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⑮/⑮

 ♦♦♦

 

 

 年末までの四日間、雨夜さんは日毎に私の家に足を運んでくれた。

 


 音楽を聴き、本を読み、共にキッチンに立って食事を作る。

 それらを繰り返すだけのありきたりな日々であったが、私にとってはその四日間は、半生におけるどの地点よりも満ち足りた時間だった。

 

 

 私はその日々の中で、彼の好む料理を知り、彼のよくとる仕草を知り、彼のお気に入りの楽曲を知った。

 音楽の趣味は合わなかったが、雨夜さんがその曲を好きだと言うことは、それだけで私もその曲を好きになる理由になった。


 

「どうせなら、私の家に泊っていったらどうですか?」 



 一度、私はさり気なく、彼にそのような提案したことがある。

 


 雨夜さんの話によると、金沢さんはクリスマスの日に、ようやく奥平さんを捕まえたらしい。

 その話を聞いて、彼らを少しだけ羨ましく思った私は、そのように挑戦的なことを言ってみたのだ。

 


 その時、雨夜さんはほんの少し固まった後、やんわりとそれを断った。

 私はそんな彼を可笑しく思い、異性としては見られていないことを悲しく思い、また、一人の掛け替えのない友人として大切にされていることを嬉しく思った。

 


 彼と過ごす毎日は、アドベントカレンダーを捲るように私にささやかな喜びと楽しさをもたらしてくれた。

 そのようにして私は穏やかな四日間を過ごし、その年の暮れを迎えた。

 

 

 その日、私は雨夜さんの運転する車に乗せられて美術館を訪れた。

 彼がデートの行先を美術館に決めたのは、専ら私の色の不自由を考慮してのことだった。

 


 色が見えないことを打ち明けて以来、あれこれと私の為に動いてくれている雨夜さんには頭が上がらず、一方で、私は雨夜さんに余計な気を遣わせてしまっているのだという事実に頭を下げたくて、私は彼に感謝の言葉を述べた。

 


 その時、私は不意にこう思った。

 


 もしかすると、私は彼にとっての足枷になってしまっているのではないだろうか、と。

 

 

 私はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。

 確かに、私自身は彼に光を見出し、雨夜さんといることで初めて希死念慮に駆られないほどの真っ当な人間として生きていられるが、私の傍に居る雨夜さんはそれに退屈しているのではないだろうか。

 


 美術館に飾られる作品を眺めながら、私はそのような疑問に思いを巡らせた。

 しかし、そのことを口に出すことはなかった。

 今は雨夜さんと過ごすこの瞬間を噛み締めるべきだと思えた。

 それらの疑問を解消しようとするのは、後日でも構わないだろう。



 美術館を出た私達は適当に夕食を済ませた。

 次の予定を彼に尋ねたところ、彼はこのまま何処かに車を走らせて、初日の出を迎えに行くつもりのようだった。

 初詣ではなかったことを意外に思いつつも、私は明日の朝まで雨夜さんと一緒に居られることを密かに喜んだ。

 


 日の出と言えば、やはり山なのだろうか。

 私は彼の運転する車に揺られ、やがて深い眠りについてしまった。

 


 私はもう完全に、雨夜さんに気を許してしまっているのだろう。

 彼が凶暴な狼ではないことを、私はこれまでの日々の中で充分に理解していたから。

 


 アパートで仮眠を取った時も、雨夜さんは何もしてくれなかった。

 あの日の私は緊張しながら、暫くは寝たふりを続けていたというのに。

 分かっているつもりだけど、手を出してくれないのはやっぱり、女性としては寂しいものがある。

 


 次に目を覚ましたその時、私の耳には静かに打ち寄せる波音が聞こえた。

 目を擦ってフロントガラスの向こう側に目をやると、そこには白波と黒い海水、そして白みを帯びつつある灰色の空が伺えた。

 


 そのうち日が昇るであろうことを理解した私は、隣で目を閉ざす雨夜さんを起こそうとして、しかしその動きをピタリと止める。

 ほんの少しの間、無防備な彼の寝顔を独占してから、私は彼を優しく起こした。

 


 目覚めた雨夜さんと共に車を降り、真っ黒い砂浜の上を歩く。

 砂浜は白いものが多いらしいが、夜の影が落ちた砂浜は、私には黒色にしか見えないものだ。

 


