②/⑮
♦♦♦
──すさまじく、面倒なことになってしまった。
翌日、名も知れぬ男に指定された駅前の噴水近くにて、私はひたすら昨日のことに思いを巡らせていた。
可能であれば今すぐ家に帰りたいし、そもそもこんな場所には来たくもなかったし、本当なら、今頃は家で学術書でも読みながら適当に時間を持て余しているはずだった。
だと言うのならば、一体、この有様は何なのか。
そうして疑問を投げかけてみたところで、このような不測の事態に陥ってしまった理由は、私自身、よくよく理解しているつもりだった。
その日の晩、私は普段通り、暗がりの中で膝を抱えていた。
照明灯どころか、窓辺に見えるはずの曖昧な月影さえもが厚いカーテンに遮られ、私の居る場所に光は届かない。
正真正銘、真っ暗闇に沈む私の目には、全ての物事の境界線が曖昧に見えていた。
周囲を覆い尽くす濃い闇が、徐々に身体の内側へと染み込んでいく。
身体の内側を満たし尽くすよう、逃げ場なく澱んだ暗いものは、つい沸々と音を立て、身体の外側へ零れ出しそうになる。
その度に私はまた、同じようなことを考えるのだ。
いつか私の身体も、この部屋の暗がりに混じって溶け込んでしまえばいいのに、
或いは私という存在そのものが、一切の音なく空気中に消えてしまえればいいのに、と。
そしてとうとう、私が胸いっぱいに抱えるものは、誤ってコップを倒してしまったように唐突且つ不可逆的に溢れ流れてしまった。
気が付くと、私は無意識のうちにマンションを飛び出し、深夜の街をゆっくりと徘徊し始めていた。
暗色に落ち込んだ世界を歩き続けていると、遠くの方で、いつもの信号機の姿が伺えた。
途端、条件反射的に足裏に力が籠る。
私は何かに急き立てられるように、勢い余ってその場から強く駆け出した。
冷たい夜風が両耳をうっすらと撫で抜ける。
横目に映る明かりの消えた住宅と、夜闇の中でぼんやりと輝く信号機にばかり、私の意識は向けられていた。
私はそのまま前も見ずに横断歩道を走り抜けようとして、ふと、何か硬いものが、頭の上に激突した。
突然の出来事を前に、思わず茫然と立ち尽くす。
その重い衝撃は見えざる手であるかのように、私の頭にあったはずの大切なものをすっと抜き取ってしまった。
やがて正気を取り戻した私は、続いて異変を確かめようと視線を上向け、再び硬直することになる。
そこには、うつ伏せに倒れ込んだ男性が居たから。
どうやら私は、この人にぶつかってしまったらしい。
しかしなぜ、こんな真夜中に人が。
いやそれより、先程通り過ぎて行った大型車に轢かれてはいないだろうか。
様々な疑問と、前方不注意であったばかりに目の前にいる男性を突き飛ばしてしまったという確かな事実が脳裏を駆け巡る。
私は久方振りに人前で動悸が激しくなり、まるで金縛りにあったみたいに、自分の身体が焦燥に似た感情に支配され、思い通りに動かなくなる感覚に陥った。
そのうちに男性は立ち上がり、私になんの問題も無いことを伝えようとしたところで、眼鏡を失くしてしまったと言った。
付近にそれらしいものがないかを探すと、タイヤに押しつぶされたであろう残骸が見つかった。
私は途端に責任を感じた。
ついさっきまで自分で自分を諦めていた人間が何を言うのかとも思ったが、その男性の身なりを見て、私は出来るだけ事を穏便に済ませたいと考えていたのだ。
暗闇のせいで余計に判別し辛かったが、恐らくその男性は、髪の色が派手だと思われた。
私の目には、その男性の髪が白っぽく、つまり明るく見えたのだ。
となると、それは私の嫌いな手合いの男性である。
何が嫌いかなど、わざわざ言葉にするまでもないことだろう。
彼らのような人間は、とにかく、あの鼻につく態度が気に食わない。
まるで、自分が人生を楽しもうとして生きているからこそ人生が楽しくなるんですよ、と言わんばかりの様子で人生を謳歌している姿が癪に障って仕方がないのだ。
好きこそものの上手なれ、とでも言いたいのだろうか。
私とは生きる世界が一層分ずれているだけに過ぎない彼らが、明るく騒がしく、世界を我が物顔で闊歩している様は非常に不愉快であった。
しかし、彼らから恨みを買うようなことはあってはならない。
この手の連中に睨まれた者がどうなるのかは、既にこの身をもって経験済みだった。
見たところ、この男性は顔は少し幼いが、大学生と思しき年齢と見えた。
