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『色彩は生活の果実である』
その言葉を何処で見つけたのか、私はよく覚えていない。
たぶん、健介さんの書斎にある本の一節からだろう。
その一文を目にした時、私は強烈な納得感と共にほんの僅かな諦観を抱き、こう思った。
──なら、色の見えない私の世界は永遠に貧しいのだろうな、と。
彼らは頭の中に多色な顔料を用意している。
それらを思うがままに使い分け、日々の中に鮮やかな彩りを与えていく。
それが、彼らの言う生活の果実であり、同時に、三色しか持ち合わせていない私は、彼らと比べてその果実を生み出す数が圧倒的に少ない。
私が黒と白と灰色の三色を慎重に見極め、なんとか一つの拙い果実にささやかな豊かさを見出している間に、彼らはありとある色彩を吐き捨てるように消費し、美しい果実を幾つも創造するのだ。
だから、色の足りない私は、決して彼らのように華やか世界に辿り着くことはない。
先進国に食い物にされる発展途上国のように、そこには理不尽極まりない格差があった。
因みに断っておくと、私がここで使った「彩り」や「華やか」という言葉もまた、私の世界からは欠け落ちたものである。
辞書の上でその意味を知ることは出来ても、実際それらの単語がどのような役割を果たしているのか、私には知る由もない。
「多色」という言葉にも疑問が残る。
文字通り、私の世界にはたったの三色しか存在しないのだから。
まだ誰もが無邪気にいられる小学生の頃、私はそのように自分の人生を悲観的に捉えていた。
幼い頃から随分とひねくれていたものだ。
そんな捻じ曲がった性格の為か、或いは元からそのように生き様が決めつけられていたのか、その頃の私はよく、同級生からひそひそと仲間外れにされたり、目の前で陰口を叩かれたり、時には身体を突き飛ばされたりと、軽い暴行を加えられたりもした。
それは俗に言ういじめであったが、不思議と私には、皆に虐められているという意識はなかった。
私が皆に虐められたとしても、それはある意味で仕方のないことなのだろうな、という諦念がその根本にあった。
理由は至って単純だ。
私は色が見えない。彼らは色が見える。
ただ、それだけのことだった。
色の見えない私にとって、色に塗れて生きることが当たり前の彼らの中で過ごすことは、言ってみれば、宇宙人に囲まれて過ごしているようなものであった。
宇宙人の話を持ち出すと、多くの人はそれを危機だと捉え、武力行使を辞さない姿勢を見せる。
私から見る彼らは夢のような宇宙人で、彼らから見る私もまた、奇怪な宇宙人だった。
どうして、私達は宇宙人の話す言葉や考えていることに共感出来るだろうか。
少数派の私が異物として排除されるのは当然のことだった。
そんな救いようのない諦念を抱えて日々を過ごしていた為か、私はいつの間にか、表情というものを失っていた。
色がなければ面白くない、色がなければ怒りは覚えない、色がなければ涙は流れない。
とかく、私は皆と同じように色が見えなければ、彼らと同じ舞台に立つことは許されないものだと自罰的に考えていた。
どうして私には色が見えないのか、という点については、当時の私はあまり深く考えないようにしていた。
今でこそ、私は客観的に過去を振り返ることが出来るようになったが、幼心でその原因であろう交通事故のことを思い出してしまっては、その時期に弾力的でなければならないはずの心を更に硬直させてしまうだろうことを直感的に理解していたのだ。
私の世界から色が失われた切っ掛けは、恐らく、例の交通事故にあるものだと思われる。
「恐らく」という言葉を使ったのは、事故以前の私は色が見えていたようだが、私自身はそれを確かな記憶として覚えていないからだ。
当時から事故以前の記憶は酷く曖昧だった。
その記憶はあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
少なくとも、思い起こせる範囲では、私の世界は最初から酷く殺風景だったということだ。
それでも時折、私は玉手箱を開けるようにしてそのことを思い返し、その度に心に致命的な自傷を負った。
脳裏に浮かぶのは、動かなくなった両親と噎せ返るような絶望の匂い、そして辺りに飛び散る大量の血色だった。
そう、奇妙にも私は、血の色だけは色として認識可能であった。
