⑪/⑮
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その日、時刻が午後五時になっても、白星は姿を現さなかった。
俺は噴水前でひたすら彼女を待ち望んだ。
約束の時間を迎えた後も、二時間ほどはその場で突っ立っていた。
が、最後まで、彼女がここにやって来ることはなかった。
電話やメッセージで彼女に連絡を取る気にはなれなかった。
俺には白星を悲しませた理由が分からなかったから。
寒空に朱色が混じり、やがて深い青に染められ、最後には黒く塗り潰される。
太陽が沈み、昇った月が光を放つ様子を見届けてようやく、俺は白星がもうここにやって来ないだろうことに納得した。
喉はからからに干乾びていたし、身体中が冷え切って、足は腫れ上がったように痛かった。
とうとう諦めのついた俺は、覚束ない足取りで近くの商店街に向かった。
適当に左右へ首を振り、目に付いた居酒屋に入る。
カウンター席に座り、ビールとつまみになりそうなものを注文する。
黄金色のそれが、ジョッキなみなみに注がれた状態で提供された。
正体不明の渇きに任せて、一気にビールを飲み干してしまう。
こんなに疲れているのに、どうにも今日は酒の旨味が半減しているように思えた。
続々と登場する枝豆や唐揚げ、焼き鳥と追加で頼んだビールでちびちびやりながら、俺は無心で店内のどよめきに耳を傾ける。
それら全てを黙々と食べ終え、最後にもう一度衝動に任せてビールを流し込むと、俺は勘定表を片手にお会計へ向かった。
財布の中を覗くと、白星に押し付けられた数枚の紙幣が目に入った。
俺はこんなものが欲しかったのだろうか。
ふと、小さな疑問が脳裏を掠める。
俺は吐き捨てるようにそれらを睨み付けてから、元々の手持ちの金で支払いを済ませた。
店を出た傍から乱暴に携帯電話を取り出し、その場で全ての元凶となったアカウントを削除した。
気分は少しも晴れなかった。
寒気に覆われた街並みをひとり、呆然と歩き続ける。
腹も懐もそれぞれ満たされているはずなのに、何かが足りないと、虚ろな心が訴えている。
内側から悲鳴をあげている自分には耳を塞いで、俺は駅前まで戻ってきた。
半ば無意識に噴水の方を確認する。
そこには誰の人影もない。
代わりに、その向こう側には小さな、しかし華々しいイルミネーションの輝きが見えた。
明かりに集る羽虫のように、俺はふらふらとそちらへ足を進める。
駅前のイルミネーション近くには、仲睦まじそうな男女が数組伺えた。
鬱陶しいな。
カップルを見てただ純粋に、僕はそう思った。
こんな感情を抱くのは随分と久しぶりのことだった。
そのような嫌悪感が浮かび上がって以来、イルミネーションの煌めきは嫌に眩しく目に映った。
最早その場に何の目的もなかった俺は、その後すぐ適当な電車に乗り込んだ。
自宅付近の駅で下車し、抜け殻のような調子でアパートに辿り着く。
バスルームで温かいお湯を被り、寝間着に着替えると、俺は崩れ落ちるようにベッドで横になった。
途端、これまでアルコールで霞んでいた頭の中に、次から次へと情報が錯綜し始める。
眠気の波は徐々に身体へと浸透していたが、意識は自然と今日の出来事へ引っ張られた。
だが俺は無理にでも、それらを頭の外へ追いやろうとする。
どうせ今更そのことについて思い煩ったところで、結果は無駄足を踏むようなものに終わるだろうから。
そのように俺は自らを納得に落とし込み、そのまま深い眠りに落ちていった。
それでも、翌朝目覚めると同時に、俺は頭の中にこのような疑問を思い浮かべていた。
どうして、白星は泣いていたのだろう、と。
結局、一晩経とうともそれは至上命題であるかのように俺の中に深く根を下ろしていた。
身体からアルコールが抜け、正常な思考判断が為せる状態に回復した今、俺は否が応でもそのことについて向き合わねばならなくなった。
