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③/⑮

 ♦♦♦



 ──大学生は無敵だ。

 


 社会進出を果たした大人たちは、みな口を揃えてそのようなことを口走る。

 そしてその発言は、あながち間違ったものでもないと言えよう。

 確かに大学生は、平気で徹夜の出来る体力的な余裕や、四年間の自由という時間的な余裕を有しているのだから。

  


 しかし、外見上無敵に見える大学生であっても、彼らが大学生である以上、恐れることはある。

 


 ──留年だ。

 


 大学生の内に蔓延る温床に長く身を浸し、頭にカビを生やした阿呆は、留年を学生最後の自由時間におけるアディショナルタイムだ、などと豪語するが、対して大半の正常な学生は、留年を絶対に踏み入れてはならない禁忌であると捉えている。

 学費がかさ張るのだから、それも当然のことだろう。

 


 そんな留年という魔物は、主に進級と卒業の際に学生を脅かしにやって来る。

 前者においては、学年別の最低取得単位数を満たしているか否かが、後者においては、卒業所要単位を満たしているかが問題となるわけだ。

 


 大学での卒業所要単位は計百二十四単位以上でなければならないことが法令で定められており、それ以上の要件を課すかどうかは、それぞれの大学によって異なる。

 まぁどの大学に進学しようとも、取り敢えず学年別の最高取得単位数を満たす──つまりはフル単しておけば良いと言うことだ。

 


 加えてもう一つ、三年時点からジワジワとその影が忍び寄るらしい就職活動に備えるべく、一から三年までの大学生は、四年進級時までにはあらかた卒業単位数を獲得しておく必要がある。

 


 以上の点を鑑みると、四年生になるまでには出来るだけ単位を落としたくはないのだが…まぁ、やってしまったという訳だ、俺は。

 


 週末目前、金曜日のお昼過ぎ。

 本来は二年生が足を踏み入れるはずのない講義室へと、俺は一人向かっていた。

 この授業さえなければ、俺は今頃、サークル仲間と騒がしく時を過ごせていたのだろう。

 


 目的は実に単純だ。

 一年次に落とした必修科目の講義を受けるためである。

 


 必修科目とは、学部別に定められた、卒業するには必ず取得しなければならない単位の一つだ。

 故に、その講義を受けないという選択肢はなかった。

 


 しかし正直なことを言うと、俺は今から始まる授業を受けたくないと思っている。

 その理由は少し考えれば分かることだろう。

 そうだ、肩身が狭いのだ。

 


 一年生だらけの教室の中で、行き場のない二年生が独り、最前列に腰掛ける。

 そのせいで教授が目の前で講義を進めており、再履修している側としては非常に気まずい。

 飲めや歌えやの祭りの中心に、ぽつんと葬儀屋が居るような場違い感がそこにはあるのだ。

 


 教室内にはサークルでよく話す一年生が複数人いるが、彼ら彼女らもそれぞれに俺と面識のない友達がいるわけで、そうなると、俺がそこに混ざるのは迷惑だと勝手に思ってしまう。

 


 視野を広げれば、他にも再履修生がちらほら見えるが、こんな授業を落とすのは大概ヤバい奴らだ。

 俺にも仲良くなる人を選ぶ権利はあるだろう。

 結果、俺は一人で授業を受講するという形に落ち着くのだ。

 


 と、俺はここまで、如何にこの再履修が面倒なものであるかについて述べてきた訳だが、出席点がある以上は、やはり講義を受けないわけにはいかなかった。

 


 根っからの明るい人間は、この孤独な聴講を酷く苦痛に感じるのだろう。

 そして誰彼構わず周囲の人間と会話を図るのだろうが、なに、恐れることはない。

 訓練された俺は一人で授業を受けることに慣れている。

 


 身体に纏わりつく微かな躊躇いを振り払うようにして、俺は勢いよく大講義室のドアを開いた。

 扉の先では、決して馴染めはしない賑やかな教室内が俺を待ち望んでいる。

 


 再履修でなければ真っ先に向かう最後列及びその周辺は、既に多くの一年生で埋まっていた。

 他方で前列席の周辺は、学生が虫食いのように疎らに埋まっているのみだ。

 俺はその辺りを適当に見回してから、空いている奥の席の方へ向かうことにした。

 


