⑧/⑮
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体調が回復したのは二日後だった。
病のピークは初日であったようで、残りの二日間は身体が徐々に快方へと向かっていった。
なので木曜日の朝方には、大学にも顔を出せる程度には身体の調子は戻っていた。
が、つい休み癖が付いてしまった。
出席はまだ問題ないから、と俺は残りの二日間も自主的に休校し、突発的に生じた連休を有意義に利用させてもらった。
と言っても、その内の土日は体調不良で欠勤した分バイトに精を出したし、木曜日はサークルにだけ参加したりと、健康体で暇を謳歌したのは金曜日だけに限られたのだが。
そうして価値のある休暇を終えると、俺は翌週から講義に復帰することにした。
その週の火曜日は、創立記念で大学自体が休校だった。
だから白星と会うのは金曜日の今日、凡そ十日以来のことである。
これは余談だが、先日サークルで駿介と顔を合わせた時、彼は何やら決意を新たにした様子で「俺は積極的になることに決めたんだ」と宣言してくれた。
何があったのかは知らないが、是非とも頑張って欲しいところである。
そういう訳で、金曜三限、経済学部一年生の必修科目である授業に、俺は久々に出席しようとしていた。
この授業は先々週が学祭で休講になっていた為、なんと実に三週間ぶりの授業となっている。
お洒落だったはずの見慣れたキャンパス内を移動し、やがて本館に辿り着く。
大教室の扉を潜り、例によって一人で腰を下ろしている彼女の所へ向かう。
白星は今日も今日とて、黒いタートルネックと黒いロングスカートの安定の黒一式であった。
「やあ、白星。久しぶりだな」と、俺は笑顔で彼女の隣に腰を下ろす。
「お久しぶりです、雨夜さん」
白星はいつもの無表情で挨拶に応えた。
俺が隣に座ることはもう諦めたのだろう。
「風邪、長引いたみたいですね」
彼女は特に俺と目を合わせることもなく、独り言のように小さく呟いた。
確かに十日ほども顔を合わせていなければ、普通はそう思うだろう。
少し、心配を掛けてしまっただろうか。
折角お見舞いに来てくれたんだから、メッセージで治ったことぐらい知らせておけばよかった。
俺はそのように反省しつつも「いや、実は先週の木曜日辺りには治ってたんだけどさ…そこまで来たら、一週間休みたくなるだろ?」と、へらへらと笑いながら彼女に同意を求めた。
「サボりですか」白星はその薄い瞳で俺に軽蔑の視線を向ける。
「自主休講と言ってくれ」俺は悪びれもせず堂々と言い返した。
その後になって、俺は彼女にすべき頼みごとを思い出した。
「だから良かったらさ、先週のレジュメをコピーさせて欲しいんだけど…」と俺は遅れて下手に出る。この順番はまずい。
「サボタージュしたそちらの責任では?」当然ながら、白星は俺を見捨てようとした。
「頼む、この通り!」と、別に白星以外にもレジュメを頼める後輩はいるが、俺は大袈裟に頭を下げた。
白星も本気でレジュメを秘匿するつもりはなかったのだろう。
「…仕方ないですね」と、俺が頭を下げる様子を眺めながら、彼女は面倒くさそうに浅いため息をついた。
「サンキューな、白星。やっぱり持つべきものは友だ」
「元気ですね」
「あぁ、すっかりこの通り」
「これなら前の方が良かったです」
俺は力こぶを作って笑顔を浮かべてみると、彼女は煩わしそうに愚痴を零した。
「酷いこと言うなぁ、せっかく体調が戻ったってのに」
なんておどけたように言葉を返しながらも、俺は二週間ぶりの白星とのやり取りを楽しく思っていた。
それもそのはずだろう。
何者も知り得なかったはずの隠し事を、彼女は見抜いてしまった。
そしてそれを共有した以上、もう俺にとって白星は、信の置ける友人となったのだから。
そうこうしていると教授が登壇し、催眠術を実践する講義が始まった。
俺はすっかり、卓越した教授の技に嵌ってしまい、気が付くと、授業終了のチャイムが頭の中に鳴り響いていた。
