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⑩/⑮

 ♦♦♦


 

 そこには余計な音が存在しない。

 車の走り去る騒音も、飛び交う学生の喧騒もなく、そこはただ静謐に包まれている。

 見る人が見れば、ここが何処も彼処もで雑音で溢れ返る大学内の建物だとは信じないことだろう。

 


 時折、何処からか微かに紙を捲る音や筆を走らせる音が聞こえてくるが、それらはあくまでも、静寂を壊さない程度のものに限られる。

 あまりの静けさに、空調設備から吹き出す風音さえ聞こえている始末だ。

 


 それが、大学図書館という空間である。

 


 この静寂を愛する者の集う場所は、俺みたいな人間には似合わない場所だし、僕みたいな人間には好まれる場所である。

 しかし、今日の俺は、静かに本を読む為に大学図書館を訪れたわけではなかった。

 


 広々とした天井の彼方から、昼白色のライトが適度に降り注いでいる。

 俺は目の前にある書架を左上から順番に目で追い、目的の本を探していた。

 


 上から数えて三段目に、お目当ての本を見つけ出す。

 それを書架から取り出し、最初の数ページを眺める。

 つかみを読んでこれだという確信に至ったところで、近くから、静謐の波長に溶け込んだ声が飛んできた。

 


「雨夜さん、目的の本は見つかりましたか?」

 


 声の主がいるであろう左側へ顔を向ける。

 すぐ隣には誰も居なかったが、やがて、本棚に隠れていた彼女の姿が見えた。

 


「あぁ、見つかったよ」と俺は小声で彼女に応じる。



「へぇ、ヘーゲルの著書ですか」 

 


 白星は俺の隣まで距離を詰めると、顔をこちらに傾けて俺の手に取った本を眺めた。



「弁証法は何かとテーマにしやすそうだったからな」「白星はどの本を選んだんだ?」

 


「カントの純粋理性批判です」白星は両腕に抱える分厚い著書を俺に見せた。

 


「認知の話が好きだな、白星は」俺は小さく笑みを零す。

 


「認知は一番身近なテーマですからね」白星は軽く頷いた。

 


 そうしてお互いに必要な著書を見つけ出した俺達は、そのまま受付に向かって本の貸し出し許可を得た。

 


 本日俺達が大学図書館に足を運んだのは、他ならぬ、十二月初頭に満を持して発表された哲学論のレポート課題に取り組む為だった。

 


 誰かしら哲学者に関連する著書を一冊読んだうえで、レポートを一編仕上げる。

 それが、哲学論の期末レポートに課された条件であった。

 故にこうして、図書館などに本を借りに来る必要があったのだ。

 


 こういう期末レポートは放っておくと、後々ろくでもない目に遭うことになる。

 いざテスト期間に図書館に足を運べども、そこには一切の著書が残されていない、

 などという悲惨な状況下に置かれかねない為、早めに取り掛かるのが吉なのだ。

 


 どうして二人で図書館にやって来たのかについては、もう言うに及ばないことだろう。

 


「一緒に図書館で本探さないか?」



 普段通り食堂でお昼を共にしている最中、俺はそんな風に彼女を誘い掛けた。

 すると白星はいつもの白々しい表情で俺を見やり、「仕方ないですね」とあまり気の進まなそうな返事で誘いに応じてくれた。

 そして今に至るというわけだ。

 


 丁度、俺と白星が無事に書物を借り出したその時、授業終了を知らせるチャイムが図書館の外側で鳴り響いた。

 ふと思ったが、大学のチャイムは音楽的要素が強いからか、耳に心地よく感じやすい気がする。

 


 あの特有の機械音のせいか、大学以前の学校生活で耳にしたそれには、授業開始に重い苦痛を覚えさせられたものだ。

 大学ではそのような学生の心理的障壁をも考慮して、チャイムが作成されているのだろうか。

 


 図書館の出入り口に向かう間、俺は白星にそんなことを語ったのだと思う。


 彼女は俺が思い付きで考えたことに真剣に耳を傾けると「なるほど、面白い考え方ですね」と一定の賛同を示してくれた。

 