 その最中、ふと、見知った顔が視界に映り込む。

 


 その人は前から五つ目の席に腰を下ろし、真っ黒なワンピースを纏っていた。

 そして昨日と同様、何もかもが面白くなさそうな表情でぼんやりと黒板を眺めているではないか。



 一方、その周囲を陣取る数人の一年生に目を向けてみよう。

 彼らは黒色以外の様々な色彩を身に纏い、それぞれお喋りに興じたり携帯電話を眺めたりと、思い思いに退屈を紛らわせている。

 その為か、そこに咲いた一本の黒い花は、色鮮やかな花畑に異質な彩りを与えているように見えた。

 

 

 予定は急遽変更された。

 俺は最奥の空席へと進むことなく、手前の通路で左に曲がり、真っ直ぐに彼女の隣へと向かう。

 


 けれども、彼女は隣に立つ人影さえも気に留めなかった。

 そんな彼女の意識をこちらへ引っ張るよう、俺は少し大きめの声で、彼女に挨拶の言葉を投げ掛けた。

 

 

 ♦♦♦

 

 

「やぁ、白星。奇遇だな」

 


 何処か聞き覚えのある声が、何か私にとって意味のある言葉を発しているような気がした。

 私はぼんやりと、たった今聞き取ったはずの文字を一つずつ頭の中に並べてみる。

 それとほとんど同時に、私の背筋は警策で肩を軽く叩かれたみたいにピンと張り詰めた。

 


 私の名前が、呼ばれている。

 この教室に居る人間は、誰一人として私のことを知らないはずなのに。

 


 私はその事実に疑問と驚きが入り混じったような感情を募らせながらも、声の響いた方へと顔を向け、途端、頭の中には「しまった」の四文字が浮かべられた。

 


 視線の先では、二度と会うことはないだろうと思っていたあの男が突っ立っていた。

 それも、如何にもわざとらしい驚き顔で私を眺めながら。

 


 ──あぁ、これはいよいよ、私の平穏な学生生活も終わってしまうのだろうな。

 


 僅かな思考の空隙を置いた後に、私は直感的にそのような結論を得た。

 恐れた通り、この男は同じ大学に通っている学生で、しかも、私と同じ授業を取っている学生だったのだ。

 私は今更ながら、軽率な行動を起こした昨日の自分を悔いた。

 


 昨日、この気さくさと礼儀知らずを履き違えたような男──名前は確か、雨夜陽太──に連れられて、私は大型商業施設を訪れた。

 そこでの詳細は省かせてもらうが、とにかく、私は目的であった眼鏡の弁償を済ませると、この男を放って家に帰ってしまったのだ。

 


 最低限の借りを返した以上、この男に付き合う理由はもうないと思った。

 だから私は、それまで積もりに積もっていた内に秘めたる気持ちを乗せて、散々な物言いで男を突き放したのだ。

 


 正直に言うと、胸の内に抱える悪感情をぶちまけるのは実に愉快だった。

 たぶん、拾い集めた小石で建物の窓ガラスを端から順番に割っていくと、こんな気分になるのだろうな、と私は思った。

 今頃一人で項垂れているのだろうかと思うと小気味よくて、その晩はぐっすりと眠れた。

 


 その時の私は、どうせこの男と会うのはこれっきりなのだとばかり思い込んでいた。

 自分の迂闊さを認めるのは癪だが、何の為にわざわざこの男の付き合いに従ったのか、その本質的な部分をすっかり忘れていた。



 結果、昨日の私はちゃぶ台を返すように最後の最後で本来の目的を放り投げ、あのように杜撰な対応をしてしまったのだ。

 


 となると、この男に何かしらの恨みを抱かれたとしても、それは仕方のないことなのだろう。

 それに、初対面の私にもあれ程ぐいぐいと詰め寄って来る人だ。

 きっと、学内で彼に味方する友人も多いに違いない。

 


「…どうして、あなたがここにいるんですか」

 


 今更だとは思ったが、私は割れ物に触れるような慎重さで訊ね掛けた。

 


「君のことが気に入って、俺は無意識にストーカーしてしまったのかもしれない」

 