こんな時間にこの近辺を出歩くとは、もしや同じ大学に通っているかもしれない。
であれば尚のこと危険人物だと言えよう。
その点を考慮すると、やはり、ここは下手に出てやるのがベストだと思えた。
学内で目が付けられるようなことがあっては堪ったものではないのだから。
そうして昨晩、私が慇懃な態度でその男性に接した結果、
「ちょっとだけ、俺と付き合ってくれませんか?」
という、最悪の提案に辿り着くことになったわけだ。
「…はぁ」
思わず深い嘆息が洩れ出る。
衝突事故が全て私の不徳の致すところであり、その為に眼鏡を弁償しなくてはならない状況だった以上、私にはそれを断ることは出来なかった。
これからの私は、どれほど悲惨な目に遭うことだろうか。
それを考えると、またも無意識のうちに口の端からため息が零れ落ちた。
昨晩から今この瞬間に至るまでのこと。
それはまるで、目を覚ますと隕石が降って来たような酷い災難であるように思える。
私は暫しの間、憂鬱な気分に沈みながら、灰色の空をぼんやりと眺めた。
それから十分ほど経った頃のことだ。
ふと、真正面からこちらに向かってくる男性の姿が見えたのは。
「ごめん、待った?」
身長は成人男性の平均値ぐらいだろう。
視線を少々上向けた先には、昨晩の明るい髪色をした男が、実に綺麗な笑顔を振りまきながら私に話し掛けていた。
「ええ、十五分ほど退屈してました」
私はにべ無く言葉を返す。
男は驚いたように身を硬直させ、思い直したように腕時計を確認した。
因みに言っておくと、この男は約束の時間には遅れていない。
であれば、どうして私はこんなに冷たい反応を示したのか。
それは単に、私がこういう人間を──とりわけこの男を──嫌っているから、いつもに増して冷淡に対応しているだけのことである。
「ごめんごめん~。あとで飲み物奢るからさ、それでチャラってことで──」
時刻がまだ午後三時前であることに気が付いた男は、しかし私の冷然とした様子に嫌な顔一つすることなかった。
顔の間で両手を合わせると、片目をつぶりながらへらへらと言葉を続けようとする。
不条理に鋭い言葉で刺されたというのに、この男にはプライドというものが無いのだろうか。
「結構です」
私は男と目も合わせず、またも無機質な声で応える。
そして今度こそ、男は私を見て言葉を失った。
その場には僅かな沈黙が生まれた。
一瞬の硬直の末、男は先程までの笑みを引き笑いに変えると、
「…なんか怒ってる?」「昨日と全然違う感じだけど…」
と、軽いジャブを打つように控えめに私の反応を誘った。
「私は元より、あなたみたいに軽薄で派手やかな人間が大嫌いですから」
そう答えてやりたいところは山々だが、そんなことを言っては、眼鏡の弁償という目的を果たせないどころか、この男から怒りを買う恐れがあるだろう。
私は胸の内に抱える不快感をなんとか抑え込み、己を取り繕う準備を整える。
一呼吸挟んで完璧な仮面を用意し終えると、私は今日初めて、男に視線を合わせた。
「…あれは、私の方が完全に悪かったので」
私は遠慮がちに男を見上げ、ほんの少しの申し訳のなさが滲んだ調子で言った。
「取り繕う」とは言ったものの、実を言うと、これらの気持ちや態度に嘘はない。
確かに私はこの男のような人間を生理的に嫌ってはいるが、それはさておき、眼鏡を壊してしまったこと自体に対しては、それなりに後ろめたさを覚えていた。
仮面を被ったのは専ら、この男に対する嫌悪感を悟らせないようにする為である。
私がこうして遜った態度を見せてやると、男は途端に安堵したような表情を見せた。
しかし、昨日のようにこの隙に付け入られては堪ったものではない。
私は続けて「ですが」の逆説を挟んだ。
「会話も交わしたことのないような女性を誘うなんて、どうせろくでもない男でしょうから」
これが、日々を煌びやかに生きる人間の中でも、私が殊更この男に嫌気が差した理由である。
全く、私にはこの手の人間の行動原理が分からない。
何が、俺と付き合ってくれませんか、だ。
頭の中の煩悩が全て性欲にでも向かっているのだろうか。
この男のふしだらに付き合う義理など私には一つもないというのに、どうしてこうも、見知らぬ人にそのようなことを平気で言えるのだろう。
あぁ、本当に気持ち悪い。胃から虫唾が走るほどに。
「若しくは、他人との接触がなさ過ぎて距離感の理解出来ていないタイプか…」
これ以上そのことについて考えていると、つい仮面が剥がれ落ちそうな予感がした。
