表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

⑦/⑮

 ♦♦♦

 

 

 随分と、深い眠りに落ちていたようだ。

 朝を知らせる電子音が、知らぬ間に俺の意識を現実世界に引き戻した。

 


 ヘッドボードに手をやる。

 闇雲に動かした右手で携帯電話を掴み、アラーム機能を停止させた。

 


 重い瞼を押し上げ、現在時刻を確認する。

 午前七時半。そろそろ準備を始めないと、一限に間に合わない。

 


 なけなしの意思を絞り出してベッドから起き上がろうとしたところで、ふと、身体に力が伝わらないことに気が付いた。


 

 それを意識した途端、後ろから追い掛けてくるように鋭い痛みが脳内を反響する。

 それは頭が二つに割れてしまいそうな激痛で、反射的に寝ぼけた目が大きく見開かれ、俺は思わず額に手をやった。

 


 なんだ、これは。

 苦痛に顔を顰めながらも、上手く纏まらない頭の上で問題を提起する。

 


 二日酔いだろうか?

 


 いや、違う。

 俺はすぐにその可能性を捨て置いた。

 最後にアルコールを摂取したのは二日前、学祭の打ち上げに行ったっきりだ。

 


 ならば、これは一体何なのだろう?

 思い当たる節は、無いわけではない。

 直近二日間のことが、雲った窓ガラスに浮かぶ景色のように、ぼんやりとした頭の中に映し出された。

 


 打ち上げに興じたその日、俺はそのまま夜通しで大学生を満喫し、翌日の昼前に家に戻ってきた。

 そこから僅かな仮眠を取り、夕方から深夜まで居酒屋のバイトに出勤、そして夜中にまた家に戻って就寝。

 そうして、俺は今日を迎えた。

 


 まさか、と思いつつも、俺は這いつくばるようにしてベッドから雪崩れ落ちる。

 部屋は初冬の乾いた寒気に包まれており、しかし身体の芯は異常な熱さに包み込まれていた。

 


 汗に濡れた皮膚を伝って全身に悪寒が走る。

 俺は無意識のうちに毛布を手繰り寄せていた。



 そこで俺は、自らが体調を崩したことを確信した。

 


 流石に無理のある二日間だったか。

 遅まきながらの自省が脳裏を過る。

 


 風邪をひくのは何年振りだろうか、と無用なことを考える一方で、無理してでも講義に出られるだろうか、と俺は頭の中に居る自分と相談を始めた。

 


 多分無理だ。

 さっきから平衡感覚が怪しい。

 熱は熱でも高熱だろう。

 


 とかく、今日のところは一日安静にするべきだと思えた。

 よろめく身体で立ち上がり、干乾びた喉にコップ一杯の水を染み込ませると、俺は再びベッドに倒れ込んだ。

 


 このまま眠りにつきたいところだが、もうひと踏ん張りせねばなるまい。

 携帯電話を操作し、月曜の授業を共に受けている友人にメッセージを送信しておく。

 これでレジュメや出席は確保できるはずだ。

 


 当面のすべきことを全てやり終えた俺は、誘われるように瞼を深く閉ざした。

 程なくして、意識は闇に拡散した。

 




 

 あれからどれぐらいの時が過ぎ去ったのだろう。

 何気なく目を開けると、白い天井には薄暗い影が落ちていた。

 


 頭上に視線を移す。

 カーテンレースの向こうには、濃い青色をした空が広がっていた。

 察するに、日没前だろうか。

 


 時刻を確認するのも、部屋の電気を点けるのも億劫だった。

 ベッドの上で体を起こし、自分の容態を再確認する。

 


 温度感覚は依然として、狂った時計の針のようであった。

 頭痛は尾を引きながらも収まりつつあるようだが、相変わらず全身はどんよりと気怠いままだ。

 朝から相当に時間が経過しているはずなのに、今は腹が減っているのかどうかさえよく分からなかった。

 