 普段は他人行儀な白星に認められると、なんだか嬉しい気分になるものだ。

 尤も、最近の白星はその物言いと表情以外は、だいぶと丸みを帯びているような気もするけれど。

 いや、俺が彼女のつれなさに慣れてしまっただけなのかもしれない。

 


 図書館の自動ドアが俺達を感知する。

 徐々に開かれるドアの隙間から、身を裂くような鋭い冷気が流れ込んでくる。

 室内で温暖に保たれていた皮膚は瞬く間に凍てつき、俺は軽く身震いしながら図書館から足を踏み出した。

 


 俺と白星はそれぞれ反対側に住居を構えているが、キャンパスを出ていくまでは同じ道順を辿ることになる。

 


「冬は寒いから嫌だ」


「みんなが嫌な気分になるなんて良いじゃないですか」


「相変わらず白星は趣味が悪いな」



 なんて具合いでいつもの無益な雑談を交わしながら、俺達は学内と学外を隔てる門扉を目指していった。

 その足が大学の広場に差し掛かったところで、不意に、煌びやかな輝きが視界に飛び込んできた。

 


「クリスマスツリー…もうそんな時期なんですね」

 


 白星はふとその足を止め、黒いマフラーに隠れた口元でそう呟く。

 俺もまた同じように立ち止まり、今年も眩く光る学費を茫然と眺めた。


 

「なぁ、白星」俺はツリーから彼女に視線を移した。

 


「なんでしょう」白星もまたこちらを見やった。

 


 俺はたったいま閃いた、と言うよりは、少し前から考えていたことを彼女に切り出した。

 


「白星はどうせ、クリスマス暇してるだろ?」



 白星はその言葉に眉を顰める。

 

「どうせとはなんですか」と不快そうに言い返した後で、「…まぁ、暇ですけど」と彼女は小さく言った。

 


「実は俺も、今年のクリスマスは暇なんだ」



「学内では、あのツリーよりも明るい雨夜さんが?」



 俺がそのように会話を続けると、白星は無表情なものの、たぶん嫌味っぽく言った。

 


「そうだ。白星と出会って以来、女の子と連絡取り合うのをすっかり忘れててさ」

 


 ちょっとした失敗なんだよな、と俺は付け加えながらへらへら笑う。

 


「……私のせい、とでも言うんですか?」彼女は俺からほんの少し目を逸らした。

 


「うん、手あたり次第の姿勢で挑んだら、白星みたいな子に当たっちゃったからな。容易に女性に手を出すことが恐ろしくなったんだ」

 


 俺はおどけた調子でそう言った。

 白星は呆れたような目で俺を見やった。

 


「どうだ?良かったらクリスマスの日に、イルミネーションでも見に行かないか?その後は適当に俺の家でチキンとピザでも食べてさ」

 


 俺はそのように、無計画な提案を彼女に投げ掛けた。

 白星は再び俺から視線を逸らし、薄墨色の目にツリーの明かりを映し出した。

 


「…イルミネーション、ですか…」



「良い場所を知ってるんだ。たぶん虹よりも綺麗だと思う」 



 彼女は妙に重々しく、前方で色めくツリーの姿を眺めている。

 白星がイルミネーションに食いついた。

 そう思った俺が大袈裟な言葉を繋ぐと、僅かな沈黙の末に、彼女は浅く息を吐き出した。

 


 この時期にもなると、吐き出す息が白く空気中に残るようになり、聴覚だけでなく視覚でも、彼女のため息が捉えられるようになってしまった。

 


 そして彼女はいつものように「仕方ないですね」と消極的な肯定をすると思われたが、

 


「…そうですね、分かりました。雨夜さんの言う通り、どうせ暇なんです。その案に乗りましょう」

 


 と、今日の白星は自ら俺の提案を受け入れた。

 流石にクリスマスを一人で過ごすのは詰まらなかったのだろうか。

 


「おっ、珍しく乗り気だな。そんじゃ、細かいことはまた追い追い決めることにしようぜ」



「ええ、そうですね」



 そのようにして俺達は簡潔に話を纏め、再び門扉を目指して歩き始めた。



 ──これからの俺は、白星にどう接するべきなのか。



 先日の俺は、そんな下らない考えに頭を悩ませたりもしたが、結局、俺の見つけ出した答えはこうだった。

 