まずは情報を整理しよう
ベッドの上で起き上がり、軽く身体を解すと、俺は気の乗らない思慮に耽り始めた。
約二週間前、俺はある人物から恋人代行サービスの依頼を受けた。
その依頼主は白星だった。
そして彼女は、恋人代行サービスの依頼相手が俺であると気が付いたその時、何かしらに大きな衝撃を受けた。
ここまでは確実だと言えよう。
ならばその情報を前提としたうえで、思い当たる節があるのか。
そのように己を尋問してみたところで、その口から出てくる答えは「無い」の一択だった。
そう、正直に言って、俺には白星を泣かせてしまうようなことをした覚えがないのだ。
その点が、この問題を酷く複雑なものに変化させているように思える。
例えば、白星がアカウント上にのみ存在する『わたあめ』という人物に好意めいたものを抱いていた。
その為に期待を持っていざ本人に会ったところ、その相手が俺だった。
そのショックが原因だった。
そのような可能性を考慮したところで、あのアカウントには、プロフィールに恋人代行を目的としていることが明記されていたはずだ。
それにそもそも、彼女と連絡を取っていたのはこの二週間ほどだけのことで、しかもそれは事務的なやり取りに限られる。
これでは淡い恋心を抱くことさえ不可能だろう。
ならば別角度から検討してみようか。
白星はなんらかの理由で恋人代行サービスを利用したが、それは誰にも知られたくない事柄だった。
しかし、実際の依頼相手が俺であったせいでその事実が露見することになり、彼女は狼狽えてしまった。
少なくともこれなら筋は通りそうだが、白星はその程度で涙を流すような女性ではない。
これもまた、現実的とは言えないだろう。
最も有り得そうな展開はこうだろう。
俺と白星がお互いに愛し合う関係にあり、俺は彼女に黙ってそのようなサービスを行っていた。
そして偶々、俺がある女性から依頼を承り、その女性と街中で落ち合うところを彼女に見られてしまった。
白星は感情を抑え切れなくなった。
だが、これは前提からして成り立たない。
この説が成立するためには、第三者の介入が必須なのだから。
一番すんなりと受け入れられそうな仮説が破綻している時点で、俺がどう頭を捻っても、白星を悲しませた要因を見つけ出せないでいることがよく伝わるだろう。
と言うかそもそも、何故、白星は恋人代行サービスを利用する必要があったのだろうか。
恋人とのクリスマスを疑似的にでも過ごしてみたかったのだろうか。
ならばどうして一日中デートと言わずに、その日の夜は俺と遊ぶ約束をしたのだろうか。
他にも、白星が依頼をした以上、俺に報酬を払うのは理解できる。
がしかし、彼女は予め指定した報酬の倍額以上を俺に支払った。
それは土壇場でキャンセルした為の迷惑料だということなのだろうか。
それにしては些か金額が多過ぎないだろうか。
あまりにも、腑に落ちない点が多過ぎる。
焼き切れそうな程に頭を回転させたところで、結局、俺は同じ行き止まりにぶつかってしまう。
どう足掻いても真相に辿り着くことは叶わず、しかし実際、俺は白星を泣かせてしまったのだ。
彼女の目尻から涙が溢れる様子を思い返す度に、俺は今もまだその場にいるかのような臨場感で、己の胸を強く抑えつけていた。
丁度、今日から短い冬期休暇に入った。
だから二週間近くは白星と顔を合わせることはない。
でも大学があったところで、白星に合わせる顔がない。
どうにかして、原因を解明しなければならない。
同じような問答が、ぐるぐると俺の頭の中を回り巡る。
それが堂々巡りとは分かってはいたものの、俺は考えることを止められはしなかった。
記憶のディスクが擦り切れてしまうことに構わず、俺は昨日の白星を何度も頭の中で映し出す。
