しては、いけないこと
わたしは、講義室を飛び出して、車寄せに停まっていたタクシーに乗り込んだ。
「母が倒れたんです。病院に行ってください」
自分の声が、自分の声じゃない。
おびえて混乱しきった、知らない他人のような声。
運転手さんは、わたしの顔を見ると、すぐに車を発進させた。
どこの病院に運ばれたのか、ニュースではふせていた。ふるえる指で、唯川夏目の事務所に電話しても、つながらない。
病院がどこなのか、ネットを検索してもどこにも、出てない。
こらえきれず、涙がぽろぽろスマホの画面の上に落ちていく。
……お母さんが病気だなんて、今まで聞いてなかった。
「失礼ですがお客さん、唯川夏目さんのお嬢さんでは?」
運転手さんがわたしに話しかけていた。
「お母さんがいる病院が、わからないの。わたしにはわからないの」
前方を向いたまま、彼は優しく低い声で言った。
「都立坂上病院です。さっきラジオで漏らしてました。
この車は、病院に向かっています。いいですね? ここからなら45分。いや30分で着く」
運転手さんはアクセルを踏み込み、タクシーは急加速した。
彼は、それきり口を閉じ、ハンドル操作に集中した。
「ありがとう。感謝します」
運転手さんの背中に向かってそういうのが精一杯だった。
病院に向かって疾走するタクシーの中で、私は自分の指を握り締めた。血の気をなくして真っ白になるほど強く。
いま、わたしにできることは、何もない。
タクシーは本当に、運転手さんの言う通り30分で病院についた。
小さくて象のように温かい目をしている運転手さんに、もう一度お礼を言って、車を降りた。
地面に足がついた途端、ガクンとして転びそうになる。
すでに病院の周囲には、テレビ局の中継車が止まっていて、記者とカメラマンの群れが取り囲んでいた。
まるで、戦場だった。
記者が、わたしの顔を見ている。(誰だこの子?)という目で。
彼らが欲しいのは、駆けつけてくる芸能人の映像。
だからわたしが一般人だとわかると、すぐ彼らは目を逸した。
わたしは下を向いて病院の正面へと急いだ。
「あ! あれって、唯川夏目の一人娘じゃない?」
記者たちが、いっせいに動いた時、すでにわたしは病院の入り口にたどり着き、さっと開いた自動ドアから中に入ろうとしていた。
待合室を横切り、受付のカウンターまで歩いて行き、唯川夏目の娘であることを告げる。
スタッフの顔色が変わり、そのままわたしは奥へと連れていかれた。
それから、5分たったのか、30分たったのか時間の感覚はない。
目の前には院長先生がいて、わたしに説明してくれていた……
お母さんが救急車で運びこまれたのは2時間前。
マンションの扉を開けたまま、入り口で倒れていたという。隣人が見つけた時には、昏睡状態だった。
今はICU(集中治療室)のある病棟にいる。
病名はわからない。心臓も脳の損傷もない。けれど。
ガラス1枚へだてた通路で、わたしが院長先生に聞かされた宣告は最悪だった。
「あなたのお母さんは、自発呼吸をしていません。残念ですが、覚悟しておいてください。ほかの親族はすぐに来られますか?
少しでも…わたしたちが少しでも、時間をかせぎます」
それだけ言うと、先生はICUに戻っていった。
少しでも、時間をかせぐ……?
これがTVドラマだったら、「母を助けてください」と必死で泣きわめく。
「この人は特別な人だから、絶対に助けて。わたしの血でも何でも使っていいから」と。
だけどわたしは、自分の気持ちを、素直にさらけ出すことができなかった。
本当は大声で叫びたいのに、ただ突っ立ったまま。
「ここは、ストレッチャーが通るから。ね」
一人の看護師に、わたしは人形のように支えられて、家族控室へと入れられた。
……後から考えるとこの看護師さんは、どこか奇妙だった……
家族控室は、ベンチシートと椅子が2脚あるだけ。がらんとした四角の箱。
九州のおばあちゃんに電話……しないと。そう思いながらそのまま椅子にぺたんと座り込んだ。
今日までわたし、お母さんがいることで、安心しきっていた。いっしょに暮らしてなくても、24時間、心は支えられていた。この支えがなくなったら、わたしはきっと折れる。
痛みに踏み潰される。
ミシミシミシミシミシ。
心が、きしんでる音がする。
これ以上、悪いことを考えてはいけない。わたしがここで折れてどうする?
