⑭/⑮
♦♦♦
何故、私が自殺を図るに至ったのか。
それを語るには、そもそも、私がいつ頃から希死念慮に憑りつかれるようになったのか、ということについて話さねばならないし、そうなると、まずは私の中学生時代の終わり頃へと話を遡る必要が出てくる。
しかし、辛抱強く聞いて欲しいと思う。
今から語る私の数年は、他人のそれと比べて、一冊の本も生み出せないほどに薄っぺらいものだから。
♦♦♦
私が希死念慮に纏わりつかれるようになったのは、ちょうど、高校に入学した頃、より正確に言えば、高校生活が始まる直前の春休み頃のことだった。
と言うのも、初めに前提として、その当時の私は既にいじめの対象から外れていた。
その理由は、本人達から聞いたわけでもないので定かではない。
が、他の虐められっ子と比べて明らかに違っていたことは、私は嫌がらせに対する反応が薄かった。
それは、色の見えない私が色の見える彼らに対して抱いた根本的な絶望に起因していたのだが、兎に角、表情に苦渋を浮かべない私を見ても、彼らの加虐心は満たされなかったということなのだろう。
それ以降、私はただのあぶれ者として、教室の隅で息を潜めるようになった。
朗らかな笑い声が飛び交う教室内で、しかし誰にも話し掛けられず、誰にも話し掛けず。
その為か、私の周辺環境は自然と、以前よりも勉学に集中しやすいものに整えられた。
それ以外に特にやることがなかったこともあり、高校受験にはそれなりに真剣に取り組むことになった。
結果、私はそこそこ頭の良い高校に入学した。
義務教育が終了し、且つ、受験で軽く燃え尽きた私は、ふと人生の指針を失った。
本来であれば中学生というのは、部活や友情、恋愛以外のことがぼんやりとしている年齢だ。
しかし私はそれらに目を向けることもなく、自らをひたすらに悲観的に捉えていた。
私は何故、この体たらくで今日まで生きてきたのか。
どうしてこれからを生きていこうとするのか。
何のために生きているのか。
ここは私が生きても良い世界なのだろうか。
本当は、何処にも居場所はないのではないだろうか。
私は彼らの欠陥品に過ぎないのではないだろうか。
この種の疑問は、日を追うごとに私の身体に濃く付き纏うようになった。
高校に入学したからと言って、私の内面が劇的に変化することなどあるはずもない。
教室では相変わらず隅の方で、クラスメイトが吐き出した空気を浅く吸っている。
この沈鬱を紛らわせてくれる誰かが、傍に居てくれることはなかった。
加えて、高校進学と同時に、マンションの一室を借りて一人暮らしを始めたことも影響していたのだろう。
その重苦しい黒色の靄は次第に死の形を作るようになり、度々私の手を引いてその一線を越えさせようとし始めた。
これらの過程が、私の半身が希死念慮に覆われるようになった切っ掛けのことだ。
つい片脚あちら側に踏み込んで、自分の身体を傷付けてしまうことがあった。
けれど、自らの身体から流れ出る血色を目にすると、それだけで死は恐ろしいものに思えた。
文字通り、身体中から血の気が引くようだった。
色のことについて考えていると、死の誘惑は時に、自殺願望として私を手招きすることもあった。
その度に私はなんとか、健介さんへの恩義を思い起こした。
彼が私の育ての親になってくれなければ、私はもっと破滅的な人生を送っていたのだろう、と。
私はそこに、搾りカスほどの生きる意味を見出していた。
ある日のことだった。
私の住むマンションを訪れた健介さんは、嬉しそうにファミリホームを始めることを私に話した。
結婚以前に私を引き取ってくれた健介さんは、その二年後に現在の妻と結婚した。
中学を卒業するにあたって一人暮らしを始めたのは、私がこのまま健介さんの家に居続けては、子供を持つという選択肢も選びづらいだろう、という差し出がましい考えがあってのことだった。