私は自分を押し殺すように小さく呟く。
「案外、後者かもな」
「あなたみたいな人が後者なわけないでしょう」
「あなた、じゃなくて、雨夜陽太。それが俺の名前」
男は思い出したように自分の名前を名乗った。
この尻軽男の名前なんて、知る必要もなければ知りたくもないことである。
こんな最低な男は未来永劫代名詞呼びで充分だろう。
「そっちの名前は?」と、こちらの胸の内を知らぬこの男は、ごく当たり前のことを私に訊ねた。
しかし、その社交辞令にさえ応じたくない場合があることをこの男は知識として知っておくべきだろう。
まぁそもそも、最初にそげない対応をした時点で色々と察して欲しいものなのだが。
とは言え訊ねられた以上は、それに答えないわけにはいかない。
「あなたみたいに馴れ馴れしい人とは関わりたくありませんから」などと言っては流石に心象が悪過ぎる。
どれもこれもすべては、私の平穏な毎日を守る為のこと。
私はそのように自らを言い聞かせ、仕方なく、自らの名前を呟いた。
「…白星黒奈、です」
「へぇ、良い名前じゃん」
私が淡白に答えると、男は然してそうも思ってなさげな軽い調子で言った。
そう言えば、この男は敬語を何処に忘れてきたのだろうか。
昨晩は確か、もう少し紳士な喋り口調だったはずなのだが。
「下らないお世辞はいいですから、早く済ませましょう」
私は男の薄っぺらい褒め言葉を気にも止めず、急かすように次なる行動を促す。
しかし、「んー、どうしようか」と男は間延びした言葉で私に応じ、それを勿体ぶる態度を見せた。
昨晩、この男が「付き合い」と称したもの。
きっとそれは、改めて考えるまでもないことで、所謂いかがわしいことに違いないのだと思う。
さて、私は今からどのようにしてこの男の魔の手を掻い潜れば良いだろうか。
その瞬間、私はふと思った。
何も、相手からの行動を待つ必要はないのではないか、と。
何なら、先にこちらから一手打っておけば良いのではないだろうか、と。
その点に気が付いた途端、私はすぐにそれを行動に移した。
「一応、先に断っておきますが」私は目を細めて男を睨み、言葉を続ける。
「公序良俗に反するようなことをするつもりでしたら、警察呼びますので」
私の物々しい言葉を前に、ほんの一瞬だけ目を丸めた男は、それから小さな微笑みを浮かべた。
なんだか馬鹿にされたようで、私はそれが気に入らなかった。
「黒奈は──」と男は気安く私の名前を呼ぼうとする。
だがその言葉が続く前に、私は眉間に皺を寄せて男を強く睨み付けた。
この男に名前を呼ばれるなど、自分の大切なものが汚されるようで受け入れられなかった、
と言うよりは、少し気が立っていたからなのだろうけれど。
「──白星は俺のこと、なんだと思ってるのかなぁ…」
男はこちらの意図に気が付き、苦笑いで私を名字で呼ぶに留める。
私は本音を入り交えつつ、相変わらずの冷たい声で即応した。
「薄汚い狼、ですかね」
「ま、否定はしないな」
男がニヤリとした笑顔でこちらを眺めるものだから、私はもう一度強い視線で男を見やっておいた。
すると男は、また軽薄な様子でこう言うのだ。
「うそうそ。付き合って欲しいって言うのはさ、駅前のショッピングモールだから」
そうして男はすぐそこの大型商業施設を指差した。
よもや行き先がショッピングモールだとは思わず、毒気を抜かれた私はつい絶句してしまった。
「あそこ、ですか?」と私は問い直すようにあちらを指差す。
「うん、そこ」男は裏表のない表情で答えた。
なんだ、行き先は何でもない普通の場所だったんだ。
だったらこの人も、実はそんなに悪い人じゃないのかもしれない。
などと思うはずがないだろう。
どうせそうやって女性を安心させて、その後に酔い潰したりなんだったりの手段を使って、気を抜くと最終的にはお持ち帰りされてしまう、そういう定石に違いない。
行き先の健全さが私の警戒心を緩める理由にはならなかった。
「では、行きましょうか」
私は今一度、男に注意深く気を払うことを意識し、自分勝手な歩調で目的地へ足を向ける。
「なぁ、もうちょっとゆっくり行かないか?」
なんて声が後ろから聞こえてきたけれど、もちろん、私がそれに耳を貸すことはなかった。
♦♦♦
駅から徒歩十分圏内にある大型商業施設。
そこに辿り着く為には、計四つの横断歩道を渡る必要がある。
