⑬/⑮
♦♦♦
目を覚ましたのはその日の午後四時だった。
昨日からろくなものを食っていなかったせいだろう。
身体はまだ眠り足りないらしかったが、極度の空腹がそれ以上俺を眠らせなかった。
軽食で腹を軽く満たし、風呂に入って身体を清潔にする。
復習するようにネットで調べたことを見返してから、俺は外に出掛ける準備を整えた。
アパートを後にし、白星の住むマンションの方へと真っ直ぐに足を進める。
道中のスーパーでとあるものを購入し、それから彼女に電話を掛けた。
「どうかしましたか?」
「俺、白星の家に向かってるんだけどさ、いま大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「あと、ちょっといいもの買って来たから、今日の晩御飯一緒に食べないか?」
「良いもの、ですか?」
「あぁ、それは俺が料理するから任せてくれ」
「そういうことでしたら。それでは、お待ちしていますね」
「うん、またあとで」
俺は画面越しの白星にそう言って電話を切った。
この四日間、白星とどのように過ごすのか。
俺は昨晩、そんなことを適当に考えていたのだが、これがその第一弾だった。
思いの外すんなりと、彼女が晩御飯を共にすることを許してくれたのは喜ばしい事だ。
やはり、昨日の出来事で親密度が高まったのだろうか。
合鍵を使ってオートロックを解除し、彼女の部屋の前でインターホンを鳴らす。
程なくドアが押し開けられ、中から黒いトレーナーを着た白星が顔を出した。
「やぁ、白星」と俺は手振りを交えて会釈する。
「こんばんは、雨夜さん」白星はペコリと頭を下げて俺を部屋に招いた。
相変わらず、彼女の家のインテリアは奇抜な色合いで溢れ返っていた。
が、たぶん、白星から見たこの部屋は落ち着く色合いになっているのだろう。
もうこのカラフルさを悪趣味とは呼べまい。
「それで、良いものって何ですか?」
白星は早速本題を訊ねた。
俺は右手にぶら下げたスーパーの袋を手渡した。
中身を確認した白星は、疑問そうにこちらを眺めた。
「…ステーキ肉、ですか?」
「うん。昨日考えてみたんだけど、白星ってさ、焼く工程はあんまり得意じゃないんだろ?」
焼肉に行ったあの日、なぜ白星は、やけに真剣な様子で金網に並べた肉を眺めていたのか。
色が見えないことによる不都合を知った昨晩、それには相応の意味があったことに、俺は気が付いた。
恐らくだが、白星の目は生肉と焼けた肉の色の変化を捉えられない。
それでも彼女は何とかして、肉が焼けることでピンク色から茶色に移り変わる様子を、つまり彼女の世界で見れば、灰色がほんの少し濃くなる瞬間を慎重に読み取ろうとしていたのだ。
「…よく分かりましたね」
俺がさらりと流すようにそのことを述べると、白星は心底驚いたように呟いた。
「色々調べてみたからな」と俺はキッチンスペースへ移動する。
「だから白星って、レアステーキとか食べたことないんじゃないかな、って思って」
「そうですね。自炊する時は、基本的に茹でたり煮たりするばかりなので」
俺が振り返って彼女を見やると、白星は大きく首肯した。
それらの調理工程は色の変化よりも時間が肝心であるから、彼女も安心して料理に臨めるのだろう。
「なら、今日は俺がレアステーキ作るからさ、それ以外を白星にお願いしてもいいか?」
俺がそう言うと、白星は顎に手を当てて思案を挟んだうえで、このように切り返してきた。
「それは構いませんが…と言うことは、雨夜さんは私の家にタダ飯を食べに来たということでしょうか?」
「おいおい、ちゃんとメインディッシュ持ってきただろ?」
俺は二枚分のステーキ肉を掲げながら苦笑する。
白星はそんな俺を柔らかな無表情で眺めながら「仕方ないですね。一緒に食べましょうか」と上機嫌に言ってくれた。
穏やかな日々だった。
俺はその四日間、毎日白星の家に足を運んでは、彼女が苦手とするであろう料理の類に腕を振るった。
俺の作った料理を口に運んだ白星が「美味しいですね」と言葉を零してくれる度に、明日はどんな料理を振舞おうかと、俺は密かに胸を躍らせた。
