本当のメッセージ
そのあとずっと、夏目は城野さんと野口さんの前では、笑顔を顔に貼りつけて、楽しそうなふりをしていた。
でも絶対に、ぼくと目を合わせようとしなかった。
本番がはじまる前に、ぼくたちはGスタジオを出た。
城野さんとはテレビ局の前で別れ、野口さんに送ってもらった車の中でも、にこにこ笑っていた。
野口さんにいろいろ聞かなければいけないことがある。
そんなことわかっているけれど、夏目は野口さんの話を、ただ聞いているだけだった。
部屋のドアを閉めてベッドのふちに座ったとき、はじめて夏目はぼくの顔を見た。
それまで押さえてきた感情が、口からあふれ出てきた。
「私にはムリ。あんな世界で、あんな大きなステージに立って、あんな人たちにまじってカメラの前に立つなんて、絶対に絶対にできない」
涙が浮かんできて、ぽろぽろこぼれ落ちた。
「できると思ったけど、ただの錯覚だった。姿だけ同じでも私はお母さんじゃない。あの人のようにはなれない」
「そうだね。そう思うかもしれないね」
ぼくは、もしかしたらできるかも…と思ってたけど。
「こんなに自分が馬鹿みたいに思えたことってないよ。あの雑誌の写真も、全部お母さんがやったこと。何一つわたしがしたことじゃない。何一つだよ。わたしは学芸会の代役。ううん、それよりひどい。ただ舞台の上に、突っ立っている人形だ」
涙のしずくが頬をつたって、腕時計の文字盤に落ちた。光る星はたった1つだけで、弱弱しいけれど。まだ消えてはいない。
きみは人形なんかじゃない。きみは自分が思っているよりも…
でも口には出さなかった。
夏目の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
ベッドにもぐりこんで、毛布を頭からかぶってしまった。
「むり、むり。絶対むり」
いままで張りつめていた心の糸が、急に切れてしまったように。
ぼくはどうしたらいいのか、何をいったらいいのかわからない。
これまで何人か、過酷な目に合わされた人を見てきた。
あきらめてしまう人、やる気をなくしてしまう人だって、あまりにたくさん見てきた。
——いくらこの子が、芯の強い子だとしても。急にあんなスタジオを見せられたら、誰でも打ちのめされる。
夏目は毛布をかぶりつづけ、黙りこんでいた。
きっと疲れていたんだろう。しばらくすると静かになった。聞いているかどうかわからないけど、ぼくは声をかけた。
「もう遅いから、ぼくはもう行くね。あしたもう一度考えて、どうしても無理なら…」
毛布の小さなふくらみはもぞもぞ動いている。やっぱり眠ってはいない。
ぼくは、もう何も言えない。
部屋から出て、空を上へ上へとのぼって行った。
* * * *
それにしても、ぼくはいらだっていた。いったい何だこれは。
第1の扉だって?
これが扉だとしたら、あまりに残酷だ。
どうして、自信がこなごなになるような光景を、見せなきゃいけないんだ?
ぼくが今まで見てきた使命のなかで一番きびしい。
これで夏目が、だめだと思ったなら、もう…リタイア、しかない。
彼女を、元の世界に戻してあげるにはどうしたらいいだろう? そうしたら彼女のお母さんはどうなるんだ?
月にむかって毒づいた。神さまは何がしたいんだ?