 体温計なんて持っていないし、病院は金が掛かる。

 大人しく安静にしていよう、と俺は再び横になる。

 しかし、長らく眠りについていたせいか、今すぐもうひと眠り出来るわけではなさそうだった。

 


 やむなく天井を眺める。

 こうして何も考えないでいると、このまま寝ていても治らないのではないだろうか、俺はこのまま死んでしまうのではないだろうか、などと後ろ向きな憂慮が湯水のように身体から滲み出てくる。

 こういう時、死神はいつでも俺達の傍に潜んでいることを、俺は思い知らされる。

 


 あまりネガティブなことを考えても仕方がない。

 そうと分かっているはずなのに、一度仮面の下から洩れ出した暗い感情は、何者かの手によって芋づる式に掘り起こされていった。

 


 突然、足元に開いた大きな穴に呑み込まれていくように、俺はベッドの上に拘束されたまま、深く深くへ落ち込んでいく。

 次第に、この頃は思い出さなかったあの失敗や、遥か昔の自分が脳裏を掠め始めた。

 


 この場には誰もいない。

 だから、自分を取り繕うこともなければ、救いの手が差し伸べられるわけでもない。

 


 行き場のない憂鬱が循環し、視野が黒く染まっていく。

 徐々に速まる落下速度と共に、身体中は暗く澱んだもので覆われていく。

 それに乗じて、心も段々と重苦しさに押し潰されていく。

 


 いつも傍に居た泥沼は既に、へばり付くように俺の両足を捉えていた。

 どす黒いものが足先を伝って腹部に這い上がり、やがては頭の中枢までをも満たしてしまう。

 そんな嫌な予感を覚えながら、俺は抗うことの出来ない陰鬱に溺れていこうとしていた、その時だった。

 


 何の前触れもなく、調子はずれなチャイムの音が部屋中に響いた。

 


 あっさりと、俺は泥濘から引き上げられた。

 


 ベルの音が部屋中に染み渡るような間を置いてから、俺は重い身体を引き摺り、なんとか玄関口に辿り着く。

 突然の呼び出しチャイムを煩わしく思いながらも、俺はゆっくりと玄関ドアを押し開き、そこに白星の姿を認めた。

 

 

 ♦♦♦

 

 

 ──どうして、ここに足を運んでしまったのだろう。

 


 見慣れない住宅街をたどたどしく突き進み、辿り着いた学生アパートの一室の前で、私はひたすらにそのような疑問を巡らせ続けていた。

 


 きっかけは、ほんの些細なことだった。

 


 今日、私は昼食のために食堂を訪れると、そこにはあの男の友人である金沢駿介の姿があった。

 彼は待ち構えていたかのように私に声を掛け、あの男が今日体調を崩し、家で寝込んでいることを私に伝えた。

 


「それを私に話してどんな意味があるんですか?」という言葉が顔に出ていたのだろう。彼は少し迷ったように目を逸らしてから、このように言った。

 


「あいつさ、白星さんと居る時は、なんていうか…すごく、自然体でいるように見えるんだ。あぁ、もちろん、俺達と居る時に気を張ってるって言いたいわけじゃないんだけど」



「白星さんも分かってるだろうけど、陽太は女関係にだらしなくて、異性との交遊関係は出来ては消えてみたいな奴だ。それでも、白星さんとの関係性は大事にしてるみたいだから…その、上手くは言えないけどさ、あいつのこと、見捨ててやらないで欲しいんだ」

 


 連日似たようなことを聞かされ、私は柄にもなく少し驚いていた。

 同じようなことを聞かされたと言うのは、実はつい先日、より詳しく言うと、学祭二日目のことだ。

 


 私はその日、あの男に誘われてしまったが為に、仕方なく苦痛でしかない学祭に繰り出すことになっていた。

 


 あの男は案外心が広く、この誘いを断ったぐらいで癇癪を起こすような人間ではないことは分かっている。

 だから、私には学祭を敬遠するという選択肢もあったはずなのだが、どういうわけかそれを承諾してしまっていた。

 