 程なくして、私達は周囲に人の居ない場所に辿り着いた。

 言葉を交わすことなく、ぼんやりと夜明け前の海を眺める。

 潮の匂いが混じった陸風が、びゅうと身体を突き抜けていく。

 どこか遠い場所に来てしまったような、そんな充実感と開放感がそこにはあった。

 


 やがて、私と雨夜さんはぽつぽつと言葉を投げ掛け合い、散々迷った挙句、私は自分を抑え切れずにこのようなことを訊ねた。



「…どうして、雨夜さんはそんなに、私に構ってくれるんですか…?」



 こんなことを訊ねるだなんて、正直、私は自分でも面倒臭い女だと思う。

 


 それでも、私は雨夜さんの口から、他でもない私に向けられたものとしての「掛け替えのない」だとか「大切な」だとかいう言葉を繰り出させたくて、それらの言葉の語尾には「友人」と言う言葉が引っ付いていることには目を瞑って、彼にこんなことを聞いてしまうのだ。



「…どうしてだと思う?」



 雨夜さんは僅かに間を置いてから、そう訊ね返した。

 私は私なりに、その答えを見つけようと頭を働かせた。



 同情や憐れみといった感情から、雨夜さんが私に構ってくれているとは思えない。

 やはり私に親しみを持っているからなのだろうか。

 


 結局、それらしい答えは見つからなかった。

 私はその理由を彼の口から聞こうと「…何故なのでしょうか?」と訊ね返そうとした、瞬間だった。



 凪が訪れ、水平線の端から、太陽の眩い輝きが溢れ出した。

 私はふと、初日の出に意識を向けようとして、それ以上に私の意識をかっさらう彼の一声が聞こえた。




「白星が好きだからだ」




 その刹那、私はあらゆる情報が上手く捉えられなかった。

 視界の端で白く輝くはずの太陽は見えず、波の打ち寄せるさざめきは聞こえず、雨夜さんの声が言葉として届かなかった。

 


 代わりに、何か、私の中で革命的なことが起ころうとしている予感だけが全身を支配していた。

 私は打ち震えるようにして、ただその時を待ち望んだ。



「俺は、白星のことが愛おしくて堪らなくて、大切で仕方がないんだ。それが、白星に纏わりつく理由の全てだ」



 世界にはそれ以外の情報がなかった。

 私は今度こそ、一言一句逃さず彼の言葉を脳裏に行き渡らせ、その途端、何処かで世界の歯車が、カチリと噛み合う音を聞いた。

 



 瞳の奥深くに、微かな痛みが走った。




 思わず私は瞬きを挟み、次に瞼を開けたその時、世界は三色でなくなっていた。

 



 黒が、白が、灰色が、何処にも見当たらない。

 灰色であったはずの空は爽やかな色に、黒色であったはずの砂浜は温もりを感じる色に、白色であったはずの太陽の輝きは燃えるような色に塗り替えられている。

 海は透き通るような色をしていて、目の前にいる雨夜さんの顔は砂浜に似た、しかしそれよりも人間味のある色をしている。

 かと思ったら、たちまち頬があの不思議な朝日に似た色に染まった。

 


 雨夜さんは恥じらうようにそっぽを向いた。

 私は愕然と辺りを見回し、そして重い混乱に陥った。

 


 いつも傍にあった白黒世界が、今は再構築されたように全く別の世界へと生まれ変わっている。

 目に映る全ての物には既視感があるというのに、その全てが私にとって初めて見る異世界の物と化している。

 しかしそれには何処か懐かしさを覚える。

 だけども見たこともないような世界がそこにある。



 相反する思考が次々と脳内を交錯した。

 今この瞬間、目に映し出される豊かな色彩と色彩が絡まり合うように、頭の中は深く混沌としていた。

  


 しかし、ある時になって、私は本能的にそれを思い出す。

 


 錆びだらけの宝箱が、軋み音を立てて開かれていく。

 その奥底で眠っていた大切な記憶を、私は壊さないよう両手で包み、そっと取り出した。

 


 


 それは、幼き日の原風景だった。

 


 


 事故以前の、私が見ていた世界だ。

 もう二度と、思い起こすことはない。

 その朽ちたはずの記憶にのみ残る原風景が、いま、私の目の前に広がっている。




 ──あぁ、これが色だったんだ。夢にまで見た、色の見える世界なんだ。




 目尻には一筋の涙が伝っていた。

 けれどもそれを拭う間も惜しく、私はひたすらに彩りに溢れ返ったこの世界を焼き付けようと目を凝らした。

 


