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2/22

しては、いけないこと

 わたしは、講義室を飛び出して、車寄(くるまよ)せに停まっていたタクシーに乗り込んだ。

「母が倒れたんです。病院に行ってください」 


 自分の声が、自分の声じゃない。

 おびえて混乱しきった、知らない他人のような声。

 運転手さんは、わたしの顔を見ると、すぐに車を発進させた。


 どこの病院に運ばれたのか、ニュースではふせていた。ふるえる指で、唯川夏目の事務所に電話しても、つながらない。

 病院がどこなのか、ネットを検索してもどこにも、出てない。

 こらえきれず、涙がぽろぽろスマホの画面の上に落ちていく。


 ……お母さんが病気だなんて、今まで聞いてなかった。


「失礼ですがお客さん、唯川夏目さんのお嬢さんでは?」

 運転手さんがわたしに話しかけていた。

「お母さんがいる病院が、わからないの。わたしにはわからないの」


 前方を向いたまま、彼は優しく低い声で言った。

「都立坂上病院です。さっきラジオで漏らしてました。

 この車は、病院に向かっています。いいですね? ここからなら45分。いや30分で着く」


 運転手さんはアクセルを踏み込み、タクシーは急加速した。

 彼は、それきり口を閉じ、ハンドル操作に集中した。


「ありがとう。感謝します」

 運転手さんの背中に向かってそういうのが精一杯だった。

 病院に向かって疾走するタクシーの中で、私は自分の指を握り締めた。血の気をなくして真っ白になるほど強く。

 いま、わたしにできることは、何もない。


 タクシーは本当に、運転手さんの言う通り30分で病院についた。

 小さくて象のように温かい目をしている運転手さんに、もう一度お礼を言って、車を降りた。

 地面に足がついた途端、ガクンとして転びそうになる。


 すでに病院の周囲には、テレビ局の中継車が止まっていて、記者とカメラマンの群れが取り囲んでいた。

 まるで、戦場だった。

 記者が、わたしの顔を見ている。(誰だこの子?)という目で。

 彼らが欲しいのは、駆けつけてくる芸能人の映像。

 だからわたしが一般人だとわかると、すぐ彼らは目を逸した。


 わたしは下を向いて病院の正面へと急いだ。


「あ! あれって、唯川夏目の一人娘じゃない?」


 記者たちが、いっせいに動いた時、すでにわたしは病院の入り口にたどり着き、さっと開いた自動ドアから中に入ろうとしていた。


 待合室を横切り、受付のカウンターまで歩いて行き、唯川夏目の娘であることを告げる。

 スタッフの顔色が変わり、そのままわたしは奥へと連れていかれた。

 それから、5分たったのか、30分たったのか時間の感覚はない。

 目の前には院長先生がいて、わたしに説明してくれていた……


 お母さんが救急車で運びこまれたのは2時間前。

 マンションの扉を開けたまま、入り口で倒れていたという。隣人が見つけた時には、昏睡状態だった。

 今はICU(集中治療室)のある病棟にいる。

 病名はわからない。心臓も脳の損傷もない。けれど。


 ガラス1枚へだてた通路で、わたしが院長先生に聞かされた宣告は最悪だった。

「あなたのお母さんは、自発呼吸をしていません。残念ですが、覚悟しておいてください。ほかの親族はすぐに来られますか?

 少しでも…わたしたちが少しでも、時間をかせぎます」

 それだけ言うと、先生はICUに戻っていった。


 少しでも、時間をかせぐ……?


 これがTVドラマだったら、「母を助けてください」と必死で泣きわめく。

「この人は特別な人だから、絶対に助けて。わたしの血でも何でも使っていいから」と。

 だけどわたしは、自分の気持ちを、素直にさらけ出すことができなかった。

 本当は大声で叫びたいのに、ただ突っ立ったまま。


「ここは、ストレッチャーが通るから。ね」

 一人の看護師に、わたしは人形のように支えられて、家族控室へと入れられた。


 ……後から考えるとこの看護師さんは、どこか奇妙だった……


 家族控室は、ベンチシートと椅子が2脚あるだけ。がらんとした四角の箱。

 九州のおばあちゃんに電話……しないと。そう思いながらそのまま椅子にぺたんと座り込んだ。

 今日までわたし、お母さんがいることで、安心しきっていた。いっしょに暮らしてなくても、24時間、心は支えられていた。この支えがなくなったら、わたしはきっと折れる。

 痛みに踏み潰される。


 ミシミシミシミシミシ。

 心が、きしんでる音がする。

 これ以上、悪いことを考えてはいけない。わたしがここで折れてどうする?

