は役立たずで、祖国にいる時は大変、ご迷惑をおかけしましたねぇ。でも、祖国に恩返ししなければならない義務はないはずです」


「貴族として生まれた義務じゃない! 気持ちの問題だ! お前は故郷を見捨てる気か?」


「あらあら、おかしいですね? 先に見捨てられたのは私ですけど」


 祖国にいた頃、

 誰か一人でも、マリッサの話しを聞いてくれたら……

 誰か一人でも、マリッサに寄り添ってくれたら……

 誰か一人でも、マリッサを信じて待ってくれたなら……


 マリッサが祖国を切り捨てることもなかったのに。


 マリッサが祖国に居た時に常にだるくて眠かったのには原因があった。


 マリッサの持つ魔力を貯める器が大きすぎて、それが不完全なまま生まれたからだ。

 その器を成長させ、完成させることを体は優先した。

 だから栄養も魔力も、全て魔力を貯める器に注がれていたのだ。

 本体のマリッサは、通常の人の十分の一くらいの力で生きていた。

 だから、だるくて眠かったのだ。


 魔力を貯める器はちょうど、アリスとルイスが帝国に連れて来てくれたタイミングで完成した。

 疲れもあって一週間、爆睡した後、視界がクリアになった。

 体が軽くて、頭も働く。

 マリッサはそれから、努力を重ねた。


 がんばりたいのに、がんばれない。

 その状態を知っているマリッサにとって、がんばることなど容易いことだった。


 そうして、魔法大国である帝国の筆頭魔法師にまで駆け上がったのだ。


「見捨てたわけでは……」


「ふふふっ。私だって子供じゃないので、わかりますよ。それがあの時の最善だって」


 マリッサの言葉に、場の空気がゆるむ。

 

「なら……」


「普通の人は祖国のために働くのかもしれないのですけど、こちらにも事情がありまして……。今、魔法が使えないんです。ごめんなさいね?」


 なだらかにふくらんだお腹をなでる。

 妊娠中は栄養も魔力も子に取られるし、これまでの体の感覚と変わるので、妊婦の魔法の使用は推奨されていない。


 マリッサのお腹を見た王太子妃の瞳が陰る。

 彼女が結婚して、七年。懐妊の噂は聞かない。


「マリッサ……」


 兄であった人から言葉が漏れる。

 次期公爵家当主である兄にもまだ子がいない。


 王家や四大公爵家は自らの血筋や魔法特性にこだわるあまり、近親婚を繰り返している。

 その弊害なのか、近年、子ができにくいという。また、マリッサのようになんらかの問題を抱えて生まれてくる子も多いようだ。


「はっきり言っておきますが、この子はドノヴァン公爵家とは無関係です。マリッサ・ドノヴァンは死にました」


「しかし、血縁があることは確かで……」


 きっと賢い兄の頭の中では、お腹の中の子を巡って計算が弾かれている。

 序列二位の公爵家の後継ぎ問題は深刻なのだろう。


「マリッサ・ドノヴァンは死にました。ここにいるのはマリッサ・ウィンベリーです。夫のルイスは王位継承権は放棄していますが、第四皇子。つまり王族です。妻の私は準王族になります。それに、この国の筆頭魔法師。その子に手を出す、というのであれば……」


 皇帝の孫だと明言しておけば、祖国から余計な手出しをされることもないだろう。


 皇帝に目を向けると、その目が好戦的にぎらぎらしている。

 それを見た兄が顔を引きつらせ、それ以上食い下がることはなかった。

 

 マリッサはパンッと両手を打ち合わせた。


「きっと今は大変な状況なんでしょうね! でも、大丈夫です。努力でなんとかなります! みんなで力を合わせてがんばれば、なんとかなります! そうですよね? 私もそうやって、散々言われましたもの。まぁ、私の場合は努力が足りないわけじゃなくて単にタイミングの問題だったみたいですけど……。でも、みなさんは努力が大好きですもの、大丈夫ですよ!」


 マリッサのひときわ明るい声がシンとした謁見の間に響き渡った。

 それに返答できるものは誰もいない。

 使節団の面々は、段々と顔色が悪くなり、俯いてしまって誰一人顔を上げられない。


 なぜ追い詰めて、追い出したマリッサを懐柔できると思ったのだろうか?

 愚鈍でぼんやりして、自分の価値を見失っているマリッサなら、甘い言葉で丸め込めるとでも思ったのだろうか?