とは言え、血の色に類似しているらしい赤色は認識出来ない。
それが、私の目がモノトーンを映し出す原因が単なる色覚異常ではないことを、他でもない私自身に残酷な現実として突き付けていた。
幼き頃、私は他人と隔絶した生活を送りつつも、どうすればこのモノトーンが消えてくれるのかを考えなかった日はなかった。
たぶん、どれだけ表情を見せないで生きていようとも、その年齢の私にとってはやはり、彼らと同じように生きたい、そんな淡い願望が捨てられなかったのだと思う。
だというのに、私は唯一血色だけが見えることを誰にも話そうとしなかった。
そこから、私は何処までも色の見える彼らを信じていないことが良く分かった。
彼らと私は根本的に生き物としての作りが違っているのだ。
或いは、私は何処かで大切なものを落として生まれたのだ。
そんな深い失意が奥底に根付き、その心の在り様を凝り固めていた。
私は彼らの見る世界へ憧憬を抱くと同時に、彼らと同じ生き物ではないということについて観念を持ち合わせていた。
やがて、その相反する二つの心は後者へと傾き、私は機械のように日々を過ごすようになった。
幸い、学生として過ごす間には図書室という逃げ場所があったし、放課後になれば自室という聖域が私を待っていた。
そうして私は図書室常用者の一人となったが、実のところ言うと、本はあまり好きではなかった。
私は今でこそ学術書を読むようになったが、当然、小学校の図書室にそんな専門的な物は置いていない。
図書室にある本と言えば文庫本がメインで、その文庫本を読むのはいいが、ちょうど物語に没頭し始めたところで「頬を赤色に染めた」だの「黄色い声援」だの、私にはどうしても理解出来ない言葉が出てくる。
その度に私は、最初の三十分で映画館から追放されたような、酷い疎外感を味わう羽目になった。
その為か、やはり色がなければ世界の面白さは半減しているのだろう、という価値観は更に心の奥深い中枢へと根を伸ばしていった。
それと同じ理由で、音楽も聞くのは好きだが、それは歌詞のないものに限られた。
当時、大人たちが自然と交わす言葉の中で、敬語という存在に私は強く惹かれていた。
敬語というものは、平行線の上を生きる彼らと私に一つの境界線を引くものとして、極めて有効だと思えたのだ。
私はその頃から、丁寧な言葉遣いを習得するよう努力を重ねた。
自分の中で完璧に敬語を操れるようになったと思ったその時、私はまず健介さんに敬語で話すようになった。
敬語で話し掛けられた健介さんが、とても悲しそうに私を眺めていたのをよく覚えている。
胸の奥に小さな痛みを覚えた気がしたが、その頃の私はそれを無視した。
色の見えない私が、別世界に生きる彼らと同じような感情を抱くはずがないのだから。
そのようにして、無愛想な目つきと表情で周囲の人間を見下し、常に敬語を使って他人と距離を取る今の私が徐々に形作られていったのだ。
けれど──
「ちょっとだけ、俺と付き合ってくれませんか?」
そんな風に、屈託のない笑顔を振りまきながら、何気なく私に話し掛けてくれて、
どうしようもないほどに冷徹で捻くれた私に、それでも手を差し伸べて、
退屈な世界で死にながらにして生きる私を、明るい場所に連れ出そうとしてくれたのは、
──雨夜さん、他でもない貴方なんですよ。
やっぱり、それを言葉に出来るだけの勇気はまだないけれど、
私は彼に教わったこの気持ちを言葉に乗せて、秘密の告白に愕然とする雨夜さんを見やった。
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「実は私、その時から色が見えないんです」
白星が単調な声でそう言った瞬間、俺はその言葉の意味を上手く理解出来なかった。
頭の中は倒錯的な誤認を起こしていた。
彼女の放った言葉は空気中で言葉としての意味を分解され、それが脳内に伝達される頃には、まるで彼女が意味を持たない声を発したかのように、解読不能な情報と化していた。
それは、俺だけが時間の流れというものから取り残されたような感覚であった。
「色が見えないと言っても、上手く伝わりませんよね」
困惑に包まれる俺を見て、白星は申し訳なさそうに言う。
「ある医者はこのような言葉で私の状態を説明しました。『まるで君の見ている世界は、白黒映画のようなものなのだろう』と」
…白黒、映画?