 いいことだけを考えるんだ。

 思い出を総動員してでも、心が折れないようにするんだ。


 いいこと……。お母さんと過ごした誕生日のこと、

(そうだ。いまはそれを考えるんだ。去年は、どんな話をした?)


 わたしの将来のことを、話してたんだ……そしたらお母さんは。

「それは、あんたが本当にしたいことなの?」そう言ったんだ。


「ほんとはわたし、何もしたい仕事がないんだ。それに何にもなりたくない」

 そう答えたら、お母さんはケーキのろうそくを、指でつまんで言った。

「このろうそくが何本に見える?」

「1本じゃないの?」

「そうよ。でもたった1本のろうそくで、1000本のろうそくに火を灯すことができる」

「なにが言いたいわけ?」

「ずっと思ってたんだけど、あんたの内側にはね、何かがあるの。あんたはいつか、たくさんの人の心に、火を灯すことができるはずよ」

「元アイドルは、言うことがクサいよ」照れたわたしは、つまらない答えをかえした。

「わたしはふつうの人だから」


 いつも説教めいたことを言わないのに、お母さんは、そのとき一度だけ言ったんだ。

「でも、あんたはまだ一歩も、足を踏み出していないよね」

 グサリとくる言葉だった。

「えらそうに言えないけど、みんな流されて生きている。気づいてないだけ。

 何度も流されていいのよ。だけどね、あんたは心の底から自分が望む道を見つけて、一歩ずつでもいいから、前に進みなさい。いい?」


 ……だめだ。お母さん。やっぱりわたし……。

 あなたがいなくなったら、わたしの世界は真っ白になる。そんなのだめ。

 わたし、あなたが助かるなら、なんでもする。


 目の前が涙でぼやけて見えた。にじんだ視界の中に、白い靴のつま先がある。

 顔をあげると、さつきの看護師と目が合った。

 黒目だけが野生のシカのように、異様に大きかった。


「だいじょうぶよ」彼女は囁いた。

「だいじょうぶ? なにがよ?」

 わたしは無性に腹が立って、言い返していた。

 あなたになにがわかるの? 覚悟しておけと、院長が言ったじゃないか。


 看護師は、廊下側の窓のスクリーンを下ろし、外から覗けないようにして、ふりかえった。

「唯川夏目は死なない」


 この看護師はなんなの?

 年齢がまったくわからない。40歳にも、80歳にも見える。少なくとも、ここの院長よりも威厳を放っている。


 看護師は言った。


「薬でも手術でも、お母さんはなおせない。

 だけどわたしは、唯川夏目を助けたいと思ってるの。だから決めた。

 本当は、してはいけないことを、これからするの」


 ……助けたい?……してはいけないこと?


 彼女は言葉をつづけた。

「わたしは、たくさんの人々に、光を与えた人物を見守ってきた。

 あなたのお母さんはその1人。数えきれない人が希望をもらったの。


 でも、唯川夏目の魂は、傷ついて疲れきっている。ずっと昔に、人気が頂点に達した後で、深く魂が傷ついたの、深く深く。そのままむしばまれた。

 娘のあなたには必死に隠していたのよ」


 ……この人は、何を言っているの? 


「あなたは、助けてくれるなら何でもすると願ったわね?

 〈過去〉に傷ついて、長い時間をかけて力をなくした魂は、もう〈現在〉ではなおせないの。いくらわたしの力でも。

 だけど、たった1つだけ方法がある」


 わたしは看護師をさえぎった。

「あなたは、魂の話なんかして、人をだまそうとしてるんだ」


「信じるか信じないか、最後まで聞いてから決めなさい」

 看護師は、穏やかに言った。外から聞こえる雑音がぴたりとやんだ。


「たった1つの方法とは、過去にさかのぼって、唯川夏目の魂を抜きとること。

 魂を体から抜きとれば、わたしは天上で魂に力を与えることができる。電池のようにチャージできるの」


「過去にさかのぼって……お母さんの魂を、抜き取る?」


 わたしは頭がおかしくなったのだろうか? 