 たぶん、先日焼肉を食べに行った際に、少しだけあの男の評価を改めてしまったことが原因だろう。

 男は見当違いではあるものの、確かに優しさというものを見せてくれたから。



 少し話が逸れてしまった。本題に戻ろう。

 


 眩暈がするほどに人でごった返した学内を歩いていると、見覚えのある女性が、私の名前を呼んで手を振っていた。

 


 立ち止まってその女性をジッと見つめると、彼女が奥平彩名であることに気が付く。

 そう言えば、今日はあの男が仲良くしている二人も加えた四人で学祭を巡るという話だった。



「集合場所まで一緒に行こっか」と言われて断れるわけもなく私はその隣を歩く。

 


 その最中、彼女は口を滑らせたようにこのようなことを言った。

 


「なんかね、陽太くん、黒奈ちゃんと一緒に居ると肩の力が抜けるみたい。だから良かったら、これからも仲良くしてあげてね」

 


 詰まる所、似たような話と言うのは、私よりもあの人と付き合いの長い二人が「あの男は私と居ると、リラックスしているように見える」と語ったことだ。

 


 本人の口からそう言われたわけではないが、不思議とその言葉に、私は悪い気がしなかった。

 全くそういう風には見えないが、あの人にとって私は何か、特別な存在なのだろうか。

 


「金沢さんはもう少し積極的になった方がいいですよ、あの人ぐらい」

 


 先日のことを思い返し、心の内側に生まれかけた柔らかい感情を打ち消すよう、私は彼に対して辛辣な言葉を返した。

 


 すると彼は苦笑いしながら、「気が向いたら様子を見に行ってくれないか?」と私にあの人の住むアパートまでの道のりを教え込み、気が付くと私は、学校終わりにその道筋を辿っていた。

 


 それ以上でもそれ以下でもない。

 私があの人のアパートまでやって来たのは、ただそれだけの為のことだった。

 


 あぁ、本当にどうして、私がわざわざあの人の為なんかに。

 


 先程からアパートの扉の前で同じことをぐるぐると考え続けていたが、終ぞ、放っておけばいいものを、私が自らここに足を運んだ理由は判然としなかった。

 


 取り敢えずは、あの人を大切に思う二人の友人への気遣いということにしておこう。

 


 私は自らに雑な納得を押し与え、吸い込まれるようにインターホンへ手を伸ばした。

 


 ♦♦♦

 


 ほんの少しの間、頭の中は空白に見舞われていた。

 片手で目を擦り、もう一度玄関前に注視する。

 やはり、彼女がそこにいた。

 


「……白星?」と俺は間抜けな調子で首を傾げる。



「大丈夫ですか?」といつものように表情に乏しい彼女は俺に訊ねた。

 


 しかし普段とは違い、その灰色の目を覗けば、そこにほんの少しのばかりの心配の色が見えたような気がした。

 


 瞼を数秒閉じて、今度はゆっくりと開ける。

 再三に渡り彼女が目の前にいることを認識した上で、俺は白星に訊いた。

 


「…これは夢か何かだろうか?」



「頬を思い切り引っ張ってみましょうか?」



「いや、今日は調子が悪いから遠慮しておくかな」



 それはいつもの無遠慮な物言いだった。

 俺はそんな彼女に何処か安堵し、虚勢を張って微笑みを作った。

 


 しかし、一体どういうことなのだろう。

 彼女は俺が病床に伏せていることどころか、俺の住所さえ知らなかったはずだ。

 そのような疑問が表情の上に出ていたのか、俺がそれらのことを訊ねる前に、白星は淡々と事情を説明してくれた。



「金沢さんが私に言ったんです。代わりにお見舞い行ってくれ、と」「その時にここまでの道順を教えてもらいました」

 


 なるほど、駿介が共通の知人を通して俺の現状を知ったのか。

 それがどうしてか白星に伝わったわけだ。

 


 俺は回転数の落ちた頭で、疑問を一つずつ整理していく。

 その間に白星はずいとこちらに一歩詰め寄り、俺の目を覗き込むようにして言った。

 