俺と白星は荷物を纏め、人声の飛び交う教室を後にした。
いつの間にか、彼女は俺の隣に立って共に教室を出て行くようになった。
野犬のように警戒心の強かったあの頃が懐かしいものである。
「あ、そうだ。白星って、今週と来週で空いてる日あるか?」
「…一応、今日は暇ですが」
俺が何気ない素振りで訊くと、途端、白星は訝しげな目でこちらを眺めた。
彼女は視線を前に戻し、歩みを進みながら事務的に答える。
「おお、ナイスタイミングだな」
俺はパチンと指を鳴らし、講義中に思い付いたことをそのまま伝えた。
「じゃあ今日さ、一緒に鍋でも食べようぜ、白星の家で」
ふと、白星はその歩みを止めた。
俺も彼女に合わせて、同じように足を止めてみる。
やがて白星はこちらの真意を推し量るような目つきで、隣で涼しい顔をしている俺をジッと見つめた。
「…百歩譲って、一緒にご飯を食べるのは理解出来たとしましょう。ですが、なぜ私の家なんですか?」
「この前は白星が俺の家来てくれただろ?だからそのお返しに」
「それはお返しとは言いません。却って迷惑とも言えます」
俺が一切の他意なく言葉を返すと、白星は顔を顰めながらそのように反論した。
「いや、もちろんこれはお返しだぜ?食材費とかは俺が全負担するから。あと、準備も全部俺がやるつもりだ」
俺は真っ直ぐに彼女の目を見つめ直す。
その視線にはあらんばかりの善意と親しみを半分ずつ込めておいた。
白星は軽く目を逸らす。
少々の思案を挟んでいるようだ。
「それはかなりの好条件ですね。では、もし私が断ったら?」
「その時は別のお返しの方法を考えるかな」
そうして俺が即座に返答したことに対して、白星は何かしらの言葉を紡ごうとした。
だが俺は布石を打つように、憎たらしい笑顔を浮かべながらこう言ってやった。
「まぁ、断られた俺はちょっと悲しくなるんだけど」
彼女は不愉快そうに眉をピクリと動かした。
一瞬の沈黙があり、やがて白星は「…はぁ」と吐息を漏らす。
こういう時の白星のため息は、渋々こちらの意見に賛同してくれる時のものだ。
その推測通り、彼女は「…仕方ないですね」と諦めたように呟いた。
「やった!」と俺は毎度の如く応じる。白星は俺を呆れ顔で眺めていた。
「決まりだな。それじゃあ、また四限後に」
俺はそのように言い残し、その場で立ち尽くす彼女とは別の方角へと進んでいった。
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約束通りに四限目終了後、私は雨夜さんといつものように食堂前で落ち合った。
一体どうして、私の家で鍋をつつくことになってしまったのか。
なんてことを、今更ながら後悔したりはしない。
雨夜さんが腹の底で何を考えているのか、どういう意図を以て私の家に踏み入ろうとしているのか。
彼の思うところは簡単に想像出来てしまうような、或いは私には想像もつかないような。
正直に言うと、これらのことは私にも良く分かっていない。
けれど話に聞く限りでは、雨夜さんは材料費や調理を全て担当してくれるらしい。
今晩の夕食をわざわざ準備をしなくてもいいと言うのは、実に魅力的な提案であった。
ならば、清濁併せ吞むつもりで彼の妙案を受け入れるのも、それはそれで良いのではないかと思ったのだ。
「白星の家に行くまでに、スーパーとかはあるのか?」
「ありますから、買い物はそこで済ませましょう」
当然ながら、雨夜さんは私が何処に住んでいるのかを全く知らない。
以前焼肉に誘われた帰りに、私が大学の近くのマンションで一人暮らしをしている程度のことは話したはずだが、それ以上の情報は持ち合わせていないだろう。
予想通りというか当たり前というか、やはり彼は家までの案内を私に頼んだ。
というわけで、私達は早速大学を後にして、彼のアパートとは真反対の方向へ歩き始めた。
暫く通行人の多い大通りを行くと、途中に小さなスーパーを発見する。
私はそこを指差し「あそこが最寄りのスーパーです」と伝えた。
流れで二人してスーパーに立ち入り、カートとカゴを携えて店内を巡る。