『世界が色づいて見える』



 その言葉の意味はまさしく私の為に用意されたのだろうという自己愛的な考えが過るほどに、色のある世界は私の心を強く揺さぶっていた。

 


 右を見ても左を見ても、目新しくも懐古的で多彩な景色が映し出されている。

 見える。見えるのだ。

 私がこれまで諦観的に世界を眺めつつも、決して諦め切れなかったその色の見える世界が、ようやく私に帰って来てくれたのだ。

 


 喜びとか驚きとか楽しさとか、ありとある明るい感情が一挙に身体の内側から押し寄せた。

 その純粋な情動は、うねるように全身から溢れ出ようとした。

 


 私は驚喜の衝動に任せて、そっぽを向いた雨夜さんにこのことを伝えようとして、



 時差的に、彼に伝えられた愛の言葉が身体中を駆け巡った。



 頭の中は再び深刻な困惑に陥った。

 私はゆっくりと、彼の言葉を頭の中で繰り返してみる。

 それらの言葉の中には、淡い期待でしかなかったはずの雨夜さんからの愛情が確かに込められている。



 雨夜さんが私を好き?私のことが愛おしい?異性として、私を大切に思ってくれている?



 そんなこと、有り得ないはずだ。



 私は自分の耳で聞き取った言葉を否定するように彼の言葉を上書きし、にも関わらず、雨夜さんが私に向けてくれている恋慕の言葉は急速に心の奥底へと染み渡っていった。

 


 私は自らの身体が火照っていくことが手に取るように分かった。

 積年の願いであったはずのモノクロ世界からの脱却というものがどうでもよくなってしまう程に、私の心の中は先程以上の喜びと驚き、そして幸福でいっぱいになった。

 


 私は一人の女性として、雨夜さんに愛されている。

 


 その事実があれば、もうこれ以上のものは何もいらないとさえ感じられた。

 私はただ、幸せだった。


 

 ♦♦♦


 

 日の出を眺め終えると、私達は駐車場へと引き返していった。

 その間、私と雨夜さんの間にはもどかしい甘さが流れているように思えた。

 


 そこでようやく、私は先ほどの彼の言葉が嘘でも聞き間違えでもないことを確信した。

 この上ない今という幸福が、これ以上にないほどに私を祝福していた。

 


 見える世界が色づき、決して叶うことはないと思っていた特別な愛情を、雨夜さんが私に注いでくれた。

 それらの出来事が私の気分を桁外れに高揚させ、その為か、私は自分でも驚くほどに積極的な人間へと変貌していた。

 

 

 まずは雨夜さんと初詣に向かった。

 そこで私は、食欲をそそる色をした屋台の食べ物を確と記憶に刻み込んだ。

 


 雨夜さんをこれからも好きでいていい。

 しかも、この気持ちを惜しむことなく彼に伝えていい。

 私はそれらの事実に改めて動揺し、彼の身体にくっつくという暴挙を働いたりもしてみた。

 


 境内の庭園では、草木は人を落ち着かせるような色合いをしており、黄色は人々の心を明るくするような色合いをしていることを知った。

 雨夜さんへの思慕の情、そしてモノトーンからの解放も相俟って、私は十数年ぶりに自然と笑顔を綻ばせていた。

 


 雨夜さんに笑顔を「可愛い」と褒められ、私はそれを嬉しくも気恥ずかしく思った。

 こういう感情はピンク色で表現すべきなのだろうな、という色への認識が当たり前のように頭を過った。

 

 

 次は雨夜さんとショッピングモールに向かった。

 気持ちが通じ合っていることを知った今、私は今まで以上に、雨夜さんと少しでも一緒に過ごしたいと思うようになっていた。

 その為に昼食という名目でショッピングモールを訪れ、彼との時間を有意義に過ごそうとしたのだ。

 


 雨夜さんにマフラーを選んであげた。

 実際に色を取り戻した目で彼を見たその時、もちろん、白黒の世界でも雨夜さんは充分に魅力的だったけれど、色があって初めて彼はその魅力を最大限に発揮するのだな、と思った。

 緑色のマフラーを身に着ける雨夜さんは、本当に素敵だと思えた。

 


 すると、雨夜さんの方も私にマフラーを選んでくれて、彼の好む私にはこのような色が似合うのかと、私はその発見に喜びを見出した。

 それからも、私は満足いくまで彼との時間を楽しみ、時は瞬く間に過ぎていった。

 


