テレビ局の中。信じられないあの場所へ
城野さんは、自分の家のように堂々と歩いている。
いったいテレビ局で夏目をどうするつもりなんだろう?
彼の心の中は見かけどおりで、うらやましいほど自信にあふれていた。
企業のオーナーや宣伝部との付き合いも広く、深い。
それに、この男は直感的に行動するタイプらしい。
夏目の写真を見て、何かを思いついた。
「テレビ局に入るのは初めて?」
「はい」とうわずった声で高橋さんがこたえる。
「ああ、マネージャーさんもそうなの? 雑誌のあの写真を見て、どうしても唯川さんに会いたくなった。おれの性格でね。
聞けば、アイドル候補だという。どうせなら、あの番組を一番に見せてあげようと思ったんだ」
「唯川のためにですか?」
「ええ、こういうことが好きなんです。それに初めての場所に連れて行ってあげたら、スターになってもずっとおれの印象が残るでしょ」
ぼくたちは、カルガモの子のように、城野さんについていった。
局内の通路は、思っていたよりも狭い。華やかでもなんでもない。むしろ灰色の壁がえんえんと続く、ジミな迷路みたいだ。
「あの、今日は何を見せてくださるんですか?」
頭のなかが??だらけの夏目は聞く。
「いずれきみが、自分の力で来る場所。
歌番組のスタジオだよ」
城野は、さらりと答えた。
夏目の反応を楽しんでいるみたいだった。
え? 歌番組って言ったの? この人。
「今から、そこで『ザ・歌のベストテン』を撮るんだ」
————!!
その驚きと言ったら、「今からきみを火星に連れていってあげる」と言われるようなものだ。
『ザ・歌のベストテン』とは、超絶的な人気の歌番組だ。
怪物番組とよばれ、最高視聴率は40%超。さすがに夏目も知っているようだ。
1980年代には歌番組がそれこそ毎日あった。歌番組じゃなくても、歌手が歌うワクがあるテレビ番組もたくさんあった。
しかも親も子も、家で同じ番組を見ていたのだ。
放送の翌日には、北海道から沖縄まで、学生たちが教室で熱く語り合った。
今から、その歌番組の収録スタジオに入れてくれると言うのだ。
「いきなり夏目が歌うんじゃないですよね」と野口さん。
「まさか。まだ持ち歌もないのに」城野は笑った。
「わたしたちが入ってもいいんですか?」
「普通は、入れないですけどね」
数分後、ぼくたちは、頑丈な鉄製の扉の前に立っていた。
プレートに書かれた文字を見て、「あ」と夏目が声を上げる。
Gスタジオ。
夏目は部屋の壁に書かれていた文字を思い出していた。
ここが『第1の扉』なの?
入口のそばにいたテレビ局のスタッフが3人を制止した。
「失礼ですが、ここから先は総務部の書面がないと入れません」
「ああ、部長さんの印鑑を押したやつね」
城野さんはスーツの内ポケットに手を突っ込んで紙きれをとりだした。
「これでいい?」
スタッフの男は、すばやく扉を開けた。
われに返ったとき、夏目はもうスタジオの「内側」に立っていた。
そこは…
まるで窓が一つもない体育館みたいだった。
見上げると天井が高い。星の数ほどのライトのほとんどが消えていて、スタジオの奥だけが光る宇宙船みたいに浮かんで見えた。
テレビで見たあのクリスタル・ゲート(水晶の扉)だ。
日本中の人が、もうすぐ始まるこの番組を、楽しみに待っている…
「右手の奥のホリゾントが見える? いまは何も映ってないけど、あれを使えばこのスタジオ全部がステージになる」
みんな、ただ圧倒されていた。(これが歌番組のスタジオなんだ…)
ぼくらが立っている場所は、月の裏側のようにカメラには映らない場所らしい。
左の壁際には、横倒しにされたパネルや、スチール製の足場、音響機器用のラックなどがおかれている。
いかにも現場の人たちらしい、ラフな服装の男たちが目につく。
みんな真剣な表情で全員が動きにまったく無駄がない。
「セットデザイナーと美術スタッフさんたちだ」