その中に映る彼女の見せた些細な表情の変化を注意深く観察し、そこに何かしらのヒントを見出そうとする。
そう言えば、昨日の白星は黒いチェスターコートと黒いロングスカート、それに黒いベレー帽と、いつも通りに黒色に染まったコーデをしていた。
でも昨日は珍しく、コートの下に見えるセーターだけは白色だった。
白星が黒色以外の私服を身に着けているの見たのは初めてだった。
やっぱり、白を取り入れた方が黒色だけよりも似合っていた。
クリスマスだから少しぐらい服装に気を遣っていたのだろうか。
なのに俺は白星を悲しませてしまったのか。
でも、白星は誰のために気を遣っただろうか。
やはり恋人代行相手になのだろうか。
それとも俺の為になのだろうか。
或いは自分の為なのだろうか。
このまま白星を傷付けた理由を見つけられずに、彼女と疎遠になってしまったらどうしようか。
もう口も利いてくれなくなったら俺はどうすればいいのだろうか。
白星の存在が今の日常から抜け落ちるのだろうか。
それはどんな毎日なのだろうか。
少しずつ少しずつ、考え事の論点がずれ始めていることは、自分でも自覚していた。
心の内側で芽を出した不安の種に抗えなかった。
気が付くと、まだ窓に映る太陽が頂点に昇ってもいないのに、俺は冷蔵庫から取り出した缶ビールを呷っていた。
俺は何故、不安を感じているのだろう。
何を恐ろしく思っているのだろう。
それはまるで、疑問の鉱脈にぶち当たったみたいだった。
俺は尽きぬ謎めきを掘り起こし続け、それらを頭の中に書き連ねていく。
けれどもそれらの答えは全て、靄がかかったみたいによく見えなかった。
これまで過ごした白星との日々と、昨日の彼女の流した涙が代わる代わる脳裏を巡り廻る。
いつの間にか、俺は昨日の出来事の原因を究明することを忘れて、白星が、白星が、と彼女のことばかりを思い浮かべていた。
そのまま彼女の存在を胸に空いた虚ろに嵌め込んでやれば、俺は一つの真実に辿り着けるのだろう。
だけどそこに行き着く前に、そうして呪文のように彼女の名前を唱える俺を、何処か冷笑している自分が姿を見せるのだ。
僕の中の俺は、確からしい感情を抱こうとする自分をこのように嘲笑う。
どうしてそんなに彼女に拘るんだ?
こんなことは、これまでにも何度もあったことだろう?
だから今度も同じように、また別の子を見つけに行けば良いだけじゃないか。
僕はその声に耳を傾ける。
そして、確かにそうかもしれないな、と僕は俺の声に納得を示す。
女なんて星の数ほどいるじゃないか。
しかも俺は、その星をかき集められるほどの男に生まれ変わった。
彼女に拘る理由なんて一つもないではないか。
あぁ、そうだ。
俺はこれまで通りに適当な女の子を見繕って、適当に情欲を満たして、飽きたら捨ててしまえばいい。
向こうが過度に熱くなったら冷たくあしらえばいいし、肉体だけのドライな関係を結べればそれに越したことはない。
俺はただ、女性をステータスや承認欲求を得るための道具として扱えばいいのだ。
俺はそのように自らを落ち着かせ、ベッドの上に寝転がった。
先程までは妙に高ぶっていた胸元や、その中で熱を帯びた火種は急速に冷え込んでいた。
俺は窓の外に広がる青い空を眺め、続いて白い天井を見やり、束の間のうたた寝に身を預けようとした。
だが、知らぬ間に俺は身体を起こし、白星が、白星が、とビール缶を握りながら彼女のことを考え続けてしまう。
「雨夜さん」と初めて俺の名前を呼んでくれた時のことが、白星の素っ気ない言動が、わざわざ俺を看病しに来てくれた白星のことが、頭の中にこびり付いて離れてくれない。
その事実に気が付く度に、俺は自分に言い聞かせるよう、頭の中を冷徹さで埋め尽くそうとする。
胸の中に冷ややかな平静を保とうとする。
ビールの空き缶だけがいたずらに増えていく。