部屋に差し込む陽だまりに並び座って、白星の好きな音楽に耳を傾ける日もあれば、雨粒の降り注ぐ外の世界を気長に眺める日もあったし、お互いがおすすめする本を読み合い、その感想を述べ合う日もあった。
白星の好きな食べ物や嫌いな食べ物を知れたり、彼女は夜の十時半に必ず健介さんと電話する習慣があることを知ったりと、様々な発見があった。
「どうせなら、私の家に泊っていったらどうですか?」
一度、いつもの何気ない顔をした白星にそう言われたことがあった。
俺は強烈な葛藤に搔き乱された末に、断腸の思いでそれを断った。
たぶん白星はまだ、男女間の友情がどのような距離感であるべきかを理解していないのだろう。
それに悲しいことだが、彼女が俺に求めているのは良き友人としての役割だ。
だから色々を知っている俺が、彼女の無知に付け入るのは違う気がしたのだ。
そのようなことがありつつも、概ね落ち着いた四日間を共に過ごし、俺達はその年の暮れを迎えた。
十二月三十一日、午後一時過ぎのことだ。
雲一つない青空に浮かぶ太陽を眺めながら、俺は白星の住むマンションの前に車を停めていた。
ふと、エントランスの自動ドアの向こう側に白星の姿が見える。
その格好はクリスマスの日とそっくりのものだった。
俺は窓を開けて手を振る。
気が付いた白星はこちらに歩み寄り、ドアを開けて助手席に乗り込んだ。
「雨夜さん、自動車持ってたんですか?」
「いや、これはレンタカーだ」
「そうなんですか。事故にだけは気を付けてくださいね」
「分かってるって。安全第一で運転するよ」
発進準備を行う間にそのような会話を交わし、俺はハンドルを握って運転を開始した。
先日、俺は白星の家を訪れた際に、「年末年始って空いてるか?」と訊ねたところ「はい、どちらも空いていますよ」という返事が彼女から返ってきた。
なので「じゃあ年末年始で遊びに行かないか?」と誘ってみると、「まぁ、いいですよ」と白星はぶっきら棒に応じてくれた。
そういうわけで、俺はこの日、白星との四度目のデートを迎えることになった。
これまでとは明らかに違って、彼女と一日を過ごせるという事実に純粋な歓喜を覚えている自分を意識しながら、俺は慎重に車を走らせた。
♦♦♦
「それで、今日は何処に行くのでしょうか?」
車を走らせて暫く経った頃、彼女は流れゆく幹線道路沿いの街並みを眺めながら俺に訊ねた。
「着いてからのお楽しみだ」
俺は車道の先に注視しながらも、その表情に笑みを浮かべる。
それから一時間ほど車を走行させると、目的の建造物が見えてきた。
くすんだ白色の、壮大なモダン建築の建物だ。
「なるほど、博物館ですか」白星は得心したように呟く。
「どちらかというと美術館だな」俺は駐車場に入りながら言葉を返した。
「美術品、お好きなんですか?」
車から降り、見上げるほどに巨大な美術館に向かって歩く最中、彼女は不意とこちらを見やる。
「芸術って、個人の感性次第みたいなところあるだろ?だから色とか関係なく楽しめるかと思ってさ」
俺は隣を歩く白星に向けてそう笑い掛けた。
入場チケットを購入し、美術館の内部に足を踏み入れる。
入り口すぐの所に飾られた大きな絵画から順番に、回廊をぐるりと巡るように展示を一つ一つ眺めていく。
奥へ進めば進む程に、人の騒めきは空間に消え入り、人々のゆったりとした足音だけが残されるようになった。
「白星は美術館が好きなのか?」
一つの展示の前で立ち止まっては、その作品の細部に隠された意図を読み取るようかのように、じっくりと絵や写真を眺める。
そんな白星の後姿を見つめ、俺はふと小さな声で訊ねた。
「美術館が好きなわけではありませんが…私は、この時間が好きなんです」
白星はふっとこちらに振り返ると、穏やかな表情でそう言った。
美術館という空間も相俟ってか、ベレー帽を被る白星は普段より魅力的に俺の瞳に映っていた。
「次はあちらの展示へ行きましょうか」
白星は俺を誘うように向こうへ進んでいく。
彼女の後をついて行くと、そこにはモノクロ写真の集められた展示エリアが広がっていた。
「きっとここなら、私と雨夜さんの見ている世界が一致すると思います。やはり、同じ物が見えないと楽しくないでしょうからね」
白星は何処か自虐的な物言いで言う。