だからその日、私は健介さんの楽しげな様子を見て、
もう、私は彼にも必要とされていないのだろうな、
などと何気なく思ってしまった。
きっと、健介さんにとってはそんなはずがないだろうに。
健介さんが私の家を後にしてからも、その独善的な失意の勢いが衰えることはなかった。
私は衝動的にネット上でロープを購入した。
それは翌日に自宅に届き、私は流れるように、首を吊って全てを終わらせてしまおうと思った。
それが、私が初めて明確に自死を選択した時のことだ。
手首を切ることも考えたが、どうやら血というものは、私の中で何よりも恐ろしいものとして深く根を下ろしているようだった。
血を見るのは怖かったから、私は手段として首吊りを選んだ。
私は輪っかを作った縄を用意すると、最期に散歩へと出掛けた。
そして、自宅に戻って来たその時には、酷く悲しそうに私を見つめる健介さんがそこに居た。
そんなことには気も回らなかったけれど、その日は私の誕生日だった。
こっそりお祝いの準備をしようとしていたのだろう。
健介さんは合鍵を使って、私の家に忍び込んでいたのだ。
私は彼に優しく宥めるように叱られ、二度とこのようなことをしないようにと、色々な制約を課された。
決まった時間に電話をするのもその一つだ。
それ以来、私は決定的な行為に及ぶことはなかったが、それでも、死神はいつでも私の傍でゆっくりとその時を待っているようだった。
私が色の見えないことに絶望した時、生きている価値を見出せなくなった時、ふと、何もかもを投げ出したくなった時、彼はいつでも刃を突き立てられるよう、その鋭い鎌の手入れを怠らなかった。
ある晩、私はいつものように暗がりの中で膝を抱えていた。
色の見えない私にとって、明かりのない夜間は全ての物事の境界線が曖昧になる。
いつか私の身体も、この部屋の暗がりに混じって溶け込んでしまえばいいのに。
或いは私という存在そのものが、一切の音なく空気中に消えてしまえればいいのに。
私の内側で沸々と音を立てる憂鬱は、身体中を這いずり回り尽くした上で、穴という穴から零れ出しそうになっていた。
そしてとうとう、私はそれに耐えられなくなった。
私は無意識のうちにマンションを飛び出し、深夜の街をゆっくりと徘徊し始めた。
目的もなく歩き続けていると、遠くの方で、いつもの信号機の姿が伺えた。
自分の心に抱く希死念慮が飽和してしまった時、私はいつしか、この横断歩道を走り抜けるようになっていた。
この時間は滅多に車が通らない。
だから、もし飛び出した時に車が走っていれば、それは運悪く幸運な事故死が私を待っているのだ。
まぁどうせ、今日も死ぬことは出来ないのだろうけれど。
私はやさぐれた心でそんなことを思いながら、前も見ずに横断歩道を走り抜けようとして、
そう、雨夜さんと出会ったのだ。
その出来事こそが、私にとって生まれて初めての僥倖だったのかもしれない。
♦♦♦
その日を境に、私の孤独な毎日は雨夜さんによって掻き乱されることになった。
ある講義を受けようとすると、ニコニコと笑みを浮かべる彼が私の平和を脅かしにやって来て、一人で穏やかに昼食を摂ろうとすると、彼はいけしゃあしゃあと私の隣にやって来た。
連絡先を交換してしまったが為に、時には何気ないメッセージが送られてくることもあった。
これは大袈裟な表現ではなく、本当に、当時の私は雨夜さんにほとほとうんざりしていた。
色の見えない私からしてみれば、色の見える彼らの中でも特に、その人生を謳歌している人間は大嫌いだったのだ。
記憶は美化される。
今となっては私はそれを、人生で最も充実した日々だと思い込んでいるが、その頃の私にとってはそうでもなかった。
言ってしまえば、人と接する日々よりも孤独と憂鬱に沈む日々の方が、私の住むべき都だと思えたのだ。
しかし、この頃の私は知らぬ間に深夜を徘徊することがなくなっていた。
