第十五話 最後の笑顔
燃えるような日の光が眩しい。
これは朝日か夕暮れか、俺の時間の感覚は麻痺していた。いや、時間どころか目に見えるもの自身の記憶すら心という柱で支えてなければ保てない気がする。
水で顔を洗い鏡で自分の顔を確認する。
「くそっ、痛ぇ…」
右目のまぶたの所が腫れており、指で触ると鋭い痛みがはしる。考えてみれば人に殴られるなんて人生で初めてだ。あの衝撃と恐怖を忘れる事はないだろう。俺はもう一度ベットに倒れこみ天井を見上げ、そして片腕を天井に向けて掲げた。
奴は触れるものを燃やせると言っていたな…
そんな能力が本当に存在するなんてな、まさに小説、漫画の世界だ。一応説得はできたと思いたいが奴は今後どう生きていくのだろうか?あの時は無我夢中だったが俺は正しくあれたのだろうか?
目を瞑り昨晩の事を振り返るがその答えはいくら考えても、解らないままである。
とにかく奴の最後の言葉を信じて俺も日常に戻ろう。そう頭の中でふっきり、まずは切り傷や火傷の手当を行う事にした。
「もうこの時間は病院はダメだな」
そして俺は燃えるような夕日を眺めながら薬局に向かった。
買ってきた医療品で傷の手当をして、テレビを見ながら簡単に作った料理で空腹を満たす。消毒液でしみる傷口を気にしながらぼーっと番組を眺める。そうしていると、不思議な感覚にとらわれた。俺はテレビを見ているがこれは本当なのだろうか?俺は本当に存在しているのか?テレビの向うこうの演者達が存在するという証拠は何なのだろうか?“悪魔の証明”という言葉があるように自分自身どころか世界の全てが存在する証拠なんて存在しないんじゃないだろうか。
そんな風に考えていると、とてつもない不安感と恐怖心に襲われた。日常が日常でなくなり、世界はその在り方をガラリと変え、準備の出来ていない自分だけが旧世界に取り残されてしまうという不安感…
まずい、このままだと得体の知れない感情に飲み込まれそうだ。すぐに立ち上がり上着を着て逃げるように家から飛び出した。しかし、もう俺にとって逃げ込める日常は一つしか残っていなかった。俺は入り口の赤色のチューリップに夜の挨拶をすると、扉を開けた。
のぞいてみるともうお客は誰もおらず、南と高木さんは店内の掃除やかたづけをしているようだった。
「あ、亮さん!」
「あー、すみません来るの遅かったですね。また今度に、」
「いやいや、構わないよ。コーヒーで良いかな?」
「ええ、じゃあすみません、お願いします」
いつもの光景、いつもの匂いに包まれるが何か違うと感じる。それは俺が変わってしまったからなのか、それとも…そんな風に考えながら俺はカウンター席に座る。
「え!亮さん顔どうしたんですか?」
「ん?ほんとだ病葉君どうしたの?腫れてるじゃないか」
「あーいや、ちょっとバイクでこけちゃって、けど大した怪我じゃないから大丈夫ですよ」
「え!事故ですか?もうー、亮さん気をつけて下さいよ!」
心配そうに南が見つめてくる。
「あ、うん。気をつけるよ」
しばらくの間の後「ああ、そうだ!どうしても今日中に済ませときたい買い物があるんだった!南ちゃん悪いけど、少し店番頼んでも良いかな?」
「はい、大丈夫ですよ」
「そうかい、じゃあ行ってくるから病葉君のコーヒーも頼んだよ」
高木さんはそう言うと、エプロンを脱ぎコートを着て買い物に出かけてしまった。
外を見ると外灯の光が輝き、もうすっかり夜だ。南は慣れた手つきでコーヒーを作り始める。そんな姿を見ているともうすっかり一人前なんだなと心の中で感心してしまう。南と二人きりになってしまったが、そういえば最近はあまり南と話していなかったな。
「バイトはもうすっかり一人前みたいだな」
「えへへ、そうなんです。最近はだいぶ慣れてきていろんな仕事できるようになったんですよ!」
そう答える南は得意げで、そしていつものように美しい笑顔で答えてくれる。
「亮さんはあんまり来てくれなくなったから、知らないかもしれませんけど!」
頬を膨らまし不満気な表情になって、南は出来上がったコーヒーをカウンターに出してくれた。
「あー、最近忙しかったからね。でももう大丈夫かな?多分」
そう言い、コーヒーを一口飲む。
「うん、凄く美味しいよ」
「えへへ」
とても満足そうな笑顔だ。
「けど、そんなに仕事ばっかりだと彼女さん寂しがっちゃいますよー」
「あー、その、彼女とは別れたよ」
「えっ!?どうして?何でですか?」