ここでようやく、俺は白星の言葉を使い慣れた言語として認識する。
白黒映画と言うと、あれだろうか。
あの、黒と白と灰色の濃淡だけで構築される世界のことか。
それが、それが彼女の生きる世界だというのか?
「両親を亡くす以前は、私も色が見えていたらしいですが、その頃の記憶は思い出せません。ですので、私は生まれた時からその白黒映画の世界とやらで生きていると言っても遜色はないでしょう」
白星はそのように自らの秘密を締め括った。
俺は何か彼女に言葉を掛けようと口を開けてみたところで、上手く言葉が出てこなかった。
「驚きましたか?」
白星は軽く首を傾ける。
暗闇に影を落とすその顔には、見られないはずの微笑みが僅かに浮かべられていた。
初めて白星の笑みを見たその時、俺はその事実に胸を震わせるでもなく、バラ色のような喜びに満ちる訳でもなく、ただただ虚しい気持ちに襲われた。
その頬に手を伸ばしてやって、笑顔はそういう時に浮かべるものじゃないんだよ、と優しく教えてあげたいという欲求だけがそこにはあった。
俺は無意識に白星の頬へ右手を伸ばそうとする。
だがそれを遮るように、これまで彼女と過ごした日々が脳裏に浮かんでは沈む。
思えば、その兆候は様々な場面で散りばめられていた。
白星の持つ認識という概念への興味、色に対する好悪、彼女が身に着ける衣類は全て黒色であること。
イルミネーションという言葉に対する煮え切らない反応、学祭で見た観賞魚に対する微妙な切り返し、そして、昼食に緑を付け足そうとして失敗したこと…。
こんなにも手がかりはあったというのに、どうして俺はそれに気が付かずにいたのか。
白星は色が見えないというのに、俺は彼女の服装の単調さを揶揄い、見ても何も楽しくないであろうイルミネーションに誘い──。
「…そんな顔をしないでください。雨夜さんが悪いわけじゃないんですから」
白星は俺を労わるようにそう言ってくれた。
それでも俺は自責の念に押し潰されそうで「…うん。ごめん…」と相槌を打つので精一杯だった。
彼女はそんな俺を見て何か言葉を掛けようとして、しかし「あぁ、それと」と思い出したように呟いた。
「少し、キッチンの方に移動しましょう」
白星は俺を手招きしてキッチンに向かった。
彼女は一段目の引き出しを開き、そこから包丁を取り出した。
夜の闇に溶け込む包丁の刃は鈍く輝いていた。
一体、包丁を手に取って何をするつもりなのだろう。
俺は疑問気に彼女を見やった。
それは極自然な動作だった。
白星は穏やかな表情で俺を眺めると、次いで包丁に視線を落とし、それを自らの人差し指に近づけた。
瞬く間に鋭い包丁の切っ先が彼女の細い指先にぶつかり、ぷつりと、浅く突き刺さった。
「し、白星!?」
俺は思わず彼女の名前を叫んだ。
白星は落ち着いた動作で包丁を指先から離す。
鋭利な刃の抜けた人差し指の腹から、少量の赤い血液が流れ出た。
それは彼女のか細い指を伝い、間もなく床を赤く滲ませた。
薄暗い部屋の中でも、鮮血の色はよく伺える。
白星はそれを無関心そうに見つめてから、再び俺を見やった。
「不思議なことですが、私、血の色だけは分かるんです。たぶん、目の前で死体になった両親の姿が余程ショックだったんでしょう。と言っても、交通事故の記憶はないに等しいのですが」
彼女は努めて事も無げな様子でそのようなことを言った。
俺はその話に一切耳を傾けず、即座に彼女から背をそむけた。
その場に飛び込む勢いで後方の棚へと手を伸ばす。
四段目の引き出しから救急箱を取り出す。
それを開けて絆創膏とガーゼを掴むと、俺は一心不乱に白星の下へ駆けつけた。
「何してるんだ!?」俺は衝動のままに言葉をぶつける。
「あ、雨夜さん…?」白星は当惑したように俺の名前を呟いた。
俺はそれに構わず、彼女の人差し指にガーゼを押し当てて、それから丁寧にその指へ絆創膏を貼り付けた。