 何も難しいことを考える必要はない。

 健介さんの言う通り、俺はこれまで通り白星と仲良くすればいいし、白星が俺にしてくれたように、俺もまた彼女にそっと寄り添ってやればいい。

 


 俺はこれまでのように、こうして少し煩わしく思われるほどの馴れ馴れしさで彼女に近づいてやって、呆れ果てる白星を色んな所に引っ張り回してやればいいのだ。

 


 要は、これまで悲惨な目に遭ってきた分、今の白星が少しでも、人生に楽しさを見出してくれればいい。

 俺はただその為だけに行動すればいいのだろう。

 


 その一環として、俺はクリスマスという日に、彼女を三度目のデートに誘ったのだと思う。

 


 その結果、俺と白星の関係性は破綻を迎えることになるとも知らずに。

 


 今にして思えば、俺はこの時点で既に、充分すぎるほどの断片的な情報を集めきっていた。

 それは、白星から見聞きしたこともそうであるし、いみじくも心象でさえそうであった。

 


 だから、もうあとほんの少し視野を広げて物事を見ていれば、俺は限りなく正解に近い答えを導き出すことが出来たのだろう。

 そして場合によっては、俺と白星の距離感は今とは違うものに変化し、その日の悲劇に見舞われることはなかったのかもしれない。

 


 もっとも、些細な日常の中から確かな情報を組み立てることを、刑事でもない一般大学生に期待するのは適切ではないだろうが。

 

 

 ♦♦♦

 

 

 クリスマスを迎えるまでの約二週間は、特に何事もない平凡な日々であった。

 


 週に三日はアルバイトに精を出し、週に二日はサークル活動に励み、週に五日は学業に勤しむ。

 迫る期末考査の予感に震えつつも、白星や駿介、彩名と共に昼食を共にしたりする。

 


 以前のように酒池肉林に興じたりはせず、落ち着いた日々を過ごす。

 そういうのが、今の俺にとっての在り来たりな毎日だった。

 


 約束の日の前日である二十四日。

 俺はそのクリスマスイブを、仲の良い友人たちとちょっとしたパーティーを開いて騒がしく過ごした。

 


 そう言うと良さげに聞こえるが、実際の所、その集まりはクリスマスに過ごすべき相手の居ない野郎共の寄せ集めでしかない。

 遊び相手も本命の人も見つけられなかった、虚しい者達の集いだ。

 


 意外だったのは、その場に駿介が姿を見せなかったことだろう。


 彼曰く「今年のクリスマスは彩名と過ごすんだ」とのことである。


 積極的になる、とはこのことだったのかもしれない。

 


 明日は友達との約束がある、という形で早々にその輪から抜けた俺は、十分な睡眠を取って当日の二十五日の朝を迎えた。

 


 時刻は午前十時、窓の外の朝日が眩しい。

 天気は上々、雪は降っていない。

 


 今日は一日晴れであることを確認し、俺は早速身支度に取り掛かった。

 早めの朝食兼昼食を済ませてから、服を選んだりアイロンで髪型を作ったりと、いつもの工程をそつなくこなしていく。

 


 正午の頃には準備万端となり、俺はアウターを羽織ってアパートを出発した。

 最寄り駅まで徒歩で移動し、地下鉄に乗り込んで集合予定の駅に向かう。

 白星との約束は、午後五時からだというのに。

 


 ならばこの性急すぎる出発は何の為なのか。

 俺と白星のことだ、わざわざ下見に行くような間柄でもないだろう。

 


 その実を言うと、俺は白星との予定の前に別件があったのだ。

 


 では、別件とはどのようなものであったのか。

 それを説明するには、一週間ばかり時を遡る必要がある。

 


 その日、俺はいつもに増して激務であったアルバイトに疲れ果て、萎れた草木のような状態で自らの住処に生還していた。

 満身創痍で眠くて仕方がなかったが、居酒屋の匂いに塗れた身体でベッドに倒れ込むことは許せなかった。

 