「それで、大丈夫なんですか?」



「……大丈夫とは言えない。かなり辛い」

 


 俺は正直に答えた。

 そうもジッと見つめられては、嘘をついたり誤魔化したりすることは不誠実だと思えた。

 


「熱は計りましたか?病院には行きましたか?」彼女は捲し立てるように言う。

 


「体温計は持ってない。病院には行かない」俺は即座に言葉を返す。

 


「では、空腹は感じますか?」



「言われてみれば、お腹が減ってきた気がする」


 

 俺は腹部を擦った。

 人と会話を交わしたからか、胃袋が正常に機能し始めたようだ。

 


 そこでようやく、白星は俺の目を覗き込むことをやめてくれた。

 

 それから「そうですか。ならベッドで横になっていてください」「キッチン、勝手に使わさせてもらいますよ」と彼女は当然のように玄関口に押し入った。

 


 それは息を吸うように自然な流れであった。

 微かな間を置いた後に、ふと、身体中が凄まじい違和感に襲われる。

 


「お邪魔します」と白星が俺の部屋に足を踏み入れたところで、思考が現状に追いついた。

 整理されつつあったはずの脳内は、瞬く間に疑問符で溢れ返った。

 


「…なんで俺の部屋に入ったんだ?」と俺は思わず言葉を投げ掛ける。



「キッチンを使わせてもらう、と言ったはずです」彼女は平然とした顔で言った。

 


「意外と整頓されてるんですね」白星は部屋中を見渡し、そのような感想を零す。

 


 彼女に見られてまずいものはなかっただろうか。

 俺は体調そっちのけで考えを巡らせた。

 


「あぁ、これ、どうぞ」

 


 彼女は忘れていたように、右手に下げたビニール袋を俺に差し出した。

 中には経口補水液とゼリーが入っていた。

 わざわざ買って来てくれたのだろうか。

 


 口の渇きに任せて、俺はペットボトル飲料をごくごくと喉に流し込んだ。

 潤いを取り戻した口内は爽やかな感覚に包まれたが、味は思った以上に薄くてほろ苦かった。



「…どうしてそんなに嬉しそうなんだよ」



 ふと白星を見やると、彼女の表情はいつもよりも明るい気がした。

 


「いえ、今日は大人しいな、と思いまして」白星は少し考える素振りを見せ、そう言う。

 


「俺が大人しいと白星は嬉しいのか?」俺はぶっきらぼうに聞いた。

 


「ええ、いつもの粋がる雨夜さんよりは」彼女はやはり上機嫌だった。

 


 その瞬間、俺は途轍もない衝撃に見舞われる。

 


「あ、雨夜さん……?」と俺は思わず、彼女の言葉の一部を繰り返した。

 


 その時の俺が白星に向けた視線には、よほど困惑と疑念の感情が入り混じっていたのだろう。

 彼女は少し不愉快そうに「…なんですか、その目は」と俺を軽く睨んだ。

 


「いや、白星に名前で呼ばれるの、初めてかなって…」



 やはりこれは夢ではないだろうか。

 俺は堪らず自分の頬を抓る。

 


「…変なことを言わないでください。熱でおかしくなったんですか?」

 


 頬だけでなく、彼女の言葉もまた当然のように痛々しいものだった。

 どうやらこれは現実らしい。

 しかし、ならば一体、これはどういった風の吹き回しなのだろう。

 


「ごめんごめん、今までは全然名前で呼んでくれなかったからさ、ちょっとびっくりしたんだ」


 

 俺は再び水分補給を挟みつつ、若干の喜色が混じった声調で言う。

 当然だろう。代名詞から名前呼びに昇格したのだから。

 


 俺が隠すことなく嬉しそうにしている様子を見て、白星はほんの少し、視線を右下の方に逸らした。



「あのですね、雨夜さんは、友人に恵まれています。だから私は彼らに敬意を示しているんです」



 白星は再び俺に目を合わせると、言い聞かせるみたいにこちらに身体を近づけてそう畳み掛けた。

 俺は彼女の良く分からない理論と勢いに丸め込まれ、取り敢えずこくりと頷いておいた。

 


