扉をあける勇気
でも結局、ぼくが口にしたのは、違うことだった。
「そんなことより、きみはまだまったく『唯川夏目のこと』を聞き出してない。
手がかりを聞きださないといけないのに」
「そんなこと。わかってるよ」夏目はすこしがっかりしたように言った。
「せっかく、事情を知っている人と一緒なんだ」
ぼくはなぜか、力をこめて言ってしまう。
まるで、何かから自分を守ろうとしているみたいに…。
夏目は言った。
「それもわかってるけど。どう聞けばいいのか、思いつかないの。
わたしの仕事はどうなってるの? なんで予定がないの?とか、あまりにわざとらしくて」
「でもここで悩んでいても仕方ないよ」
「うん…そうだね」
夏目は、売り場の奥のエスカレータを見て言った。
「マドカさん、上のレコード屋さんへ行くって言ってたよね」
それから2人で3Fに上がり、河野楽器というレコード屋に足をふみいれた。
考えてみれば夏目にとって、1987年のレコード屋は「とくべつな」場所だ。
店のなかは、まさしく音楽の森だった。
ぼくたちの目に飛びこんできたのは、レコードはもちろん、CDやカセットテープ。
2020年代だったらありえない品ぞろえに 夏目も目をうばわれていた。
ひときわ目を引いたのは、もちろんアイドルのLPレコードと、ぼくたちを見て微笑んでいる彼女たちのポスターだった。
「こんなにアイドルがたくさんいるのね」
「そう。84年から86年にデビューした人たち、本田美奈子さん、南野陽子さん、荻野目洋子さん、島田奈美さん、菊池桃子さん、中山美穂さん、西村知美さん…まだまだほかにもいて、すごいことになっている」
「この人たちと、戦わないといけないの?」夏目はつぶやく。
…そんなことが、わたしにできるの?
「この人たちだけじゃないんだ。
すでに日本中に知られているスターがいる。松田聖子さん、中森明菜さん、
つまりこれから、ソロアイドルとして入りこむのは至難のわざってことだ」
こんな時期にデビューして、この巨大な壁を壊して、トップアイドルになった母親の唯川夏目って、いったいどういう人なんだ…どんな魔法を使えばそんなことができたんだ?
ぼくの目の前にいる、魂は娘である唯川夏目も、いずれアイドルになって日本中にレコードが並び、ポスターが貼られる。
…そんなことがありうるんだろうか。
いちばん重荷に感じているのは夏目だ。
夏目はじっと、『話しかけたかった』のシングルジャケットを見つめている。
「今の唯川夏目は人気がないどころか、オーディションに落ち続けて、デビューもしていない。高校も休んでこの街を歩いている」
ぼくはふと気づいた。
「ねえ、夏目。思ったんだけど。
仕事のカギを握っているのは、大人なんじゃないか?
いったい大人は何をしてたんだろう?」
「大人って、事務所の人たちのこと?」
「お母さんをスカウトした芸能事務所の大人たちが、仕事のことは一番わかっているはず。
だから、きみはマドカさんから、事務所のことを聞きだせばいいと思う」
「何かあったんか? ぼーっとして」
ふりむくと、夏目がいることに気づいたマドカさんが立っていて、心配そうに見ていた。
(やっぱり仕事でなにかあったんや。この子)
質問するならいまだ。
彼女もなにか話したがっている。大事な手がかりかも。
マドカさんは言った。
「なあ、のど乾いた。ここで話すのもなんやから夏目ちゃん、ジェラートちゅうもんが食べられる店に行こうか?」
* * * * *
ジェラートの店は、渋谷に最近できたばかりだった。
そのせいかお客さんはたくさんいる。
窓際の席に、なんとかマドカたちは場所を確保した。
「ねえ、今の事務所のこと、どう思いますか?」
ジェラートに手をつけず、夏目は切り出した。
「あんたのことは——考えてないな」マドカは、みもふたもなく答える。
「あの事務所は問題だらけやもん」
「事務所が…問題だらけ?」
「いまさらなに言っちょるん? ノウハウもない、人も少ない、アイドルを売り出すことも育てることも誰も知らん。あんたがオーディションで落ち続けてもムリないやん」
その点は、マドカもいらだっていたらしい。すごい勢いでまくし立てた。
「このままやといかんって、高校生のあんたでも、思うのは当然やん。
大手ならもっと力を入れちょるよ。
岡田有希子ちゃんの事務所はなあ、売り出すために1年かけてレッスンさせたんや。吉川晃司さんだってデビュー前は、事務所がすごく頭もお金も使ったそうや。
それにくらべてあんたはどうや?」
「スケジュール帳に、あまりレッスンもないみたい」
「レッスンが少ないのは、事務所の専務のせいや。あの男がレッスン代ケチってる。
専務はな…」そこでマドカさんは言葉をにごした。
「どうしたの?」
「専務はな、まるで子どもや」
(あんたのことを、みはなしてる……なんて言えるわけないやん)
マドカの心の中の声を聞いて、ぼくはあぜんとした。
みはなしている?