城野さんはささやく。
「30分前まで、ここは戦場だった。彼らは毎週、たった2日で番組のセットを作らなければならない。だから昨日も深夜まで作業していたにちがいない。
ここに見える人だけでなく、照明や音響スタッフ、技術スタッフもいる」
——これは「生放送」なんだ。やり直しはきかない。1つのミスもゆるされない。
スタジオ左手の「ひな壇」には、バンドの面々も座っている。いやバンドというより、20人編成のオーケストラ。
「彼らは楽譜をわたされたら、ロックでも演歌でも、なんだって演奏できるんだぜ」
城野さんは、心底彼らを尊敬しているようだ。
「歌番組には、たくさんの人がかかわっているんだ。これから登場する歌手の1時間のために。
いや1曲、たった数分間のために。彼らは戦っているんだよ」
司会の2人の打ち合わせが終わったようだ。
時計のハリは19時をさす。
2時間後には、1千万の人々が、テレビのチャンネルを合わせるだろう。自分の好きな歌手の「今」とつながるために。
城野さんは、ちいさな声で言った。
「これからランスルー(通しげいこ)をするんだ。
いきなり生放送するわけじゃない。本番の前に、本番と同じリハーサルをする。
もちろん歌手も歌う。まあ、外で中継の時なんかは、スタッフがかわりに歌うこともあるけどね」
(ほんものの歌手が歌うの? ここで? いまここで?)
鋭い目つきのディレクターが、司会の2人にサインを送った。
驚くのはまだこれからだ。
手前にあった奇妙な物体にライトがあたり、突然その形が浮かび上がる。
「街だ。街のセットだ…」たった一曲のための一夜限りのセット。
そのとき、スタジオの中に緊張が走る。
こんなに張りつめた空気を感じるのは、はじめてだ。
スタッフの目つきがかわっている。全員が、ただ1点を注目している。
歌手が登場するクリスタルゲートに。
「今週のランキング!」
司会者2人の声がスタジオ中に響きわたった。
そして、クリスタルゲートから、茶色いジャケット姿の女性が現れた。
(リハーサルはステージ衣装じゃないんだ…)。
「彼女」の全身からは、何か見えない電気のようなものが放たれていた。
——あれがオーラ?
「あ、あ」と口をパクパクさせる野口さん。「AKINAさんだわ」
夏目も、その名は知っていた。まさに歌謡界に輝くトップオブトップの存在。
その人が、10数メートル先に立っている。
バンドがイントロを奏で、そして歌が始まる。
(すごい)
夏目もぼくも立ち尽くして、生の彼女を全身で見て、聞いていた。
4台のカメラが縦横に動きまわり、彼女を映している。
リハーサルだけど、誰も手を抜かない。まるで彼女もカメラに挑んでいるようだ。
Bメロから〈サビ〉へとドラマチックに歌い上げている。
圧倒的なパフォーマンスだった。
彼女が歌い終わると、今度はゲートから7人の若者たちが登場した。
1983年にデビューし、チェックの衣装と髪型のインパクト、すぐれた楽曲で人気が爆発した。
後にも先にも彼らのような存在はない。
バンドが奏でるリズム、ボーカルの魅力的な声。すべて自信に満ちていて、女子も男子も夢中になるはずだ。
そして次は、肩幅が広くて長身のソロ歌手KKがあらわれて…。
まるで、まるで、自分の目の前50センチを、豪華な特急列車が、つぎつぎと高速で通り過ぎている。そんな感じだ。
でも…まずい…、
すごすぎる。これじゃ、あまりにもあまりにも。
やっぱり、夏目を見ると、泣きだしそうな顔をしていた。
打ちのめされていたんだ。
ここでは、誰も夏目のことを見向きもしない。
このスタジオの中では何者でもない。空気と同じ。
ぼくは馬鹿だ。いま気づくとは…
生きている人間のことがわからなくなったんだろうか。
夏目はこの1日、いろんなことがあった。そのうえ見せられた世界は、
あまりにも大きすぎる。
夏目は、Gスタジオを見て、完全に自信を失っていた。