赤焼けの空に藍色が混じり、部屋が薄暗くなるまでの間、俺は彼女のことを考えては切り捨ててと、同じようなことを何度も何度も繰り返し続けた。
もう、これが何本目のビールなのかも判然としない。
暗闇の中で、俺は酷く歪んだ空き缶を眺めていた。
意識や視界というものはぼんやりと霞み、身体中がこれ以上のアルコール摂取を強く拒んでいる。
だと言うのに、俺は胸の溜まった不快感を無視して、また手元の缶を掴むのだ。
他でもない、俺の中に巣食う彼女を流し去るために。
或いは、酒を嘔吐すると共に、彼女を俺の中から追い出すために。
喉がおかしな動きを見せ、次いで胃に大きな違和感を覚えた。
俺は千鳥足でシンクに向かい、その場で蹲って酒と胃液を反吐した。
暫く経って吐き気が収まると、俺はよろよろとベッドに座り込んだ。
薄暗い部屋の中で、霞む視界に映る朧月を呆けたように眺める。
これ以上、缶ビールに手を付ける気は起きなかった。
これらの行為に意味がないことに、俺はとうとう気が付かされてしまったから。
何本空き缶を作ろうとも、何度酒を吐き出そうとも、終ぞ、涙を零す彼女の姿が、胸に残る苦しみが消えてなくなることはなかった。
彼女は俺の中から消えてくれはしなかった。
ここまで来ると、俺ももう、認めざるを得なかった。
俺は最早どうしようもないほどに、白星を好きになっているのだということを。
彼女よりも愛想の良い女性を、俺は知っている。
彼女よりも明るく気さくな女性を、俺は知っている。
彼女よりも顔立ちの良い女性を、俺は知っている。
世の中には、彼女よりも魅力的な女性で溢れていることぐらい、俺はよく分かっている。
彼女は無愛想で冷淡で辛辣で、何者をも拒むような冷たい目をしている。
それでも、俺の心は強く彼女を欲していた。
随分と、変な人を好きになってしまったな。
暗がりの中で、思わず洩れ出た小さな笑い声が反響する。
心の求めるものが具体的な形として浮かび上がり、全身は喜びに打ち震えていた。
そうだ、俺は白星が好きで好きで堪らないのだ。
だからどれだけ迷惑がられても彼女に付き纏うし、どれほどに冷たい視線を浴びせられても彼女の傍に居ようとするのだ。
俺はいつでも白星が傍に居て欲しいと思うし、白星が傍から居なくならないで欲しいと思っているのだ。
俺はそうして、自らの心を真正面から捉える度に、彼女の姿に暗闇に溶ける淡い月明かりを見ていた。
俺はきっと、白星の無言で寄り添ってくれるような仄かな優しさを愛してしまったのだろう。
あぁ、悔しいな。
こんなに心の底から誰かを好きになったのは、一体いつ以来だろうか。
別に、彼女が初恋というわけじゃないけれど、誰かにこれ程の深い愛情を抱いてしまったのは、これが初めてなのかもしれない。
そうさせてくれたのが他でもない白星なのだという事実が、なんだか、すごく嬉しかった。
ほんのしばらくの間、俺は瞼を深く閉ざし、白星に抱いた甘い恋心に身を浸していた。
しかしそれはそれとして、物事は何一つとして解決していないことを俺は理解していた。
甘酸っぱい感情に夢中になる以前の問題として、それらの物事について理解を深めなければ、俺は白星に向ける顔がないと思っていた。
過ぎたことだから仕方がないわけがない。
なんとか原因を解明して、もう一度白星との距離を詰め直さなければならない。
俺はそのように考えを改め、真剣に思慮に沈み始めた。
彼女への恋慕を認めてしまった以上、脳裏に過る昨日の白星の姿は、俺の胸により深い傷跡を残していった。
けれど俺は嵐の中を突っ切るように、その苦しみを堪えて思考を費やし続ける。
しかしそれでも、やはり俺は同じ場所で立ち往生することになった。
解けない疑問だけが宙に浮かび続ける。
心には癒えない生傷が増えていく。
解決の糸口さえ掴めずに、夜はどんどんと更けていく。