いいことだけを考えるんだ。
思い出を総動員してでも、心が折れないようにするんだ。
いいこと……。お母さんと過ごした誕生日のこと、
(そうだ。いまはそれを考えるんだ。去年は、どんな話をした?)
わたしの将来のことを、話してたんだ……そしたらお母さんは。
「それは、あんたが本当にしたいことなの?」そう言ったんだ。
「ほんとはわたし、何もしたい仕事がないんだ。それに何にもなりたくない」
そう答えたら、お母さんはケーキのろうそくを、指でつまんで言った。
「このろうそくが何本に見える?」
「1本じゃないの?」
「そうよ。でもたった1本のろうそくで、1000本のろうそくに火を灯すことができる」
「なにが言いたいわけ?」
「ずっと思ってたんだけど、あんたの内側にはね、何かがあるの。あんたはいつか、たくさんの人の心に、火を灯すことができるはずよ」
「元アイドルは、言うことがクサいよ」照れたわたしは、つまらない答えをかえした。
「わたしはふつうの人だから」
いつも説教めいたことを言わないのに、お母さんは、そのとき一度だけ言ったんだ。
「でも、あんたはまだ一歩も、足を踏み出していないよね」
グサリとくる言葉だった。
「えらそうに言えないけど、みんな流されて生きている。気づいてないだけ。
何度も流されていいのよ。だけどね、あんたは心の底から自分が望む道を見つけて、一歩ずつでもいいから、前に進みなさい。いい?」
……だめだ。お母さん。やっぱりわたし……。
あなたがいなくなったら、わたしの世界は真っ白になる。そんなのだめ。
わたし、あなたが助かるなら、なんでもする。
目の前が涙でぼやけて見えた。にじんだ視界の中に、白い靴のつま先がある。
顔をあげると、さつきの看護師と目が合った。
黒目だけが野生のシカのように、異様に大きかった。
「だいじょうぶよ」彼女は囁いた。
「だいじょうぶ? なにがよ?」
わたしは無性に腹が立って、言い返していた。
あなたになにがわかるの? 覚悟しておけと、院長が言ったじゃないか。
看護師は、廊下側の窓のスクリーンを下ろし、外から覗けないようにして、ふりかえった。
「唯川夏目は死なない」
この看護師はなんなの?
年齢がまったくわからない。40歳にも、80歳にも見える。少なくとも、ここの院長よりも威厳を放っている。
看護師は言った。
「薬でも手術でも、お母さんはなおせない。
だけどわたしは、唯川夏目を助けたいと思ってるの。だから決めた。
本当は、してはいけないことを、これからするの」
……助けたい?……してはいけないこと?
彼女は言葉をつづけた。
「わたしは、たくさんの人々に、光を与えた人物を見守ってきた。
あなたのお母さんはその1人。数えきれない人が希望をもらったの。
でも、唯川夏目の魂は、傷ついて疲れきっている。ずっと昔に、人気が頂点に達した後で、深く魂が傷ついたの、深く深く。そのままむしばまれた。
娘のあなたには必死に隠していたのよ」
……この人は、何を言っているの?
「あなたは、助けてくれるなら何でもすると願ったわね?
〈過去〉に傷ついて、長い時間をかけて力をなくした魂は、もう〈現在〉ではなおせないの。いくらわたしの力でも。
だけど、たった1つだけ方法がある」
わたしは看護師をさえぎった。
「あなたは、魂の話なんかして、人をだまそうとしてるんだ」
「信じるか信じないか、最後まで聞いてから決めなさい」
看護師は、穏やかに言った。外から聞こえる雑音がぴたりとやんだ。
「たった1つの方法とは、過去にさかのぼって、唯川夏目の魂を抜きとること。
魂を体から抜きとれば、わたしは天上で魂に力を与えることができる。電池のようにチャージできるの」
「過去にさかのぼって……お母さんの魂を、抜き取る?」
わたしは頭がおかしくなったのだろうか?