そしてこれら全てを一度も引っ掛かることなく通り抜けることは、雨予報の日に傘を持たないで無事に過ごすことぐらいに難しいものだ。
お察しの通り、俺達は既に、二度目の足止めを食らっていた。
歩いている間は、お互いがお互いを認識出来るぐらいの絶妙な間隔で人混みを通り過ぎているが、こうして赤信号に出くわしては、自然とその距離が縮まってしまう。
「雨夜さんは普段、何をされてる方なんですか?」
と、人懐っこい笑顔で白星が気さくに話題を振りかけてくれる、なんてことがあるはずもない。
白星は冷然と信号機を眺めており、一度目の赤信号では、何とも言えない沈黙が二人に纏わりついていた。
白星黒奈という女性を端的に説明するのならば、その表情も言葉遣いも、恐ろしいほどに素っ気ない、その一言に尽きる。
少なくとも昨晩の彼女は、ただの真面目で誠実な女性であったはずだ。
だから、白星が往々にして鉄壁の女性が張りめぐらせる予防線を盾にすることや、彼女自身のガードも固いであろうことは、俺も事前に予測していたことである。
その上で、偶にはこんな変化球も楽しむべきだろうと俺は思ったのだ。
しかし現実には、彼女は俺が想像していた以上の堅物だった。
まず、出会った時から表情が全く変化しない。
実は彼女の正体、高度なAIを搭載した二足歩行ロボットだったりするのだろうか。
万人受けするはずの俺の笑顔を意にも介さず、彼女は無愛想にもほどがある仏頂面で俺を眺めてくれる。
そのうえ、彼女の発する言葉は、そのどれもが異常に冷え切っているように思えた。
しかもただ素っ気ないだけじゃなくて、それらの言葉は注射器の針のように何処か刺々しくもあった。
鼻は低くないし、唇も適度に薄い。
僅かに垂れている目も決して小さくはない。
せっかく悪くない顔立ちをしているのに、これじゃあ全部台無しだ。
そんな酷い無表情を貫く白星の格好は、頭のてっぺんからつま先まで、見事なまでの黒一色に染め上げられていた。
その服装は言うなれば就活用のスーツのようであり、より的確に表現すれば、その全てがどうでも良さそうな雰囲気も相俟って、さながら喪服のようでもある。
せめて何かしら俺に興味を持ってくれれば、いつものように事は楽に進んだのだろう。
しかし残念ながら、どうにも彼女の抱く俺への心象は良くないらしい。
俺がそこらのハエであるかのように、彼女は全く俺の存在を意識に留めていない、或いは邪魔くさく思っているようだった。
だが、この幸先の悪い滑り出しを悲しんでいる暇はない。
今はとにかく行動あるのみだ。
二つ目の信号で足を止められた今、俺は自分から白星に話し掛けていくことに決めた。
「なぁ、まだお互いに名前しか知らないんだ。ちょっとアイスブレイクでもしようぜ」
「あなたとの関係性は凍り付いたままでも構いませんが」
予想はしていたことだが、やはり彼女は他人行儀で目も合わせてくれない。
「そう言わずにさ、ほら、ちょっとぐらい気になることとかないの?ずっとこの空気っていうのも辛いしさ?」
これはいよいよ手を出す相手を間違えただろうか。
そんな幾分かの不安が心中に芽生えたところで「一つ、ありますね」と意外にも彼女が雑談に応じた。
「おっ、なになに?」
このまたとない好機を逃すほど、これまでに踏んできた場数は少なくない。
俺は白星が話しやすいよう、努めて温かみのある相槌を打った。
左隣で横断歩道を渡る彼女は、一度こちらを白々しい横目で見やると、すぐ前方へ視線を戻した。
「…どうしてあの時、その場で連絡先を交換したりしなかったんですか?今の時代、口約束だけで済ませるなんてちょっとリスクが高いと思うんですが」
白星は冷徹な視線で再びこちらに目をやる。
「まぁ私としては、見知らぬ男性と連絡先を交換したくはありませんけど」
「なんでって、そりゃその方が面白いからな」
俺は無愛想な彼女の視線を追いながら言った。
「面白い?」
白星は怪訝そうな面持ちで言葉を繰り返す。
俺は満面の笑みを湛え、彼女に目を合わせながらこう答えた。
「あぁ。だってさ、お互いに素性も知らない男女が、口約束だけで落ち合ってデートするなんて、すっごいロマンチックだろ?」
俺の言葉を受けて、「デートのつもりはありませんが」と言葉を返す白星はあからさまに不服そうだった。
「俺がその気だから、それで良いんだ」と俺は彼女の非難の視線を歯牙にもかけなかった。
すると白星は理解し難いものを見る目で俺を眺め、「はぁ」と小さなため息をつく。