彼女の自傷行為を前にして、俺は当惑するどころか肝が潰れるほどに動揺していたのだ。
「もう二度と、こんなことはするなよ」
俺は彼女の指を軽く握ったまま、真剣な眼差しで白星を見つめた。
彼女の顔が青ざめて見えるのは、淡い月明かりに満たされた暗い部屋のせいばかりではないように思えた。
白星は呆気にとられたように俺を見つめる。
しかし、我に返ったようにその目を逸らすと、俺の忠告には答えずにこう返した。
「…雨夜さん、お酒臭いです」
そう言えば、今日は飲み過ぎたのだった。
思い直した俺は口元を抑え、白星から距離を置いた。
「…とにかく、これが私の秘密です。これで秘密が共有出来ましたね」
白星は仕切り直すように小さく咳払いすると、何処か楽しげにそう言った。
「そうだな。秘密は共有された」
言いたいことや考えたいことは山ほどあったが、俺はそのように相槌を返した。
その表情に先程見た微笑みはもうなかったが、それでも白星は嬉しそうに無表情を湛えていた。
ふと窓の外を見やる。
空はまだ黒く染まっており、夜明けはしばらく先のことだろうと思えた。
「朝になるまでここでゆっくりしていったらどうだ?」
「では、お言葉に甘えて」
俺が下心もなく提案すると、白星は少し考える素振りを見せてからそれを受け入れた。
「なんならベッドで寝てくれてもいいから」と俺は眠たげに目を擦る白星に言う。
だが白星もそこは引き下がれないようで「雨夜さんがベッドで寝てください」と言って譲らなかった。
議論が水掛け論に終わりそうだったから二人でじゃんけんをした。
無事に俺が勝ったので、白星には無理やりベッドを貸すことにした。
彼女は仕方がなさそうにそこで横になってくれた。
程なくして、ベッドの方から小さな寝息が聞こえてきた。
白星が眠りに落ちたことを確認すると、俺は胡坐を掻いて、彼女の秘密に頭を悩ませた。
なぜ俺は、白星が色を認識出来ないことに気が付けなかったのか。
そのことに関してはもう充分過ぎるほどに嫌気が差していたが、それでも俺は自分を責めずにはいられなかった。
だからまずは気の済むまで、自分で自分を痛めつけてやる。
暫く経ってほとほと自分の落ち度を毛嫌いした後に、俺は今後のことに焦点を当てた。
色の見える俺は、色の見えない白星とどのように過ごせばよいのか。
そもそも、色が見えないとはどういう状態なのか。
世界には先例があるのか。
白星はそれで苦労していないのか。
パッと思いつくだけで疑問は多数あったが、俺はそれら一つずつを丁寧に調べ上げることにした。
ひとまずはネット上を色々と漁ってみると、それらしい情報が幾つかヒットした。
目に映る全てが白黒に見えてしまう、全色盲と呼ばれる状態だ。
それは、色覚異常の中でも最も深刻とされる状態と記載されていた。
ならば白星は全色盲なのかと決めつけようとした俺だったが、ふと、二つの疑問が過る。
一つは、全色盲になると視力が低下すること。
そしてもう一つは、色覚異常は特に赤色が見え辛くなることだ。
白星は視力矯正をしていないようだし、彼女の話によると、血の色は見えるとのことである。
となると、彼女は単なる全色盲や色覚異常ではない可能性があるのではないだろうか。
とは言え一旦、そこに目を向けて色々を調べ進めていくと、色覚異常に見舞われた人々の日常生活における苦労が尋常ではないことを俺は思い知った。
洋服の色が分からない、信号機が判別しにくい、野菜の鮮度が把握出来ない、などなど。
これらはあくまでも一例だが、それは凡そ色の見える俺には想像も及ばない事項であり、白星が日々、些細な場面で様々な困難にぶつかっているのだということを痛く理解した。
そして最後に、俺はこれから白星と、どのように上手くやっていけばいいのかについて考えた。
これまでの情報を踏まえたうえで、俺は敢えてこう言おう。
たぶん、俺は本当の意味では、白星の世界に寄り添うことは出来ないのだろう、と。