夏目のことを専務はみはなしているだって?
さすがに夏目は、現実の厳しさにショックを受けていた。
考えていたのは、やっぱりお母さんのことだった。
(わたしは、昨日ここにやってきて、ただ話を聞いているだけ。
でも、お母さんは東京に出てきて、大人が頼りにならなかった事実を、一人で受け止めていた。
いったいどんな気持ちだったんだろう。
わたしには想像もできない。
真っ暗なトンネルの中に一人で取り残されていて、前がまったく見えないような気持ちだったんだろうか?
考えるだけで、夏目の胸は苦しくなってくる。
マドカは、夏目の表情をみて「しまった」と思った。
(いかん、この子落ちこんどるわ。はげまそうと思っていたのに)
まずいと思ったマドカは、夏目の気分を変えようとして、意外なことを話しはじめた。
「でもな、とにかくあんたはよくやってる」
「わたしがよくやってる?」
「うん。うちは知っとるよ。学校が終わってから制服のままで、知らない出版社とかテレビ局に行ってたんやろ」
「え?」
「とぼけんでもいい。あんた自分を売り込むために、行ったこともない場所に飛び込みで行ってたやんか。
そんなの事務所の人がやる仕事やのに」
夏目は、引き出しの中にあった、たくさんの名刺を思い浮かべていた。
(お母さんの部屋にあった、たくさんの名刺…。
あの人は、ひとりで自分の名刺を持って『自分の営業』をしていた。
だからあんなに名刺を持ってたんだ)
マドカは言葉を続ける。
「まあいえることは、うちにはその根性はない。
事務所の人もついていかず、知らない場所にひとりで飛び込んで自分を売り込むなんて、マネしたくてもできんわ」
その声には何のいつわりも、誇張もなかった。
言葉にすると簡単なようだが、むちゃくちゃに勇気がいることなのだ。
(わたしに、そんなことできるだろうか?)夏目も思う。
マドカはマジメな目をして、きっぱり断言した。
「とにかく、そんな努力をしてるあんたは、きっといつか花開く。ぜったい開く」
お母さん…。
夏目の胸が熱くなっていた。
いま、マドカさんが教えてくれたことは、夏目にとっては宝物だった。
やっぱり、あの人はすごい。
事務所に問題があったとしても、お母さんは1人でもがんばっていた。
夏目は、急に目に入ったように、ジェラートをたべはじめた。
(わたしが落ち込んでる場合じゃない)
でも一方で、話を聞いていたぼくは、少し悲観的で現実的だった。
そうは言っても、たった一人で東京に出てきた17才の子に、いったいどんな力があるというんだ?
いつの間にか、ぼくたちがいるジェラートの店は、高校生がふえていた。
もう、学校が終わった時間だ。
向かいのテーブルにいた渋カジ男子が、夏目を見ると「あっ!」という表情を浮かべ、
となりの子の肘をつついていた。