アルコールを多量に摂取したせいか、身体は重く、怠い眠気で満ちていた。
だけど今は彼女が涙した理由に辿り着きたくて、俺は眠気を飛ばそうと、久々に深夜を徘徊することにした。
身体が冷えないよう厚いダウンジャケットを着込み、玄関口からそっと深夜の世界に繰り出す。
ふらふらとその足取りは頼りなかったが、酔いの回った身体を撫でる冬の夜風は心地良かった。
行く当てもなく住宅街を通り、表通りに抜け出していく。
その間も俺は原因解明に努めたが、やっぱり、答えらしい答えは見つからなかった。
思索に耽るあまり、いつの間にか、自分が項垂れて足を進めていることに気が付く。
そこに見出すのは誰か、俺は頭上のあえかな月明かりを眺めようとして、直後、目前の横断歩道に人影を見つけた。
美しい人だった。
暗闇に青い信号機が煌々と光る様子を、その女性はぼんやりと眺めている。
この寒さの中、薄っぺらいパジャマ一枚で何かを見つけ出すように信号機を眺めるその姿は、目覚めと共に忘れてしまう儚い幻の一部のようであった。
俺は彼女に惹かれるようにゆっくりと近づき、一定の距離を置いて立ち止まる。
自らの独壇場であった世界に、突如、侵入者が現れた。
そのことに気が付いたように、彼女はこちらへ首を向けた。
「…白星…」と、大切な彼女の名を呼ぶ俺の声は異常なほどに嗄れていた。
「…雨夜さん…」と、数拍の間を置いて返した彼女の声もまた枯れ切っていた。
髪は酷く乱れている。
目の下には深い隈が刻まれている。
昨日と比べても頬は明らかに痩せこけていて、白星が憔悴しきっていることは目に見えて分かった。
「……ずいぶん、やつれてるな」俺は長い沈黙の後にそう言った。
「……雨夜さんもですよ」と、彼女も同じぐらいの間隔を開けてから呟いた。
「…俺の家、寄ってくか…?」
このまま放っておけば、彼女はそのうち道端で倒れてしまいそうに思えた。
それぐらいに弱り切った白星を見て、今の俺がそのような言葉を掛けるのは極自然なことだった。
途端、白星はその顔を俯けた。
そして、迷いに迷った挙句といった様子で「…はい」と彼女は顔を伏せたまま声を絞り出す。
それだけでも、理由は何であれ、俺はやはり彼女を傷付けてしまったらしいことを嫌と言うほど理解させられた。
俺達は微妙な距離を置いてアパートへ歩き始めた。
その十数分間、俺と白星は一言も言葉を交わすことはなかった。
二人分の足音が、深夜の世界に響いては消えていった。
彼女を家にあげると、俺は温かいお茶を注いだコップを二つ用意した。
忘れていた部屋の明かりを点けようとして、けれど白星はそれを拒んだ。
暗がりの滲んだ部屋の中、俺はコップをテーブルに置こうとしたところで、そこに多数の空き缶が無造作に並べられていることに気が付いた。
「よく、飲むんですね」テーブルの近くに腰を下ろした白星は短く言った。
「いや、普段はこんなに飲まない。でも、今日は特別な悩み事があったんだ」
俺はテーブルからそれらを退かして、空いたスペースにコップを並べた。
「そうですか」と彼女はまた短く言った。
会話はそれ以上続かなかった。
俺達はテーブルを挟み、向かい合ってカーペットの上に座り込んだ。
しかしお互いが目を合わせることはなく、二人の視線は夜の闇に溶け込む窓の外へと向けられていた。
俺から会話を切り出すべきだろうことは理解していた。
彼女が俺に陳謝を求めているであろうことも分かっていた。
だとしても、未だその原因を見極めていない俺では、そのような行動を起こすことは出来なかった。
彼女を傷付けた理由を把握しないままに、ただ謝るのは許されないことだと思ったし、そうは言っても「どうして君は泣いたんだ?」などと傷の深さも知れない彼女に直接的に聞くわけにもいかないだろうと思った。
もはや万事休すか。