 妊娠していることは知らなくとも、ルイスと結婚したことは知っているはず。

 形だけの結婚だとでも思った?

 ただのペットの延長線上の扱いを受けているとでも?

 

 元婚約者が懇願……いや、命令すれば喜んで離婚して祖国へ帰り、彼と結婚するとでも思ったのだろうか?


 あの頃の自信がなくて、ぼんやりしているマリッサとは違う。

 きちんと頭も働くし、口も回る。


「皇帝サマ、では御前失礼いたします。皆様ももう会うことはないでしょうけど、お元気で。相変わらずなんの役にも立てない私は失礼しますね!」


 マリッサは祖国では見せたことのない、満面の笑顔を見せた。

 幸せを手に入れた今、祖国でのことなんて思い出したくもない。

 もう二度と来るなよという思いを込めて、ひらひらと手をふる。


「ああ、マリッサ。今は体を大事にせよ」


 使節団から向けられた縋るような視線に背を向けて、ルイスに腕を絡めて歩き出す。


 彼らも、世の中にはがんばってもがんばっても、なんともならないことがあるとわかってくれただろうか?


「あの頃の私のなにがよかったんだか……」


 隣を歩くルイスを見て、改めて思う。

 なんで役立たずで、なまけ者のマリッサをこの国に連れて来てくれたのだろう?


 ルイスとアリスは、女癖の悪い皇帝と王宮で働いていた男爵令嬢の間に生まれた子供だ。彼らの母親は出産後すぐに亡くなり、後宮で育った。


 皇帝には山ほど子供がいて、全て皇宮で引き取るものの、目をかけるわけでもない。

 皇位継承権は生まれた順でも、正妃の子に与えられるものでもない。

 完全な実力主義。

 ここで朽ちるのか、生き延びるのかじっと我が子たちを観察していた。


 双子は母親が男爵令嬢と言うこともあり、ひどい目にあっていたようだが、魔力量があり魔法の素養があったので、コテンパンに返り討ちにしていたようだ。

 それに飽き足らず、いたずらを繰り返した。

 手を焼いた王宮の人の手によって、我が国に留学してきたのだ。

 二人は自分達の知る人のいない場所で、普通の友人を作りたいと、母の実家の男爵家の姓を名乗り、皇族であることを隠していた。


 ルイスとアリスは、マリッサと会って、庇護すると決めたことで自分の力を全部発揮することを決めたという。

 マリッサに会わなかったら、腐って怠惰に生きていたとも。

 人の機微やめぐり合わせって不思議だ。


「マリッサと一緒だよ。あの時、学園で三人一緒にいる時間はなにものにも代えがたいものだったんだよ」


 一言つぶやいただけなのに、夫はマリッサの言いたいことを瞬時に理解したらしい。


「なら、いっか」


 ルイスとアリスと出会えたのだから、あの辛い時間もあってもよかったのかもしれない。

 時折、美形の皇子で、魔法師団の団長である男の隣に並ぶのが自分でいいのかという思いがよぎる。

 でも、マリッサはそう思う度、自分を鼓舞し、磨き上げてきた。

 なにより本人がマリッサがいいというのだから、いいのだ。


「そうそう、マリッサのそういう単純でテキトーなところが、たまらないのよ~」


「コラ、めんどくさい時に雲隠れして、今来たのか」


「ちょっと寝坊しちゃって。お出かけするなら私も一緒に行く~」


「夫婦の甘々デートに着いてくるな」


「今日くらいいいじゃない~。ルイスの口から甘々って言葉がでるなんて。のろけちゃってヤダヤダ。ほんと、私が男だったら、マリッサを巡って血みどろの戦いが繰り広げられたわよ。ほんと私が女であることに感謝してほしいわ」


「わかった、わかった。今日の食事は俺が出す。まぁ、マリッサの祖国と縁が切れためでたい日だからな」


「やったー!! さすが高級取り!」


「アリス、興奮してマリッサをつぶすな。お腹に赤ちゃんがいるんだぞ!」


「ルイスこそ、ベタベタしすぎー」


 双子に左右からぎゅうぎゅうと押しつぶされて、マリッサの胸にあたたかいものが広がる。


 祖国にいた頃と比べてマリッサは変わった。

 でも、三人の関係性も、双子の気の抜けた会話も変わらない。

 そのことが、なんだか無性にうれしかった。

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