俺は思わず、このように言葉を返した。
「そうかもしれないけど…俺はさ、同じ世界が見えなくても、美しさっていうものはそれぞれの世界に用意されていると思うんだ。目に映る世界が違う風に見えていたとしても、それは結局、認知の差でしかない」
「…良く分かりませんが、雨夜さんは私を励ましてくれているのでしょうか?」
白星は首を傾げて俺を眺めた。
「うん、たぶん俺は白星を励ましているんだと思う」
自分でも支離滅裂なことを言っていることを意識しながら、俺は軽く頷いた。
「お気遣いありがとうございます」と白星は柔らかく頭を下げた。
一通り全ての展示を回って美術館を出た頃には、既に空は濃い藍色に染まっていた。
それはまるで、美術館が昼間という時間だけを盗み去ったようであった。
夜は何が食べたいかを訊ねると、白星は「安くて美味しい所に行きたいです」と答えた。
難しい注文を承った俺は、ハンドルを握って適当な店に白星を案内した。
そこはただのファミレス店だったが、彼女はそれに満足を示した。
腹を満たした俺達は再び車に乗り込んだ。
白星は車内に流れる音楽に耳を傾けつつ、「この後は、初詣にでも行くんでしょうか」と俺に聞いた。
「それも考えたけど、時間的に厳しいからやめにした」
俺は国道沿いを無難に運転しながら質問に答えた。
白星は意外そうに相槌を打ち、窓の外を眺めた。
「では、今日はもう帰るんですね」
「いや、まだ帰らない」
信号機の様子を伺いながら、俺は彼女の言葉を即座に否定する。
助手席に乗る白星は不思議そうにこちらへ顔を向けた。
「初詣の代わりに、初日の出でも見に行こうと思ったんだ。ここから少し離れたところに行くから、白星は眠くなったら寝てくれていい」
年明けと共に初詣、それから初日の出を拝む。
それがベストプランだと言うことは、俺も充分に分かっている。
けれど、道路の渋滞を考慮すると、運転中に初日の出を迎えるという悲惨な可能性が頭を過った。
それに、近頃は街が大寒波に見舞われている。
外の極寒にやられて体調を崩さないようにも気を付けたい。
それらのことがあって、俺はこのように計画を変更したのだ。
「初日の出ですか。少し楽しみです」視界の端に映る白星は言う。
それから彼女はふと気が付いたように「と言うことは、車中泊ですか?」と俺に訊ねた。
俺は極力何も考えないようにしながら「そうだな」と無機質に相槌を打った。
それからやや間があって、白星は小声でこのように注意を促した。
「…変な気を起こしちゃ駄目ですよ」
思わず運転が乱れた。
隣から彼女の小さな悲鳴が聞こえた。
そう言うことをわざわざ言われてしまうと、白星を楽しませたいという純粋な動機が汚れてしまう気がする。
他意はないのだと思うが、言葉にはもう少し気を付けて欲しいものだ。
俺はひたすら国道を走り続けた。
行く道はやがて海岸沿いに続くようになり、窓の外に夜の海が姿を見せ始めた。
横目に映る海原は、夜空よりも深い暗色に染まっている。
海上には灯台や貨物漁船の明かりが点々と輝いており、それが夜空の星々に代わって海面を照らしていた。
間もなく車は高速道路に入り、数度サービスエリアに入って小休憩を取りつつも、俺は延々と車を走らせる。
コーヒーを飲んでもなお眠気が襲い始めたその頃、俺はようやく、目的地の駐車場に車を停めることが出来た。
年末年始と言うこともあってか、危惧していたように道中は混雑していた。
想定を大幅に超過した走行時間となってしまったが、まだ日の出までには時間がたっぷりと残されていた。
さて、しばらくの間は睡眠を取らせてもらおうか。
そうして俺が運転座席を倒し、眠りに付こうとしたところで、ふと、隣に座っている白星が既に瞼を閉ざしていることに気が付いた。
「なんだか危ない気がするので、雨夜さんが眠るまでは寝ないでいようと思います」
などと息巻いていた癖に、すっかり高速道路の揺り籠でやられてしまったようだ。
白星は頭を小刻みに揺らしながら、座席にもたれ掛かってその目を閉ざしていた。
そのままでは、目を覚ました時に首が痛いだろう。
そう思った俺はそっと助手席の奥へ手を伸ばし、ゆっくりと彼女の座席シートを倒してやった。