「流石にそろそろ帰ろうか」と雨夜さんは言う。



 私は名残惜しく思いながらも彼に同意を示し、車に戻る前にお手洗いに向かうことにした。

 


 青みを帯びた海の水とは違い、透明感のある白みを帯びた水道水で手を洗う。

 私は何気なく手洗い場の鏡を眺め、ふと、今の自分が随分と柔らかい表情を浮かべていることに気が付いた。


 


 それはまるで他人の顔であるかのように、以前の無愛想な自分とはかけ離れた表情をしている。

 試しに頬を引っ張れば、頬っぺたがそのまま餅のように伸びてしまいそうな気さえした。

 肌の色が認識できるようになった為か、その顔つきも以前と比べて明るさが見受けられた。

 


 しかし、これらの好転は全て、一つの物事に起因しているのだと思う。

 


 色が見えないのは、その心の持ちように問題があるからだ。

 以前から私はそのような持論を持って生きてきた。

 


 そして私は今日、十数年振りに色を認知するに至った。

 この二つの関係性から読み解くに、恐らく、私の中の大切な何かを変えてくれたのは、他でもない雨夜さんなのだろう。

 


 前向きに命を紡ごうとする気持ちの中で、誰かを愛し、誰かに愛されるという温かな気持ちを、この凝り固まった心に注いでやる。

 それが、この淀んだ心に再び豊かさを芽吹かせたのだと、私はそのように思うのだ。

 


 結局のところ、これが私が白黒の世界の呪縛から解放されるための条件だったのではないだろうか。

 事実は定かではないが、私にとってはそれが唯一の真実だ。

 私は鏡に映る自身に輝きを見出しながら、甘い妄想に浸り続ける。



 私は彼に付き纏われる日々の中で、次第に毎日を楽しく思うようになり、死の誘惑に惹かれることなく明日を生きたいと思うようになった。

 やがて私は心の底から雨夜さんを愛するようになり、彼からの愛情を欲するようになった。

 そして最後に、雨夜さんは確かに私を愛してくれた。

 


 私は雨夜さんを好きになり、彼もまた私を好いた。

 私達が想いを結び合うことで、二人の間にあった大きな障壁が打ち砕かれ、最後には相思相愛で何の悲しみもないハッピーエンドを迎える。

 


 そう、まさに私は物語の主人公なのだ。

 


 私が事故に遭ったことも色を失ってしまったことも、全ては私の為の筋書きであったかのようにとんとん拍子で物事は有頂天へと登り詰め、やがて迎えるエピローグで二人は幸せな日々を手にする──。




 そこまで妄想を膨らませたその時、世界の歯車が、何処かでずれ落ちる音が聞こえた気がした。

 



 それは、シンデレラの聞いた魔法の終わりを知らせる十二時の鐘のようであった。

 或いは、不吉という文字をそのまま音へと落とし込んだような、酷く恐ろしい音色であった。

 


 色彩の回復と共に消え失せたはずの冷徹な自分が、何処から耳元で囁く。



 これはあまりに出来過ぎた物語ではないだろうか?

 私のような人間が、物語の中心に居られるはずがないのに。

 


 そのおぞましい声を耳にした瞬間、私は私の中で、何か大切な熱が引いていく感覚に襲われた。

 


 途端、私の内側はいつもの冷ややかなものへと変化していた。

 そんな私は、今日の出来事を嘲笑うかのように冷笑している。

 


 今の私には、彼と出会ってからの自分が酷く拙いプロットで描かれた人形であるかのように思えてしまった。

 それは、操り人形であることを意識せぬうちは自分の世界の幸せに溺れていられるが、実際に外側から眺めてみると、それが気味が悪いほどの滑稽そのものであることに気が付いてしまったのだ。

 


 人の本質は変わらない。

 私は絵空事を夢見ていただけだ。

 心が、凍り付く音が聞こえる。



 私の夢が詰め込まれた空想は、呆気なく地に堕ち込んだ。

 と同時に、視界の端で、白と黒が這い寄って来るような予感がした。

 


 ぞわりと、冷たい手のひらで心臓を直に掴まれたような強烈な悪寒が背筋を走る。

 私は尋常ではない恐怖心に見舞われ、思わず背後を振り向いた。

 


 そこでは、相変わらず色に溢れた世界が、静かに私を見ていた。

 


 それでも、流れ出す冷や汗は止まらない。

 生じた恐慌は秒読みで膨れ上がっていく。



 そのうち見えない所から元の白と黒が色彩に富んだ世界を侵食し、私は気づかぬうちにモノトーンの世界へ逆戻りしてしまう、そんな不吉な錯覚は拭えなかった。

 