 男は微笑みながら下らない軽口を叩いた。

 そこには意外にも、私に対する不快感や敵意といったものは見られなかった。

 


「では、警察を呼びましょうか」

 


 私はその感触をもう一度確かめるよう、試しに携帯電話を取り出す素振りを見せてみる。

 すると男は慌てたように「冗談だって」とへらへら笑った。

 


 どうやらこの男は、あまり昨日の出来事を気にしていないらしい。

 まるで何事もなかったかのような素振りで「あ、隣座ってもいいか?」などと言葉を続けている。

 


 私は一瞬、目の前の光景を疑うように大きく瞬きを繰り返し、しかし男へすぐに険しい視線を向け、それを阻止しようとした。

 けれど男は露骨に厭わしそうな私を気に掛けることもなく、堂々と私の隣に腰を下ろした。

 


 今のを無言の承諾だとでも思ったのだろうか。

 だとしたら相手の意図を汲み取る能力が著しく欠けていると言わざるを得ないだろう。

 


「そこに座らないでください」



「ん?もしかしてお友達が来たりするのか?」

 


 私が重ねて、猛禽類のような威圧を帯びた目で男を睨み付けると、男は首を傾げて言葉を返した。

 友達なんて居るはずもなかったが、この眩い光が差して見えるような男が隣に居るよりはマシだと思った。



「そうです。だから何処か他の場所に座ってください」と私が答えようとした、寸前のことだ。

 


「いや、それは有り得ないか」と男は軽く首を振り、おどけた調子で自らの発言を撤回した。

 


 流石に今の発言は看過出来ない。

 誰もがあなたみたいにキラキラと生きていられるわけではないのだ。

 私はそんな意味を込めて「失礼ですね」と冷たい声で反論した。

 


「だってさ、白星みたいなやつは、基本的に友達なんて居ないだろ?」

 


 その無神経な一言に、しかし私はそれに反駁することは出来なかった。

 思わず拳を机に打ち付けたくなるような憎らしい笑顔で、男は言葉を続ける。

 


「君は物凄く無愛想だからな。高校までなら同じ教室の仲間、みたいな関係が作りやすかっただろうけど、大学じゃそうはいかない」

 


 そのように男は一通りの推論を述べた。

 まぁ推論と言うよりは、当てつけのような意味合いが強い言葉だと思えるが。

 


「…なんですか?昨日の報復のつもりですか?」



「あぁ、ごめんごめん。そんなつもりはなかった。今のはただ『僕はこれだけ白星のことを理解しているよ』っていう意思表明みたいなもの」


 

 男は悪びれた様子もなく、意味の分からない言葉でこちらに応じてくる。

 


「それだと理解者になり得ても、決して仲良くはなれませんが」

 


 私は眉を顰めて男を見やった。

 しかし男は、やはりこちらの鋭い視線を意にも介していないようだった。

 


 昨日はこうして軽く睨んでやれば、この男もこちらに気を遣った対応をしてくれたものなのだが。

 一日で私の冷たさに対する耐性を獲得するあたり、この男は新手のゴキブリか何かなのだろう。

 


「白星は一年生なのか?」

 


 私が黙りこくっている間にも、男は次々と自分本位に話を進めていく。

 無視しようかとも思ったが、これ以上下手を打って男の機嫌を損ねることは避けたかった。

 私は仕方なく、その言葉に軽く頷いた。

 


「そうか、だったら色々俺を頼ってくれ。俺は二年だからさ」



「この授業、落としたんですか?」

 


 私はほんの少しだけ驚いた。

 その小さな衝撃は、幼さの残る顔つきをしたこの男が私よりも一つ年上だという事実に対してであり、また、男がこの講義で不可の評価を得たことに対してでもあった。

 


 昨日、この男があんまり軽薄に感じられた私は、少し小馬鹿にしてやろうと小難しい話を吹っ掛けたのだが、そこで私は逆に、この男にそれなりの学があることを思い知らされた。

 故に、私にとってはこの男が単位を落とすというのはあまり想像の出来ないことだったのだ。

 


「そうそう。あっ、でも心配しなくていいぜ。この授業はテスト代わりにレポートだからな。しっかりレジュメを復習すれば、難なく単位が貰える」



「と言うことは、あなたはそれすらも出来ない愚か者ということなのでしょうか」

 