その時はっきり分かった。
目の前にいるこの人は、看護師じゃない。いや、人間じゃない……
看護師の姿をした人は、口をひらいた。
「ここから大事なことを話すわ。
人間の魂を抜き取ったら、その人間の命の時間は、そこで止まる。
たとえれば、時計の電池を抜いたら、時計は動かなくなる。それと同じ。
魂を抜いたら唯川夏目の〈命の時間〉はそこで止まる。
この命の時計を止めずに、動かし続けるためには、もう一つ、べつの電池が必要なの」
「べつの電池?」
看護師の姿をした人は、わたしの目をのぞきこんで言った。
「あなたの魂よ。べつの電池は。
あなたの魂を〈過去〉に送り込むの。過去の世界で、唯川夏目の体の中に入って、彼女の〈かわり〉になるのよ。
わたしが、お母さんのかわり? このわたしが?
その人の、鹿のような黒い目が光っていた。
「あなたが〈かわり〉になっている間、抜き取った唯川夏目の魂を、天上に運んで力を蓄えさせる」
わたしの頭の中に、目の前の人の名が……信じられない名が、浮かんだ。
理屈もなにも関係なく、その人が目の前に現れたら、誰でもそうだとわかる。
たとえここが、都立病院の家族控室であっても。
そこにいるのは、宇宙を創造した人。神さまと呼ばれている存在だ。
「私を、信じる?」
わたしはうなずいた。今は、なんだって信じるつもりだった。
「お願い。お母さんを、お母さんを救ってください」
「その前に、一つ聞かせて。
お母さんのために、あなたの魂が抜き取られたら、あなた自身の体はどうなるのか、心配にならないの?」
「死ぬんですか?」
「フフ。あなたは面白い子ね。
一人を助けるために一人を死なせるなんて、できるはずがないでしょう?
私は、あなたの魂が過去に行っている間、現代のあなたの時間をストップさせる。
使命を終えて戻ってきたら、〈今この時〉のあなたの体に、返してあげましょう」
わたしの頭はグチャグチャになりそうだ、
つまり、わたしの魂が、過去へ遡って、お母さんの体に入る。
それは、わたしがお母さんのかわりに、唯川夏目になることを意味する。
そして、抜き取られたお母さんの魂が、無事に回復したら、わたしの魂は、現在のわたしの体に返ってくる。
わかったのは、そういうことだ。考えれば考えるほど、常軌を逸した話。
その人は言った。
「もう時間がないの。この腕時計が見える?」
その人の老木のような腕にはめた時計の文字盤に、8つの星が浮かんでいる。
今はたった1つの星が弱々しく光っている。
「この8つの星の輝きは、あなたのお母さんの生命の輝き。この星が消えたら、お母さんは死ぬ。
さあどうする? この腕時計を受け取ったら、あなたの魂を過去に送る」
わたしの心には、ひとつのためらいもなかった。
「行きます」
「もう一度言いなさい。それで契約が成立する」
「行くわ。お母さんを助けるためなら、どこへでも行く」
言ったとたん、腕時計が、その人の手から消えて、わたしの左腕にぴったりはまった。
長針が、ぐるぐるぐるぐる逆回転をはじめた。
周期を合わせるように四方の壁も回りだし、灰色の渦巻きがあらわれ、世界が逆さまになり、わたしは渦の中心に吸い込まれた。
目の前が真っ暗になる…
過去の時間の、ある場所でも、不思議なことが起きていた。
唯川夏目という女性の魂だけが、からだから抜き取られて、天上に静かにのぼっていったのだ。
かわりに、哀れな小さな魂が、過去に送りこまれた。
それは1987年
ソロアイドルと呼ばれた人たちが、最後のきらめきを放っていた時。




