大人のゲームと、ゴーストの審査
ここでいう「レコード・デビュー」は、21世紀に氾濫している「デビュー」という言葉とは、次元がまるでちがう。
それは、夏目が歌う初めてのシングルレコードを、全国で大々的に発売する、ということだ。
そのために、プロの作詞、作曲、編曲家が起用され、夏目のための歌が作られる。
スタジオレコーディング、ジャケット撮影、さらにステージ衣装も作り、振り付けを覚え、レコード店やデパートでキャンペーン、ほかにも山のようにすべきことがある…
なのに、何の準備もしてないし訓練も受けてない。
いま、専務はぎらぎらした目で夏目を見ている。
この男はいったい何を考えているんだ?
ぼくは、心の中を読んで驚いた。
見たことのない風景が見えたからだ。
まるで少年がそのまま大人になったような心象風景だった。
無邪気というのとは、まったく違う。
すべてのものを「ゲーム」のようにとらえていて、仕事とスポーツカーのことが、同じ地平線に浮かんでいる。
ぼくには彼の考えが、手にとるようにはっきり読めた。
ゲームに勝つことと、自己満足をおぼえることが、彼の行動の原動力だった。
(夏目がトップアイドルになったら、莫大な富が転がり込んでくる。
17歳の小娘がもたらした、このチャンスを逃してはならないのだ)
専務は、自分の空想にあおられて、これからの「計画」をしゃべりはじめた。
「デビューに合わせて、夏目の売り込みに全力をあげる。
ねらいは、テレビ出演とCMに起用されること。とくにCMは絶対に獲りたい」
……なるほど、そういうことか。
この時代には、大人がレールをすべて敷いて、少女たちに、ただその上を走らせようとする大人がいた。
ぼくから見れば、彼の敷こうとするレールは、かなり都合のよすぎるものだった。
今まで、唯川夏目はオーディションを受けても全滅だった。
今のこの事務所の力で、どうやったら大きな仕事が入るというんだ?
当の夏目はというと、もちろん最初は戸惑っていた。
(わたし、何をすればいいんだろう? この人の話はなんだか曖昧で、ふわふわしてて。
……もっと具体的だったらいいのに)
こう思うのはムリのないことで、専務は「強く思えばなんとかなる」「けっきょくは熱意だ」とか言うばかりで、じゃあ夏目がいま何をすればいいのか、肝心なことが、まったく欠けていた。
ぼくは正直いっていらいらしていた。
この男は、夏目の教育に関心を抱いていない。一人前のアイドルになるように、育てる気など、さらさらないじゃないか。
夏目も絶対同じように思っている……
ところが彼女のほうを見ると、さっきまで顔に浮かんでいた戸惑いの色は、もう消えていた。
一方的に話す言葉に耳を傾けていて、真剣にじっと聞いている。
専務の言葉になにも口をはさまず、「わたし何もわかりません」ともいわない。
自分よりも年上で、自信たっぷりに話す専務を前にして、ぼくにはむしろ夏目のほうが冷静で、落ち着いているようにみえた。
ぼくはこのとき気づいた。
夏目になにか変化が起こっているということに。
昨日、「ザ・歌のベストテン」を見ていたときの様子と、今の夏目の様子はまるで違っている。
今は、自分の意志で、「観察」することに専念していた。目の前の人物のことも起こっているすべてのことも。
大人が敷こうとするレールを、おじけづいたりしないで受け止めようとしているみたいだ。
夏目は思っていた。
(専務が言っていることは、ほとんどわからないけど、何がわかってないのかだけは、自分の心に刻み込んでおこう。あとでゆっくり学べばいいわ。
今はとにかく、レールだろうが何だろうが、その上を前に進むしかない)
専務のほうは、自分がしゃべる計画に、自分で満足していた。
彼の心はすでに目の前の夏目から離れて、夢を見ていた。
トップアイドルを発掘し、有名にして、業界に自分の名を轟かせるという夢を。
それから彼は夏目に向きなおって、驚くべきことを言った。
「これからおれたちで作戦会議をする。
だから、夏目はもう帰っていいからね」
「え? わたしは? 会議に参加しなくてもいいんですか?」
「心配しなくていい。おれたちがちゃんと考えるから」
この男の頭の中には、17歳の女性を「作戦」に加えるという考えはない。
悲しいことに、こういう人は80年代には、山のようにいた。
とにかく、夏目はその場から「ていねいに」追い出されたのだ。
* * * *
事務所を出ると19時をまわっていた。
それは、「タイムリミット」が近いということ。あとのこり10時間ちょっとしかなかった。
ぼくを1987年に送りこむとき、神さまは言った。
……この仕事は、3つ日付が変わり、次の夜明けまで……
つまり、夏目のそばにいられるのは、明日の夜明けまで。
そのあとは誰かわからないけど、べつの担当者が、かわりにやってくる。
最初、ぼくはこの仕事を、断ろうとしていた。
夏目が失敗するのを見るのはつらいと思っていた。
今は……、
失敗してほしくない。成功するためなら、何でもしてあげたいと思っている。
でも、もうぼくには、時間が残っていない。
もうそろそろ「次のステージ」に進まないといけない。
ぼくが3日後に、こだわっていたのには理由がある。
それは、「生まれかわる」ための審査を受ける日だからだ。
人は死ぬと、あらたに人間として生まれ変わるか、もしくは、別の次元の世界へと旅立つことになる。
ぼくは、何か理由があって、生まれかわることも旅立つことも許されなかった。
だから、ゴーストとしてずっと人間の近くで生活していたのだ。
ぼくの望みは、みんなと同じように次のステージへ進むこと。
もう一度生まれかわって、また最初から生きなおしてみたいと思っていた。
取り残されたゴーストが生まれかわるための、ただ1つの方法が、天上で審査を受けること。
そこで次のステージへ行く許可を得ること。
ずいぶん長いあいだ待ちのぞんで、明日はその審査を受けることになっているんだ。
だけど結局、夏目にそのことは一言も話せていない。
話そうと思ったけど……話せなかった。
ただのいいわけだけど、たった3日で行ってしまうなんて、とても口にできなかった。
この使命を与えられるまで、ぼくは生まれ変わったらどうなるか、いろいろ想像して期待していた。
今は、夏目がこれからどうなるのか、そればかり考えている。
さっき学校の帰りに、夏目はぼくにむかってこう言った。
「男子の友だちも一人いるよ」
ぼくは何も言えなかったけれど、あのとき感じた気持ちは、
絶対に忘れない。
友だちができたのは、死んでから初めてだから。
ぼくはあと10時間しかいられない友だち。
そのことを言えない友だち。