肉や野菜はもちろん、鍋の素やうどん玉をカゴに放り込み、私達はお会計を済ませた。
「ビール買っとくか?」買い物の途中、雨夜さんはそのように訊ねた。
「要りません。代わりにこれで良いですから」
そう答える私は、しかし折角雨夜さんが買ってくれるのだから、とオレンジジュースをカゴに入れる。
その途端、隣でカートを押す彼は小さな笑い声を洩らした。
「お酒なんて良いものじゃないでしょう」
どうやら揶揄われたらしい私は、いつもの癖で彼を軽く睨み付ける。
「意外と可愛い所もあるんだな」雨夜さんは何食わぬ顔でそう言った。
息が詰まったような感覚が胸に残った。
どうしてか、私は二の句を継げなくなった。
スーパーを出て道なりに進んでいくと、私は徐々に入り組んだ住宅街へと足を進めた。
その最中、雨夜さんは左右に首を振って、辺りの景色を隈なく見渡していた。
こっそり私の家までの道筋を覚えようとしているのだろうか。
私はその様子を見て、少し、可笑しく思った。
そんなことをしなくても、ちゃんと道筋の分かる場所まで送るつもりだし、別に、また家に招いてあげても良いとは思っているのに。
「なんだか、少しだけ楽しいですね」
隣に歩く雨夜さんには聞こえないよう、私は口の中で小さくその言葉を転がす。
本当は、少しどころじゃないくせに。
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スーパーから十分ほど歩いた頃だろうか。
彼女はグレー色のこじんまりとしたマンションの前で、ふと足を止めた。
「ここが白星の住んでるマンション?」
白星は軽く首肯し、エントランスへ向かう。
磨き上げられた黒いタイルの上に、二人分の足音が響く。
彼女は鍵を取り出して自動ロックのドアを開いた。
白星はつかつかと歩みを進め、エレベーターに乗ることなく一階部分の右側通路に向かう。
手前から四つ目のドア前で立ち止まると、鍵を差し込んでドアを開いた。
「どうぞ」と白星は俺を促す。
「お邪魔します」と一声かけてから、俺は彼女の部屋に立ち入った。
微かに芳香剤の匂いが漂っていた。
しかしそれはほとんど無臭に近しいもので、女の子の部屋にありがちな甘ったるい香水の匂いも、かと言って思わず鼻をつまみたくなるような悪臭も感じられない。
玄関口には観賞植物などのオシャレなインテリが飾られているわけもなく、白星が普段履きしているであろう黒い靴が二足並べられているのみだ。
簡素且つシンプル。
それは、俺の抱く白星のイメージそのものであり、大体予想通りといったところだった。
しかし、続いて前方に視線を向けたその時、全身には多大なる衝撃が駆け巡ることになる。
それを見た俺は驚愕のあまり、その場で愕然と立ち尽くしてしまった。
「どうかしましたか?」
白星は靴を脱いで俺の前に立つと、口を半開きにしている俺を疑問気に見やる。
「…個性的だな」
我に返った俺は極力言葉を選びつつも、しかし堪らず苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
「そうでしょうか」と彼女は不思議そうに小さく首を傾げた。
俺は自身の抱く白星の像と住居の様態に大きな乖離感を抱きながら、彼女に案内されて洗面所へ足を運んだ。
単刀直入に言うと、彼女の部屋は目に優しくなかった。
俺はてっきり、玄関口と同様、彼女の住居は飾り気のない雰囲気なのだろうとばかり思っていた。
しかしその実態は真逆であったのだ。
洗面所で手を洗うと、俺は再び彼女の部屋に目を凝らした。
改めて内装を見渡してみると、確かに白星の住居は、ある意味では俺のイメージ通りであったと言えるのかもしれない。
家具の類は最小限に抑えられており、床には埃一つ落ちていない。
大きな本棚にはヘッドホンと本が数冊並べられており、それが唯一、この部屋に生活感というものを与えていた。
