翁の棺
冷たく凍えた真っ白の世界に、鴉が一羽降り立った。
奇妙な声で一声鳴くと、その場に蹲りだらりと羽を垂れた。
灯火が風にそよがれ、かすかに揺れるように、鴉はその羽を震わせる。
生命の終わりのとき―――
鴉は両の眼をかっと見開いた。
立て付けの悪い雨戸を開けると、そこには一面の銀世界が広がった。
純和風のこの庭も雪化粧を施され、いつもと違う趣を見せた。
啓太は感嘆の吐息を漏らし、暫しその光景に見入る。
一面の白。
そこには犯しがたい静謐さが漂う。
その白に抱かれ、鴉が一羽すでに事切れて身を横たえていた。
足を少し曲げて、無表情の目が一点を見つめたまま硬直している。
そこは、離れにある祖父の部屋。
「ああ、お前はじいさまを迎えにきてくれたんだね」
啓太はひとりごちる。
部屋には線香の煙が頼りなく漂い、部屋の真ん中で寝かされている祖父の顔には白い布がかけられてある。
枕飾りの蝋燭の炎が、悲しげに揺れた。
夜明けを待たずに祖父は息を引き取った。
啓太はにっこりと微笑む祖父の遺影をまじまじと見つめた。
―――遺影写真に、ピースはねーだろ――
啓太は密かに心の中でツッコむ。
湯灌を終えると、祖父は棺に納められて通夜の準備が整った母屋へと移される。
その前に、啓太はもう一度祖父の死に顔を見ておきたかった。
大好きだった祖父…。
啓太は祖父の顔にかけられた白い布をそっとはずし、その顔に触れてみる。
冷たく固くそれは、まるで蝋人形のようだと啓太は思った。
―――じいちゃんは…なぜか薄目を開けて、半笑いだった―――
夕方になって両親は、親戚や町内会の人と打ち合わせをするために出かけることになり、啓太がその間ひとりで留守番をすることになった。
「じゃあ、後頼むわね」
そういって家を出る両親を見送り、啓太は台所でカップめんに湯を注いだ。
「3分か」
そういって時計に目をやり、悲鳴を飲み込んだ。
――――秒針が反対に回っている――――
背筋に悪寒が走り、啓太は思わず両腕で自分を抱きしめた。
日が暮れて風が出てきたのか、立て付けの悪いこの家が不気味な音を立てて軋む。
その音に混じって…あれは窓ガラスをたたく音?
コツコツ…
「ひっ」
啓太の心臓が跳ね上がる。
啓太はごくりと生唾を飲み込んだ。
コツコツ…
やっぱり音がする。
意を決して啓太は立ち上がり、カーテンに手を伸ばす。
指先が振るえ、上手く開けられない。
誰もいない。
啓太はほっと胸を撫で下ろす。
コツコツ…
また音がする。
振り返り、啓太は絶叫した。
白い手が、窓ガラスにべったりと張り付いている。
――――うわああああ、結婚線がない上に、頭脳線がものすごく短い――――
「とっとと開けろ、このボケ甥っ子!!!私を凍死させる気かつうの」
父の末の妹の美紀子オバサンだった。
「ちゃ・ん・と・漢字に変換しろ!」
そういって美紀子が啓太の頭を、ゲンコツでグリグリする。
「まあ、いいわ。ところでお父さんは?ちゃんと挨拶しなきゃね」
美紀子の瞳が涙に潤む。
「母屋の広間に、ちゃんと安置してるよ」
啓太は食べかけのラーメンを置いて、美紀子を広間に案内する。
広間には黒と白の幕が張られ、祭壇には菊の花で極楽浄土のモチーフが作られていた。
風がいっそう強まっているようだ。
すすり泣くような音が窓ガラスを、家全体を揺らしてゆく。
廊下が軋み、まるで誰かがそこを歩き回っているようだ。
「ねえ、啓太、私お父さんに最後の挨拶がしたいわ。手伝って」
彫刻を施された豪奢な棺の蓋を二人係で外す。
しかしそこには―――
「誰もいない」
美紀子と啓太ふたりして目を見開いた。
玄関の鍵を開ける音がして、間もなく啓太の両親が帰ってきた。
「大変だよ、母ちゃん!じいちゃんがいなくなったんだ」
「なにいってんの、おじいちゃん、死んじゃったんだからそんなわけないでしょ!
もう、この子ったら、馬鹿なこといって」
まともに取り合おうとしない。
「本当だよ、本当にじいちゃんがいないんだ」
啓太は必死で母親に訴えかける。
母親は面倒臭そうに母屋へと向かう。
「だいたいあんたは昔から物を見つけるのがへたくそで、本当にちゃんと探したの?」
ブツブツ言いながら祭壇のあたりを点検する。
「もう、おじいちゃんちゃんとここにいるじゃない」
啓太と美紀子は互いに顔を見合わせる。
「ちょっと棺おけの蓋に貼り付いてただけじゃない。大げさな子ねえ」
そして啓太は絶叫する
―――そんな アホな!!!―――
冒頭のカラスと最後のオチはかけてます。
カラスなだけに『アホー』って…