 究極の選択の前で僅かに逡巡した末に、お風呂でしっかりと疲れを癒すことにした。

 それからさぁ寝るぞ、と温まった身体でベッドに沈み、アラームを設定しようと片手に携帯電話を握ったその時、ふと、奇妙な通知が入っていることに俺は気が付いた。

 


 それは、見覚えのないユーザー名に届いた、これまた身に覚えのない相手からのダイレクトメッセージだった。

 


 自分でアカウントを開設しておきながら、どうして自分のアカウントに見覚えがなかったのか。

 頭の中で時計の針が一巡すると、不意に数か月前のことを思い出し、俺はその可能性に至った。



 すぐさま通知を開き、メッセージ内容を確認する。

 画面に表示された文面は、このようなものだった。

 


『突然のご連絡失礼致します。差支えがなければ、12月25日の14時から17時までの3時間、恋人代行をご依頼させて頂きましてもよろしいでしょうか。』

 


 俺は文章を二度見した。

 そして、一度画面から目を逸らしたのちに、再び文章を頭の中で読み上げた。

 


 一分ほどの時間を掛けて、俺は確信に到達する。

 なるほど、依頼が入ったのか、と。

 


 しかし同時に、俺はこうも思っていた。

 いや、まさか本当に誰かからメッセージが届くなんてな、と。

 


 その時、幼鳥が初めて狭い巣の中から大空へと羽ばたいたように、俺の中にあった失敗体験は小さな成功体験へと生まれ変わった。

 


 それに関連する情報が脳裏を掠めるだけでも、酷く嫌な心地に陥る。

 そんな二度と思い出したくもないような失敗があるのだと、俺は以前から話していたはずだ。

 その常日頃から気にしてきた些細な傷跡こそが、このアカウントを利用した恋人代行サービスのことであった。

 


 時は更に遡る。

 大学が夏季休暇に突入して一カ月程経った頃、俺は頭の中でお手玉してもなお余りある暇を抱えて日々を過ごしていた。

 そんな退屈な毎日が続く夏のある日、蒸れた熱の籠った部屋で酒を飲みながら、俺は唐突に思いついたのだ。



 例えば、恋人の代わりを務める職業があれば、それは大いに儲かるのではないだろうか、と。

 


 大学生になってからというもの、片手では数えられないぐらいに女性を経験してきたこと。

 加えて、男女問わず周囲の友人から顔が良いと褒められていたこと。

 それらがかつては芽生えもしなかった筈の自尊心を急速に膨張させ、それをアルコールの酔いが暴走させた。

 俺はすぐさま恋人代行用のアカウントを用意し、そこで依頼を募集し始めたのだ。

 


 結果から言おう。

 それは見るも無残な惨敗であった。

 


 誰一人として俺のアカウントをフォローする人はおらず、依頼が殺到することもなく、その惨めなアカウントを目にする度に、俺の精神力は鋸で削られるように擦り減っていった。

 やがて俺の赤子のような自尊心はそれを許容できなくなり、いつしかアカウントの存在そのものを記憶の奥底に封じ込めるようになった。

 


 しかし、ここで断っておきたいのは、その発想自体は大変素晴らしいものであったということである。

 だが、俺はアイデアの運用方法を間違えてしまったのだ。

 


 俺のような特に有名でもない一般人が募集を掛けたところで、集客力が皆無であることは明らかであったはずだ。

 ならば、俺は起業のような形で恋人代行サービスを作り上げ、組織という強力な体制で事業を展開すべきであっただろう。

 


 そんな反省を証明するように、その数か月後には恋人代行サービスなるものが一気に世の中に広まった。

 そういう手合いの記事を目にする度に、俺は自身の着想が正しかったことを慰めにすると同時に、経済学部に所属しておきながらそこに至れなかった自分を恥じることになった。

 


 世の中に恋人代行サービスがごまんと溢れる時代となった今、俺のような業者でもなければ注目されることもなかった先駆者に、いまさら依頼が入るとは思っていなかったのだが、その日、確かに一件の依頼が届いた。

 