 もしやこの授業は評価が厳しいのだろうか。

 そんな風に思慮した一瞬前の私は、幻であったかのように目の前から姿を消した。

 レポート試験であればそれほど難しいはずがあるまい。

 


 しかしそう考えると、この男はただの馬鹿なのではないだろうか。

 思わず動いた口を無理に閉ざした時にはもう遅い。

 私はつい衝動的に、胸の奥に隠しているはずの嫌悪感を乗せてまた男を小馬鹿にしてしまった。

 


「相変わらず毒舌だな、白星は。言っとくけど、レポート自体はしっかり仕上げられたんだぞ」

 


 男は反駁するように言葉を返す。

 けれどもやはり、その表情には不快感の一つも見当たらなかった。

 


 この人は相手の言動に目くじらを立てたりはしないのだろうか。

 一般的な観点から眺めれば、これまでの私の発言は人が許容出来る限度を軽く突破したものだと思われるのだが。

 


 もしかしたらこの人は、大した器の持ち主なのでは、いや、まさか罵倒されるのが趣味なのだろうか。

 それは釈然としないことであったが、素の調子で接しても男が機嫌を損ねないという情報は、私にとって有意なものであった。

 


「では、なぜ?」



「…提出先が別の授業だったんだ。俺はそれに気が付かずに単位を落とした。ほんと最悪だ」

 


 私が短く問い掛けると、男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、次いで「はぁ」と小さく嘆息した。

 


「自己管理がなってないんですね。そういうのはもっと、慎重になるところでしょう」

 


 情状酌量の余地はあった。

 私はその瞳から軽蔑の意味を薄めると、代わりにミジンコ程度の憐れみを視線に乗せておいた。

 それを見た男は、初めてなんだか辛そうな顔をした。

 


 男が図々しくも更なる話題転換を試みようとしたその瞬間、教室中にチャイムの音が鳴り響き、教壇に佇む教授がマイクを持った。



 前髪の禿げた教授は教科書とレジュメを用意するよう学生に指示する。


「それでは第三回講義を──」と形式的な挨拶から始まり、前回の内容を軽く復習すると、講義は本日のレジュメに移っていった。

 


 講義に集中する私は、教授や黒板から見聞きした情報を手元に書き留めていく。

 一方、隣に座る男は頬杖を突きながら講義に耳を傾けていた。

 


 大きな欠伸を何度も繰り返し、その目尻には微かに涙を滲ませている。

 偶に知らない情報や忘れていた知識が聞こえてきたのか、それを適当にレジュメの空白部分にメモしていた。

 


 時折、男は私の方へチラリと視線を向けてくる。

 その視線は盗み見るようなコソコソとしたものではなく、寧ろ、それに気が付かせるのが目的かと思うぐらいに堂々としたものであった。

 


 印象通り、この男は目立ちたがりというか、たぶん構ってちゃんなのだろう。

 当然、私はそれを無視しつつも、その身に迷惑そうな雰囲気を漂わせておいた。

 


 次第に男はこの授業が退屈に思えてきたのか、ゆっくりとした瞬きを繰り返すようになった。

 


 まぁ、気持ちは分からないでもない。

 この授業は教科書とレジュメを往復するばかりだ。

 映像授業などもなく、視覚的刺激に乏しい形で進められている。

 一年次にレポートを仕上げられるぐらいには真面目に授業を聞いていたのならば、教授の声は子守唄にしかならないのだろう。

 


 などと、ほんの少し、この男に同情してしまったのがいけなかったのかもしれない。

 その心の隙間に付け入るかのように、男は何かを閃いたようにこちらへ顔を向けた。

 


「…白星はさ、なんで経済学部に入ろうと思ったんだ?」

 


 授業に臨む周囲の大学生の邪魔にならない程度の音量で、男はこちらに訊ね掛けてくる。

 しかし、話し掛けられた当人である私にとっては迷惑極まりない行為であった。

 


「いま授業中なんですが」

 


 私は黒板の図解を板書しつつ、男と目を合わせることなくきっぱりと会話を断ろうとする。

 


「イメージ的には文学部哲学科、若しくは心理学部って感じだけど」

 