すぐ近くに無防備な白星がいるのだと思うと、つい、羊の皮が剥がれて狼が姿を現しそうになる。
だけど、白星の信頼を裏切りたくはない。
俺はすぐに彼女から離れると、白星とは反対の方に向いて目を閉じた。
暫くは、耳奥に流れる白星の細やかな寝息がくすぐったくて仕方がなかったが、そのうち睡魔が俺を意識の奥底へ引き込んでいった。
次に意識を取り戻したその時、俺の耳元には、まずこのような囁き声が聞こえてきた。
「雨夜さん、雨夜さん。もうすぐ日の出ですよ」
「日の出」という言葉に目をパチクリと開けた俺は、次いで、自らの身体の上に落ちる影の方へと意識を向ける。
そこには、優しげに俺を眺める白星の姿があった。
「おはようございます、雨夜さん。そろそろ日が明けるのではないでしょうか」
彼女は俺が起きたことを確認すると、すぐに助手席の方へ引っ込んでしまった。
俺はこの一瞬の幸福を噛み締めてから身体を起こした。
腕時計を確認する。
午前六時二十四分。
もうすぐ日の出の時間だ。
「あと二十分ぐらいで初日の出だと思う。そろそろ行こうか」
俺は白星に声掛けして車から降りた。
薄明の世界は一段と寒々しい。
靡く風が身体中を突き抜け、潮の匂いが鼻孔の奥に漂った。
「初日の出を見る場所って、海だったんですね」
「あぁ。あっちの方が穴場だから、移動しよう」
彼女の言葉に小さく頷き、俺は駐車場を出て海岸の奥へと向かった。
近場には疎らに人々が集まっていた。
だが、そこから少し離れた場所になると、その場が私有地であるかのような広い間隔で、数人が日の出を待ち構えているのみだ。
俺と白星も周囲の人々と同じぐらいの距離を開けて、適当な場所に陣取った。
水平線付近では、既に朝日の赤い余光が滲んでいる。
その輝きは徐々に夜空の藍色を溶かし、空の青みを薄く染め上げていく。
彼女の目には、この光景がどのように映し出されているのだろうか。
白星は寄り返る波の音に耳を澄ませ、遥か空を眺めていた。
色が見えずとも、日の出の輝きの美しさは変わらないはずだ。
俺はそんな認識で白星ここに連れてきたが、果たしてそれは間違っていなかっただろうか。
万が一、白星が日の出を楽しめていなかったらどうしようか。
朝日が水平線の奥から顔を出すまでのもどかしい間隙を前に、俺は今頃になってそのような不安に駆られていた。
それを知ってか知らずか、朝焼けに浮かぶ雲を見つめる白星は、ふとその口を開いた。
「雨夜さん、運転が手慣れていましたね。ここに来たことがあるんですか?」
「あぁ、去年友達に連れられてな」
俺は夜明け前の海の揺らめきを眺めながら答える。
「そうなんですか」と彼女は簡潔に相槌を打った。
「今年は、そのお友達と来なくても良かったんですか?」
今度はすぐ隣で佇む俺の方に顔を向けて、白星は疑問を投げ掛けてきた。
「うん、今年は白星が一緒に来てくれたから」
俺は水平線の彼方を見やった。
朝日はもうあとほんの少しで姿を現しそうだ。
「あの」と白星は俺に何かを伝えようとする。
しかしその直前で、続く言葉は陸風に流れ運ばれるようにして意味が解かれていった。
俺は彼女を横目に盗み見る。
白星は躊躇いを孕んだ顔つきで、俺から目を逸らしていた。
だがその逡巡はとうとう、コップの縁から水滴が零れ落ちるようにして、彼女自身の微かな問い掛けと化した。
「…どうして、雨夜さんはそんなに、私に構ってくれるんですか…?」
白星は背けた視線を戻し、俺の目を覗き見るようにしてその答えを欲していた。
俺はその瞳に引っ張られるように彼女の方を向いた。
白星はきっと、俺との間にある友情を確かめたいのだろう。
絆は目には見えないものだから、初めての友人を手にした彼女は、確かな形としてそれを認識出来ないと不安で仕方がないのだろう。
だから俺はこの時、「それはもちろん、今年も白星と仲良くしたいからこうやって君を遊びに誘ったりするんだ」とでも言って白星を安心させてやれば良かったはずなのだ。
でも気が付くと俺は、「…どうしてだと思う?」と、彼女の心に安らぎをもたらすはずの言葉を、別の物に取り換えてしまっていた。
待て。違うだろう?それは彼女が俺に求めている役割じゃないだろう?