 メッセージ送信者と話を進めていくと、なんの偶然なのか、相手方のデートを希望する場所が白星と落ち合う予定の駅前だった。

 そのうえ、ちょうど白星との約束の時間とも重なっていないこともあった。

 俺は怖いもの見たさで恋人代行を引き受けることにした。

 


 と言っても、俺の方は正式な恋人代行サービスと違い、明確な規約があったりするわけではない。

 やっていることは出会い目的となんら変わりない行為である。

 


 けれどまぁ、どうせその日は駅前に足を運ぶのだ。

 これが悪質な嫌がらせであったとしても、骨折り損とはならないだろう。

 


 そういうわけで、俺は白星とデートする前に、依頼主とデートもどきをすることになったのだ。



 依頼主と落ち合う予定の駅で電車を降り、階段を昇って地上に出てくる。

 俺は駅前にある前衛的な噴水の方へ向かった。

 


 噴水前に辿り着いた。

 腕時計を確認する。

 依頼開始まではあと十五分ほど残されていた。

 メッセージで依頼主に噴水前で待機していることを伝え、俺はうろこ雲をぼんやりと眺めた。

 


 その十分後、依頼主から、自分もまた噴水前で待機している、との趣旨の返信を受け取った。



 辺りを見回しても誰が依頼主なのか、その彼女または彼の素性を知らされていない俺には分からない。

 服装の特徴などを文面で伝えたり聞いたりするのが面倒で、俺はWebアプリを介して通話をすることを依頼主に持ち掛けた。

 


 依頼主はそれを快諾し、すぐにURLを送ってくれた。

 俺はそれを開き、依頼主と電話を繋いだ。

 


「初めまして、わたあめです。本日はご依頼いただきありがとうございます」

 


『わたあめ』はアカウント上の偽名だ。

 この名前にしたのは、何も綿あめが大好物だからというわけではない。

 単にこういう感じがウケそうだと思ったからという、中身のない考えゆえである。

 


 と言うか今思ったが、この人はよくも、こんな得体も知れない人間に恋人代行なんて頼もうと思ったな。

 昼間のうちだから安心、とでも考えたのだろうか。

 


「……こんにちは。あの、わたあめさんはどういった服装をされていますでしょうか…」

 


 少し、緊張しているのかもしれない。依頼主は早口に言う。

 その声の調子は低めではあるが、女性っぽい柔らかさがあった。

 


「僕の服装は、そうですね。黒いコートに鼠色のパーカーの組み合わせです」



 俺はそのように伝えながら辺りを見回し、噴水に沿って歩みを進め、

 

「あぁ、そのまま電話を繋いだままで居てもらえませんか。付近で電話をしている人を探すので…」

 

 と、言った矢先のことだった。

 


「分かりました。黒のコートにグレーのパーカーですね」

 


 すぐ近くから、電話越しの音声と似たような声が聞こえた気がした。

 俺は後ろ髪を引かれたようにその足を止める。

 


 相槌がなかったからだろう。「聞こえますか?」とまた近くで声が聞こえた。

 


 俺は反射的に真横を向く。

 するとそこでは、こちらに背後を向けた女性が「……あの、わたあめさん?」と不安そうに呟いていた。

 


 小柄で、ふわふわとした黒のベレー帽を被っている女性だった。

 


「はい、聞こえています。たぶん、すぐ後ろにいますよ」俺は確信と共に微笑む。



「後ろですか?」と女性は驚いたようにこちらへ振り返った。

 


 瞬間、俺の世界は完全に停止した。

 



 目の前には、白星が居たから。

 



 一方、振り向いた白星はまだその事実に気が付いていない。

 

 愕然と固まる俺を不思議そうに眺めながら「…雨夜さん?約束の時間はまだですが…」と言葉を続けようとしたところで、彼女は自らの声が俺の携帯電話からも流れていることを認識したのだろう。

 


 白星も俺と同様に、大きな衝撃に見舞われたようだ。

 彼女の言葉はそれ以上続かなかった。

 


 頭の中がぐるぐると、無意味で曖昧な情報に溢れ返る。

 


 今ここに白星が居て、俺が電話をしていた相手も白星だった。

 そこまでは俺にも分かるが、それ以上が上手く頭の中で噛み合わない。

 