なんだかしてやったりな気分で、俺は少し楽しかった。
「じゃあ、今度はこっちから質問」
こういうのは順番こだろ?と俺はそれが常識であるかのように平然とした態度を見せてやる。
たぶん、白星みたいな冷たい人間に対してはこういうそれ相応のやり方が良いと思うのだ。
彼女は法廷の裁判長のようにこちらをジッと見つめ、やがて目配せでこちらの質問を許可した。
今日改めて白星の容姿をハッキリと目視し、深く興味をそそられた点について、俺は無配慮に訊ねた。
「その目、すごい綺麗だけど、何色のカラーコンタクト使ってるんだ?」
俺、というよりは誰が見ても二度見してしまうであろう、白星の持つある特徴。
率直に言うと、それは彼女の両目であった。
言葉にした通りだが、彼女の眼はカラーコンタクトを嵌めているとしか考えられない程に、一般的な色合いから掛け離れているのだ。
白星の目は瞳こそ黒色をしているが、その周囲の角膜は淡い灰色に染まっている。
加えて、黒目と瞳孔の境が曖昧に見えてしまう程に、目の色素自体が全体的に薄い。
彼女の発する言葉や態度が逐一閉鎖的に感じてしまうのは、この人間味の薄い眼光の影響もあるのだろう。
服装全体を黒で統一し、なお且つお洒落とは無縁そうな彼女が、どうしてカラーコンタクトにだけは手を出しているのか。
俺にはそれが、少しばかり気になる話だった。
俺はてっきり、唯一気を遣っている目のお洒落に触れてもらえた白星は、これから立て板に水のようにこの手の知識について話してくれるだろうとばかり思っていた。
ややもすれば俺達みたいな人間が陥る、自分に興味のある話題だけは堰を切ったように話してしまうあれを狙ったのだ。
しかし実際には、
「これは素です」と白星は予め用意しておいたみたいに形式的に答えた。
「へぇ、もしかしてハーフだったりする?」
「いえ、恐らく日本人だったはずです」
彼女は昔日を振り返るような間を置いてから、淡々とそう述べる。
「ふーん、珍しいな」
俺は適当な相槌で応じつつ、しかし心の中では小さく首を傾げた。
中々話が弾まない。
何か俺に間違えはあっただろうか。
自動ドアを潜りながら、やや思考を過らせる。
「それで、ショッピングモールに来て何するつもりなんですか?」
目的地に到着した傍から、彼女は最速で目的を達成しようと俺を急き立て始めた。
向こうにそのつもりがないことは分かっているが、これではデートの雰囲気も何もあったものではない。
俺は入り口近くの案内図を眺め「まーまーそんなに焦らない。取り敢えず三階に行こう」と彼女をのんびり誘導した。
照明の光を反射する白いタイルの上を歩き、エスカレーターの黒い手すりを掴み、茶色の固いカーペットの上をまた歩く。
その間、俺は何度か彼女に話題を振りかけようと試みたのだが、白星はこれ以上の質問は受け付けないとばかりに無言で圧力を放っていた。
こちらからの質問は不許可のようだ。
彼女は山奥にある巨石のように、俺が押そうと引こうとその姿勢をびくとも動かさない。
やがてそれに疲れ果てた俺は、残念ではあったが、その口を閉ざすことにした。
両脇に並ぶ数々の店舗を通り過ぎて、道草を食うこともなく真っ直ぐ奥まで向かう。
最奥にある靴屋の手前にやってきたところで、俺はその足を止めた。
「到着、ここが目的地だ」
向かって右手の店を指差す。
白星はふっと指の方向を見やる。
昼白色のLEDライトが眩しい、白を基調とした清廉なイメージを与える小売店がそこにあった。
「眼鏡屋、ですか?」
俺に目を合わせた彼女は、これまた不思議そうに言う。
それはまるで「あなたと一緒に居るとこんな場所には到底辿り着くはずがないでしょう?」とでも言いたげであった。
「ほら、昨日に眼鏡壊れちゃっただろ?だから一緒に選んで欲しいんだ」「今はコンタクト付けてるんだけどさ、やっぱり眼鏡の方が落ち着くから」
俺は彼女にそう言ってから店舗に足を踏み入れ、端から順に眼鏡を物色していく。
白星は何も言わなかったが、俺の後をついて退屈そうに店内を見て回った。
レンズの厚さや形、フレームの色合いなどなどを一通り見終えると、結局、俺は二つの眼鏡を手に取った。
「これとこれ、白星はどっちの色が良いと思う?」
右手に持った眼鏡は黒色のフレームで、左手に持った眼鏡は銀色のフレームだ。
どちらも縁が四角く、その厚さも標準的なものであった。