夜になると自然と身体が眠気に襲われ、心の内側であれこれ問答を繰り返すことなく眠りについてしまうようになった。
それは、一般的に見ると健康的な生活そのものであったが、私にとっては却って不健康な生活であるように思えた。
色の見えない私は、その瞳に暗澹を映し出して生きなければならない。
そんな悲惨な価値観が奥深くに染み付いていたのだ。
だから私は、いつの間にか希死念慮に駆られなくなったこの日々を、全てあの男を起因とする気疲れのせいにした。
一刻も早く、彼が私の傍からいなくなればいい。
そう思う一方で、家族と呼べる間柄以外の他人と日々を過ごすことは、生まれて初めてのことだった。
ならば、私の心の片隅が何を思っていたのか。
それは言うに及ばないことであろう。
♦♦♦
そうして自分でも気が付かぬうちに、徐々に私の深い部分には変化が生じていた。
それを実際に意識させられてしまったのが、文化祭前後の出来事だ。
私の存在が、彼に好影響を与えている。
雨夜さんの友人二人からそのような趣旨の言葉を受け取った際に、私は不思議と、胸が温かくなったのを覚えている。
その不可思議を解明しようと、幼時から自分と向き合い続けている私は流れ作業のようにその感情に名前を付けようとして、けれどもその途中で、私は無理やりそれに蓋をしてしまった。
それを真っ直ぐに認めてしまうということは、これまでに培ってきた自分という存在が丸ごとひっくり返るようで恐ろしかった。
それを否定するでもなく視界に収めないよう心掛けることは、一種の自己防衛のようなものであった。
だが、物事とは得てして連続的に起こりがちなものである。
目に見えた転機は、体調を崩した雨夜さんの様子を確かめに行った、その日だった。
彼が住んでいるらしい部屋番号のチャイムをおずおずと押すと、程なく向こうから出てきたのは、死にそうな顔をした彼だった。
顔色の変化、というものを私はあまり把握出来ないが、白と黒と灰色で出来た彼の顔には、生気というものが欠けているように思われた。
彼が無理してドアを開けたのだろうかと思うと、途端に申し訳なさを覚えたし、辛そうな彼の表情を見ていると、心が勝手に彼を心配していた。
私は知らぬうちに、体調は問題ないか、などの問答を済ませ、彼が問題なくそれに答えたことに安心し、ほとんど無意識に彼の部屋に押し入った。
そしてあろうことか彼の名前を呼び、簡単な軽食まで作ってしまった。
お粥を作ったことに感謝されると胸が疼くような気恥ずかしさを覚え、誰にも話したことがないであろう悩みの種を私だけに打ち明けてくれたその時には、胸の奥に喜びがじんわり広がった。
話し疲れた彼が眠ってしまった後、私は自然と、眠りに落ちる彼の様子を確かめてしまっていた。
それらの行動と感情は、私は自らきつく蓋をしていたものを、暗に認めてしまったのだということを知らせていた。
私はこの人に、親しみを抱いてしまった。
いや、彼に親しみを抱いていることに気が付いてしまったのだ。
雨夜さんのことが嫌いじゃなかったのかと言われると、確かに私は彼を嫌っていた。
けれどもそれは、あくまでもレッテル貼りに近しいものであった。
彼と接すれば接するほどに、実際の彼は土足で部屋に踏み込む素振りを見せては丁寧に靴を脱ぐような、絶妙な人懐っこさで私の心に手を伸ばしていることを理解してしまい、その結果、私はいつの間にか情に絆されたみたいに彼を受け入れてしまっていた。
そして極めつけは、あの場で彼が吐き出した物憂げな一面だ。
それがほんの少しばかり、私の幼年期や捻じ曲がった部分に重なって見えたこと。
そして、このような話を聞かされた私は、大なり小なり彼にとって信の置ける存在であると認識されていること。
これらの要素が複雑に絡み合い、私はもうこの人を、ただの他人だと見れなくなってしまっていた。