そう思われたその時、俺はふと、会話を切り出すカードが一枚残されていることに思い至った。
徐にその場から立ち上がり、ハンガーに掛けたダウンジャケットから財布を取り出す。
そこから数枚の紙幣を取り出すと、俺は彼女の傍へ向かった。
「……これ、昨日受け取ったお金だけど……俺は白星から受けた依頼を遂行したわけじゃない。返させてくれ」
俺は昨日の白星に押し付けられた金額きっかりを差し出した。
窓の向こうを眺めていた彼女は、ゆっくりと紙幣に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「……結構です。それは、雨夜さんが受け取るべきお金ですから」
白星は再び窓の外に目をやる。
紙幣を受け取る気配は伺えない。
このまま俺が全額を返そうとしても、彼女との押し問答になるだけな気がした。
或いは会話にさえ取り合ってもらえないかもしれないと思った。
どうするべきか思い迷った末に、俺は差し出す紙幣の枚数を減らした。
「でも、これじゃ迷惑料としては幾らなんでも大金過ぎる。俺が受け取れるのは、せめて依頼料分だけだろう?」
本当は依頼料も受け取る気はなかったが、俺は苦渋の選択としてそのように路線を変更した。
「……迷惑料?それは、これまでの依頼料じゃないですか」
彼女は無感情に俺を見上げ、いつになく投げやりな様子で言葉を返した。
それから、何かに気が付いたように「…あぁ」と悲しげな嘆息を洩らした。
白星は不意と俺を見つめた。
その表情には何処か柔らかみが感じられたが、それは穏やかさと言うよりは、一種の諦念に似たものに起因しているように思えた。
彼女は何かを言い淀むように目を伏せ、やがて振り絞るような声で「…雨夜さん」と呟いた。
「これ以上……私に、無理に優しくしなくていいんですよ?」
彼女は再び俺の方に顔を向ける。
その面持ちは昨日に見た白星と同様、何処までも痛々しそうなものであった。
心の生傷が踏み躙られたような激痛が胸に過った。
「……どういう、意味だ?」
俺は精神的な痛苦に悶えながらも、なんとかそう言葉を返す。
言葉の通り、俺は彼女の言っていることが良く分からなかった。
すると、白星は何かを堪えるように視線を逸らし、喉を微かに震わせた。
「…私、もう、分かっていますから。雨夜さんがこれまで仲良くしてくれたのは、全部……そういう、依頼だったから、って……」
白星は揺らめく声で先程の言葉を言い換えた。
その苦しみに満ちた顔から一滴の雫も零れ落ちなかったのは、彼女が既に涙の全てを流し切ったことを強く表しているように思えた。
俺はまだ、白星にそんな顔をさせるのか。
胸が張り裂けそうな苦悶と焦燥に駆られつつも、彼女が今し方述べた言葉の数々を脳裏に並べてみる。
その中に一つ、明らかに不審な点を見出し、俺はそれを軸にこの話を再検討しようとする。
そしてとうとう、俺は気が付いた。
俺と白星との間では、何処かで致命的な齟齬が生じていることに。
「…ちょっと待ってくれ。どうにも話が見えてこない」
俺は悩む頭を抱えながら独り言のように呟く。
違和感を洗い出し、頭の中で簡易的な整理を行う。
それらの過程を経たうえで、俺は白星に向けて食い違いの正体を言語化した。
「これまでの依頼って、どういうことなんだ?…俺は、昨日の依頼が初めてだったんだぞ?」
白星は目を見開いた。
遅れて「……え?」と驚きが洩れ出たような声を発し、彼女はその表情を硬直させる。
それからすぐ俺の目に焦点を合わせると、「…いま…なんとおっしゃいましたか?」と白星は俺の発言を慎重に訊ね直した。
やはり、俺と白星の間では、昨日の出来事について認識に大きな相違があったらしい。
俺はこれ以上の誤解が生まれぬよう、そしてもう白星を傷付けることがないよう、丁寧に俺自身が置かれている状況を説明した。