心に遅れて理性が、間違いを犯そうとする俺を忠告する。
その合間に、訊ね返された白星は真面目にその答えを探していた。
彼女が何を言おうと、俺が次に放ってしまうであろう言葉は既に決まっているというのに。
白星はその理由を上手く見つけられずにいるようだった。
やがて、俺の問い掛けに答えることを諦めた彼女が、
「…何故なのでしょうか?」
と、訊ね返そうとした瞬間、遠い水平線が強く一閃し、肌を撫でる風がピタリと止んだ。
長い夜の時間が終わる。
ほんの一瞬の狭間の世界を介して、再び世界に光が溢れ出そうとする。
今だ、と心が強く叫んだ。
「白星が好きだからだ」
俺が想いを溢れさせてしまったその瞬間から、時が再び動き出すまでには僅かな空白があった。
そのコンマ一秒の間に、白星は呆然と俺を眺めていた。
彼女は俺を見ているようで、別の何処かを眺めるように目を釘付けにしていた。
「俺は、白星のことが愛おしくて堪らなくて、大切で仕方がないんだ。それが、白星に纏わりつく理由の全てだ」
時の流れが元に戻った傍から、俺は無意識のうちに、自らの愛情を更なる言葉で伝えていた。
その情愛に満ちた言葉は、自分でも驚くほどにすんなりと口から飛び出た。
白星はこれ以上にないぐらいに目を大きく見開き、その瞳を震わせている。
口を半開きにして俺を見やり、その場で愕然と固まってしまった。
そこでようやく、理性が心に追いつき、俺は遅きに失した冷静さを取り戻した。
「…ごめん。本当は、こんなこと言うつもりじゃなかった。別に返事はくれなくていいから」
それが、感情に押し流された俺に出来る最大限の事後処理だった。
遅効性の薬でも飲んだかのように、俺は今更、自分の頬が急激に熱を帯び、心臓が胸の下で異常に膨張していることを強く意識した。
困惑に染まり切った白星を見ていられなくなって、俺は彼女から目を逸らしてしまった。
その先には当初の目的であった初日の出が伺えた。
長い沈黙があった。
俺は決して、白星の姿を視界に収めることが出来なかった。
心の底から好きになってしまった人に想いを伝えるという行為は、尋常ではないほどの羞恥心で身体中を染め上げていた。
俺一人だけが真夏に放り込まれたかのように全身が熱かった。
赤い太陽は徐々に上空へ昇り、大空が透き通った水色へ変化しつつある。
水平線から伸びる陽光の道途は、少しずつ大きく広がっていった。
朝凪の時間が終わり、海から潮っぽい風が吹き始めた頃、俺は勇気を振り絞って再び白星の方へ向いた。
視界の先に居た白星は、海の上に浮かぶ太陽に目を奪われている。
彼女はまるで目に焼き付けるかのように、その光景を瞳に映し出していた。
「…し、白星、そろそろ車に戻ろうか」
俺は不自然な笑みを浮かべて彼女を見やった。
「…そ、そうですね、戻りましょう」
遅れて俺の声掛けに気が付いた白星は、ぎこちない返事で俺に応じた。
駐車場に停めた車に戻るまでの道のりは、たぶん、これまで白星と過ごしてきた中で一番気まずい沈黙に包まれていたのだと思う。
並んで砂浜を歩く俺達は、お互いに一言も発することなく、砂を踏む微かな足音を聞いていた。
不意に白星がその足を止めた。
何かあったのかと、俺は振り返って彼女の様子を確認する。
そんな彼女は、未だ動揺の色が抜け切っていないようだった。
俺に目を合わせようとしては、こちらの視線に耐えかねたようにその瞳を左右に散らしてしまう。
やがて白星はその頬を僅かに赤らめると、視線を落として口を尖らせた。
「…こんな愛想の悪い女の、何が良いんですか。私が良いだなんて…どうかしてると思いますよ」
どうやら白星は自分を卑下しているようだった。
いじらしい彼女を前にして、思わず口の端から笑みが零れ落ちる。