 私は、幸せを手にしたはずの自分を冷徹に俯瞰する私を、そして内側から溢れ出すモノトーンへ恐怖心をなんとか抑え込もうとした。

 鏡に映る自分に向かって、己を取り繕うための笑顔を浮かべる。

 しかしそこに見られた笑顔は、先程までの心からの笑みではなく、何処かぎこちない固さの混じった笑顔だった。

 


 それでも雨夜さんにだけは迷惑を掛けまいと、彼の前では気丈に振舞い続けた。

 どれだけ色彩を失う恐怖に苛まれようとも、冷淡な私が上手く事が運び過ぎている今日のことを冷ややかに捉えようとも、彼が私に向ける目が、私を愛おしく思うようなものであることだけは確かな救いだった。

 


 彼が車を走らせてくれている間、私は傾きつつある太陽を延々と眺めた。

 それにどんな意味があるのかは分からない。

 もしかしたら、私は太陽が燃えるように輝く様子を見納めようとしていたのかもしれない。

 


 マンションに辿り着き、雨夜さんとはその場で別れる。

 エントランスを通り抜け、自分の部屋のドアを開けたその時、私は遂に限界を迎えた。

 


 手を洗うことも放り投げて部屋の片隅へ逃げ込む。

 自分の部屋がこんなにも乱雑な色合いに仕上がっていたことなど意識する間もない。

 私はソファとクローゼットの僅かな隙間に入り込み、膝を抱えて窓の外を眺めた。

 


 私は私が恐ろしかった。

 数時間前までの私の心は、雨夜さんへの愛情で溢れ返っていたはずだった。

 なのに今や彼へと向けた愛情にさえも冷や水を浴びせるよう、冷然と己の感情を眺めている自分が何処かに居るのだ。



 そんな私は怯える私に向けて、それを刷り込むように何度も呟く。

 それはただ、熱に浮かされて抱いた一種の気の迷いなのだ、と。

 


 不幸中の幸い、私の視界から多色が失われる気配はなかった。

 けれどもその程度で心が落ち着くわけがない。

 いつこの目から、電灯が暗転するような唐突さで色が失われてしまうのかを考えると、私は気が気でなかった。

 


 微睡に身を任せてこの不安を忘れ去ろうかとも思ったが、目を閉じて意識を暗闇に傾けることは、却って怖れを悪化させると思われた。

 次に目を覚ましたその時、世界から色が失われ、雨夜さんのことをなんとも思えないような人間になってしまっていたら、もう私は私を保てないだろう。

 


 気が付くと、私はまた訳もなく窓に映る夕焼けを眺めていた。

 


 雨夜さんと電話を繋げて、この恐ろしさを包み隠さず伝えてしまいたいという欲求が駆け巡った。

 やがてその欲求は、「白星は大丈夫だ」と、雨夜さんに一言声をかけて欲しいという衝動に生まれ変わった。

 その一言さえあれば、私は深く安堵出来る気がした。

 


 しかし、二日間も共に過ごした彼に今から電話を掛けるのは迷惑かと思われた。

 結局、私はひたすら内なる恐怖に抗いながら、斜陽が街の裏側へと消えていく様子を茫然と見つめた。


 

 心の内側から始まった腐食は、しかしそれ以上大きくなることもなければ、小さくなることもなかった。

 太陽の姿が完全に見えなくなり、赤い余光さえもが空の彼方から失われたその時、私はふと、無慈悲な現実に思い至った。



 仮に、私が色を取り戻した要因の一つが『愛する人に愛された』というものなのだとしたら、果たして私はいつまで色を見ていられるのだろうか、と。

 


 それをより細かく突き詰めれば、雨夜さんはいつまで私を愛してくれるのだろうか?

