何をすべきか、うつしだす〈鏡〉
80年代の街には、安くておいしいお惣菜屋さんがあった。
そういう店ではお弁当も売っていた。
財布の中身はさびしかったけど、夏目は2人分のお弁当を買って、それからマンションの小さな部屋に帰った。
2つのお弁当の1つは、つまりぼくのぶんで、夏目はしばらく熱心にすすめてくれた。
「せっかく買ったのに。しかたないな」
とか言って、結局2つ目を自分で食べはじめたのだ。
「太るよ」
「大丈夫。お母さんも大食らいだったもん」
「それはうそだ」
「うそじゃない。手紙にも食べ物のことばっかり書いてたし」
「ほんとかな?」
「ほんとよ。そこがあの人のいいところ」
まあ、とにかく夏目の食べっぷりは気持ちよかった。
そういえば最初の朝から、ぼくが目の前にいても、まったく気にせず食べていた。
「それにしても。大口を開けて食べるのはよしたほうがいい」
夏目は口にほおばったまま、「はーい」と答えた。
この部屋にもだいぶ慣れていた。1987年の物に囲まれた、世界でいちばん居心地のいい部屋。
「お母さんは、ここで誰かとごはんを食べていたのかな?」と夏目はぽつり。
「いや。一人で食べてたと思うよ。となりのマドカさんもバイトで夜はいないからね」
夏目は、お弁当を包んでいた袋を、きれいにたたみながら言った。
「いずれ。いずれね…わたしは元の時代に戻らないといけない」
「もちろん。戻れると思うよ」
「そしたら、お母さんはこの部屋で、またひとりぼっちになるのかな?」
「そう…かもしれないね」
「だから、一つお願いがあるの」
「お願い?」
「もしもわたしが未来に帰ったら、輪さんはこの部屋で、お母さんを見守っててくれる?」
ぼくはぎゅっと、胸の奥をつかまれたように感じた。
……この子は、ぼくがこのままずっと、いられると思っている。
だけどそうじゃないんだ。ぼくは、もうすぐいなくなる。
お母さんの夏目を見守ることも、いまの夏目を見守ることもできない。
それなのに……。夏目はだれを頼りにしたらいいんだろう?
これから先、いちばん夏目が頼りにしないといけないあの事務所は、ぜんぜん頼りにならない。
ぼくは、さっき見た事務所のことを思いだしていた。
となりのマドカさんが渋谷で言っていた通りだ。はっきり言って、あれは素人集団だった。
野口さんは自信を持ってないし、あとの1人も、やりがいを感じてない。
あの男は、心の中で事務所はもう終わりだと思って、次の就職先を探していた。
「夏目、さっきの事務所のことなんだけど、問題だらけだよ。マドカさんの言う通りだった」
「みんな、忙しそうだったね」
「そういう問題じゃない。きみのレッスンのことだって、野口さんに教えてもらったのか?」
「うん。ダンスは月に2回と、ボイストレーニングは、去年1回受けたらしい。お母さんが手帳に書いていたのは間違いじゃなかった」
ボイトレが1回だけ? それで歌手デビューさせる気なのか?
こんなの、落ち着いていられない。とにかくあの事務所には腹が立っていたんだ。
なぜか今回は、いつものぼくらしくない。すぐ熱くなってくる。
「いいか。3人ともアイドルをどう育てたらいいか、わかってない。それに売り出し方もわかってないんだ」
それなのに目の前にいる夏目は、怒ったりがっかりしていない。
むしろおだやかな目をしてぼくを見ていた。
「輪さん。小さな事務所なのは確かだけど、みんながんばってくれてたよ」
「あれで? あれでがんばってたの?」
ぼくのほうがびっくりだ。
「わたし、坂本さんのノートを見たの。売り込み先のことがびっしり書いてた。
野口さんも電話の声がかすれるくらい相手に頼んでいて。一生懸命だったんだよ。
わかったのはね、無名の新人の仕事をとるのは、大変だということ。みんなは苦戦してたってこと。それと、私は何も知らないってこと」
ぼくはようやく気づいた。この子は、決して事務所のことで、不平不満を言おうとしない。
弱小事務所だからイヤだとか、自分は運が悪いとか、決して思っていないということに。
「ねえ、私はできるだけ自分で学ぼうと思うの」
「夏目、一人だけでやろうとしているの?」
そんなの…むちゃだ。
「わたしだけでやろうと思ってないよ。事務所の人も仕事をとろうとがんばっている。
だから、わたしは自分ができることをするの。
わたし、『第2の扉』の意味がわかった。やっぱり鏡は、学校にあったんだよ」
「鏡が学校にあったって? 何のことだよ。全然わからないよ」
夏目は、まっすぐぼくを見つめて言った。
「鏡というのはね、私のまわりの人たちのこと。みんなのことよ。
学校では、お母さんが雑誌の巻頭に抜擢されたことを、みんなが喜んでくれた。
それはお母さんが、いつもみんなのことを思っていたから。
同級生の子たちが活躍するのを、お母さんが自分のことのように喜んでいたからだよ。
みんなの心の中に、鏡のようにお母さんが…わたしが映っているの」
ぼくは、夏目がいったことを考えていた。鏡は、物質の鏡のことじゃないって?
だったらどうして?
「あの事務所の人たちも、きみの鏡だということ?」
「うん。そうだよ。輪さんがいったように、野口さんはたぶん、アイドルの育て方を知らない。あの専務もだよ。知っているつもりだけど、ほんとうは知らない。
それは、わたし自身の鏡だわ。わたしも何も知らない、わかってないんだもん。
それなのに彼らだけを責めるのは、間違ってる」
彼女のいったことが真実なのか、ぼくにはわからない。この世にそういう法則があるのかどうかも知らない。
でも夏目はそう信じていたし、そのときの夏目の真剣な瞳は真実だった。
「わたしわかったの。まわりにいる人は鏡と同じ。教えてくれるの、大事なことを。
1人では何もできない。まわりにいる人が自分を支えてくれる。
それにわたしが気づくかどうかなんだと。
これが第2の扉だよ」
夏目が言い終わると、壁に書かれていた「第2の扉」の文字は、
きらきら輝きはじめ、
そして消えていった。




