きみは、唯川夏目
夏目は、息をゆっくり吐いて、自分がいる場所を見回した。
ここは病院じゃない。だったらどこ? わたしは、どうなったの?
見たこともない部屋にいる。若い女の子の部屋だ。
右手の壁には高校の制服が吊るされている。デスクの上には赤いラジカセと鉛筆削り、テーブルの上には、LPレコード。
(この部屋の中は、まるで昭和の世界だ)わたしをだますために、こんなことする?
右から左へと視線をうごかす。風景画の下の写真が目にはいった。
10代のお母さんが笑っている。となりにいるのは、おばあちゃん?
う…。おばあちゃんが、若い。
彼女は、おそるおそる自分の髪の感触をたしかめた。
(サイドにレイヤーを入れたロングヘア。わたしの髪じゃない、こんなに伸ばさない)
ふと、そばにある手鏡に気づく。
(さっきの話が真実だとしたら、この鏡にうつるのはわたしじゃない)
鏡に手を伸ばして、のぞきこむ。
鏡の向こうで、彼女を見つめ返したのは、大きくてきれいな瞳。
10代の少年たちが、一瞬で心を奪われた瞳。
それは、わたしのお母さん。
唯川夏目の娘を追いかけてきたぼくは、この部屋にいて、彼女の様子を見ていた。
ぼくの姿は、見えていない。
いつ姿を見せたらいいのか、迷っていた。いやそれだけじゃない。
高校のものらしき、えんじ色のジャージを着ている彼女に、ぼくは見とれていた。
彼女よりきれいな人は他にもいる。けど彼女はだれとも違う。
なぜ、この人を見ているだけで、幸せで温かい気持ちになるんだ?
いったいどういうことかわからない。
目に映るものではなく、その向こう側にある何か。
この人は、たしかに原石だ。いつか、とてつもなく輝くはずの原石。
夏目は、手鏡を戻して、ほっそりした指を目の前にかざした。
頭の中で必死に考えている。
(移しかえられた…さっきの話のとおり、わたしはお母さんに、唯川夏目になってる)
おや? ぼくは思う。ここまではみんな同じ。
そしてパニックを起こす。みんな泣きべそをかいて取り乱すか、閉じこもる。
でも彼女は、取り乱したりしなかった。
心のなかに、怯えや混乱はあったけれど、今まで見た人たちの中では、いちばん自分をコントロールしている。ぼくは感心した。
(前にも言ったように、ぼくは心が読める。といっても完ぺきじゃない。なぜなら心は複雑なもので、本のように整理されているものじゃないから)
ぼくに見られていること知らない夏目は、立ち上がり(ちょっとよろめいた)ゆっくり足を運んで、窓を開けた。
——自分の目で、確かめようとしている。
時間は22時ちょうど。夏目の目にうつる夜の風景は、暗くてぼんやりしている。
(マンションの3階にいるんだ、わたし)
外は、何もかも少しずつ違う。立ちならぶ住宅も給水塔も電柱の看板も。
(まるで本物の「サザエさん」の町にいるみたい)
古い形のホンダシティやトヨタマークⅡが、眼下の車道を通りすぎていく。
すべてが、これは現実だと告げている。
夏目はカーテンを閉めて、部屋のテレビ(箱みたいなやつ)をつけた。
歌番組がはじまったばかり。まさに80年代という衣装の歌手たちが、ずらりと並んでいる。
これは、あの伝説の歌番組「夜のヒットスタジオ」。
南野陽子さんがいる、近藤真彦さん、荻野目洋子さん、一世風靡セピアも…
もはや疑いようはなかった。
(わたしは現実に80年代の世界にいる)。
まだ、ぼくはためらっていた。
夏目に、姿を見せなければいけない。でも、死んだ人が突然目の前にあらわれたら?
あまりにも多くのことが起こったんだ。これ以上、彼女を怖がらせたくなかった。
じゃあ、どうやって話しかけたらいい?