誰かにこのような感情を抱いたのは初めてのことで、それは、色のない世界と色に溢れる世界に決定的な線引きをし続けてきた私の崩壊を意味していた。
何度でも繰り返そう。
この時点で、私は彼に親しみを抱いてしまったのだ。
それに気が付くと、後は転げ落ちていくだけだった。
私は雨夜さんの体調が一刻も早く回復するよう祈るようになり、雨夜さんが授業をすっぽかした為に、一週間ほど彼に会えなくなったことを不満に思った。
雨夜さんと過ごす週に三日間を待ち望むようになり、実際に授業や食堂で雨夜さんと過ごすことには、素直に嬉しさを感じた。
雨夜さんを家に招いたこともあったし、そこで少し彼を試すようなことを言ってみたりもした。
色が見えなければ面白くない、色が見えなければ怒りは覚えない、色が、色が、と幼少の頃から呪いのように唱え続けていた私だったが、一度受け入れると、それは案外悪くないものだと思えた。
色が見えなくても、雨夜さんと一緒にいることは楽しかった。
そしてこれが、単なる親しみの念ではないことに気が付くのも、また時間の問題だった。
初めに疑念が生じたのは、雨夜さんを家に招き、偶然様子を見に来た健介さんと鉢合わせした時のことだ。
雨夜さんは私との関係を説明する際に「友人」という言葉を使ったが、それは妙に私の心を燻らせた。
他にも、アルバイトのシフトを提出する際に、無意識にクリスマスや年末年始を空けてしまっていたこともそうだろう。
もしかしたら雨夜さんが、などということを、私は密やかに願っていたのだ。
初めからそれに気が付けなかったのは、きっと、これまでの私は他人と一切の関係性を築いてこなかったが為に、その違いをはっきりと認識していなかったからだろう。
しかし、私はこの感情を深掘りしようとは思わなかった。
私はいま生まれて初めて、色の云々を気にせずに他人との関わり合いを楽しんでいるのだ。
それ以上を望むことは酷く意地汚いことだと思えた。
それでも、この胸が甘く締め付けられるような感覚は消えはしなかったが。
だからこそ、何気ない素振りで雨夜さんがクリスマスデートに誘ってくれたその時、私は胸の奥底で何物にも代えがたい花火が弾ける音を耳にし、と同時に、心の中で混じり合う二つの感情を切り離さなければならぬことを強く意識した。
雨夜さんを見る私の目は、親しみだけを映していなければならない。
親密を隠れ蓑にしたその感情を跡形もなく消しておかなければ、私はいつか、取り返しのつかない過ちを犯すことになるだろうから。
そうと決まれば、まず私は些細な憂慮を摘み取ることを考えた。
と言うのは、彼が女癖の悪いという点である。
他でもない彼の友人がそう言っているのだ。
気を付けることに越したことはないだろう。
今の雨夜さんは私に優しくしてくれているが、いつその化けの皮が剥がれ落ちるかは分からない。
そしてその時、今の私は抗うことなく彼を受け入れてしまうだろうから。
とは言え、雨夜さんの二面性を知っている私からすると、彼は見境なく異性を食い荒らすような人ではないと思われた。
となると、取るべき手段は一つ、私は既に誰かの物であることを彼に知らしめてやれば良いのだ。
逆説的に見ると、それすなわち私が雨夜さんの対象から外れてしまうということを仄めかしていたが、本質的にこの行動は、私は内なる気持ちを押し潰す為のものである。
そういう意味では、これは私自身へのけじめとも捉えられるだろう。
だがここで問題となるのは、雨夜さん以外にまともな交友関係のない私では、そのような演出が出来ないことだった。
と、そこまで考えて、私は「演出」という言葉に着想を得た。
何も周囲の手を借りる必要はない。
例えば、恋人代行サービスのようなものを利用して、その一端を雨夜さんに見せつければ良いのではないだろうか。
私はすぐにその手のサイトを確認し、そして瞬く間に落胆した。
このような業界にとって、クリスマスは格好の稼ぎ時なのだろう。