溢れた微笑みと共に恥じらいの感情は消え失せ、いつの間にか、俺はいつもの調子に戻っていた。
「うん、でもそういうところが良いんだ」と俺は嘘偽りのない気持ちを伝える。
「…趣味が悪いですね」
白星は控えめな目線で俺を睨み付けた。
それが、今の彼女に出来る精一杯の仕返しだったのだろう。
「あぁ、どうやら君の悪趣味が移ったらしい」
俺は嫌味っぽい笑顔を作りながら言葉を返す。
「どういう意味ですか、それ」
白星は露骨に眉を顰めた。
彼女もまた平静を取り戻したようだ。
張り詰めた糸が緩んだように、一転して、不自然な沈黙が和やかな静けさに生まれ変わる。
砂浜に白波が打ちつける音を心地良く思いながら、俺は駐車場に引き返した。
白星は名残惜しそうにもう一度海を眺めると、助手席に乗り込んだ。
俺はエンジンキーを回して発進準備を行う。
その時、白星はふと思い付いたように「雨夜さん」と訊ね掛けた。
「折角ここまで来たんです。これから初詣に行きませんか?」
「あぁ、白星が良いなら全然」
「もちろんです、是非行きましょう」
俺がそのように返すと、彼女は身を乗り出すような勢いで応じた。
車を発進させる。
適当な神社を探して運転を続ける中、白星は窓に流れゆく街並みを子供のように眺めていた。
それなりに有名らしい神社に辿り着くと、俺は臨時の駐車場に車を停めた。
当然、境内は初詣に訪れた参拝客で溢れ返っており、拝殿に辿り着くまでにはそれなりの時間を有しそうだった。
赤い鳥居を潜るまでにはあちらこちらで屋台が出店されていた。
俺と白星もその幾つかを回って、それを軽い朝食とした。
白星はそれらを初めて見るかのように注意深く眺めては、ゆっくりと食べ進めていた。
参道に生まれた長蛇の列に並ぶ。
適当な会話を交わしているうちに、列も拝殿まであと半分ほどとなっていた。
その時、隣に並ぶ白星は、突拍子もないことを言い出した。
「あ、雨夜さん…その…少し、寒いですね…」
彼女はそわそわした様子で、口をもごもごと動かした。
それから、そっと俺の方へ半歩近づき、白星はそのままピタリと身体を寄り添わせた。
彼女の華奢な身体が腕周りに吸い付き、俺の肉体は思わずビクリと跳ね動いた。
彼女が何を考えたのかは良く分からなかったが、俺はその大きな幸せに胸を震わせた。
たぶん、白星は俺からの突然の好意に気分が高揚してしまっているのだろう。
或いは、好意を露わにした俺にどう対応すればいいのか分からなかったのかもしれない。
でもそれは裏を返せば、俺は白星に嫌われることはなかったということでもある。
今は駄目でも、これからには可能性が残されている。
そのような結論を得た俺は、やがて順番の巡って来た御祈願であらんばかりの感謝の念を捧げた。
これほどの幸せを前に何かを願うことは罰当たりだと思えた。
そうして御祈願を終えた俺が、白い砂利を踏みしめて駐車場の方へ戻ろうとしたところで、白星は不意に俺の手首を掴み「あちらの方にも行ってみましょう」と俺を引っ張った。
単純かもしれないけれど、俺はそれをすごく嬉しく思った。
石畳の上を歩きながら、彼女と共に境内の別方向へ足を運ぶ。
その先には小さな庭園らしき場所があった。
岩を覆う苔や生い茂る木々が、池の水面に緑を反射している。
白星はそれを見上げるように見渡し、赤い反橋の上を歩いた。
向こう岸に辿り着くと、そのすぐ傍には数輪の花弁の白い花が咲き誇っていた。
白星は屈んでその花々を見つめた。
「水仙か。そう言えば、今が見頃だったな」
水仙をジッと眺める白星の隣で、俺はそう言葉を零す。
「ええ、凄く綺麗ですね」
白星は屈んだままこちらを向くと、その顔を綻ばせた。
それは、一足早く春が来たような満開の笑みだった。
俺は言葉に詰まった。
