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処刑準備

作者: 雉白書屋

「五十六番。これをつけて外に出なさい」


「……はい」


 とある国の刑務所。死刑囚である彼は、看守に言われるまま、小窓から投げ入れられた黒い目隠しを手に取った。震える手でそれを装着する。

 ガチャリ――独房のドアが開く音が響いた。


「立つんだ。さあ、そのまま歩いて。おっと、大丈夫か?」


 膝ががくんと折れ、よろけた。

 看守の声に促され、彼は独房を出て廊下を歩き始めた。ごくりと唾を飲み込む。独房の外の空気は、どこか乾いていた。視界が遮られたせいか、慣れて気にもしなかったはずの刑務所の匂いが妙に鼻を刺す――古びたコンクリートの湿気、どこかこびりついた錆臭さ。

 独房の外に出るのは久しぶりだった。だが、そんな感慨に浸る余裕などあるはずがない。行き先はわかっている――処刑場だ。

 体が震え始めた。両脇を固める看守たちが、妙に優しい声で「大丈夫か?」と問いかけてくる。返事をしようと彼は口を開いたが、喉が鳴るばかりで声にならない。あきらめて、静かに口を閉じた。

 叫び出さなかったのは、喉が渇いていたせいか、それとも、わずかに残る尊厳が押しとどめたのか。

 いずれにせよ、もうすぐ声も出せなくなる。汗が脇を伝う。体の水分がすべて抜けていくように感じられた。


「では、この椅子に座って」


「あ、あ、あ……」


「どうした? そのまま腰を下ろせばいい。さあ、ゆっくりと。大丈夫だ」


「……はい」


 彼は指示通り、椅子に沈み込んだ。重力が肩にのしかかり、膝ががくがくと震える。

 どうやら、体の水分はまだ残っていたらしい。処刑の方法は電気椅子だ。そう気づいた瞬間、膀胱が悲鳴を上げた。

 耐えろ……耐えろ……。

 彼は押し寄せる尿意を必死に堪えた。わざわざ電気の通りを良くしてやる必要はない。

 だが、看守の手が額に触れ、濡れたタオルで顔を拭かれ、髪を湿らされた瞬間、ほんの少し漏らしてしまった。


「動かないで。切れてしまう」


 ――切れる? 


 彼は箱のように硬直した体の中で、その言葉を反芻した。言われなくても動けないが、“切れる”とはどういう意味だろうか。

 まさか、処刑方法は斬首――ギロチンなのか? だとすれば、椅子ではなく床に膝をつくはずだ。

 彼はそう考えたが、目隠しと恐怖のせいで平衡感覚が狂い、今、自分が椅子に座っているのかさえ確信が持てなかった。


「よし、立って。服を脱いで」


 どうやら、やはり椅子に座っていたらしい。彼は立ち上がり、震える指でぎこちなく服を脱ぎ始めた。

 両腕を伸ばすよう指示され、その通りにすると、全身が濡れたタオルで拭かれた。

 電気の通りを良くするためだろう。やはり電気椅子なのだ……! 

 恐怖が波のように押し寄せ、彼はまた少し漏らした。だが、すぐに新しいパンツに履き替えさせられた。乾いた布地が肌に触れる。不快感は消えたが、虚しさが残った。


「着替えたな。よし、歩いて」


 どうやら、電気椅子ではなかったようだ。一連の工程は、処刑前の準備だったらしい。


 ――少し寿命が延びたな。


 そう気づいた瞬間、彼はほんのわずかな安堵を覚え、そんな自分を馬鹿だと思った。何を喜んでいるんだ? どうせすぐに死ぬのだ。自虐するも、枯れた笑いすら出なかった。胸を締めつける恐怖が、すぐさまその隙間を埋め尽くした。

 風を感じる。外に出たのだ。処刑場は屋外らしい。ならば、銃殺刑だろう。


「ここに立って」


「……はい」


 彼は手を後ろに組み、足を震わせながら立った。膝が勝手に折れ、身長が少しずつ低くなる。

 遠くから車の音が聞こえる。銃を持った兵士たちが乗っているのだろうか。

 車が停車した音。到着したようだ。


 ――いよいよか。


 彼は唇をしまい込み、息を止めた。辞世の句を口にしようかとふと思ったが、何も浮かばなかった。


「さあ、乗って。頭に気をつけて」


 背中を押され、彼は戸惑いながら車に乗り込んだ。


 ――迎えの車だったのか……?


 しかし、これはどういうことだろうか。処刑場は刑務所の外にあるのか? 


 ――いや、きっと公開処刑だ。


 広場に連れ出され、絞首刑に処されるのだろう。群衆の罵声が飛び交い、石を投げつけられる。

 ああ、嫌だ……そんな死に方は耐えられない。みじめだ。死にたくない。死にたくない……! いや、火炙りかもしれない。それとも、車に縛りつけられ、引きずり回されるのか。あるいは、ヤスリで全身を、いや、山羊に舐められ……。

 喉の奥から嗚咽が込み上げた。彼は必死に涙と叫び出したい衝動を堪えた。命が尽きても、最後に残るのは尊厳。それを守りたかった。

 もっとも、絞首台を前にした瞬間、それは跡形もなく崩れ去ることを、彼も薄々わかっていた。

 極度の緊張と暗闇、柔らかな座席の心地よさ、車の揺れ。それらが重なり、彼の意識は次第に遠のいていった。


「起きてください。さあ」


「あ、あああ……」


 体を揺すられ、彼はそっと目を開けた。目隠しはいつの間にか外されていた。ぼやけた視界の中、光が刺さるように飛び込んできた。

 眩しい照明の下、スーツや軍服を身にまとった人物たちが整然と並んでいる。


「大統領就任おめでとうございます!」


 拍手が彼を包んだ。呆然とまばたきを繰り返しながら、彼はゆっくりと口を開き、かろうじて声を絞り出した。


「わ、私が大統領に……?」


「ええ、そうです、将軍。いえ、大統領。前大統領とその一派が暗殺されましてね。それで、候補者の中から、あなたが次の大統領に選ばれたのです」


「そ、そうか……だが、なぜ目隠しを……」


「ああ、どこに敵が潜んでいるかわかりませんからね。処刑に見せかけて連れ出すよう命じたのですよ。まあ、看守たちはあなたに顔を覚えられたくなかったのでしょうがね」

「ははは、刑務所の生活はつらかったでしょう」

「さあ、もうすぐ会見の時間です。前回の失敗を踏まえ、警備は万全に整えておりますので、ご安心を」

「あの、ちょっと」


「なんだ?」

「問題が。例の……」

「反対派のことか?」

「さあさあ、参りましょう」


 彼はしばらく口を開けたまま黙り込んでいたが、やがてぽつりと言った。


「独房に戻してくれ」

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