どのサイトを確認しても、その日は既に予約で埋まり切っていた。
そこで私は途方に暮れかけたが、であれば、援助交際のような形で探りを入れるのも一つの手だと思った。
日の出ているうちに会う分には、さほど心配もないだろうとも思ったのだ。
そうしてSNSを利用し、虱潰しに良さげな人がいないかを探していると、ちょうど三カ月ほど前にアカウントを開設したばかりの、個人で恋人代行サービス染みたことを行っている人を発見した。
誰の目にも付かないようなアカウントで、大した活動もしていないように見られたが、それは寧ろ簡単に約束に漕ぎつくチャンスなのではないかと思った。
連絡を取ってみるとその日のうちに返信があり、あっという間に予定が決まった。
どうせなら、普段とは違った装いをして行こうと思った。
思い切って白いセーターを購入した。
黒と白は良く見える私がいつも黒ばかり着ていたのは、単にどちらが自分に似合うかと言われると、暗い色の方がそれらしいと思われたからだ。
雨夜さんも黒に白を混ぜた方が良いと言っていたし、この組み合わせに間違いはないだろう。
いつもの黒一色ではない私を見て、雨夜さんは私にどのような印象を抱いてくれるだろうか。
ほんの少し、ほんの少しだけで良いから、「似合ってるな」と笑顔で褒めて欲しい。
それだけでも、私は充分に満足出来るから。
結局、当日まで彼のことは頭から離れてくれなかった。
そのようにして、私はいつになく身なりに気を遣い、クリスマスの日を迎えた。
わたあめさんと合流するべく電話を繋ぎ、後ろに居ると言われて振り返ると、そこには目を見開いた雨夜さんが突っ立っていた。
初め、私は何が起こっているのかを把握することが出来なかった。
だが次の瞬間、私の脳裏には喫茶店で落ち合う雨夜さんと健介さんの姿が再生された。
それに何の意味があるのか、そこに焦点を落とそうとしたところで、私は直感的に冷たい事実に辿り着いた。
たぶん、雨夜さんが今まで私に仲良くしてくれていたのは、健介さんの依頼があってのことなんだろうな、と。
冷静にその可能性を考えれば、腑に落ちない点が幾つもあることに気が付けただろう。
しかし、これまでの人生を思い込みと独り善がりで生きてきた私は、事実をそのように固定してしまった。
雨夜さんは色々な女性から言い寄られるぐらいに、まっすぐで素敵な人だ。
だから、無愛想で女性としての魅力なんてあるはずがない私には、チャンスなんてないことぐらい、分かっている、つもりだった。
その事実を前に、想像以上に胸の奥はきつく締まって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、私はどんな顔をすれば良いのかが分からなくなってしまったけれど、その可能性が潰えたこと自体は、決して受け止め切れないほどのことではなかった。
だけど、そこにあったはずの親密が金銭で買われたものだということは、私の心に深い陰りをもたらした。
私の中で何かが決壊してしまったように、喉の奥が震えて、まつ毛の下から何かが零れ落ちる予感がした。
私はそれを必死に堪えながら、雨夜さんに友情代わりのお金を渡そうとして、結局、涙が頬を伝ってしまった。
悲しいとか虚しいとか苦しいとか辛いとか、雨夜さんとの日々を心から楽しんでしまっていた私には凡そ受け止め切れないであろう感情が溢れ出す前に、私は彼の元から逃げ出した。
行き先はなかった。
私は衝動に任せて目元を抑えながら街中を走り続け、やがてふらふらと公衆トイレに入り、声を押し殺してめそめそと泣いた。
一度涙が収まると、心の中には空っぽだけが残った。
私は無心で閑散とした電車を乗り継ぎ、自宅の玄関ドアを開けた。
その傍から、今度は声をあげて泣き喚いた。
自分がこんなにも感情的な人間だとは思いもしなかった。
私はその日、耐え難い苦しみを紛らわす為に涙を流しては心に虚無を残し、浅い微睡に沈んでは目覚めて泣くことを延々と繰り返した。
