FRIENDS
夏目の長く細い手が、まっすぐ上に伸びた。
つぎは古典の授業だった。
「唯川さん」
夏目は立ち上がって答える。彼女は古典にも、ちゃんとついていっている。
ここではぼくは、何も監視することなどないようだ。
どうやらこの人は、まだぼくの知らない面をかくし持っているらしい。
夏目はすました顔をしている。
(成績を私が下げたなんて、あとでお母さんに文句言われたくないもの。上がる分にはお母さんも喜ぶでしょ)
それからも、ぼくにとっては、もう一度死にたくなるほどたいくつな授業だったが、夏目はがんばっていた。
ただ、やっぱり短い休み時間のあいだも、教室は静かだった。
少し夏目は寂しくなっていた。
(教室の友だちってこんなものかな)
……このクラスでうまくやっていく秘訣。みんなそれぞれの「仕事」には、距離を置くこと。
トイレに行く子もいるが、ほとんどは、席でノートを開いている。ときどき夏目に笑顔を向けるけれど、雑誌のことは誰も話題にしない。
朝の教室で、夏目に真っ先に「おはよう」を言ってくれたのは、倉沢ひばり。(お母さんの手帳にいちばん登場回数が多かった)
ひばりも、相変わらず死にものぐるいでレポートを書いている。
それでも時々、夏目を見て微笑んでくれた。
精一杯のエール。
そしてまたたく間に、午前のハードな授業が終わった。
教室の半分の子たちが、1階の食堂へ行くために、教室を出ていった。
「ああ、お昼ごはんどうしよう……」
お昼のことを忘れていた夏目が目を上げると、キツネ柄のきんちゃく袋を持った子が立っている。
「唯川。見たよ、あの雑誌」
すとんと夏目の隣に座る。
「あれ、お弁当また忘れたの? じゃあわたしがめぐんであげよう」
「いい?私も」
倉沢ひばりが、自分の机をずりずり押して、夏目の右隣に「引っ越し」してくる。
「私も!」と別の子も続く。杏子も「私もまじる」
ずりずりぎぎぎぎずりずりぎぎぎぎずりずりずりずり
盛大にけたたましい音をたてて、机とともに「民族大移動」がはじまった。
1分後には、教室に残った15人の少女が参加する、大きな「机の島」ができあがる。
それから彼女たちの、ランチ会が始まった。
「すごいじゃん。あの巻頭ページ」
「本屋さんに1冊しか残ってなかったから、すぐ確保した」
「このカメラマン有名だよね。よかったね」
「ホテルがきれい」
「そこに目をつける?」
ひばりのカバンから、手品のように「話題のその雑誌」があらわれて、歓声が上がる。
「しっ!見つかったら、没収」
もっと大きな笑い声。
みんな、興味しんしんで、喜んでくれていた。
今まで個人主義の子が多いと思っていたけど、違っていた。なかでも、ひばりと杏子が一番はしゃいでいた。
夏目は、こんなの予想もしていなかった。
……だって、ここは普通のクラスとは違う。はっきり言って、みんな仕事のライバルなのだ。
自分だったら、もしもライバルが、雑誌に大きく取り上げられたら、きっと焦る。こんなふうに一緒に喜んであげるなんて、とてもできないよ。
なのに、この子たちは、祝福してくれている。
ぜったい勇気がいるはずだ。
わたしにはわかる。
とにかく、クラスの一部には絆があるようだ。そのなかにお母さんがいる。
(こんなの、みんな友だちの「ふり」してるだけじゃん)
心が読めるぼくには、ときには聞きたくないことも聞こえてしまう。
この教室にいる誰かの心の声が、ぼくにはかすかに聞こえた。
友だちの輪に入っていながら、ほんとうほ心のなかでは、輪に入っていない子の声。
みんなに混じって笑って話しているけれど、心は離れている子。
……15歳でデビューして、このクラスにいる松本奈美のような子。
(友だちの「ふり」をしてるだけじゃん。みんな)
松本奈美は思っていた。
(この教室には、自分の歌がベストテンに入る子もいれば、100位にだって入らない子もいる。
あたしみたいに。
ほかの子が売れていくのを、指をくわえてみているだけ。