南は凄く驚いた様子で目を丸くしていた。
「浮気されちゃってさ、しかも浮気相手は俺が、信頼してた人でさ…」
「だから別れたよ」
話さないと決めていたのに、なぜ俺は話しているのだろうか。
「そんな、酷い…」
悲しみの表情が俺の心に突き刺さる。こんな表情にさせたくなかったんだ、なのに俺は何故、
「まぁ、浮気された俺にもきっと何か悪いとこあったのかな、それにいろいろ経験になったし次に活かすよ」
少し愛想笑いを混ぜてこの話はこれで終わらそう。
俺はそう思ったが南は動き出しながら
「ダメですよそんなの!そんな経験、活かしちゃダメです!」
南は大きくはっきりした口調でそう言葉をかけ、隣のカウンター席に座って真剣な眼差しで俺を見つめた。
「上手く言えませんが、亮さんはとても優しい人なんです!」
南の瞳には、店内の照明が強く反射している事に気がついた。
「そんな亮さんの優しさの本当の意味を知らない人達の事なんて考えちゃだめです!亮さんは変わっちゃダメなんです!そんなのダメなんです…」
そして、その光はやがて粒になり、そしてボロボロとこぼれはじめた。
「わ、わかったよ、」
俺は慌ててジーパンの後ろポケットからハンカチを取り出し、南に手渡した。
「そうだよな、浮気されてそれが良い経験なんて言うのは考えてみればおかしな話だもんな、教えてくれてありがとな」
俺は南が少し落ち着くのを待つのと同時に、入れてくれたコーヒーを見つめながら考えた。
裏切られた経験を活かすという事は、この先人に騙されないようになるという事であり、その方法は人を信頼しない、依存しない、知ろうとしないそういう事になる。いささか極端な考え方かもしれないが、つまりはそういう事。
そして世間一般の大人は皆、少なからずそういった疑いの心を持って生きている。それは騙されないため、傷つかないため、大事なものを失わないため、でありそれが多数派の考え方なのだから、ついそれが正しいと思って実行してしまう。
それに反する南の言葉。それは子供の意見だと安易に切り捨てるには、あまりにも重くそして重要な言葉に感じた。俺には切り捨てる事はできない。そう感じたのだ。
「昔さ、俺は大事な人から逃げたんだ」
「いろんな事沢山勉強してさ、その人のためにできる事は全部してさ」
「それでも俺の気持ちは伝わらなくて…」
「それで、その人から俺は逃げたんだ。もう一緒にいるのがつら過ぎて、俺じゃ助けられない、他の人が助けるべきなんだって思って…」
「けど逃げてもどうしようもなくて、もしまた同じような人と出会った時また俺は逃げるのかなって思って。あの時の無力感はもう二度と味わいたくなくて」
ヤバい自分から話しておきながら話の着地点が分からなくなってきた。そもそもなんでこの話を南に…
「それで、そのどうして良いか答えはまだ分からなくて…」
しばらくの無音の時が流れる。コーヒーに映る自分の顔を見つめ、あまり暗い顔になっていないかを確認し、顔を南の方えと向けた。
「ご、ごめんなこんな話突然してその、浮気の件はもう大丈夫だから」
南も顔を上げた。しかしそれは今まで泣いていたはずの可憐な少女の顔ではなく、力強くどこまでも真っ直ぐで凛とした表情の一人の女性だった。
「亮さんは逃げてなんていません!」
「ずっと戦ってきたんですよ!じゃないとこんなに優しい人になれないよ!」
その言葉はまるで耳のそばで拡声機を使って届けられたかのような衝撃だった。それは過去という俺の中にだけ存在する慄然な世界が、新しい色に染められたかのような感覚であり、言葉を失った。
そして言葉の代わりに次々と大粒の涙があふれでた。
「もー、亮さんまで泣いちゃった」
南はハンカチを渡し返しながら、手を俺の頭の上においた。
「よしよし」
俺の頭をなでる南の笑顔は一生忘れられないだろう。俺はハンカチで涙を拭こうとするが、「なんだ南の涙でびちゃびちゃじゃないか」そう半分笑いながら答えた。
「もーしょうがないなー」
そう言うと南は立ち上がり、俺の顔を胸に引き寄せながらこう語った。
「お母さんが言ってました、優しさはその人の強さでもあるって。だから強い亮さんはきっと大丈夫です。いつか答えを出せますよ」
俺は左手で南の肩を掴み、右手は拳を握って温もりにつつまれながら号泣した。こんなに人に優しくされたのは初めてだ。そして最近の出来事で張りつめていた心が解放されたかのように、ただただ俺は号泣した。
「よしよし」
次回 【第十六話 全てを繋ぐモノ】