 何気なく、頭の後ろを右手で掻いてみる。

 白星に名前を呼ばれるのは、実を言うと、少しこそばゆかった。

 


「雨夜さんはそこで寝ていてください」



 彼女はこれで話は終わりだとばかりにベッドを指差す。

 俺は大人しくベッドの方に向かった。

 正直、立っているのもそろそろ限界だった。

 


「冷蔵庫の中の物、勝手に使わせてもらいますよ」と白星は台所に向かう。



「白星って料理出来るのか?」

 


 そう聞きたい気持ちはあったが、声を出す気にも身体を動かす気にもなれない。

 まぁ大丈夫だろうと、落ち着いた様子でキッチンに立つ彼女を見守ることにした。

 


 十分と経たないうちに、彼女は湯気の立つ丼皿を持ってこちらにやってきた。

 


「卵粥です。味は食べられないほどではないと思います」



 彼女はベッド近くの小テーブルに丼皿を乗せる。

 卵粥は熱々で、すぐには口に運べそうになかった。

 白星はそのまま、ベッド近くの適当な場所に腰を下ろした。

 


 成り行きとは言えご飯まで作ってもらった以上「もう帰れ」などとは口が裂けても言えない。

 夕暮れ時の薄暗い室内、俺と白星だけの空間には、次第に静かな沈黙が立ち込めた。

 


「白星って、料理出来たんだな」なんだか沈黙がむず痒くて、俺は小さな笑みを浮かべてみる。



「私をなんだと思っているんですか」

 


 彼女はむすっとした仏頂面で素っ気なく答えた。

 たぶん、俺の言葉が気に食わなかったのだろう。

 


 そろそろ良い頃合いのはずだ。

 俺はスプーンで卵粥を掬い、それを口に運んだ。

 


 それは可もなく不可もなく、なんの変哲もない味だった。

 けれどもまた俺は微笑みを浮かべながら「…美味しい。ありがとうな、白星」と屈託のない感謝の言葉を零していた。

 


「…いえ」と彼女は俯きながらぽつりと呟く。

 


 そんな彼女は少し気恥ずかしそうだった。

 なんだか今日は、白星の感情が良く分かる気がする。

 


 俺は黙って卵粥を食べ進める。

 白星は何も面白くないであろう俺の部屋を見渡しながら、同じく沈黙を湛える。

 俺が卵粥を食べ終えようとしたところで、彼女は窓の外を眺めながらふと、こう言った。

  


「……そんなに肩肘張らなくても、いいんじゃないですか?」

 


 スプーンを掴む手が止まる。

 俺は思わず彼女の顔を見やる。

 白星は何を言うでもなく、俺に視線を合わせた。

 


 ほんの少しの躊躇いがあった。

 それでも俺は、真夜中に扉を開けるような慎重さで「…そう見えるのか?」と彼女に短く問い掛けた。

 


 白星は何も答えなかった。

 再び曖昧な沈黙が流れる。

 俺は卵粥を汁まで飲み干し、小さなため息を吐き出した。

 


 こんなことは誰にも話すつもりはなかったし、誰かに悟られることもないだろうと思っていた。

 それにそもそも、この話を自ら話すつもりもなかったし、これまでの俺は、それを出来れば誰にも察知されたくないことだとさえ思っていた。

 


 何せこれは、俺の体裁に大きくかかわることだから。

 


 しかし、実際に看破されてしまったと言うのならば、いっそのこと話してしまってもいいのではないだろうか。

 今の俺は頭の上で、そのような選択を考慮している。

 


 けれど、それは誰にも知られたくないことではなかったのだろうか。

 俺は心の内側で自問を繰り返した。

 


 知られたくなかったはずのことを、今、誰かに話そうとしている。

 そこに何らかの矛盾が生じていることは、重々理解しているつもりだった。



 だが、他でもない白星になら、と俺は思ってしまっているのだ。

 