未来の物を、「過去」に持ち込むことは、禁じられている。
けれど、ぼくは特別に許可をもらって、「あるもの」を持ちこんでいた。
最初のコンタクトでは、前の世界で親しんでいた物を使ったほうが、すんなりいく。
「あるもの」とはスマートフォンだ。
1987年は携帯電話が世にあらわれたばかり。スマホの電波なんてどこの基地局も受けつけないけれど、電界のある物資との距離が近ければ、ぼくはその物資をわずかながら操作することができる。
ぐずぐずしても仕方ない。ぼくは、スマホを操作した。
「主よ、人の望みの喜びよ」が、部屋に鳴りひびいた。
夏目はテーブルのかげに、ぼくがひっそり置いていた青空色のスマホを見つけた。
ひざを曲げてさっと手を伸ばして、ぎゅっと耳におしあてた。
ぼくは、おだやかな声で話す。こわがらせてはだめだ。
「よく聞いて。このスマホは、まだこの時代には存在してない。きみが受け入れやすいと思ってこれにしただけ。できるだけ話そうと思うから落ち着いて。できる?」
「うん…はい」
「きみはさっき神さまと約束をした。だから1987年に送られてきた」
「これは、本当に起こってることなの?」
「そうだよ。本当に起こってる」
「だったら、お母さんは助かるのね」
「うん。助かる。きみが、約束をはたせばね」
——きみが払わないといけない代償、それはあまりに大きいけど。
夏目は、その場に座りこんだ。足が少し震えている。けれど、口から出た言葉は一つのためらいもなかった。
「私は約束した。やると言ったわ。お母さんが助かるなら、どんなことも」
一つ言えるのは、この人は、すごい意地っ張りらしいということ。
スマホをにぎりしめたまま、夏目はぼくに質問した。
「あなたは誰? あの人たちの仲間?」
仲間というより家来だな。
「うん、ぼくは命令されてここにいるんだ。きみの後を追って、送り込まれてきたってわけ」
「あなた天使なの?」
「ぼくは天使じゃない」
できるだけ明るくさらりと言う。
「きみと同じ人間だった。死んだあとも、人間の近くで生活しているだけ」
ぼくは簡単に説明した。神さまがルールを破って、きみの魂を過去に送りこんだこと、何も知らない過去の世界に一人だけ放っておくわけにいかないから、ぼくを……派遣したこと。
……信じられない。絶対こんなの信じられない。
いままで会ってきた人は、必ずこういった。
だけどこの人は、ぼくの話を聞いても「信じられない」と一言も言わなかった。
信じなければ、母親は死ぬしかなかったからだ。
「状況は、のみこんだ?
じゃあその話はここまで。いつかゆっくりしてあげる。
さあ立ち上がって。きみの体のことを確かめないといけないから」
「え? からだ?」
夏目はぎょっとして、部屋を見回した。
誰もいない。
あわててぼくは言う。「変な意味じゃないよ。適合がうまくいっているか、体を動かして確かめてほしいんだ」
なぜか、この人を見ていると、ぼくのほうが照れてしまう。いささかこの仕事は、やりにくい。
「立ち上がったら、右回りに回ってみて」
彼女はけげんそうな顔で、右手にスマホをにぎったまま立ち上がる。
夏目は、ふつうのジャージ姿(これを部屋着にしてるらしい)
なのに、そのシルエットは完ぺきで、ありえないほど魅力的だった。
こんなの見たことがない。
ふと思う。まいったな、この人は少年漫画のヒロインに勝ってるよ。
「両手を上げて、おろして、そのまま体を回してみて」
くるりと回ったときの、運動神経の伝達は完ぺきだ。
「どこか窮屈なところは? ゼリーの中に沈んでいる感じとか、しない?」
「ううんしない、ピッタリだよ」
お母さんの身長と体重は、ほぼ「以前のきみ」と同じ。
血のつながりがあるから、適合は最高にうまくいってるようだ。
「違和感はない?」
「鏡を見ると、異常にかわいいことくらいね」
夏目はにこりともせず言った。
——そういう無駄口がたたけるならだいじょうぶ。
「ほかには?」
夏目は奇妙なことをはじめた。その場でぴょんぴょん飛び跳ねたり、肘を曲げて、かくっかくっと、上下左右にロボットみたいに動かしたり。
この人は、なんか変わっているかもしれない。
「何してるの?」
「なんだか…、じっとしていられない」
「どうして?」
「17歳の時のお母さんだよ。それもただの17歳じゃない。みんなが憧れた人。長い髪も、この笑顔も、このきれいな指も、とにかくわたし…何を言ってるんだろう。じっとしてられない」
「わかった。わかったから、もういいよ。そんな変てこなことしなくても」
夏目は、はっとして、スマホを耳からはなした。
「やっぱりわたしを見てるんだ。ここにいるの?」
「うん」
ぼくはひとこと、間抜けな答えを口にする。
「さっきから?」と夏目。
「さっきから」
とにかくこの瞬間がぼくは嫌いだってこと。ぼくがいることに相手が気づいて、
警戒する顔に変わり、おびえ、そして…ぼくを避けようとする。
だけど、この夏目の反応は、違った。
おびえてもいないし、避けようともしていない。
「きみ、怖がらないの? たいてい怖がるのに」
「わたし、今日はいろんな目にあった。だからもう何があっても驚かない。
それより姿が見えないほうがもっとイヤ。あなたの姿を見せて」
姿を見せろ、と言われたのは初めてだ。たいていは見たくないって言われる。
やっぱり、この人はちょっと変わっている。
少しためらったけれど、ぼくは姿を現すことにした。
いきなり真正面に立つとおどろかせてしまうから、夏目の1メートルうしろに。
「どこにいるの?」
「きみのうしろ」
夏目の長い髪のすそは、少し茶色みがあった。華奢な背中だと思った。
背中は、ぼくの気配を感じて、すこしこわばる。
夏目はまっすぐ前を向いたまま、気丈にいった。
「ふりむいてもいい?」
ゆっくり右足を軸にして体をターンし、ぼくを見た。
なぜかわからない。やっぱり彼女は、こわがりはしなかった。
考えても説明がつかない。
彼女は、ぼくの存在を、すぐに受け入れた最初で最後の人だった。
とにかく、こうしてぼくたちは出会ったんだ。