「…私にとっては、どちらも変わらないように見えますが」
白星はじっくりとその二つを眺めた割には、返されて一番困る答えを出してくれた。
「そうか?銀色と黒色ってだけで、結構変わると思うけどなぁ」
俺は眼鏡を顔に合わせながら、背後の鏡でそれぞれの具合を確かめる。
やっぱり、銀色の方が似合うか。
そう考えた俺が、黒色の方を元の場所に戻した、その時のことだ。
ぽつりと、白星が言葉を零した。
「一つ、色眼鏡の話をしましょうか」
「色眼鏡?」脈絡のないその一言に、俺は思わず彼女を見つめ、同じ言葉を繰り返す。
「ええ」と首肯した彼女は続けた。
「The people who are glasses of pink lens the world is a misunderstanding that it pink.It’s not yet aware that he is wearing glasses.」
「この文章の意味、解りますか?」
聞き手に配慮した流暢な発音が耳に心地良かった。
やや間を置いてから、俺は答えた。
「ピンク色のレンズの眼鏡をかけている人は、世界がピンク色だと勘違いをしている。自分が眼鏡をかけていることにまだ気づいていない…あぁ、これ、アルフレッド・アドラーの名言だっけ?」
脳内で簡単な英文を訳しているうちに、それがかの有名な心理学者の格言であることに気が付く。
付け加えるように訊ね返すと、白星は僅かにその目を見開いた。
「ご存じだったんですか、意外です」
「こう見えても知識は厚い方なんだ」
俺は自分の金髪を指差しながら不敵に微笑んだ。
「でも眼鏡を掛けるともっと知的に見える」
「では、アドラー心理学の認知論についてもご存じで?」
彼女は自慢げな俺を気にも止めず、つんとした顔で更に訊ねた。
「いや、残念ながら」
生まれてこの方心理学は専攻したことがない。俺は見栄を張ることはなかった。
「そうですか。実はこの言葉、アドラー心理学における認知論を説明するために作られたそうなんです」
白星は特に自慢げな様子もなく、さらりとそう述べる。
「へぇ。それで、その認知論がどうしたんだ?」と俺が話を進めると、彼女はよどみのない口調で言葉を続けた。
「この言葉は要するに、人はそれぞれ異なる認知で世界を見ていて、その認知の仕方によって世界の見え方が変容していることを、眼鏡を使って分かりやすく説明しているわけです」
「認知というフィルターがある以上、人は色眼鏡を掛けずにはいられない、と」
俺が別の表現で彼女の話を纏めると「そうですね」と白星は軽く頷いた。
「つまり、例えあなたが黒色を選んだとしても、見る人にとってそれは、白色にも灰色にもなり得るんです。他人に似合う方を聞いたって意味はありません。自分の認知で自分に似合うと思った方を買うべきだと、私は言いたいんです。事実、私にはそれが灰色に見えますし」
「なるほどな。アドバイスサンキュー。俺はやっぱり銀色にするよ」
これがアドラー心理学の認知論というやつの一端なのだろう。
白星の説明が良かったのか、それは俺が思っていた以上に面白そうな学問であった。
来期は心理学の授業でも専攻してみようか。
そうして会話を終えたあとで、ふと俺は気が付く。
そこには、ぼんやりとした水の膜が俺と白星を曖昧に包み込んでいたような、奇妙な一体感があったことに。
「…あ、因みにだけどさ」その正体を確かめるよう、俺は試しにもう一つ白星に訊ねた。
「じゃあ、人が色眼鏡を通さないで生きようと思ったら、一体どうしたらいいんだろうな?っていうか、色眼鏡を通さずに世界って認知出来るのか?」
「色眼鏡を掛けてない人なんて、基本的にはいませんよ」
彼女は少し悩んでから、キッパリとそう答えた。
しかしその直後、自らの発言に訂正を入れるよう、こうも言い足した。
「もし居たとしても…色眼鏡のない人は、人とは呼べないでしょうね。色のない世界で生きているなんて、生きながらにして死んでいるも同然でしょうから」
先ほどの妙な感覚は、既に空気のように形も分からぬまま俺の手元を離れていった。
その正体を掴むことは叶わなかったが「ありがとう、参考になった」と俺は受付に向かった。
♦♦♦
「あの」「いくらでしたか?」
受付で視力検査やらなんやらを済ませると、近くで待機していた白星はこちらに近づき、温かみのない表情でそのようなことを言った。
一瞬、俺は本気で彼女が何故そのようなことを聞くのが分からなかった。