絶句してしまったのは、初めて見た彼女の満面の笑みというものが俺の胸を深く貫いた為でもあったし、あの白星が、自らの感情を表情に乗せて表現しているのだという事実に驚愕した為でもあった。
「白星…いま、笑って…」と俺はつっかえながらもそのことを伝えようとする。
すると、白星はその輝きに満ちた濃い瞳を丸め、「…可笑しかったでしょうか?」と、もう一度その顔に笑みを見せてくれた。
何度見ても魅力的な笑顔だった。
「ううん。その、すごく可愛い」俺は慌てて首を振って、つい初心な反応で答える。
「…褒めても何も出ませんよ」白星は仄かに顔を紅潮させ、そっけなく呟いた。
「毎日その笑顔が見られたら、何も出なくていいんだけどな」
落ち着きを取り戻した俺は、本音混じりの揶揄いで彼女に笑い掛ける。
「やめてください。…恥ずかしいです」
白星はその言葉に狼狽したように、俺から目を逸らしてしまった。
はにかむ彼女を見られて俺は満足だった。
橋の向こう側を足を進めると、そこで再び外へと繋がる鳥居が見えた。
俺達は引き返して駐車場に向かった。
昨日と同様に高速道路が渋滞していることを見越して、俺達は早めに自分たちの街へ引き返すことにした。
その甲斐あってか、やはり渋滞には捕まってしまったものの、お昼過ぎには高速道路を降りて、順当に俺達の住処が近づきつつあった。
「もうお昼を過ぎてしまいましたし、何処かで軽くご飯を食べましょうか」
白星が提案したことに俺は賛同を示す。
年末年始の休業に左右されないショッピングモールへと車を進め、そこで適当な昼食を済ませた。
「雨夜さん、服でも見ませんか?私が選んであげますよ」
「白星が選んでくれるなら見に行こうか」
ふと思い付いたように、白星は続けてそのようなことを言う。
俺がそれに応じると、彼女は俺を牽引するように複数の洋服店を物色し始めた。
いつもの白星からは考えられないほどに、今日の彼女は積極的というか、活動的だった。
白星は全ての店舗を見回った後で、二番目に訪れたお店に戻っていった。
そこで緑色のマフラーを手に取った。
「こんなのはどうでしょうか?雨夜さんにピッタリだと思います」
白星は自信ありげに言う。
立ち鏡の前でマフラーを軽く巻いてみると、確かにそれはサイズ感も色も完璧なものだった。
気に入った俺はマフラーを買うことにした。
「俺も白星にマフラー選ぶよ」とお返しの意味で俺は言う。
「はい、お願いします」
白星はそう返事をして、彼女に似合うマフラーを探す俺を眺めていた。
結局、俺は三つ目の洋服店でそれを見つけ出し、ベージュと白の混じったマフラーを彼女に手渡した。
「雨夜さんにとっては、私はこういうのが似合うんでしょうか?」
白星は鏡の前でマフラーを巻きながら呟く。
「うん、凄く似合う」と俺は短く相槌を打った。
すると白星はまだそれを購入してもいないのに、「…大切にしますね」とマフラーを両手でぎゅっと握って嬉しそうに目尻を下げた。
彼女の嬉しそうな表情を見ていると、図らずも胸の奥はきゅっと締め付けられた。
そうしてお互いにマフラーを選び合った俺達は、それからもありふれたショッピングモールを散策しながら、他愛もない会話に花を咲かせた。
その間、白星はよく笑顔を浮かべてくれたし、俺もまた、よく笑う白星を喜ばしく思っていた。
時間は瞬く間に過ぎ去り、そろそろ帰ろうか、という話に纏まる。
ここを出る前にお手洗いを済ませ、俺達は停めていた車に乗り込んだ。
動き出したレンタカーは、まずは白星を送り届けるためにマンションを目指していった。
俺が幹線道路沿いをひたすら走り続ける間、白星は車窓に映る西日と茜色の空をぼんやりと眺めていた。
お手洗いから戻って来てからというもの、彼女はその口数を急激に減らしていた。