 きっと、白星には俺の気持ちが分かるのだと思う。

 もしかすれば、俺は最初からそんな予感がしていて、だからこそ白星と距離を詰めたかったのかもしれない。

 


 それは、勝手な共感精神がそうさせたのかもしれないし、病魔に侵され、ちょっとばかり心が弱っていたことが原因だったのかもしれない。

 或いはその両方が上手く作用した結果なのかもしれない。

 


 だが何はともあれ、俺は白星に打ち明けるという選択肢を選んだ。

 そしてその選択こそが、お互いの距離感に決定的な変化をもたらす結果に繋がったのだろう。

 


「……肩肘を張って生きているつもりは、なかったんだけどな」俺は独り言のように呟いた。

 


「まぁ、なんだ。端的に言えば、そういうことだったのかもしれない」

 


 深く息を吐き出す。

 心にはまだ僅かな躊躇いが過っていた。

 それでも俺は小さな恐れを吐き出すように、ゆっくりと言葉を続けた。

 


「……俺さ、大学では陽気な人間で通してるけど、ほんとは根っからの明るい人間じゃないんだ。本当の俺は……もっと卑屈で悲観的で、教室の中で独りぼっちになるような、そんな人間なんだ」

 


 自然と下がった視線の位置を元に戻す。

 白星はほんの少しだけその目を見開いていた。

 


「……地元に居た頃の俺は、率直に言えば、教室の隅に潜んで本を読むような奴だった。表立って煙たがれることはないけど、その空間で居ない者として扱われるような、そんな人間だ。あぁ、言っておくと、本を読んでいたのは、高尚な理由があったわけじゃないんだ。俺は彼らと違ってすべきことが無かったからな。遊びにしろ、部活にしろ、恋愛にしろ」

 


 忌むべき学生生活の数々が脳裏に巡り、自身の気分が急速にしぼんでいくのを肌で感じ取る。

 溢れ出る憂鬱を振り払うよう、俺はいつものように白星に向けて微笑んで見せた。

 それは自嘲的な笑みだったろう。

 


「もちろん、友達が一人もいなかった訳じゃない。少なくとも中学までは、幼少期の繋がりでそういう関係を築いている学友も居た。まぁ片手で数えられるぐらいだけどな」

 


 裏を返せばそれは、高校時代には友人の一人もいない日常を繰り返していたということだ。



 文化祭、体育祭、修学旅行と、様々な行事ごとがある度にクラスで表決が採られていたが、俺のような人間は票数にさえ数えられなかった。

 そしてそれは、教室内での暗黙の了解でもあった。

 居ない者として扱われるとは、要するにそういうことなのだ。

 


「あぁ、話が逸れたか。自分の番が回って来ると、せめて自分に興味を持ってもらえるように、機関銃みたいに面白味のない話を続けてしまう。これは悪癖だと自分でも自覚しているつもりだ。だから普段は気を付けているんだけどな」

 


 過去を振り返ったせいか、今の俺はかつての自分に引っ張られているようだった。


「話を戻そう」と俺は話の本筋に立ち戻る。

 


「この手の人間にありがちなように、俺は教室で騒がしくするクラスメイトをいつも疎ましく思っていた。別に彼らは何も悪くないのにな。だって、彼らと同じように選択と行動を繰り返せば、俺だってそう在れたはずだろう?だから寧ろ、責めに帰すべきは己の消極性にあったんだ。虐められることも嫌悪されることもなかった。そういう人たちと比べて、俺は生まれ変わる手段をより豊富に持っていたはずなのに」

 


 俺は問い掛けるようにして白星に視線を向ける。

 彼女は寡黙にして俺の独白を見守っていた。

 