気が付くと、陽が沈み月は昇り、空が白んで翌朝を迎えていた。
全ての意味を洗い流してしまうかのように、その朝日は恐ろしい程に眩しく、静やかだった。
何を考えるでもなくその輝きを眺めながら、私は虚ろな頭で、一つの残酷な理解に至った。
私は友情と恋心を同時に抱き、失恋と同時に友情をも失ったのだ、と。
私は雨夜さんの人懐っこい笑顔が好きだった。
私みたいな辛気臭い人にも優しくしてくれる姿勢が好きだった。
どれだけ突き放すような態度をとっても気にしないでいてくれる包容力が好きだった。
その好意は友情的な意味であり、同時に恋愛的な意味でもあった。
私は彼とこれからも仲良くやっていきたかったし、願わくば、彼を私のものにしたいと水泡の祈りを抱いていた。
私は雨夜さんの姿に、放課後の教室に差し込む陽だまりを見ていた。
学校生活というものを楽しめる人と、そうでない人。
そのどちらもを無条件に受け入れてくれるような、私の冷たい心をじんわりと溶かしてくれるような、そんな温かな輝きが彼だと思えた。
私にとって彼は、初めて気を許せた他人で、初めての友人で、初恋の人だった。
この人が傍に居てくれたら、もしかすると、私は色が見えなくともそれなりに真っ当に生きられるかもしれない。
そう思わせてくれる唯一の光だった。
けれど、それは偽物の光だった。
実際の雨夜さんはお金を受け取る代わりに私に優しくしてくれていただけで、そこに本物の温かみなどあるわけがなかった。
でも多分、雨夜さんも健介さんも悪意を以て私を騙したわけではないのだ。
健介さんに至っては善意ですらあろう。
だからこそ、私は二人を憎むことは出来なかった。
私は長い時間を掛けて、私の記憶の中に存在する雨夜さんの背後に冷たい光を装飾していった。
私が見た温もりや抱いた想いというものは、全て虚構のものであったことを自覚させなければならなかった。
今後彼が私に優しくしてくれることがあっても、それらは全て、お金という見えない糸で操られたものでしかないことを、きちんと意識出来るようにしておく必要があった。
いつの間にか、時刻は深夜零時を知らせていた。
その頃にようやく、記憶に残る雨夜さんの姿は、全て冷ややかなものへと塗り替えられた。
私はふと、私を取り戻した。
途端、理想的で願望的な夢から息苦しい現実に引き戻されたような、想像を絶する虚脱感が私の身体に重く圧し掛かった。
色の見えない私が、この世界を正しく歩けるはずがなかったのだ。
これまでほったらかしていた分が負債として降りかかってきたかのように、ドロリと、異常に濃い陰鬱が身体の内部へ流れ込む。
闇に溺れた先へと目を凝らせば、そこには、近頃は影も形もなかったはずの決定的な一線があった。
自然と、私の足取りはそちらへ向いていた。
今日の健介さんからの電話には出てしまった。
だからひとまず安堵している彼には、私を止められはしない。
きっと、健介さんは分かっているのだろう。
自死を選ぶ人間を止められるのは、その人が自殺を思い悩んでいる間だけだと言うことを。
死ぬことを決意した人間は、どう足掻いても引き止められないことを。
だから彼は、私が自殺願望に憑りつかれぬよう私に毎晩電話を掛け、私が極力衝動的な行動を起こさぬよう私の位置情報を常に共有し、私が死を呼ぶ道具を手に入れぬよう私の支出の管理しているのだ。
しかし、それら全ては予防的なものであり、私が決意と共にひとたび行動を起こしてしまえば、途端に意味を為さなくなるものである。
私は幽霊のような調子で、数カ月ぶりに例の横断歩道へと導かれた。
やつれたその姿は、既にあの世へ半歩踏み入れているようなものだった。
色が見えなくても真っ当に生きられる?色が見えずとも楽しい?
何を馬鹿なことを。
ならば私は、もっと以前から上手く生きられたはずだろう?