突発的にはしゃぎ過ぎたせいで、少し疲れてしまったのかもしれない。
そう考えた俺は、あまり白星に話し掛けてやらないでおいた。
黄色い太陽がまだ地上に顔を出しているうちに、車は白星のマンションの前に到着する。
丸々二日も白星と一緒に居たせいか、暮れ方の淡い陽の光は、俺の心に名残惜しさというものを強く感じさせた。
「二日間の運転、ありがとうございました。たぶん、人生で一番楽しい年末年始でした」
白星は車から降りる前に、大袈裟にそのようなことを言った。
「白星が楽しんでくれたなら何よりだ」「また来年も行こうぜ」と、俺は何気なく彼女に笑い掛けた。
ほんの少しの間があった。
夕日に影を落とす白星の顔つきは、普段よりも穏やかな無表情であった。
それは、夕陽と共に消えてしまいそうな、そんな刹那的な佇まいだった。
白星は些細な空白の後に「…はい」とぎこちない微笑みを浮かべた。
♦♦♦
俺はその場で白星と別れ、レンタカーを返還するべくガソリンスタンドに寄ってから返却場所へ向かった。
その間に西日はとっくに見えなくなり、世界は薄暗く染まりつつあった。
規定の場所でレンタカーの引き渡そうとしたその時、ふと、助手席に何かが残されていることに気が付く。
手に取ってみると、それは白星のベレー帽だった。
また今度返しに行こう。
そう思いつつ、俺はレンタカーを返却して自宅に戻った。
身体は多少疲れているようだったが、その日の晩御飯は自ら料理して済ませた。
この二日は食生活が偏っていたから、食事内容は野菜多めにしておいた。
料理に使った食器を洗いながら、俺はこの二日間のことに思いを巡らせる。
脳裏には白星の様々な表情や、俺が特に嬉しく思った一場面が浮かんでは消え、気が付くと、俺は彼女のベレー帽を握って玄関前に立っていた。
帽子を届けるのは、後日、また白星の家を訪れる口実にしようと思っていた。
けれど、俺は眠る前にもう一度、愛しい彼女の姿を見たくなってしまった。
一段と空気の冷たい夜だった。
俺は緑色のマフラーに顔を埋めながら、彼女の住むマンションに向かった。
ちょうど、マンションまで残り半分ぐらいの距離に辿り着いた時のことだ。
不意に、ポケットに仕舞った携帯電話が強く震えた。
俺はふと足を止め、右ポケットに手を伸ばす。
もしかしたら、白星もベレー帽を忘れたことに気が付いたのかもしれない。
俺はそのように考え、相手を確認することもなく電話に応じた。
「雨夜くん、今そこに黒奈はいるかい!?」
切羽詰まった声だった。
半ば叫び声に近かったその大声に、俺は反射的に耳から携帯電話を離した。
聞き覚えのない声だと思ったが、どうやら電話相手は健介さんのようだ。
彼から電話が掛かって来るのは初めてのことだ。
「…いえ、白星とはもう別れましたが…」
彼の性格に似合わぬ焦った様子に困惑しつつも、俺はそう言葉を返す。
すると、健介さんは明らかに落胆らしき色を滲ませながら「…そうか」と電話を切ろうとした。
「あの」
寸前、俺はそのように声を発した。
電話が切れた様子はない。
「…どうか、したんですか?」
俺は意を決して健介さんに訊ねた。
物腰の柔らかな彼が焦燥に駆られるなど、起きたことはろくでもないことなのだろうという嫌な予感はあったが、それでも、白星の名前が出た以上、俺はそのことを聞かずにはいられなかった。
言うべき、言わぬべきか。
葛藤に思い迷うような間を置いた後に、健介さんは極めて静かな口調で言った。
「……落ち着いて、聞いて欲しい」
「たぶん、黒奈は自殺する」
次回の投稿日は、6月25日の日曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