その点にだけ注目すれば、彼女の部屋はまさしく無装飾であると言えるのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。
白星の部屋が目に優しくない原因は、それぞれの家具の配色にあった。
というのも、俺の抱く白星像に照らし合わせてみれば、彼女の部屋にある家具は全て黒色に統一、もしくは地味な色合いで統一されるはずなのだが、実際に部屋の様子を眺めてみれば、本棚は青色、テーブルは黄色、椅子は赤色、ベッドは桃色、カーテンは緑色と、その部屋は色とりどりのカラフルな雰囲気に仕上がっている。
そう言えば聞こえがいいが、ハッキリ言うと、実に纏まりのない部屋であった。
もっと悪く言えば、悪趣味な部屋模様とも言えよう。
こんな酷い配色では、到底落ち着いた生活など送れるはずがないだろう。
その時、俺は一つ、彼女への理解を深められた気がした。
なぜ、白星は黒色ばかり身に着けているのか。
たぶん、彼女は色のセンスが絶望的なのだ。
「それじゃあ準備するから、白星は適当に過ごしててくれ」
まさか白星にこんな一面があったとは。
こんなことを知っているのは俺だけなのではないだろうか。
俺は大きな驚きと共にささやかな優越感を覚えながら、キッチンへ向かった。
「つかぬ事をお伺いしますが、雨夜さんは料理出来るんですか?」
白星は俺の後をつけ、野暮なことを聞いてくる。
「一人暮らしを始めてもうすぐ二年経つんだ。人並みにはやれるさ」
俺は自信満々に彼女に答えた。
それは根拠のない自信ではなかった。
現に俺は出来るだけ自炊を心掛けて生活しているのだから。
「少し信用できないので、近くで眺めていますね」
けれども白星はその言葉を右から左に聞き流しながら、土鍋やまな板を取り出してくれる。
それらの色合いがどうという話はもういいだろう。
俺はスーパーで購入した食材を刻みつつ、それらを鍋に投入し、火に掛ける。
そのうち鍋がぐつぐつと煮え始め、白星はテーブルにお箸やお皿を並べに向かった。
適当にしていていいと言ったのに、どうにも手持ち無沙汰らしい。
テーブルの中央に用意した鍋敷きの上に土鍋を乗せると、俺達はそれを挟んで、向かい合わせに椅子に腰を下ろした。
そう言えば、一人暮らしなのにどうして椅子が二つあるのだろうか。
「味は美味しいと思う、たぶん」
「市販の鍋の素を使いましたからね」
俺達は両手を合わせて合掌し、湯気の立つ鍋の中身をそれぞれのお皿に移していく。
俺は缶ビールを、白星はオレンジジュースの蓋を開け、特に唱和は思いつかなかったけれど軽く乾杯を交わした。
共に酒を飲む仲間がいないのは寂しいことだが、やはり鍋と言えば酒だろう。
俺は喉元をきつく締め、口全体でビールの強炭酸をしっかりと味わった。
「雨夜さん、ビールって美味しいんですか?」
俺をぼんやりと眺めていた白星は、ふと思いついたように訊ねる。
「味はそんなに美味しいものじゃないな。喉に伝う感覚を楽しむ飲み物だ。飲んでみるか?」
俺は彼女に金色のビール缶を差し出した。
白星はそれをひょいと受け取り、恐る恐る口を付ける。
彼女は間髪入れずに無表情の中に苦渋の色を見せた。
「不味いですね。こんなものにお金を払う人の気が知れません」
「白星もいつか分かる日が来る」
俺は彼女から缶ビールを受け取り、もう一度それを呷る。
のど越しと苦味を堪能してから、取り皿に移した鍋物をつついた。
やはり酒と鍋の組み合わせは至高だ。
これを理解出来ない白星は可哀想だと、俺は勝手に思う。
と言うか、白星は間接キスとか気にしないタイプなんだな、結構意外だ。
かくいう俺は昔は気にしてたけど、もうすっかり慣れてしまった。
環境とは恐ろしいものである。
それからも俺達は、鍋を囲みながらとりとめのない雑談をポツポツと交わし合った。
鍋をたらい上げて一息つくと、俺は料理に使った調理器具を洗い、白星が綺麗になった料理道具の水気をタオルで拭き取ってくれた。
腕時計を確認する。
もう午後七時か。
不意に視線をやった窓には、のっぺりとした外の黒色が映し出されており、その中で部屋の白い明かりが煌々と反射していた。