 その時はっきり分かった。

 目の前にいるこの人は、看護師じゃない。いや、人間じゃない……


 看護師の姿をした人は、口をひらいた。

「ここから大事なことを話すわ。

 人間の魂を抜き取ったら、その人間の命の時間は、そこで止まる。

 たとえれば、時計の電池を抜いたら、時計は動かなくなる。それと同じ。


 魂を抜いたら唯川夏目の〈命の時間〉はそこで止まる。

 この命の時計を止めずに、動かし続けるためには、もう一つ、べつの電池が必要なの」


「べつの電池?」


 看護師の姿をした人は、わたしの目をのぞきこんで言った。

「あなたの魂よ。べつの電池は。

 あなたの魂を〈過去〉に送り込むの。過去の世界で、唯川夏目の体の中に入って、彼女の〈かわり〉になるのよ。


 わたしが、お母さんのかわり? このわたしが?


 その人の、鹿のような黒い目が光っていた。

「あなたが〈かわり〉になっている間、抜き取った唯川夏目の魂を、天上に運んで力を蓄えさせる」


 わたしの頭の中に、目の前の人の名が……信じられない名が、浮かんだ。

 理屈もなにも関係なく、その人が目の前に現れたら、誰でもそうだとわかる。

 たとえここが、都立病院の家族控室であっても。


 そこにいるのは、宇宙を創造した人。神さまと呼ばれている存在だ。


「私を、信じる?」


 わたしはうなずいた。今は、なんだって信じるつもりだった。

「お願い。お母さんを、お母さんを救ってください」


「その前に、一つ聞かせて。

 お母さんのために、あなたの魂が抜き取られたら、あなた自身の体はどうなるのか、心配にならないの?」

「死ぬんですか?」

「フフ。あなたは面白い子ね。

 一人を助けるために一人を死なせるなんて、できるはずがないでしょう? 

 私は、あなたの魂が過去に行っている間、現代のあなたの時間をストップさせる。

 使命を終えて戻ってきたら、〈今この時〉のあなたの体に、返してあげましょう」


 わたしの頭はグチャグチャになりそうだ、

 つまり、わたしの魂が、過去へ遡って、お母さんの体に入る。

 それは、わたしがお母さんのかわりに、唯川夏目になることを意味する。


 そして、抜き取られたお母さんの魂が、無事に回復したら、わたしの魂は、現在のわたしの体に返ってくる。

 わかったのは、そういうことだ。考えれば考えるほど、常軌を逸した話。


 その人は言った。

「もう時間がないの。この腕時計が見える?」 


 その人の老木のような腕にはめた時計の文字盤に、8つの星が浮かんでいる。

 今はたった1つの星が弱々しく光っている。


「この8つの星の輝きは、あなたのお母さんの生命の輝き。この星が消えたら、お母さんは死ぬ。

 さあどうする? この腕時計を受け取ったら、あなたの魂を過去に送る」


 わたしの心には、ひとつのためらいもなかった。

「行きます」

「もう一度言いなさい。それで契約が成立する」

「行くわ。お母さんを助けるためなら、どこへでも行く」


 言ったとたん、腕時計が、その人の手から消えて、わたしの左腕にぴったりはまった。


 長針が、ぐるぐるぐるぐる逆回転をはじめた。

 周期を合わせるように四方の壁も回りだし、灰色の渦巻きがあらわれ、世界が逆さまになり、わたしは渦の中心に吸い込まれた。

 目の前が真っ暗になる…


 過去の時間の、ある場所でも、不思議なことが起きていた。

 唯川夏目という女性の魂だけが、からだから抜き取られて、天上に静かにのぼっていったのだ。


 かわりに、哀れな小さな魂が、過去に送りこまれた。


 それは1987年

 ソロアイドルと呼ばれた人たちが、最後のきらめきを放っていた時。


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