ぼくには、もう1日と半分しか時間はないのに。
月は、もちろん何も答えをくれたりしない。
しばらく雲の上で考えても、いいアイデアは、さっぱり浮かばなかった。
ぼくは、かなりゆううつな気持ちで部屋に戻った。
部屋の中は、しんとして…はなかった。
バンドが演奏する小さな音が聞こえる。
そっと見ると、夏目は起きていた。目線の向こうのテレビには『歌のトップテン』が映っていた。
夏目のとなりには、ベータマックスのビデオテープが積み上げてある。
いまはテレビの中で歌っている白いドレスの南野陽子さんを、食い入るように見ている。
ぼくは、しばらくみていた。
夏目は左手に見えないマイクを握って、右手は南野さんの振り付けに合わせて動いている。
ぼくは、そっと部屋の外に出て、わざと物音を立てた。あわてて夏目が動きまわる気配がした。
部屋に戻ったらテレビは消され、夏目はベッドで毛布をすっぽりかぶっていた。
「寝てる?」
(もちろん、そんなに早く眠れるわけがないけど)
毛布の丘からは、小さな頭だけがのぞいている。
どうやら顔は、こっちを向いているみたいだ。
ぼくは、こう思っていた。
今回の使命はとびきり無茶だ。きみがむりだったら、リタイアしよう。
そう口に出そうとしたとき、ふと、壁に書かれた文字に目がとまった。
あの「第1の扉」の文字が、薄暗い部屋の中で淡く光っていたのだ。
何かを知らせるように。
****************
「扉」は、きっときみの役に立つ
それは隠された場所にある
第1の扉の鍵は、Gスタジオ
けれど忘れてはいけない
きみのいちばん大事なものは何?
****************
きみのいちばん大事なもの?
……この言葉の本当のメッセージは何だろう? 何がいいたかったんだ?
勝手にGスタジオの中で見つかると思い込んでいたけれど、
いまようやく、気がついた。
Gスタジオは「きっかけ」にすぎないんだと。
わからなかった答えが、わかった気がした。
そう。大事なものが、歌番組のスタジオの中で見つかるわけはない。
「いちばん大事なもの」は、誰かが決めるものじゃない。
自分の心が決めるものだ。
ぼくは、毛布をかぶって黙っている夏目にむかって質問した。
「ねえ。きみは心の底では、本当はどうしたいと思う?」
……きみは、お母さんを助けるために、「みがわり」を引き受けた。それは勇気のあることだ。でも、それだけじゃだめなんだ。
ぼくは、答えを知るために心を読まなかった。
何かこの人は口に出したがっている。だから、しんぼう強く待った。
毛布の丘に小さな隙間が空いた。
「わたし、だまっていたことがあるの」
夏目の声は小さいけれどはっきりしていた。
「昨日見た夢のことを」
「きみは夢をみたんだね。どんな夢を?」
「わたしは、きらきらした衣装をまとっていて、ステージに立って、いっぱいライトの光を浴びていた」
毛布の隙間から、夏目の瞳がぼくの方を見ていた。
「わたし、もう一度あのスタジオに行きたい。見てるだけじゃなくて、つぎは大きなステージの真ん中に立って、向こう側の景色を見てみたい」
「それが、きみの心の底の本当の望みだね?」
「わたし、何をこわがっていたんだろう。
恥をかくことと、自分の小ささを思い知ること? けど、このままだと何も変わらない」
夏目が、ベッドから半身を起こすと、くるまっていた毛布は肩から滑り落ちた。
窓から銀色の光が差し込んでいた。雲間から月が現れていたんだ。
「最初は、お母さんのために、やるんだと思ってた。でも今は自分がやりたい。
なれるかわかんないけど。そんなのいい。
お母さんは、わたしが一歩踏み出したことがないと言った。その通りだよ。
いま何も挑戦しないで、未来に戻るわけにはいかない」
ぼくは、今の夏目の瞳をけっして忘れないだろう。
……今のきみが本当にしたいこと。心の底の本当の望み、
それが生きている人間にとって、いちばん大事なもの。
「あまりにも世界が違うし、私はちっぽけで、何もわかっていない。けど、けどね。
私はトップを目指す」
夏目は、薄暗い床の上に、ドンと右足をおろした。
夏目のつま先が床に触れたとたん、
壁に書かれていた「第1の扉」の文字がきらきら輝き、
そして消えた。
最初の扉が開かれたんだ。




