ふたり
ぼくたちは寝ることはない。
といっても、ずっと永遠に動き続けられるわけじゃない。
休息したり、エネルギーをもらうための場所はある。
それは、雲の上だった。
星明りのもとで漂いながら、大気に満ちている気の力をチャージするんだ。
ぼくが雲の上にのぼると、地上の精霊たちも次々とのぼってきた。
水の精霊や、四月の渡り鳥を守る精霊、それに樹木の精霊たち、
ちいさなクモの精霊たちは、ぼんやり輝く雲の中で輪おどりをしている。
最初はにごっていた水の精霊のからだは、雲の上で少しずつ透明になっていった。
彼らは、クジラの鳴くような声で歌をうたっている。
いつもなら彼らの歌に耳をすませ、何も考えないですごす。朝までつづく退屈な時間。
でも今日はちがった。
考えることがたくさんあったんだ。
あの夏目という人は…不思議な人だった。
ぼくが出会った人の中でも、これほど不思議な人はいなかった。
彼女のぼくを見る目は、どちらの目だろう。母親? それとも娘のほう?
彼女の目は、見る角度によって茶色にも深いえんじ色にも見えて、
ひとみには星座のような光を宿していて。
心の中に甘い心地よい感情がこみ上げて、あわてて打ち消す。
いやいや、それよりもぼくに残された時間は、あと2日半なんだ。
なのに今の彼女は、なんともぱっとしないアイドル候補の一人だ。
明日からどうすればいいんだろう?
夏目は、なにひとつ「仕事」のことは知らない。
ぼくだって、わからない。
夏目はぼくに向かって、「わたしは、ひとりじゃない」と言ったけれど、本当のぼくの目的を知らない。
彼女を監視するために来たということを。
西風の精霊が、ぼくの頭上をゆっくり横切る。
はるか下の世界をみおろすと、一匹のいたちが、とぼとぼ線路のわきを歩いているのが見える。
いたちには、雲の上のぼくが見えるんだろうか?
もしもとつぜん電車がやってきて、あの小さないたちが、はねられてしまったら、ぼくはすごく心が痛むだろう。
この仕事が、あと少しで交代できて、よかったかもしれない。
あの夏目が母親のようになれなくて、深く傷つくことになったら、
まるで小さな生き物を殺してしまうようで、
そんなの、とても見ていられない。
* * * *
夜が明けた。
朝の光が、部屋のカーテンのすき間から入ってくる。
ひとりぼっちで眠っていた夏目はうっすら目を開けて天井を見た。
髪を乾かさないで寝たから、爆発したように寝ぐせがひどい。
焦点の定まらないひとみを動かし、目の前にあらわれたぼくを見る。
(これは夢じゃない。ここは1987年のお母さんの部屋、リンさんは死んだ人、わたしはみがわり…)
夏目は、がばっと飛び起きた。
「学校に行かなきゃ!」と叫ぶ。
ハンガーにかけている紺色の制服を見上げた。お母さんの高校のブレザー。
これでわたしも高校へ行くのか。
教室、先生、今日の予習…、心にいろんな言葉が浮かんでは消える。
(どうしてゴーストの言うことを聞いて寝ちゃったんだろう?
まったくなんにも準備してない)
「くそっ」アイドル候補らしからぬアクタイをつきながら、毛布をはね飛ばして体を起こす。
とつぜん高校生になっていて、なんにも知らない学校に行かないといけない。
「宇宙人がウヨウヨいる場所にひとりで行け」というようなものだ。
また夏目は、涙目になっている。
(これが、最初の試練ってわけ?)
17の子達とこれから何を話せばいい? たった5年前のことだけど。若い子たちとの会話はそれでなくても苦手なのだ。
「でも行く。行かなきゃ。行くしかない」
「ムリだ。今日は休むんだ」ぼくはきっぱり言った。
「休む?」夏目はオウムのようにきょとんとする。
「高校は…危険だ」
「だめ。お母さんが一生けんめいに通っていたのに、わたしが休むわけにいかない。
35年前の高校だろうと何だろうと、とにかく行かなくちゃ」
髪の寝ぐせを指でおさえつけながら、悲壮な決意で言った。
その気持ちはわかる。
「でもね、きみのロッカーの場所は? 今日の授業はどこから? 先生の名前は? そもそも学校はどこ?」
容赦なくぼくは、とどめをさした。
「いま、1987年の高校で何が流行っているか知ってる?」
夏目はだまった。何か反論したくてたまらない、でも言いかえせない顔つき。
ほら。
「学校というのは、すこしでも変わったことがあると、すぐに気づかれる場所なんだ。
きみは今の世界をよく知らないし、学校も知らない。
クラスの子から疑われる危険は、さけたほうがいい」
それでも夏目はだまっている。
「考えてごらん。みんなが知ってる当たり前のことを、きみだけ知らないんだ。
みんなはどう思うだろう? きみが変になったって思うんじゃないか?」
夏目は、ぼくをにらんでいた。やっぱりすごいいじっぱり。
ぼくは、反則ワザをくりだした。
「いつか、お母さんがここに戻ってきたときに、困るんじゃないかな。お母さんがみんなから変に思われて、恥をかいてもいいの?」
この人は、お母さんのことを言われると弱いのだ。
「夏目、今日は休んでいいんだよ。一日だけ。あの人もゆるしてくれる。その間に1987年の街のことも、きみのアイドルの仕事のことも、もっとよく知るんだ」
けっきょく夏目は、いったん手にとった制服を、もとの場所にもどした。
ぼくの意見に従うことにしたようだ。
(お母さんが恥をかくのはだめ。それはできない)
しぶい顔を続けて、アヒル口になっている夏目にかまわず、ぼくは冷蔵庫を指さした。
「アイドル候補がそんな顔をしない。それから何か口に入れること。
きのうの夜も食べてないじゃないか。
きみを飢え死にさせるわけにいかない。きみが死んだら、ぼくは困るんだ」
今のぼくの役目は、たとえ3日間でも、ここで生きていけるようにしてあげることだ。
食べながらどうするか考えよう。
とにかくこれで「一日の猶予」ができたんだから。
夏目は寝ぐせと戦うのはあきらめて、さっさと長い髪をポニーテ―ルにしていた。
(女の子というものは、どうして髪をまとめるしぐさが、みょうに可愛いんだろう?)