「…もう一度言うと、俺は昨日白星から受けた依頼が初めてなんだ。その…これまでの依頼とか、この依頼料がこれまでの合算だとか、白星が言ってることが、俺には良く分からない」
「……私の依頼が、初めてだったんですか?」
状況説明を受けた白星は疑問そうに訊ねる。
たぶん、ここが話を拗らせていたのだ。
「あぁ、証拠は…もうアカウント削除したからないんだけど、誓って嘘じゃない」
俺はアカウントの履歴を表示しようと考えたところで、つい昨日、盲動的にそれを削除してしまったことを思い出した。
証拠を提示出来なくては信用に値する発言ではないと思ったが、俺は白星から目を逸らさず、真摯なる態度で答えた。
次に白星が何かしらの反応を示すまでには、大きな間隔があった。
やがて、彼女は小さく息を吐き出した。
「そう…ですか…」
「雨夜さん。すみません、全て私の早とちりでした」
白星は軽く頭を下げ、そのように結論を述べた。
「早とちり?」
「はい…お恥ずかしい話ですが、雨夜さんが私に仲良くしてくれるのは…友人を作らない私を見かねた健介さんが、そのように依頼したからかと勘違いして…どうして、私がそのような思い違いに至ったのかは省かせて頂きますが、詰まる所、そういうことなんです」
白星は極々簡単に自らの思い違いを説明してくれた。
白星の話を聞いた俺は、「あぁ…」と彼女が勘違いした理由に強く得心する。
一匹狼の白星と、わざわざ自家製クッキーを届けるようなお節介焼きの健介さん。
二人のことを考慮すれば、それは充分に有り得そうなことだった。
「…その、誰かと親密になるのは初めてのことでしたから、つい感情が抑えられずに…」
白星は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
俺はそんな彼女を見て、訳もなく甘い感情を抱いた。
普段はつっけんどんな白星だけど、ちゃんと俺を仲の良い人として見ていてくれていたようだ。
「うん、俺は昨日の依頼が初めてだったし、健介さんから依頼なんて受けたことない。白星と仲良くしているのは、ひとえに個人的な事情だ。だから、例えそれが勘違いだったとしても、白星を傷付けたことを謝らせて欲しい」
俺は彼女を安堵させるべく、もう一度二人の齟齬を念押しした。
そしてその原因が解明された以上、俺は「ごめん」と白星に謝意を示した。
「い、いえ、謝らないでください。寧ろ頭を下げるべきなのは、勘違いで雨夜さんに迷惑を掛けてしまった私の方ですから…」
白星は少し慌てたように早口に言う。
そしてその後になって、彼女は視線をあちこちに向けながら、
「…えっと、それでは、これからも私と仲良くしてくれるということなのでしょうか…?」
と、控えめな声で俺に問い掛けた。
ただ、彼女が愛おしいという気持ちだけが胸の内で吹き荒れた。
今の白星が見せた照れ顔を決して忘れぬよう、俺はこの出来事を強く脳裏へ焼き付けた。
「あぁ、もちろんだ」と、それらの行為を終えた俺は、喜びに満ちた笑顔で答える。
「そうですか」俺の胸の内を知らぬ白星は、安堵したように深い息をついた。
彼女は一呼吸分の間を開けると「つかぬことをお聞きしますが」という前置きを入れたうえで、遠慮気味に俺と目を合わせた。
「…どうして雨夜さんは、私と仲良くしてくださるんでしょうか…」
俺は答えに迷った。
その時、俺には二つの選択肢があったのだと思う。
果たして、彼女に抱いてしまったこの気持ちを伝えるのか、それとも伝えないのかの二択だ。
そこには強烈な逡巡があり、結局、俺は後者を選んだ。
決して勇気が出なかったわけではない。
今日はこれ以上の情報を出して、彼女を混乱させるのは良くないだろうと判断したからだ。
「……そうだな。俺にとって白星は、かけがえのない……友人だから、だ」
