第2の扉 見知らぬ学校にかくされた鏡
今までとは違う世界に、夏目は足を踏みだすと決めた。
踏みだした先は、怖いけれどまぶしい場所。もう後戻りはできない。
もしかしたら、傷つくことになるかもしれない。
でも一歩踏み出したのだ。ころんでひざをすりむいても、立ち上がればいい。
あのまばゆいGスタジオを見たら、夏目は必ずおじけづく……それが神さまにはわかっていたんだと思う。
あれは試練…いや、テストだ。
夏目は、そのテストを乗りこえた。
でもそれは、終わりではなかった…。まだ始まったばかり。
一度真っ白になった壁に、ふたたび文字が浮かび上がっていた。
……もしかしたら、次のメッセージ?
壁に書かれたのは3行の文字だった。
* * * * *
第2の扉 高校
きみが何をすべきか、
うつしだす「鏡」
* * * * *
このメッセージは、なに…?
「第2の扉は高校? 歌とダンスのレッスンじゃなくて、高校?」
「うん、そうだね」
「1987年のお母さんの高校と、アイドルを目指すことと、なんの関係があるの?」
ぼくたちは、お互いの顔を見て、考えてしまった。
高校に、いったい何があるの?
まず1秒でも早く、ダンスとボーカルを学んでほしい。なのに…
不可解だとしか言いようがない。
ホグワーツでもないのに現実の世界で、その「扉」というものが何の役に立つのだろう?
アイドルは、テレビ番組「スター誕生!」以降、10代の早いうちにデビューをすることが多くなった。だから、仕事と学校を「両立」させることは宿命のようなものだったけれど。
夏目は、ハンガーにかけていた制服を、じっと見つめていた。
「考えても分からないから、とにかく高校に行ってみる。もう休みたくないし、お母さんの友だちにも会いたいし。
それに、この時代の高校生活なんて、貴重な経験だしね」
「貴重な」というのはその通りだけど…、
ぼくは、まだ疑問を持っていたが、もう夏目は学生かばんから教科書とノートを引っ張り出していた。
「何をするの?」
「もちろん。そうと決まったら予習するの」
そういってすごい勢いで勉強をはじめた。
「さすがはわが母。ノートをばっちり書いてて、まめだわ。どこまで授業が進んでいるかよくわかる」
夜中に勉強しているのに、この人はテンションが異常に高い。とにかく目の前のことに、集中する気らしい。
ぼくは英文法がアイドルの役に立つの? と思ったけど、
……その考えは、間違っていた。
・・・・・・・・・・・・・・
「ねえ。きみは寝ないつもり? 昨日も少ししか寝てないのに」
「だいじょうぶ、1日寝なくても死にやしない。ニューガイドが終わったら寝るから」
そして結局、3時半まで夏目はがんばって。
「終わった!」
さすがに電池が切れた夏目は椅子からふらふら立ち上がる。
「わたし、ちょっとだけ寝る」と宣言して、ぱったりベッドに倒れ込んだ。
10秒後には寝息をたてている。
この子を見ているだけで飽きない。
ぼくはもう、目が離せなくなっていた。彼女のしぐさ、口から飛び出す言葉、まっすぐな行動、そんなのすべてに。
まあ監視役だから、目を離せなくてもいいか…
自分にそんな言いわけをしていた。
それにしても、彼女はとても高校に行きたがっていたけれど…、
心を読まなくても、寝顔を見ているうちに理由がすこしわかった。
夏目がちいさい時に、離婚したお母さんは夏目のもとから出て行った。
それからはやっぱり寂しくて、つらい思いをしたはずだ。
たぶん夏目は高校へ行って、お母さんのことを探したいんだ。
もう一度、眠っている彼女の寝顔を見た。
今の寝顔は…、アイドル失格だな。
でもぼくは、わけがわからないまま一歩を踏み出す彼女を、応援することを決めたんだ。
それからある「作戦」があるぼくは、部屋を出た。
「作戦」というのは、こうだ。
夏目は、とうぜんだけど高校のことをまったく知らない。自分の教室の場所すら。
だから、ぼくは彼女が寝ているあいだに早朝の学校へ行き、誰かが来るのを待って、その記憶を読む。