 それ以上の情報など在りはしない。

 寧ろそれだけで全てが完結しているというのに、事態に混乱した俺はどうしてもそれを理解することが出来なかった。

 


 結果、俺にはただ愕然と、白星を見つめることしか出来なかった。

 


 そして白星も同じく、頭の中で様々な情報が交錯しているようだった。

 こちらに視線を貼り付けたまま、必死に何かしらの理解に辿り着こうとしている様子だった。

 


 どれぐらいの間、俺達はそうしていただろうか。

 


 ある時、白星は「あっ…」と小さな声を洩らし、その薄い色をした両目を際限なく見開いた。

 そんな彼女の無表情は怯えているようでもあり、また、何処か苦しそうでもあった。

 


「…白星?」

 


 白星の不審な変化に気が付いた俺は、そのように彼女を呼びかけ、一歩近づく。

 しかし、そこには同じ極の向き合う磁石があるかのように、白星は一歩後退りした。

 その顔には、痛々しいほどの悲嘆が浮かんでいた。

 


 それを隠すよう、彼女はすぐその顔を俯ける。

 黒の小さなバッグから財布を取り出し、そこから乱暴に紙幣を数枚抜き出す。

 白星はこちらに顔を向けようともせず、黙って右手に握った紙幣を差し出した。

 


 唐突に白星が起こした行動の意味を、その苦しげな表情の意味を理解出来ず、俺はそれを受け取れない。

 その間、彼女は何かを堪えるように右手の握る力を強めていった。

 右手に握られた紙幣は、徐々にその形を紙屑のように変えていった。

 


 やがて彼女は俯けた顔を上げると、「……依頼料、です」と小さく、震えた声で言った。

 


 その目尻には、滲むものがあった。

 


 それを認識した途端、何か、胸を背後からどすりと貫かれたような、どうしようもない息苦しさで身体中が満たされた。

 


 俺が正体不明の動悸に意識を奪われているうちに、彼女の目尻に溜まったそれは溢れ出し、頬を伝って地面をぽつぽつと濡らした。

 彼女から零れ落ちる雫は、俺から思考力というものを根こそぎ奪い去った。

 


「し、白星、なんで……泣いて……」



「…あれ…おかしい、ですね。こんな、はずでは…」


 

 思わず口元から言葉が漏れ出す。

 そこで白星は、自らが涙を流していることに気が付いたようだった。

 流れ落ちるものを拭うよう、彼女は袖で頬を撫でた。

 


 それが引き金であったかのように、彼女の涙は止まることなく、寧ろぼろぼろと絶え間なく流れ落ちていく。

 だがそれは彼女自身の意に反することであるかのように、白星はしゃくりあげることもなく、静かに頬を濡らし続けた。

 


 痛かった。

 俺は何一つとして状況を呑み込めないでいたが、ただ、胸が痛かった。

 涙する白星を見た瞬間から、胸の奥を抉り取られるような激痛だけが、行き場なく身体中を巡り続けていた。

 


 やがて白星はこの事態に耐えかねたように「…すみません、今日の話は、全て無かったことにしてください」と独り言のように呟く。

 


 俺が何も声を掛けられないでいるうちに、彼女は俺の身体に捻じ込むようにして数枚の紙幣を押し付けると、小走りに俺の傍を通り抜けていった。

 

 

 

 白星が俺の身体を追い越して、何処か遠くへ走り去っていく。

 呼び止めなきゃいけない。

 そうとは分かっていたけれど、俺には彼女を追い掛けられなかった。

 


 その訳は分からずとも、他でもない俺自身が白星を悲しませてしまったのだという事実がどうしようもなく頭の中を掻き乱し、胸の奥に響いて残るような痛みをもたらし、絶望の足枷としてその両足に圧し掛かってしまったから。

 


 俺は呆然自失と、その場に立ち尽くす。

 


 冷たい風に吹かれて、紙幣が飛び散っていく。

 


 胸の中には空虚の形だけが残った。

 

 

 




次回の投稿日は、6月20日の火曜日となります。


それでは、また次話でお会いしましょう!

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