俺は歯切れの悪い形で白星の疑問に答えた。
それは、俺自身が今後も彼女をただの友人として見ていられるだろうか、という迷いから生まれた躊躇いだった。
以前と違い、今の俺には白星に放つ一言一句が深い重みを持っているかのように感じられる。
結構な経験値を積んできたつもりなのに、今なんて心臓の鼓動を落ち着かせるので精一杯だ。
「かけがえのない…そうなんですね…」
白星は何処か満たされたように俺の言葉の一部を繰り返す。
やがて彼女は納得したように頷き、突如、このようなことを俺に訊いた。
「雨夜さん。仲の良い友人の間では、お互いの秘密を共有するものだと思いませんか?」
俺がその言葉に対して「そうだな」とも「そんなことはないんじゃないか?」とも言わないうちに、白星は言葉を続けた。
「私は、雨夜さんの裏側が物凄く卑屈な人だと言うことを知っていますが、雨夜さんはまだ私の秘密を知らないはずです」
「酷い言いようだ」
俺はこれまで通りの苦笑いを交えた相槌を打ったところで、実はつい先日から、彼女の秘密を知ってしまっていることを告白しようとした。
「その話なんだけど、実は健介さんから…」と俺がその話を切り出したところで、「ええ、喫茶店で健介さんから色々と聞かされたんでしょう?分かっています。それを加味して尚、私は雨夜さんに話すべき秘密を抱えていますから」と白星は被せるように俺に言った。
「話すべきって、それは俺に話しても良い事なのか?」
「はい。私にとっても、雨夜さんはかけがえのない人ですから」
俺がそのように確認を取ると、彼女は嬉しそうにそう答えた。
白星はゆっくりと立ち上がり、もう一歩、俺の近くにまで距離を詰める。
途端、彼女の両腕が俺の顔周りに持ち上げられ──そっと、その両手は俺の頬に添えられた。
驚愕のあまり、俺は身動きが取れなかった。
白星はそのまま背伸びして、お互いの顔が触れ合いそうになるぐらいまでに自らの顔を持ってきた。
「私の目を見てください」
白星が言葉を発せば、その小さな吐息が俺の顔に吹きかかる。
事態に動揺を隠せなかった俺の意識は何処か遠くに飛ばされていたが、気が付くと、俺は白星の両目に注視していた。
それは、彼女の言葉が鶴の一声であるかのようだった。
「不思議な色をしているでしょう?」
白星は俺を至近距離で見つめながら、落ち着いた声色で語り掛けてくる。
その目は相変わらず、カラーコンタクトを付けているかのような色合いをしていた。
瞳の黒色は灰色の虹彩に滲み出るように境界線を霞ませており、それはある種の神秘めいた美しさを発揮しているようにも見えた。
その不思議な目が今、余すことなく俺だけを捉えている。
それを意識した瞬間、心臓から流れ出る熱い血液が、どくりと全身に駆け巡ろうとした。
幸い、頬が誤魔化しようのない熱を帯びる前に、白星はその手を放してくれた。
俺は、顔が火照りそうになったことを悟られなかったことに安堵すると共に、彼女の柔らかな手のひらが離れてしまったことを名残惜しく思った。
「恐らく健介さんからは、私がかつて交通事故で両親を亡くしたことを聞き及んでいるはずです」
白星は淡々とその事実を曝け出す。
それはまるで、その痛ましい出来事が単なる前提条件でしかないような言い草であった。
一体、白星の抱える秘密がどんなものなのか。
それは想像もつかないことだったが、俺は前以って何かに備えるように、自然と息を吞んで彼女を見つめた。
俺の覚悟を待つかのような間を置いた後に、白星は極々あっさりと、その秘め事を暴露した。
「実は私、その時から色が見えないんです」
ブックマークと評価ありがとうございます!筆者の日々を生きる励みになってます!!
次回の投稿日は、6月22日の木曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!