 私はいつまで雨夜さんを射止め続けられるのだろうか?ということだった。

 


 私よりも美しく、性格が良くて、愛嬌のある女性は星の数ほどいるだろう。

 そしてそのような女性は、洩れなく雨夜さんに惹かれるはずだ。

 私はそんな彼女らを打ち破り、この先も雨夜さんの寵愛を勝ち取ることが出来るのだろうか。

 


 ──無理だ。



 その残酷な答えは、間髪入れずに頭の中で浮かび上げられた。

 


 きっといつの日か、雨夜さんは私に愛想を尽かすだろう。

 そしてそれは同時に、私の世界から色が消えてしまうという死刑宣告でもある。

 彼に愛されなくなったその時、私に掛けられた魔法は呆気なく解かれてしまうのだ。

 


 その瞬間、私は何故、夕陽から目が離せなかったのかを理解した。

 あの夕陽は、私にとっての彼そのものだったのだ。

 あの夕陽の輝きこそが、私に色を与える魔法の象徴だったのだ。

 


 日が没して宵闇を迎えようとしている今、そしてこれからの長い夜は、私にとっての色が失われるいつかを意味している。

 再び太陽が昇り、新たな朝を迎える時、私の目に映し出される世界はモノトーンに戻っているのだろう。

 私の無意識は、太陽が沈んで行く様にそのようなことを見出していたのだ。



 薄暗闇に蝕まれる部屋の中で、私は独り縮こまって身を震わせた。

 寒くはないはずなのに、私は無意識に雨夜さんの選んでくれたマフラーに顔を埋め、歯を鳴らしていた。

 


 いつかは分からないが、確実にその時はやって来る。

 雨夜さんが私の傍から居なくなるその時が。

 


 私はそれを止められない。

 彼を引き止められるほどの武器を、何一つとして持っていない。

 


 やがて視界にはいつもの、しかし普段よりはほんの少しだけ、物体の境界線がぼやけて見える夜の暗闇が訪れた。

 

 

 私には、人生の有頂天がここなのだという嫌な確信があった。

 


 これ以降は下降していくのみで、今この瞬間も色を失うまでの地獄へと落下し続けているのだという強い思い込みがあった。

 色が見えなくなり、雨夜さんからの愛情も受け取れなくなったのならば、私は何に価値を見出して生きていけば良いのだろうか?その時に私が生きている意味はあるのだろうか?


 

 太陽が沈み、夜の暗闇が私に纏わりつくにつれて、徐々に自分の中で浮かび上がる疑問の種類は暗鬱なものへと変化していった。

 その恐怖と不安は内側から膨張し、やがてそれはシャボン玉のように、パチンと破裂してしまった。



 


 ふと、なら死んでしまえばいいのだと思った。

 

 



 雨夜さんの居なくなるその時よりも、彼の愛情が確かに私へと向けられている今の方が、まだマシだと思えた。

 どうせ彼を引き止められないのならば、下り坂がどん底に辿り着いてしまう前に全てを終わらせてしまいたいと思った。



 少なくともこの瞬間に命を終えれば、私の中の雨夜さんは永遠に、私に愛情を向けたままでいてくれるから。

 半ば幸せに片脚突っ込んだことが、絶望をより巨大なものとして肥大化させていたのかもしれない。

 


 そこからの行動は早かった。

 私はふらふらと覚束ない足取りで立ち上がると、箪笥の裏側に隠していたロープを取り出した。

 健介さんは色々と私に制約を課したが、抜け道は幾らでもあった。

 


 以前覚えた手筈に倣って輪を作り、椅子に乗ってそれを充分に足の浮く位置に結び付ける。

 不思議と心は落ち着いている。

 死を前にしても心臓が跳ね動くことはない。

 実はもう死んでしまったのではないだろうかと、そんな勘違いを起こしてしまうほどだ。

 


 ロープの輪に両手を掛ける。

 思い残すことは何もない。

 ただでさえ降下しつつある人生の絶頂をこれ以上徒過するわけにはいかない。

 私を見る雨夜さんの目が愛情を帯びなくなる瞬間など見たくもない。そんなものには耐えられない。

 私を愛している彼こそが、私の中に残る最後の記憶でなければならない。

 


 これまで育ててくれた健介さんへの恩義も、愛する私の訃報を聞いた雨夜さんが悲しむだろうことも、死の誘惑を払い除ける材料にはなり得なかった。

 


 私は呼吸をするようにして輪っかの内側に首を通す。

 あとはこの手を放して、椅子から足を踏み外せば、雨夜さんはいつまでも私の雨夜さんで居続けてくれることだろう。

 


 瞳を閉ざし、大きな深呼吸を繰り返す。

 私は冷たい決意と共に、もう一度己の中でこう唱える。



 

 今晩、私は死ななければならない。




 ♦♦♦



 彼女が死にたがりであること。

 去年の冬に自殺を図っていたこと。

 そして、それ以来の習慣である毎晩の電話に、今日の彼女が応じなかったこと。

 


 これらのことから、白星はいま自殺を決意、若しくは既に決行しているだろうことを、健介さんは手短に語った。

 