「俺も、彼らのように声を大にして友人と笑い合って、部活動に切磋琢磨して、恋愛を謳歌することが出来たはずなんだ。俺は常日頃からそんなことを思ってたよ。要するに、俺は彼らを嫌うと同時に、果てしなく羨んでいたんだろうな。だからこそ、この大学に合格して地方から出ることが決まった時に、心に決めたんだ。人間関係が一から構築出来る新天地では、今度こそ、そういう人生を目指そう、って」

 


「実際、思った以上に事は上手く進んだ。大抵のことは、これまで散々眺めてきた彼らの手法を真似すればそれで良かったから。他にも、ネット上にだって参考文献は山ほどあったからな」



 俺はとんとん拍子に成り上がったこの二年近くを思い返す。

 多くの友人に囲まれ、異性との交遊も多々あり、サークルを通じてスポーツや行事ごとに打ち込む。

 


 それはまさに、俺が指をくわえて羨望した彼らそのものの生活であった。

 そして俺は、それに満足を覚えるはずであった。

 そう、はずだったのだ。

 


 俺は苦虫を嚙み潰したように顔を歪め、話を続けた。

 


「でもさ、実際に明るい人間に囲まれて、煌びやかな学生生活を送って…俺は気が付いたんだ。俺は隣の芝を青いと思って足を踏み入れたのに、それは太陽光で粉飾されていただけなんだ、って。隣の芝は同じく緑色をしていたよ。結局、騒がしく生きようと大人しく生きようと、それぞれに合った生き方を見つけるのが一番なんだろうな。どちらに優劣があるとか、そういう問題じゃないんだってことに、俺は随分と大回りしてやっと気が付いたんだ」

 


 それが、学生生活を十数年と繰り返した俺の結論だった。



「とんだお笑い種だろ?」俺は短く息を吐き出し、白星に語り掛ける。



 彼女はまだ話の腰を折ろうとせず、目線で俺の話の続きを促していた。

 


「その点で言えば、俺は当然の如く後者の生き方が肌に合っていた。十数年の蓄積とたかが二年程度、どちらが物を言うかは明白だろう?と言っても、俺は今の生活も気に入っているんだ。確かに少し疲れることはあるけれど、今はこういうのも悪くないと思っている。取り敢えず大学を卒業するまでは、これまで通り陽気にやっていこうと思うよ」

 


 そこで俺は、一呼吸挟むように口を閉ざした。

 白星は俺をゆっくりと見やり、その目をそっと伏せた。

 


 そんな彼女は、俺自身から流れ出す暗然とした感情を丁寧に呑み込んでいるようだった。

 やがて白星はその小さな喉仏を上下に動かし、俺に視線を合わせると、暫くぶりに言葉を発した。

 


「…正直に言うと、意外でした。人間見た目だけでは分からないということですね。残念ながら、私から雨夜さんに何か励ましの言葉を贈ることは出来ません。そういった経験をしたことがないですから」

 


 白星は一言一句、丁寧に言葉を紡いでいるようだった。

 彼女の言葉は続く。

 


「ですが、少なくとも私の目には、雨夜さんは明るく振舞う陽気な方そのものに見えました。それは一種の才能だと思います。普通は自分の性分には抗えません。その点で言うと、雨夜さんには元々両方の気質が備わっていたと言えるのではないでしょうか。どちらの自分も、恥じたり卑下する必要はありません。寧ろ、胸を張って誇るべきことだと思えますよ」

 


 白星はそこまで言うと、言葉を区切るように小さく息を吐き出した。



「俺は慰められているのか」



 彼女の言葉の意味を少し考えてから、俺は苦笑いを浮かべる。

 


「そうですね。私は、ちょっと熱が出たぐらいで悲観的になっている雨夜さんを慰めているのかもしれません」



 彼女はいつも通りの突き放すような言い方でそれを肯定した。

 だけど、その突き放し方は軽く背中を押すぐらいのもので、いつもよりも甘かった気がする。

 


「情けない話を聞いてくれて、そしてわざわざ慰めてくれてどうもありがとう。白星には、俺が肩肘を張って苦しんでいるように見えたのかもしれない。そして確かに、俺は自らの気質に反して多少の無理はしているのかもしれない。けれど、それは俺自身が進んでやっていることなんだ。実際、楽しんで今を生きているから心配しないでくれ」