「それじゃ、そろそろお暇させてもらうよ」
後片付けを終えた俺は玄関口へ向かおうとする。
「もう帰るんですか」
白星は意外そうに言った。
それから、先程と同じぐらいの声量とスピードでしれっと言葉を零した。
「てっきり私は、今日襲われるものかと思っていました」
思わず後ろを振り返る。
意味の分からない言葉を羅列した白星の表情は、いつものように感情に乏しかった。
その表情には一片の恥じらいも嫌悪感も見られず、そこには、ただ淡々と推測を述べただけに過ぎないという態度が現れていた。
「……俺が白星を?」
何を馬鹿なことを言っているのか、と言う意味を込めた疑問形で俺は言葉を返す。
「ええ、そういう魂胆で私の家に来たのかと」
彼女は何の迷いもなく軽く頷いた。
悲しいかな、どうやら白星の中での俺はそういう人間止まりしていたらしい。
彼女は薄墨色の目で俺を眺めながら、続けて先程以上にとんでもないことを言った。
「一応、準備もしてましたし」
「……じゅ、準備?」
様々な邪推が脳裏を駆け巡り、つい、俺は言葉に詰まった。
白星はそんな俺の反応をじっくり堪能するような間を置いてから、ポケットに入れてある携帯電話を取り出した。
「はい、すぐに警察に連絡できるよう、肌身離さず携帯電話を持っていました」
「なるほど、襲わなくて正解だった」
俺は彼女の健全な言動に胸を撫で下ろした。
白星はどう考えても、そういうタイプの人間ではないだろう。
もしそうだったら、俺は今日を境に軽い女性不審に陥っていたかもしれない。
「雨夜さんは狼ではなく、ただの羊だったみたいですね」
俺の安堵が伝わったのか、白星は何処か愉快そうに言った。
「そっちの方が白星は安心するだろう」
なんだか彼女の手のひらで踊らされた気分で、俺は投げやりに言った。
このまま白星の家を後にするのは、尻尾を巻いて逃げるようで気に食わなかった。
なんとかして反撃してやろうと、しょうもない反骨精神に目覚めた俺は、すぐに良いことを閃いた。
「白星ってさ、合鍵持ってる?」
訊ねられた彼女は、隠し事を迫られた子供みたいにその背筋をピンと伸ばした。
「あぁ、そう言えば受け取ったままでしたね。いま返します」
白星は部屋の何処からか、先日に渡した俺の家の合鍵を探し出そうとする。
「いや、合鍵はそのまま持っててくれていい。白星は俺の部屋から何か盗んだりしなさそうだし」
けれど彼女が動き出す直前に、俺はそのような言葉で白星を制止した。
「では、先程の言葉はどういう意味で?」
目を点にした白星を見るに、彼女はどうにも俺の言葉の意味を取り違えているようだった。
だから俺は言葉を噛み砕いて「白星は自分の家の合鍵持ってるのか、って話」と言い換えた。
次の瞬間、白星はその表情を一気に不審げなものに変えた。
彼女は自分とは相容れない思想の持ち主を眺めるような目つきで俺を見やると「持ってはいますが…なぜ、そんなことを聞くのでしょうか」と、ある程度こちらの思惑を見透かしながら訊ねた。
「持ってるなら俺に預けてくれよ」
「雨夜さんに預ける意味がないでしょう」
俺が何の迷いもなく答えると、彼女はやはり理解し難いものを見る目で言葉を返した。
「白星が倒れた時、今度は俺が看病しに来てやるから」
俺は尤もらしい理由を付して、自身の言動を正当化しようとする。
「……そんなに、私の家の合鍵が欲しいんですか?」
白星はいかがわしそうに俺を眺めた。
たぶん、それは二重の意味でのいかがわしいだったのだろう。
さっき俺が羊だって自分で言ったのにな。
「うん、俺の合鍵取られてるし、等価交換ってことで」
ただ、彼女にしてやられたのが不愉快だったという理由だけで、俺はそのように即応した。
白星は呆れたように「だからいま返すと…」と言葉を続けようとしたところで、ふと思い直したように「…いえ、雨夜さんは言っても聞きませんね」と言い直した。
彼女は棚の引き出しからそれを取り出し「…どうぞ、スペアキーです」と俺に大人しく差し出した。