それから、ぼくの言うとおり部屋のすみの小さな冷蔵庫をあけた。
中身はわびしい。ミルクと、残っていたわずかな食料(パンが3切れと、トマト1個)が今日の朝ごはんだ。
小さな木のローテーブルを部屋のまんなかに置いて、
二人でちんまり座って、なんとなく夏目が食べる様子をながめている。
「自分だけ食べるのは、へんな気分なんだけど。
輪さんは食べなくていいの?」
「ぼくは食べなくてもいいんだ。地球にある気の力で動いていけるから」
「ふうん、でも味を感じたりはする? 匂いは?」
「味も匂いもわかるよ。それよりぼくが見ていると食べづらい?」
「ぜんぜん。わたしそういうの気にならないから」
夏目はきれいなカタチの口を開けてパンをかじっている。
確かにぜんぜん気にしてないようだ。そのほうが気は楽だけど。
「輪さんはお母さんがわりもするのね。ご飯のこととか、学校のこととか心配をしてくれる」
(もちろん仕事だからなんでしょうけど)
「今回は、とくべつ」
「とくべつ? 輪さんはずっと人の見守り役じゃないの?」
「うん。こうしてぼくが姿を見せたのは、いままで3人だけ。たいていは影ながら生きている人をはげましていただけだから」
「影ではげます? それはどういうこと?」
ふしぎに思うのも当然だ。ぼくのはげましは、生きている人のはげましとは違っているから。
「ぼくがはげますのはね。がんばっているのにうまくいかなくて、自分を責めている人、それでもがんばり続けている人。
それで、心が落ち込んでいる人。そういう人は見ただけでわかるんだ」
「それでどうするの?」
「そっとそばに行って、耳元でささやく。
よくがんばったねって。誰にもわからなくてもぼくは知っている、とか」
「その人に、輪さんの声は聞こえるの?」
夏目は優しい声でたずねる。
「耳では聞こえない。運がいいと、心にとどくこともあるし、やっぱりわかってもらえないこともあるかな。
きみは経験がない? 落ち込んだときに、まわりには誰もいないのに、ふっと勇気が湧いてくるような気持ちになることとか」
夏目はぼくの仕事について、何も感想をいわなかったし、ぼくもいまは夏目の心を読みたくなかった。ただ、顔を上げると夏目と目が合った。
とまどったぼくは、あわてて目をそらした。夏目に「そういう目」で見られると、心が追いついていかないのだ。
「輪さんは、なぜ…死んだの?」夏目はまじめな顔をしてたずねた。
「昨日もいったけれど、ぼくたちは自分自身の記憶は、残ってないんだよ」
「思い出も、ないの?」
「うん。ぼく自身の思い出は何も残ってない。
習ったことと、見たもののことは覚えているけど」
夏目は、お母さんの写真を見て、またぼくのほうを向いた。
「どうして神様は思い出を消すの? 悪い思い出だから?」
「いい思い出も、悪い思い出も、どちらも公平に消えてしまうんだよ」
それについては、ぼくも考えたことがある。意地悪をして思い出を消すはずはないから、何か理由があるはずだと。
「たぶん、ぼくの推測だけど…、もしも記憶が残っていたとするよね。
そしたら、ぼくたちに何か思い残したことがあったら、永遠に苦しんでしまうことになる。
かなえられることは絶対にないのに。だからかもしれない」
「何か思い残したこと……」
夏目は、ぼくの目をまっすぐ見て言った。
「本当にそれは、かなえられないの?」
夏目に言われたぼくは、口ごもる。
そんなこと考えたこともなかった。
というより、「思い残したこと」を深く考えることをさけていた。
何か大きな秘密があるとわかったのは、もっと後のことだ。
「だって、記憶が残っていないんだよ。覚えていないものを、かなえられるはずがない」
ぼくがこたえると、夏目は、にっこり微笑んで言ったんだ。
「いつかわたしと、もう一度それを見つけに行こうよ」