 それは口調は育ての親とは思えないほど淡々としたものであった。

 彼はそうでもしないと己の焦慮を抑えられないようだった。

 


「私は今から黒奈の家に向かう。雨夜くんも、何処か黒奈が行きそうな場所に心当たりがあったら手を貸してくれ」



 健介さんは車を発進させながら早口に俺に伝え、即座に電話を切った。

 


 耳元に通話終了の余韻が残る中、半ば放心状態にあった俺は呆然と立ち尽くした。

 別れ際の白星の笑顔が儚く見えたのはその為だったのだという恐ろしい確信があった。

 


 しかし次の瞬間、意識をふっと取り戻し、と同時に俺は猛然と夜の街を駆け出す。

 


 目指す先はマンションだ。

 白星が夜間に足を運びそうな場所には心当たりがあったが、ここから一番近いのは彼女の自宅だった。


 

 五分と経たないうちに呼吸は乱れ、アスファルトを蹴る脚が痛んだ。

 今日ほど体力の衰えを後悔する日は来ないのだろう。

 俺は息絶え絶えになりながら疾走を続ける。

 Y字路を右に曲がり、小さな上り坂を登ってマンションに辿り着く。

 


 エントランスに駆け込む。

 子連れの親子が自動ドアを開けた。

 


 父親らしき人物に肩をぶつけながらその横を通り過ぎる。

 謝る暇はない。

 後方から俺を咎める声が聞こえる。

 


 一階、右側通路、手前から四つ目。

 息苦しさを押し殺して呼び鈴を鳴らす。

 大した間隔も開けずに何度もチャイムを鳴らす。

 立ち止まっているはずなのに呼吸の苦しさは悪化していく。

 彼女が玄関ドアを開けることはない。

 


「白星!!いるなら返事をしろ!!」



 俺は乱暴にドアノブを引く。

 扉の向こう側にいるかもしれない彼女に大声で呼び掛ける。

 当然鍵は掛かっている。

 ドアは開かない。

 彼女の返事もない。

 


 焦りに満ちた己の声が廊下中に反響し切ったその時、俺は俺の中で、何かが崩れ落ちる音を聞いた。


 

 そこには、やれることは全てやった後にある諦念があった。

 この固く鍵のかかった扉が、彼女の秘密を色々と知っていたにも関わらず、最後までその距離を詰め切れなかった自分の不甲斐なさをこれでもかと具現化しているようであった。

 


 どうしようもない自己嫌悪が周囲から這い寄ってくる。

 やがて身体中が重く暗いものに覆い尽くされる。

 思わず項垂れてその場にしゃがみ込もうとしたところで、ふと、俺はそのことを思い出した。

 


 それはまさしく天啓であった。

 


 崩れ落ちる身体を支え直し、急いでポケットから財布を取り出す。

 その中に白星に託された合鍵を見つける。

 かつての彼女との会話が脳裏に浮かび上がる。

 


「どうも、困ったことがあったらいつでも連絡してくれ」


「そんなことは早々に起きませんよ」


「そうだな。起きないに越したことはない」



 俺は焦燥に駆られるままにスペアキーを鍵穴に挿し込み、しかし、そこで一呼吸分の間を置くように、ピタリとその動きを止めた。



 まるで、この扉の先に何が待っていようとも、それを受け止めれられるだけの覚悟を決めるようにして。

 


 僅かな静寂を置いて、俺は一気に扉を開けた。

 廊下を照らす電灯の明かりが、暗闇に包まれたその部屋を薄く照らした。



 ♦♦♦

 

 

 夜明けはまだ遠い未来のことであるはずなのに、ふと、玄関の方から眩い光が差し込んだ。

 


 あぁ、そう言えば、雨夜さんには合鍵を渡していたんだった。

 私は己の詰めの甘さを失念していた。

 


 薄暗い部屋の中には、だらりと、一際濃い人影が落ち込んでいる。

 


 それに気が付いた彼は、悲鳴にもならない小さな声を洩らし、その瞳を大きく震わせた。

 


 ほんの少しの硬直の末に、彼は再び動きを取り戻す。

 慌てて靴を脱ぎ捨て、死に物狂いの様相で私の傍へと駆け寄ろうとする。

 


 しかしその勢いは、まもなく螺旋が解けるように失速していった。

 残された最後の数歩を、彼はよろめくように詰め寄った。



 

「……白星……なん、で…」


 