「どうも、困ったことがあったらいつでも連絡してくれ」
まさか本当に貰えるとは思っていなかった。
ちょっと白星を困らせてやろうと遊んだだけだったのだが。
俺はこの結果に少々驚かされつつも、ひとまず彼女からスペアキーを受け取った。
「そんなことは早々に起きませんよ」
「そうだな。起きないに越したことはない」
そうして意趣返しに成功した俺は、気持ち良く白星の家を後にするべく玄関口へ向かった。
今度は何事もなくそこまで辿り着き、近くまで見送ってくれるという彼女と共に靴を履き替え、玄関ドアに手を掛けた、ちょうどその時のことだった。
突如、甲高いインターホンの音が部屋中に鳴り響く。
不意の機械音に白星はピクリと肩を震わせ、外に出ようとしていた俺は、流れるようにドアを押し開けていた。
開かれる扉の隙間からは、徐々に夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
やがて扉は大きく開け放たれ、内と外の隔たりが消え失せると、俺の目の前には、一人の眼鏡を掛けた中年男性の姿があった。
短く切り揃えられた髪にはまだ白髪は見えず、中肉中背といったところだ。
「あっ、黒奈。クッキー焼いたから持ってきたんだけど──」
中年の男性はまず視線の先に白星を映し出すと、その表情を仏のように柔らかくして右手に抱えるクッキーの詰まったタッパーを掲げた。
次いで俺と目が合った。
その表情は凍り付いた。
俺も思わず、その場で立ちすくんだ。
僅かな、しかし時を切り離したかのように長い沈黙がその場に流れる。
横目に白星を確認するが、彼女も彼女でまた彼女らしかぬ程に大きく目を見開き、その様子から、彼女も同様に、この状況に狼狽しているらしいことがひしひしと伝わって来た。
この場に居る三人の中で、一番最初に現実世界へ戻ってきたのは意外にも俺だった。
俺はこの一瞬である程度の状況整理を終え、まずは目の前の男性に向けて軽く頭を下げた。
「こんばんは。あの、僕は白星さんと仲良くさせてもらってる友人でして……」
顔のしわや肌の具合から見るに、四十代前半ぐらいだと推測されるこの人は、恐らく白星の父親なのだろう。
そのように目星を付けた俺は、失礼のないようにまずは白星との間柄を説明した。
そうか、白星の家に椅子が二つあったのは父親が偶にここを訪れるからか。
俺は頭の片隅で、先程の疑問に納得した。
「ゆ、友人……?」
次いで硬直から解き放たれた中年男性は、しかし、俺の言葉に酷く動揺を示していた。
「…健介さん。雨夜さんの言う通り……私達の関係は、友人です。今日は雨夜さんと一緒に鍋をご飯を食べていたんです。だから、その…」
遅れて意識を取り戻した白星もまた、そのようにして俺達の関係が健全なものであることを釈明しようとする。
すると、「健介さん」と呼ばれた中年男性は視線を落とし、「…黒奈に友達…そうか…」とやけにしみじみとした声色で呟いた。
その隙を突いて俺は玄関口からひょいと身体を出し「そろそろ帰るつもりでしたので、では、僕はこの辺で」と白星と健介さんに軽く別れの挨拶を済ませる。
彼は俺を呼び留めるように何か言葉を発そうとしたが「親子水入らずの時間を邪魔するわけにもいきませんし」と俺は先手を打った。
最後に、未だ混乱の色が抜け切らない白星へと視線をやり、「白星、帰りの道順は覚えてるから大丈夫だ。んじゃ、またな」と微笑んで手を振ると、俺は早足にマンションを去った。
当然、普段足を踏み入れないような住宅街を簡単に抜け出せるはずもなく、俺は暫し頭上の満月を眺めながら、街の立体迷路を彷徨うことになった。
今日は色々と、驚かされてばかりだ。
俺は夜の薄暗い住宅路を闇雲に進みながら、何気なく、彼女の家での出来事を振り返る。
その時ふと、あの男性の優しげな笑顔に既視感を覚えたが、その正体を掴むことは叶わなかった。
次回の投稿日は、6月17日の土曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!