 勝手なイメージで私を語らないで欲しい。

 どうせこの男には、一つも私のことを理解出来ないだろうに。

 


 けれど、そんな衝動任せな言葉で男に言い返してはいけない。

 会話に応じるということは、この男のペースに乗せられてしまうということなのだから。

 


「あぁ、因みに俺は、経済学部が一番簡単に入れるところだったからなんだ」

 


 だが男は私の意思に関係なく、一人勝手にぺらぺらと話を続けた。

 もしかせずとも、私がこのまま知らぬ存ぜぬを決め込んだとしても、男は延々と話し掛けてくるつもりなのかもしれない。

 


 結局のところ、この男を無視しても意味はないということなのだろう。

 私は一度その目を伏せてから、向こうからすれば甚だ鬱陶しそうに見えるだろう表情を作って男と視線を合わせた。

 


「経済学では、人を金勘定だけで動く冷徹な人間だと考えられるから、ですかね」



「つまり?」



「言葉のままの意味です。経済学を学んでいる間は、誰もが人情もない寂しい存在だと仮定できますから」


 

 そこまで言い終えると、私は再び前方に視線を戻した。

 そこでようやく、私がいわゆる合理的経済人を好んでいることを男は理解したようだった。

 


「悪趣味だな」と男は率直な感想を述べる。

 


「そうでしょうね」と私はノートにペンを走らせながら答えた。

 


「…モデルを単純化するのは悪い事とは言わないけどさ、合理的経済人は現実にはそぐわないだろ?結局は限定合理性に落ち着くはずだ」

 


 それから、男は少々の経済学用語を交えながら話を展開した。

 そういった喋り口が出来るあたりを考慮すると、やはりこの男は馬鹿ではないのだろう。

 たぶん間抜けなのだ。

 


「それは分かっています。だから仮定と言ったんです。机上の話であっても、そう思えると気分が良いですから」


 

 私がそのように切り返すと、男は私の言葉を吟味するように深く黙り込んだ。

 


「なるほどなぁ。それじゃあ白星は、二年になったら行動経済学とか心理経済学に関係する授業を取るん──」


 

 しかしそれも一瞬のことで、男はまたも私と話を続けようとしてくる。

 そして私も同じく、嫌々ではあるが、男の暇つぶしに付き合う為にそちらに視線を向けていた。

 


 それは傍から見れば、授業そっちのけで雑談を交わすような態勢である。

 であるのならば、マイクによって拡声されたその柔らかくも低い音波が、この大教室の隅々にまで広がるのは自明の理であった。

 


「そこ、お喋りするなら講義室の外でしなさい」

 


 教授の視線の先には、私と男の姿が捉えられていた。

 ドキリと、心臓が大きく跳ね動く。

 気が付いた私達は、二の句を継ぐ間もなく慌てて前を向いた。

 


 ほんの一瞬、教室内に空気が凍り付いたような沈黙が張り詰めた。

 やがてそれが周囲の静寂に溶け込んでいくと、授業は何事もなかったかのように再開された。

 


 教授は再びレジュメの内容を読み上げ始める。

 教授は何か大切なことを説明していた気がするが、今の私はそれどころではなかった。

 


 周囲の痛々しい視線と、教授からの厳しい注意。

 それらが未だ身体中に纏わりついているような錯覚があり、顔周りが熱くて仕方がなかった。

 


「…あなたのせいで怒られたじゃないですか」私は男を睨み付け、細々とした声で非難を示す。



 対する男は意外にも「…マジでごめん」と素直に小声で誠意を示した。

 けれどその程度で気持ちは収まらず、私は男に厳しい視線をぶつけ続ける。

 すると男は思わず口を滑らしたように「でも白星だって話に乗っただろ…」と小言を零してくるのだ。

 


 ──あぁ、やっぱりこの手の人間は嫌いだ。

 


 普段は決して遭うことのないような酷い目にあった私は、改めてその意志を強く持った。

 

 

 ♦♦♦

 

 

 教授からの注意があった以降は、俺もあれ以上白星に話し掛けたりはすることはなく、のんびりと講義を聴講していた。

 