 


 俺はそのように秘密の告白を締め括ろうとした。

 

「分かりました」と彼女は小さく頷く。

 

 そこで俺は思い直したように「ただ」と柔く微笑みながら言葉を繋いだ。

 


「ただ、人の本質はそう簡単に変わらないからな。こんな話をしてしまった以上、これからの俺は白星にそういう一面を見せるかもしれないし、偶には素の調子で接させてもらうかもしれない。実際はこんな奴だとは思わなかった、って距離を取らないでくれると、僕は嬉しいな」

 


 白星は俺の要望を是認することも否認することもなく「以前は僕と言っていたんですか?」とどうでもよい部分に着眼した。

 


「あぁ、そうだ。でも俺の方がそれっぽいだろ?」

 


「形から入るタイプなんですね」白星は微かな呆れ顔を浮かべた。

 


「何事も見掛けを取り繕うのは大切だからな」俺は涼しい顔で反駁しておいた。

 


 気が付くと、俺の中で膨張していた陰鬱はすっかり姿を消していた。

 それは、憂慮というものは内に抱えていても仕方がないということを証明しているかのようであった。

 どこか清々しい気分を味わったところで、不意に、重い倦怠感が全身に押し寄せてきた。

 


「少し、話し疲れたみたいだ。そろそろ眠ることにするよ」



 俺は再びベッドで横になり、布団に包まる。

 


「では、私は洗い物をしておきます」白星は食器を回収し、キッチンへ向かおうとした。

 


 そんな彼女に向けて「そこまでしなくてもいい」と言ったところで聞かないだろうから、

 

「うん、ありがとう。そこの財布に合鍵が入ってるから、出て行く時はそれを使って、玄関閉めておいてくれないか?」

 

 と、俺は机上の三つ折りの革財布を指差した。


 

 白星が頷いたのを確認してから「じゃあ、おやすみ」と俺は目を瞑る。



 少し間があってから「…おやすみなさい」と彼女が小さく呟いた声が聞こえた。

 

 

 



 俺の意識は瞬く間に遠くへ引き寄せられ、その後、白星がどのように俺のアパートから出て行ったのかは記憶に残っていない。

 翌朝、朝日で目を覚ました時には、いつも通りに一人だけの、でも何処か広く感じてしまったアパートが戻ってきていたから。

 


 その日、俺はある夢を見た。

 


 夢と言っても、舞台は俺の住むアパートだ。

 現と幻の見分けが付かないような、そんな酷く拙い夢だった。

 


 食器の後片付けを済ませたのだろう。

 財布から合鍵を抜き出した彼女は部屋から出て行こうとして、しかし思い留まったように、窓際のベッドへ近づいた。

 


 彼女はその場で屈み込み、眠りにつく俺を眺めている。

 微睡で見た彼女は、その顔に優しげな表情を浮かべていた。

 


「…早く元気になってくださいね」と、普段の彼女とは似ても似つかない、神へと祈りを捧げる修道士のように柔らかな声が耳元へと囁かれる。

 やがて彼女はベッドの傍を離れると、ゆっくりと玄関の方へ向かっていった。

 


 去り行くその背中を見て、俺は思わず彼女に手を伸ばそうとする。

 だが、横たわる身体は金縛りにあったように動かない。

 


 玄関ドアが静かに開き、彼女の影が外の世界へ消えていく。

 もうしばらくだけでもここに居てくれ、と俺は心の何処かで切に訴えかけている。

 


 けれど、彼女を呼び止められるだけの言葉を、俺は持っていなかった。

 


 ドアは丁寧に閉ざされ、次第に玄関口は暗闇に包まれていく。

 直後、カチャリと鍵を差し込む音が響き、微かな余韻を残して静謐に溶け込んだ。

 

 

 




次回の投稿日は、6月15日の木曜日となります。


それでは、また次話でお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