「芸能クラス」の夏目のことは、だれかが知っているはず。
記憶の中から夏目のくつ箱や、教室の位置とかの情報(ほかに知ってればそれも)を入手したら、すぐ部屋にとんぼがえりする。
夏目を起こして、学校のことを教える。夏目は何食わぬ顔で学校へ行き、上履きを手に入れ、教室へ行く。
あとは夏目がアドリブで乗り切ればいい。
というわけで、ぼくは部屋を出ると街を飛びこえて、手帳に書いてあった住所を頼りに、夏目の高校を見つけた。
上空に到着したときは、まだ夜明け前で薄暗い。
あたりまえのように人の姿はまったくない。
…いや。
校門のすぐ近く、学校と外を隔てるフェンスのそばに、1台の黒いワゴンが止まっている。
なにげなく上空から観察すると、意外なことに車の中には人がいた。
しかも2人。
ある予感があって、ぼくは下降して接近し、中にいる人をのぞきこんだ。
運転席に1人の男がいる。
後部シートに目をやると、シワにならないようにきちんとカバーをかけられた制服が、座席に置いてあった。
そのとなりで、まつ毛の長いきれいな女の子が眠りこんでいた。
顔に見覚えがある。
きっとこの子は夏目と同じ「芸能クラス」の子だ。
どうしてこんなところで寝ているんだろう?
ぼくは、女の子の記憶の中を探った。
相手がはっきりわかっていれば、車のガラスをへだてていても、心の中を読むことができる。
予想通り、彼女は夏目のクラスメイトだった。
去年デビューして、2枚目のシングルがオリコンで2位まで上がった小沢杏子だ。
昨日は、大泉で撮っていたドラマの収録が長引き、それから有楽町でラジオの収録。
さらに「スコラ」の取材で、終わったのは夜中の3時だった。
家に帰っても寝る時間はほとんどない。そこで学校まで来て、仮眠をとっている。
というわけだ。
眠っている彼女は胎児のように体を丸めていた。かわいそうなくらい疲れているのがよくわかった。
このころの人気アイドル歌手は、ドラマに出演することも多かった。その過酷なスケジュールはまさに猟奇的だった。
もしかしたら小沢杏子は、デビューしてからこんな生活をずっと続けているのかもしれない。
ぼくは細心の注意をはらい、起こさないように記憶に入って、夏目の席の位置やくつ箱の位置など必要なことだけを確認した。
最後に、「今日は、家に帰れるといいね」とそっとささやいた。
もちろん彼女には聞こえていないけど。
それから退散した。
・・・・・・・・・・・・・・
高校からマンションにもどると、夏目はもう起きていて、制服に着がえていた。
びっくりするほど細い腰に手をあてて、鏡をながめている。
「お母さん、制服のウエストを絞ってるのよね。まったく17才の女の子ってやつは。
校則きびしいでしょうに」
ぶつぶつ言っている。
「まさかわたしがお母さんの制服を着るなんて…。嬉しいけど」
夏目はまた、うっとりした顔をしている。
(この制服を着て、お母さんは友だちと何を話していたのかな? 誰か夢中な子はいたかな? こんなの考えるのって、おかしいかな?)
ついその様子を、ぼんやり口を開けて見ていたぼくに気づいて、夏目は言う。
「輪さん、にやけてるの?」
「え? そんなことない」
「にやけてるよ。くちびるがぴくぴくしてる」
夏目はしつこくからんでくる。
そう言わると、よけい口元が勝手にほころんできて、ぼくは必死に隠そうとした。
しかたないよ。これだけ似合っているんだから。
電車に乗っても、道を歩いていても、すれちがったきみを振り返って、何人もの男の子の胸はうずくだろう。
そして、たった一言でも、話しかけることができたら、と思うだろう。
結局、話しかけることはできなくて、ただうしろ姿を目で追いかけるだけ。
夏目は、そんなことは考えてもいない。
長い髪を三つ編みにして指でつまみ、ぶらぶらさせている。
「校則もチェックした。学校へのルートを覚えた。よし、行くよ」
威勢よく言って、マンションを出た。