が、遅れてその言葉の意味を理解する。
「いや、これは自分で買うよ」と俺は白星に答えた。
しかし、彼女はその言葉に納得がいかないようだった。
小さな黒いバッグから、これまた真っ黒な財布を取り出す。
「…そこは譲れません。眼鏡が壊れてしまったのは、私のせいで──」と白星が自責の念に駆られたような発言をしようとしたところで、
「それは俺も譲れないな」と俺は口角を吊り上げながらその言葉を遮った。彼女は疑問気に俺を見やった。
「俺が白星にお願いしたのは、弁償、じゃなくて、付き合ってほしい、ってことだからさ」
俺の方便じみた言い分を聞き取った白星は、右手に握った財布をゆっくりとバッグに仕舞ってくれた。
「眼鏡が出来るまでに、ちょっと時間があるみたいだしさ、ついでに服でも見に行こうぜ」
この手持ち時間を有効活用しようと、俺はここから三つ隣にあったはずの洋服店へ足を向ける。
その提案に対して白星は何か言いたげであったが、やがて大人しく後をついてきた。
白っぽい光の中に、電球色の温もりが満ちた店内。
そのメンズエリアをぐるりと回りながら、俺は彼女の方を見やった。
「なぁ、白星。良かったらさ、俺に似合う服教えてくれないか?」
その際の白星は、俺に向けてまるで鶏を見たかのような酷い呆れ顔を見せた。
それから、母親が聞き分けのない子供に言い聞かせるみたく、うんざりとした表情でこう言おうとした。
「さっきも言いましたが、私の見る世界にとって──」
「──人から見える世界っていうのも、俺は大事だと思うんだ」
それに重ねる形で、俺は彼女と真反対の答えを呈示する。
俺もこうなることを予想しなかったわけではないのだ。
寧ろ、彼女が物分かりの悪い人間を好いていないであろうことを理解した上で、わざとこちらの土俵に引き込んだと言ってもいいだろう。
想定外の反駁に直面した彼女は、得意げな様子をした俺の意図を推し量るよう、無言の視線で続きを欲した。
「The best color in the whole world is the one that looks good on you.」
意趣返しのつもりはないが、俺は先例に倣って英語でそう言った。
「白星は知ってる?この言葉」
「…あなたに似合う色が、全世界で一番の色だ…ココ・シャネルの言葉ですね」
そしてやはり、彼女はこちらの問い掛けに見事答えて見せた。
先ほど感じ取ったあの一体感、というよりは一方的な共感の正体に確信を抱きつつ、俺は彼女の解答に応じた。
「そうだ、よく知ってるな」白星は少しも得意げな様子を作らなかった。
「つまり、彼女の言葉を借りれば、他人から見た自己に似合うもの、っていうのも大切な考慮要素だと思えないか?」
「水と油ですね」白星は自説を支持するように俺の言い分を切り捨てる。
「さっきは白星の意見を尊重したんだ。今度は俺の意見を優先してくれよ」
俺は自信満々に都合の良い言葉で彼女に語り掛けた。
お互いの視線のせめぎ合う。
僅かな沈黙がその場に流れ、やがて白星は「…はぁ」と浅いため息を吐き出した。
「仕方ないですね」
ぶっきら棒に言った白星は、これまで見て回った衣類の中から適当にTシャツと羽織を乱暴に引っこ抜き、それを黙って俺に手渡した。
「これは…俺に対する嫌がらせか何か?」
その組み合わせを見た瞬間、俺は思わず苦笑いを浮かべ、そう訊ねずにはいられなかった。
何せ、彼女の選んだものは赤と黄色、服の組み合わせとしては最悪な選択であったのだから。
「いえ、私は大真面目です。サイズ感なんてピッタリだと思いますよ」
彼女は臆することなく堂々と言い切る。
俺は白星を疑いつつもその二つを試着し、鏡の向こうにいる俺を眺めた。
すると図らずも「…あー、確かに、シルエットは悪くないな…」という率直な感想が洩れてしまった。
その時俺はふと、組み上げようとしたパズルがピースを一つ余したまま完成してしまったような、ちぐはぐな違和感をそこに見つけ出した。
白星は冗談を言うような性格ではないだろうし、彼女の言葉の通り、服のサイズ感自体にはセンスが光っていた。
思えば、彼女の服装も黒一色が良くないだけだ。
よくよく見ると白星は、自分の身体のラインを引き立てる為に最適な服を選んでいるではないか。
では何故、こうにまでも色の組み合わせが悪いのだろうか?
となると、やはりこれは俺への嫌がらせではないだろうか?