 白星も真面目に授業を聞いていた、と言うよりは、昨日から全くと言っていいほど表情が動かないせいで今も講義に真剣なのか退屈なのかが良く分からなかったが、とにかく、白星は丁寧にノートを用意し、黙々と板書をしていた。

 


 俺は今も横目に、白星が丸々とした字でノートを書く様子を眺めているが、彼女のノートの取り方は特徴的である。

 と言うのも、彼女が筆記具として使うのはシャープペンシルと黒ボールペン、この二種類だけなのだ。

 


 三色ペンなんかを使って、もっと色鮮やかにノートを飾るのかと思ったら、案外そんなこともないらしい。

 シンプルな方が良いということだろう。

 


 なんて要らぬことを考えていると、ようやく教室内にチャイムの音が鳴り響いた。

 教授はその十数秒後に「今日の講義はここまで」と長きに渡った講義の終了を宣言した。

 


 途端、あちこちに張り巡らされた糸が一挙にだらけたように、教室内の空気に緩みがもたらされ、一時間半ぶりに講義室が息を吹き返す。

 静やかに保たれていた空間は、瞬く間に人声に呑み込まれた。

 涸れたスポンジが水を擦ったみたいに大学生の活力が取り戻されるこの一瞬が、実は俺の好きな瞬間の一つだったりする。

 


 何気なく隣に視線をやると、手早く筆具を片付けた白星は既に移動を開始しようとしていた。

 俺はそれを呼び止めるように「なぁ、白星って経済学科?それとも経営学科?」と彼女に訊ねた。

 


「経済学科です」俺の言葉に一応足を止めた白星は、これまで通りに抑揚のない様子で答える。

 


「俺と同じか。だったらなおさら役に立てそうだな」

 


 俺がそのように言葉を続ければ「役に立つ?」と彼女は疑問そうに言葉を繰り返した。

 


「あぁ、折角だし連絡先を交換しよう」



 俺は笑顔でポケットから携帯電話を取り出した。

 


 その一瞬、小骨が喉につっかえたように、白星は目に見えて言葉に詰まっていた。

 昨日の今日で言下に断られたことを、こんなにも早く繰り返すとは思わなかったのだろう。

 或いは、俺の提案を拒否するための言葉を探そうとしていたかもしれない。

 


 でも白星が何か言葉を見つけ出す前に、俺は彼女に少し意地悪な言葉を投げ掛けていた。

 


「俺と白星は、同じ学部の先輩と後輩だろ?ならもう見知らぬ人でもないよな?」

 


 しっぺ返しに遭った白星は、あからさまに不愉快そうな面持ちを作った。

 俺はそれを見て、つい口元を緩めてしまう。

 


「きっと、友達の少ない白星は過去問を集めるのに苦労しているのでしょう。だから俺がそれを助けてあげるってわけだ。そう考えると、交換しても損はないだろ?」



 俺は演技っぽい口調を入り交えつつ、自分が価値ある存在であることを彼女に売り込んだ。

 


 固い扉の向こうで、ドアスコープを介してこちらを覗き込むように白星はジッと俺の携帯電話を見つめていた。

 やがて先日と同じようなため息が聞こえると「…仕方ないですね」と、彼女はバッグから自らの携帯電話を取り出した。

 


 どうにかセールストークは成功したらしい。

 白星の連絡先を手にした瞬間、俺は隠すことなく「やった!」と大袈裟に歓喜を表してみた。

 彼女は未確認生物でも見るかのような不審な目を向けていたが、そこに嫌そうな様子は見受けられなかった。

 


 これで用は済んだとばかりに彼女は俺から背を向けると、そそくさと教室の出口を目指そうとする。

 返事はないだろうな、と思いつつも「また来週な、白星」と俺は彼女に別れの挨拶を飛ばした。

 


 しかしここで、予想外の出来事が起こる。

 なんと、白星がその言葉に振り返ったのだ。

 


 だが、何か言葉を放つことはない。

 白星は軽く俺と目を合わせると、再び翻って出入り口の方へと向かった。

 彼女の黒い姿見が他の大学生に紛れて見えなくなるまで、俺はその背中を見送った。

 


 たぶん、あれは白星なりの別れの挨拶だったのだろう。

 

 

 



次回の投稿日は、6月8日の木曜日となります。


それでは、また次話でお会いしましょう!

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