私はそのように、夢心地にあったこの数か月の私を嘲笑う。
真夜中の全てが黒に染まる世界を最期に目に映し出し、今一度この世界は色がなくては生きるに値しない場所であることに納得した上で、私は命を終えたかった。
誰かにぶつかればそれだけで崩れ落ちてしまいそうな状態で、私は死に場所に辿り着いた。
走っても間に合わないような距離で車が通ったきり、その道路で車が過ることはなかった。
その時がもう一度訪れるまで、私はぼんやりと、暗闇に浮かぶ信号機の輝きが淡々と入れ替わる様を眺め続けた。
結局、青信号と赤信号とは、どのような意味を持った言葉だったのだろうか。
それが分からない時点で、私はこの世界で生きるには酷く不自由な人間だったのだろう。
もう、大型車でも普通乗用車でもなんでもいい。
原付バイクにさえも突っ込んでしまおう。
だから早く、この色で溢れ返った世界に適応出来なかった私を終わらせて下さい。
私の切実な自死の念は、しかし、何処にも届きはしなかった。
代わりに、視界の端には見覚えのある彼の姿が見えた。
唯一の希望だと思えた彼も、どうせ金のために私を利用しただけだ。
そのことは割り切ったはずだったのに、彼に会えたことが嬉しくてつい、私はそちらに振り向いてしまった。
私は彼に連れられてアパートに足を運んだ。
この人は私に微塵も親しみを覚えていない。
そのことを頭の中では分かっているはずなのに、私はどうしても、甘い夢から醒めることが出来なかった。
アパートに足を踏み入れると、そこには吐き出したくなるほどのアルコールの匂いが充満していた。
鼻に残るその悪臭に、私は思わず顔を顰める。
暗がりに満ちた部屋に目を凝らすと、そこには灰っぽいビール缶が乱雑に転がっていた。
以前は隅々まで清掃が行き届いており、清涼な空気で満ちていた部屋模様が、今はこうにまで荒れすさんでいる。
その部屋の様子を見て、雨夜さんは雨夜さんの方で何か嫌なことがあったのだろうことを私は理解した。
長い沈黙の後で、彼は依頼料を私に返そうとした。
私はそれを断り、全ては依頼だったのでしょう?と夢の終わりを告げる冷ややかな言葉を放った。
すると、醒めるはずだった夢は、確かな現実そのものとなって私の心に帰ってきた。
彼から話を聞くに、どうにも全ては私の勘違いだったらしい。
雨夜さんと私は決定的な部分で何かが食い違っており、それを解明したことで、彼が受けた依頼は私のものだけであることが知らされた。
証拠はない、などと言われたが、そんなものは家に帰って携帯電話を見て、彼のアカウントが本当に削除されているかどうかを確認すれば事足りることだった。
雨夜さんに掛け替えのない友人だと伝えられたことに、そして何よりも、雨夜さんがアルコールに溺れるまでに私について思い悩んでくれたことに、私は言い表せないほどの嬉々とした感情を覚えていた。
やはり友人止まりであったことには少なからずの悲しみを覚えたが、今はそれ以上に、私が雨夜さんにとっての掛け替えのない友人なのだという事実が私を興奮させていた。
私はこれからも、雨夜さんを好きでいていいのだ。
そして雨夜さんは、私を掛け替えのない友人として受け入れてくれているのだ。
無理矢理冷たいものへと仕立て上げられていた彼との記憶は、瞬く間に本来の温もりを取り戻した。
私はこの気持ちを取り戻せたことに深く安堵した。
高揚した気分のままに、私は踊り出すような調子で、自分が色の見えない世界で生きていること、そして墓場まで持っていくはずだった血色だけは認識出来ることを雨夜さんに話した。
雨夜さんにとって私は掛け替えのない友人なのかもしれないが、私にとって雨夜さんは本当の意味で、唯一無二の掛け替えのない人なのだ。
自分の奥底にある秘密を共有することに躊躇いはなかった。
これらの話を聞いた雨夜さんは、酷く苦しそうな表情を浮かべた。
私は雨夜さんにそんな顔をして欲しくはなかったけれど、それが彼が私に向けてくれる優しさの大きさなのだと思うと、胸が熱くて仕方がなかった。
その日、雨夜さんの落ち着く匂いで満たされたベッドで一夜を過ごす中、私は私の内でこのように決着をつけた。
たぶん、私の抱くこの二つの感情は、もう決して分離できないほどに混ざり合ってしまっている。
それでも、私が雨夜さんをどうしようもないほどに愛してしまっていることは伝えないことにしよう。
その選択は、私に秘密を共有する友人としての役割を求めている彼を、深く困惑させることになるだろうから。
それが、私に出来る最後の抵抗なのだ。
次回の投稿日は、6月27日の火曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!