うん、どう考えても俺への当てつけだろう。
俺はそのように結論付け、見た目に反して強気な彼女にまたも苦笑いを零しながら、素早く元の格好に着替え直した。
「よし、羽織は買うか」
俺は生真面目に試着室の前で待機していた白星に言う。
彼女は驚いたように「…買うんですか?」と訊ねた。
「うん、白星が大真面目に選んでくれたからな」
俺が爽やかな笑顔でそう言おうとも、白星の素っ気ない表情が崩れることは全くなかった。
「あっ、俺もなんか白星の服選ぼうか?結構オシャレには自信があるんだ」
「余計なお世話です」
「うーん…白星もさ、その中に白色取り入れたら、結構いい感じになるんだけどなぁ…」
「これでも気を遣っているつもりですから」
受け流されるような会話が続く中、早くお会計を済ませろと言わんばかりに白星はレジの方へと向かっていく。
そうして自分だけが洋服を一着購入したあと、俺は「なぁ」と白星に呼び掛けた。
「なんですか?」と彼女は肩を気怠そうに下げながら、適当な様子で合いの手を入れる。
俺は何気なく、彼女と過ごす中でぼんやりと思った疑問を言葉にした。
「白星は、色が好きなのか?」
訊ねられた白星は、その無表情な面持ちの中で灰色の目を大きく見開いた。
それの持つ意味は驚愕だったのかもしれないし、或いは困惑だったのかもしれない。
いずれにしても彼女に現れた変化の核心を理解することは出来ず、俺はただ白星の答えを待った。
「どうでしょうね」彼女はふと歩みを止め、顎に軽く手を当てる。
「実のところは私にも分かりませんが、たぶん、どちらかというと、私は色が嫌いなんだと思います」
もしかしたらその為に、彼女は黒色に拘っているのかもしれない。
白星の色嫌いに関心を惹かれ、その理由を訊ねるべく「へぇ、それはなんでまた」と俺は言葉を返そうとした。
けれどもその寸前で「そろそろ順番なんじゃないですか?」と彼女は再び自分のペースで眼鏡屋の方へと歩き始めた。
これ以上の質問が無意味であることはよく知っていた。
潔く会話を切り上げた俺は彼女の後を追って眼鏡屋に向かい、折よく順番の回って来た眼鏡の受け取りを済ませた。
「ありがとう。おかげで良い買い物が出来た」
「それは良かったです」白星は定型的な返事で応じる。
「折角だし、このまま晩御飯でも一緒にどう?」と俺は自然な流れでレストランのある階に向かおうとして、
「いえ、結構です。私はもう帰るので」と、彼女も負けじと当たり前のように出口へ足を向けた。
いくらなんでもその我の強さには、流石の俺も動揺を禁じ得なかった。
「え?」と思わず小さな声が洩れ出る。
白星はそれを気にも止めず、淡々とこのように続けた。
「私が『付き合い』という怪しげな提案に乗ったのは、眼鏡の弁償の為でしたから。もうここにいる必要もありませんし」
「そ、そっか。じゃあ、連絡先の交換ぐらい──」
笑顔が引き攣りそうになる所を堪えて、俺はポケットから携帯電話を取り出そうと右手をズボンの方へ動かす。
「言ったはずですよ。私は見知らぬ男性とは連絡先を交換するつもりはない、と」
しかし白星はそんな俺を躱すよう、淡白にそう言って俺の真横を素早く通り過ぎていく。
それから、背後の方で「それでは」と捨て台詞のように言い残し、彼女はつかつかとその場を去っていった。
浮かべた笑顔の強張る音が聞こえた。
世界には長い沈黙が訪れる。
次第に硬直は緩み始め、隙間の生まれた頭の中には、賑やかな人声と複合商業施設の軽やかなメロディーが流れ込むようになった。
──完全に、負けた。
それは、完膚なきまでの敗北であった。
俺は白星を大人しい人間だとばかり勘違いしていたが、その実は全くそんなことはなかったのだ。
確かに一見すると、白星は教室の隅で本を読んでいそうな人間ではあった。
しかしそれは単に内気な性格がそうさせているというよりは、その気難しい気質と他人への無関心性こそが、彼女を荒野を征く一匹狼たらしめていたのだ。
俺の想定していた白星は、単純に内気で温和な女の子であった。
そして、現実の白星のように異常とも言える水準で無愛想な人に対応するマニュアルは備えていなかった。
敗北の要因はそれ以外にないだろう。
最近は失敗続きだな、と俺は他人事のように昨今の自分を振り返る。
しかし、今日の失敗は然程ショックを受けるほどのことでもない。
彼女に費やしたこの時間は、次なる成功への一歩と、一種の社会勉強代ということにしておこう。
立ち尽くす身体を時の流れに戻し、俺はショッピングモール内を歩き始めた。
二日続けてろくでもない毎日だ。今日はさっさと家に帰って眠りにつこう。
そう頭の上では思いつつも、その足取りは自然と本屋の方へ向いていた。
今は身体が新鮮な知識を欲していた。
俺は久方ぶりに、他人と知的な会話を交わした気がする。
知識を他人と共有するという行為は、やはり身体の中枢に快い刺激をもたらしてくれるものだ。
現に俺は、白星との押し問答を楽しんでいたのだから。
恐らく彼女、白星は俺と同じく本を読むタイプなのだろう。
或いは本を読まずとも知識を蓄えているタイプだ。
ああいう人とは滅多に出会えないから、出来れば仲良くしたかったものである。
なんて今更ながらな思考を過らせつつ、俺は知識の宝庫で新たなインスピレーションを探し求めた。
次話は6月6日の火曜日に投稿します。