杏子も、ひばりも、売れてるから、余裕があるから、こんなふうに人のことを喜べるんだよ)
ぼくは、そんな彼女の心の声を聞いて、考えていた。
心を読めるようになって、わかったことがある。
人はそれぞれ、立っている場所がちがう。輪の中にいる人も、輪の外にいる人もいる。
両方の側から見ないと、フェアじゃないということ。
今は、ほかのみんなみたいに、人のことを喜ぶ余裕がない子だっている。
同級生が、自分より売れていくのを、ただ指をくわえてみている子の気持ちは、他人にはわからない。
だからやっぱりぼくは、この子のことも、はげましたくなる。
松本奈美は、いま一生けんめい笑っている。
……いまは友だちの「ふり」をしよう。
それが、わたしたちなんだから。
でも友だちの「ふり」をしつづけていたら、いつか本当に……。
さっきから、みんなに囲まれて夏目の顔はまっかになっていた。
水着の写真が開かれているから。
しかも「若いころの母親の水着」の写真。みんなの前で見るのは死ぬほど恥ずかしすぎる。
「このカメラマン、いい腕してるね」と倉沢ひばり。
「どういう意味よ」
「それにしても水着の写真を教室で見られるのは、唯川には悪いけど、かんべんしてほしいよね」
「ほんとだよ」
みんなにとって、この時間の教室だけは、別の世界。
とにかく、今日は日本中で一番にぎやかな昼休みだった。
* * * *
放課後の屋上は気持ちがいい。とくに今日は。
本日の授業はすべて終わった。
うまく授業を切り抜けて、掃除で体を動かしたあとの、屋上は眺めもいい。
夏目のとなりには、杏子がいた。猫のように目を細めて街を眺めている。
杏子とは、たった一度会っただけなのに、ずっと前から友だちだったような気がする。
杏子がお母さんの友だちだからかな?
わからない。わからないけど、まあいいや。
杏子は夏目の顔を横目で見て、ぼやいた。
「久しぶりに学校に、まる一日いたけど来週はあんまし来れないな。仕事がいっぱいあるから」
「仕事がんばってるね」
「あたしはあんたの仕事のほうが心配なの。今まで夏目は、あまりレッスンもさせてもらってない。大丈夫かな、夏目の事務所? 今度こそやる気になってくれるといいけれど」
「うん、わかってる」
「あの雑誌は、すごいチャンスなんだから」
「うん。みんなも喜んでくれたね」
ひばりは、しみじみ言った。
「今まで夏目は、売れてなかったからねえ。お母さんになった気分だよ」
「雑誌が出ただけよ」
「ううん、みんなが注目してる。わたしにはわかるもん」
「注目? でもね、みんなが喜んでくれて、それがわたし。ほら、雑誌にのるなんて、みんなにとってはあたりまえだし」
「あたりまえじゃないよ。あの写真はすごいね。クラスの全員がそう思ってる」
「ありがとう。あたしほんとに恵まれてるよね。みんな…いい人たち」
ひばりは、不思議そうな顔をしている。
「なに言ってんの? それはあんたのせいよ」
思わず夏目は聞き返した。「わたしのせい?」
「夏目が転校してくる前はね。ぜったい、こんな雰囲気じゃなかった。
思いっきりバラバラだったもん。売れてる子と、売れてない子の態度が違っててね。
やな感じだった。売れてない子は、いつも敬語をつかって、廊下もはしっこを歩いてるし」
「そう…だった?」
「まったく他人事みたい。でも夏目は違う。自分は全然売れてなくても、ずけずけ入り込んできて、『おはよう』だの、『ベストテン見たよ』だの、『オリコン2位おめでとう』だの、大きな声で叫ぶんだもん。
ふふっ、あんたが盛大に、ぶわーっと空気を入れ替えた」
ひばりは大きく、ぶわーっと手を広げた。髪が風になびいている。
「あんたは浮きまくっても、ぜんぜん気にしなかった」
「わたしは空気が読めない女」。夏目はおどけていった。
「そう。空気が読めない女。それに…」
ひばりは、雲に向かってちょっと照れたようにつぶやいた。
「夏目はね。最初からアイドルなんだよ」




