雑誌は大反響。わたしはいったい、どこへ連れていかれる?
服を着替えて、どこに行くのか? 事務所の人は教えてくれなかった。
「わからないけれど、とにかく〈いちばん素敵に見える服〉を着て待つしかないよ」
部屋に戻ると、夏目はすぐにクローゼットを開け、まったく迷わずに、深い紺色のワンピースを選んだ。
「どう?」とぼくに聞く。
「紺色? 地味じゃないの?」
白い襟かざりがついているだけで、膝下まで足がかくれるワンピース。
品がある、けれどミニでもないし可愛いというのともちがう。
「こういう服は絶対に着なかった。今までのわたしだったらね。
見てて。唯川夏目なら、どうなるか」
すばやく夏目は服をぬいだ。ぼくはさっと後ろを向く。さらさらとした衣のたてる音、ファスナーを閉じる気配がして。
「いいよ。こっち見ても」
振りむいたぼくの口が、あんぐり開いてしまった。
その…本当に、いちばん素敵に見えるからだ。
ぼくには、どういう魔法なのかわからない。
濃紺の生地に白い襟かざりだけ。顔はすっぴんで、耳たぶに小さなパールのイヤリング。
なのに、そこに立っているのは、まさしく唯川夏目その人で。
異常に輝いていた。
「どう?」どうもこうも言葉にならない。ぼくはただ見とれている。
「いいよ。言わなくても、その目を見たらわかる」
着がえをすませた夏目とぼくが、マンションの外に出ると、急ブレーキとともに1台の古いトヨタミラが止まった。
窓からメガネをかけた黒髪の女の人の顔が飛び出てきた。
この人がマネージャーの野口さん?
「早く乗って、夏目ちゃん」
夏目は慌てて乗り込むと、急発進で走り出す。
ぼくもすばやく後部シートに潜り込む。
野口さんは業界の人というよりは、理科の先生といった感じ。ただし興奮するとおしゃべりが止まらなくなるようだ。
「あの雑誌が出たとたん、すごい反響よ。電話がジャンジャン鳴りやまないの(息継ぎ)みんな雑誌を見てかけてきた。こんなのはじめてよ。しかもむこうは(息継ぎ)テレビの制作会社に出版社、広告代理店…」
野口さんは興奮してしゃべりまくる。
「今まで手ごたえがなかったのに。夏目ちゃんが関心を持たれている」
夏目は、ただうなずくしかない。
マネージャーに聞きたいことは山のようにあったけれど。
(あの、全然わかっていないんです、これからどうなるの? ゼロから教えて)
「いまは話を聞くことに集中するんだ」とぼく。
「彼女がしゃべってくれる。夏目は、あいづちを打っていればいい」
「うん」
窓の向こうを流れる街並みを見ると、このクルマは都心に向かっている。
ぼくは野口さんの心の中にそっと入ってみた。
彼女は、小岩で親といっしょに暮している。事務所に入って1年。だけどマネージャー経験はとぼしい。今は「時間」に間に合うために必死になっている。
そこから先はわからない。「未来に属すること」は知ることができないのだ。
野口さんは、ミラーごしに夏目を見て。
「いい。夏目ちゃん? 今からが正念場よ。城野さんは『WEE』を見て、まっさきに電話してきた。
私だって彼の名前ぐらい聞いたことがある。すご腕よ。その城野さんが、とんでもない場所で会いたいっていってきたの」
(城野さんて、だれ? とんでもない場所って何なの? さっぱりわからない)
「あの…私は」(これから、どうなるの?)
彼女は、理科の先生のキッとした目つきになった。
「彼は、広告代理店の『キャスティング局』の部長なの。顔が広いしスポンサーにも信頼されている。それを忘れないで」
「はい」
夏目は素直にうなずいた。そして、横目でぼくを見た。
(キャスティング局って?)
「キャスティング局というのはね、広告を出すスポンサーの会社と、タレントとを結びつける仕事だと思うよ」
いまの夏目の心のなかは、嵐の海にゆれる小船と言うのがぴったりで。
必死で現実についていこうとしていた。
白いホンダシビックが前に割り込んできた。野口さんはののしる。
「この街ってどうして車だらけなわけ? みんな電車に乗らないの?」
青山通りを走りながら、ぼくはぼんやり考えていた。どうやら、この車は「赤坂」に向かっている。
赤坂って、何があっただろう?
とつぜん左右に連なっていたビルの壁がとぎれ、視界が開けた。
目の前には、巨大な「TVSテレビ」のビルが、天空にそそり立っていた。
* * * *
昨日は、1987年のちいさなマンションの部屋に送り込まれた。
今、この国を代表するキー局である、TVSテレビの前にいる。
何が起こるのか、ぼくにも見当もつかない。
これはまだ「入口」にすぎない。足をすくわれたら、真っ逆さまに落ちる…
そんな気がしていた。
野口さんは、正面ゲートに立っている守衛さんに名前を告げ、車を直進させた。
テレビ局のやたらと広い駐車場。黒いアウディの隣に、ぼくらを乗せたトヨタミラはとまる。野口さんはすぐにおりたった。
けど夏目は、後部シートに座って前を向いたまま。深呼吸をして、ふうっと息を吐いて。
「いったいどうなるの?」
「とにかく先へ進むしかないね」ぼくはなぜ、もっと気の利いたことが言えないんだろう?
「だいじょうぶよ。何とか切り抜けるから」
夏目は、背筋を伸ばして車をおりた。
エントランスでスーツ姿の男がひとり、夏目を凝視している。
この人が城野さんかもしれない。
ぼくのように自信があまりない男は、自信たっぷりな男をみればすぐわかる。
彼は40歳くらいなのに完全に白髪で、しかも美男子だった。
「夏目さん。城野です。会うのははじめてだね」
目の前にいる男は名刺をわたした。博通堂と書かれてある。大手の広告代理店だ。
おだやかに微笑んでいたが、その眼はジンジョウではない。優しくて同時に夏目を鋭くジャッジするという芸当を、ごく自然にやっている。
彼は、夏目にまるで昔からの友達のように話しかける。
「おれが思ったとおりの人だ。メイクしないでこれだけきれいなのは…いやいや、すごいな」
夏目は、むりやり口角をあげる。
(知らない人だけど、味方につけたほうがいいようだわ)
少々微笑みはぎこちないけど、仕方ない。
彼を先頭に夏目と野口さん、それにぼくは、巨大なテレビ局の中へ入り込んだ。