 ぼそりと、深く落ち込んだ声が響く。

 その目には、一筋の透き通った輝きが伝わっていた。

 私は彼の呼び掛けに答えない。

 


「……そんなに、僕と一緒に居るのが…詰まらなかった、のか…?」

 


 彼はゆっくりと椅子に足を乗せる。

 私は答えない。

 首を横に振ることも出来ない。

 


「泣かないでください。雨夜さんは何も悪くないんですから」



 などと、身勝手な私は彼に伝えようとして、けれども、その口はもう動かなかった。

 


 彼は震える手を伸ばし、宙に揺れる私をロープから解放する。

 今にも崩れそうな雪の結晶に触れるよう、慎重に、首の座らない私を横抱きした。

 


「……なぁ……白、星……」

 

 

 やがて彼は耐えかねたように、私の身体を衝動的に抱き締めた。

 


 これから長い時間を掛けて注ぐはずだったものを吐き出すよう、強く、激しく。

 私の中から失われようとしているものを感じ取るよう、そっと、繊細に。

 


 程なく、彼は堰を切ったように噎び泣き始めた。

 言葉にならない慟哭が、暗闇に溺れた部屋の隅々へ溶け込んでいく。

 


 雨夜さんがどれほど悲しもうとも、それは私には関係のないことだと思っていた。

 けれど、実際に彼が悲痛に暮れる姿を見ると、ぐっと胸の奥が苦しくなった気がした。

 


「……初めて…初めてちゃんと、好きに、なれて……ずっと、大切にしたいって、思えた、のに……白星……なんとか、言って、くれよ…」

 


 私の身に起きた不理解に語り掛けるよう、彼は悲しげな泣き声を洩らす。

 


 彼の温かな腕の中に身を委ねる私は、その言葉に、思わずこう訊ね返した。

 この土壇場でそんなことを囁かれては、私も聞き返さずにはいられなかった。

 


「…本当に、ずっと、なのでしょうか?」

 


 もちろん口は動かない。

 声も出ない。

 けれども、私は彼にそう問い掛けた。

 


「…嘘じゃ、ない。本当に、ずっとだ…」

 


 声なき声に気が付いたように、彼は喉を引き攣らせて言葉を返す。

 


 その単純な一言で、私の頬はうっかり、熱を帯びてしまった。

 失われるはずだった陽だまりは、今なお私に、大切な温もりを分け与えていた。

 


 彼は私の身体をひしと抱き締め、そこから抜け落ちようとするものを必死に引き留めている。

 嗚咽の混じりの声で、寄り縋るように私の名前を呼び続けている。

 滲む瞳から、絶え間なく大粒の涙を零している。

 


 それを見た私は、少し、困ってしまった。

 これ以上の日は訪れないと分かっているはずなのに、そこに些細な心残りを覚えてしまった。

 


 逡巡にもならないような躊躇いを経て、つい、浅いため息が洩れ出る。

 


 本当のことを言うと、なんとなく、そちらに傾く予感はしていた。

 それは、私にとって酷く情けないことであり、何処までも喜ばしいことでもあった。

 



 上手く力の入らない腕を震わせ、なんとか、私に抱き着く彼の背に手を伸ばす。

 やがてその背中に両腕を回した私は、ぎゅっと、私だけの温もりを求めた。

 



 優しく、温かく、深い安堵をもたらすような、

 けれども危うく彼から受け取った灯火を手放しそうになるぐらいにうっとりとした愛情が、すぐ傍にある。

 



 反転して、反転して、反転して。

 何度も何度も裏表の流転を繰り返した心は、結局、このような結論に落ち着いてしまった。

 

 


 ──もうしばらく、雨夜さんの傍に居てみよう。

 



 私はその身に血を巡らせて、いつもの無愛想な返事をした。

 

 



 


 まずは一カ月の間、お付き合いいただきありがとうございました!


 読者の皆様にとって、この小説、どうだったでしょうか?


 筆者の正直な気持ちを言いますと、たぶん、面白かったけど改善点だらけだった、みたいな感じだと思います。


 やっぱり一番の問題点としては、視点をコロコロと動かしたせいで物語のスピード感が失われてしまったことでしょうか。


 他にも何か、改善点がありましたら、是非是非教えて下さると筆者は嬉しいです!

 また、評価の方もよろしくお願いします!



 因みにですが…次作品の投稿日は、7月7日の金曜日です。

 

 次は挿絵アリ、テーマは「思い出」となります。


 良ければまた読んでください!

 



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