一世紀以上昔に流行った白黒映画を見たことはなかったが、ネット上に溢れるモノトーンな写真や画像を眺め、俺はそのような結論に至った。
彼女は青みを知らない。
海の深い青みと、空の高い青みの違いを知る術がない。
そして同じく、俺は彼女の目で眺める海の深い灰色と、空の高い灰色を知る術がない。
簡単に言うと、俺と白星の見ている世界は、あまりにかけ離れているのだ。
俺は白と黒への造詣が浅過ぎて、彼女は白と黒以外の色に関して無知であり過ぎる。
俺の手元には白と黒が残っているけれど、彼女と同じ世界を映し出すには量が足りなかった。
彼女は俺には理解出来ないほどに、白と黒と灰色の中に奥深い機微を見出しているのだ。
例えば俺がサングラスを掛けてみたところで、俺の見る白黒と彼女の見る白黒では、その意味に大きな差があり過ぎるのだろう。
だから結局、俺は白星の見ている世界を知ることは叶わない。
そういうことなのだ。
たったの数時間でその残酷な事実に辿り着いてしまった俺は、しかしそれに悲観することはなかった。
少しも気落ちしなかったと言えば嘘になるが、それでも俺は腐ることはなかった。
確かに、俺達は同じ世界を共有することは出来ないのかもしれない。
だが、それが一体なんだと言うのだろう。
例え俺と白星の双方が色覚異常であったとしても、或いは双方が色覚異常を患わなかったとしても、所詮、俺達が目に映す世界はそれぞれの色眼鏡で歪んでいる。
それは白星が俺に教えてくれたことだった。
そんな皆が別々の認知を通じた世界で、多くの人間が他人と友情を結び、恋慕を抱き、また、他人といがみ合っている。
それが偶々俺と白星の場合は、少しばかり見え方に差が大きかったというだけの話だ。
その程度のことで、俺が彼女を諦める必要はないだろう。
ひょっとすると、それはどうしようもない事実を誤魔化すための詭弁だったのかもしれない。
けれども俺はそのように納得を見出し、自分を安心させたのだ。
それからすぐのことだ。
ベッドの方でもぞもぞと、白星が動き出す音がした。
ややあって彼女は起き上がり、その無機質な表情でぼうっと俺を眺めてから、コップの水を飲み干した。
「今、何時ですか?」と白星は時刻を尋ねる。
俺は腕時計を見やり、「午前四時五十分」と返した。
「それでは、私はそろそろ帰らせてもらいますね」彼女は身体を解すように腕を大きく伸ばす。
「まだ暗いし、白星の家まで一緒に行くよ」俺は少し考えてから、彼女の身を案じた。
「いえ、大丈夫です」と、白星はこちらに近づきながら言葉を返す。
俺がその言葉に食い下がろうとしたところで「雨夜さん、少しは眠ってください。目の下の隈が酷いですよ」と彼女は俺の目元を薄くなぞった。
そして俺に言い聞かせるよう「私は大丈夫ですから」と落ち着いた声で繰り返した。
「…そうだな。少し眠ることにする」
指先で触れられた目元をくすぐったく思いながらも、俺は彼女の言い分を受け入れる。
白星も満足そうに頷いてくれた。
「寒いだろうから、このアウター着て帰れよ」
薄いパジャマ一枚で早朝の街を歩こうとする白星を見かねた俺は、玄関口に向かう彼女にダウンジャケットを差し出した。
「いいんですか?」
「うん、また取りに行くから」
「そうですか。どうもありがとうございます」
白星は嬉しそうに言葉を返し、間もなく俺のアパートを出て行った。
玄関口で彼女を見送ると、俺は徹夜にならないうちに目を瞑ることにした。
コップ一杯の水を飲んで喉を潤し、ベッドで横になる。
その時ふと、普段は感じない優しげな匂いが、布団の中に漂っていることに気が付いた。
あぁ、これが白星の匂いなんだな。
その柔らかな残り香は、俺を心地良い眠りに誘ってくれた。
次回の投稿日は、6月24日の土曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!