カラフルな街
天気は良かった。今のところ上々だ。
マドカさんが洗たくから戻るのを待って、ぼくたち「3人」は外に出た。
これから1987年の街へ行く——
想像してみて。 1987年は、江戸時代でも明治時代でもない。
たった35年前の日本だ。
それでもきみは外に出たら驚くはずだよ。やっぱり違う世界だと。
夏目は渋谷駅をおりたとたん、声を上げた。
「うわー。人がいっぱい」
「ひさしぶりに来たみたいな口ぶりやな」
夏目とマドカさんは渋谷の交差点をわたり、公園通りのほうへ歩いていく。
タワービルはまだ建っていないけど、渋谷はやっぱり渋谷。特別に思う。
古い写真で見るのとはちがい、街はカラフルで明るくてエネルギーに満ちていた。
1987年の街に、たちまちぼくらは魅了された。
「どこを見るの?」と夏目。
「新しいお店を見て、輸入物の雑貨屋に行って、原宿にも行きたい」
マドカはリストを並べた。夏目に異論はない。
二人とも財布の中にお金はすくなかったが、そんなことはどうでもよかった。
見上げると太陽がまぶしい。
公園通りを吹き抜ける風、ピカピカに磨かれたお店のウインドウ。
通りすぎる女の子の髪にゆれるリボン。道端に広げられた指輪やネックレス、
銀色のポルシェ。ギターケースを抱えた若者たち。
夏目は、心底この街に惹きこまれていた。
ここは「過去」の街。でも、いま目にしているのは生きている街だった。
日本にいるのだけど、なんだか遠い宇宙のふたごの地球のような、
似ているけれど、別の星の日本のような気もする。
目につくものが同じようだけどどこか違うのだ。
なにが違うんだろうって?
車のカタチが違う。高いビルの数がちがう。それに服のカタチも。
たとえばジャケットの肩ハバは広いし、女の人の体の線もかくしぎみだ。
ぼくらから見ると少し時代おくれ。だけど、かっこいい人はかっこいいし、この街の空気と光に合っている。
とにかくいえることは、この時代はエネルギーに満ちているってこと。
夏目は大きな目をさらに大きくひらいて、目に映るあらゆるものを、まる飲みでもするように観察している。
そんな夏目のななめうしろを、ぼくは少しだけ距離をおいて歩いていた。
2人がしゃべっているのを、ただ聞いているだけで楽しかった。
夏目とマドカさんのそばにいると、自分も仲間にまじっている気分になる。
一緒に街を歩いてるような。
もちろん本当はちがう。マドカさんには、ぼくは見えていないのだ。
ここで話を聞いていることなど、気づいてもいない。
それに夏目は、マドカさんの前でぼくに話しかけてはだめだし、知らんふりをしないといけない。
だけど気をつけないと、夏目はときどきふりかえって、ぼくを目で探している。
ショウウインドウをのぞいているときでも、急に顔を上げて黒目をくりっとさせて、ぼくを見る。
輪のなかに入れない友だちが、ついて来ているか気にかけてくれているように。
いまも夏目と目が合って。それに気づいたマドカさんに、
「あんた、なにキョロキョロしとるん?」と言われている。
「おかしな子やん」
夏目にしてみれば、ぼくはこの1987年の世界で、たった一人自分のことを知っている人間だ。
普通の人なら、死んでいるぼくのことを怖がってもおかしくないけど、
この風変わりな子は、ぼくをごくふつうに受け入れていて。
それだけじゃない。ぼくを頼りにしてくれているみたいだ…
夏目がふりむくと、そのたびに、心の中に温かいものが湧き上がってくる。
ただ、目が合っただけ…なのに。
これはいったいどういうことなんだろう?
そんなことを考えているうちに、奇妙な組み合わせの3人は、ぶらぶら歩いてパルコの角から左に折れて井の頭通りまで歩いていく。
NHKのほうには行かず、引き返して原宿へと向かった。
「ありがとう。今日はつきあってもらって。マドカさんと外を観察…
歩き回るだけでいいの」夏目がいった。
「バイトの時間まで、私は何もないけん、気にせんで」
この不思議ななまりのマドカさんと行動するのは楽しかった。
彼女の心はおおらかで、夏目への思いやりにあふれていて。
歩きっぱなしの2人は、それから2時過ぎに公園のベンチでお昼ごはんを食べる。
マドカさん手作りのツナサンドはおいしそうだった。
木曜日の公園は、若い会社員さんと子猫とキリンレモン2101の青い空き缶が似合っている。
「せっかくここまで来たっちゃけ」
マドカさんのいうままに神宮でお参りしてから、また街にもどって。
さいごにぼくらがついた場所には…。
ほかの何よりも、惹きつけられたモノがあった。
「いつも、ここにくるんや」
マドカさんに連れてこられたビルの1階には、青、赤、黒、色とりどりの「ウォークマン」がずらりと並んでいた。
1987年のウォークマンは、2020年代とは大きさもデザインもまったく違う。
「これはなに? トランシーバー?」
夏目は目を丸くして、思わずぼくを見た。
「カセットテープを入れて、音楽を聴くんだよ」
ひそひそぼくは教える。
「ふーん、なんだか」感心してつぶやく。「未来の機械みたい」
そうだよ。これは未来だ。世界中で音楽のあり方を変えたんだから。
マドカさんが夏目を見て不思議そうな顔をしている。
「夏目ちゃん、どこ見てしゃべっとるんや? お化けでもおるんか 」
夏目はあわててごまかした。
「さあ、店の奥ものぞいてみようよ」
店の中に足を踏み入れると、「ラジカセ」の最新機たちでにぎやかだ。
凝ったおもちゃみたいにかっこいいタイプもあれば、スマートでおしゃれなタイプもある。
ラジカセ(ラジオカセットレコーダー)。
もともとオーディオ(音響機器)は、でかくて重たくて高価なモノだった。
持ち運びができるラジカセが登場し、10代の子の部屋になくてはならないものになった。
こいつで好きな曲を録音して、みんな聴いていたんだ。
夏目といえば、AIWAのラジカセから流れてくる山下達郎さんの曲を、目を閉じて聞いていた。
「音がなんだか、アイフォンで聞くのと違う」
「なんや、それ?」
「なんでもない。…カセットテープって、とても温かい音がする」
「そやろ。夏はこれを持って、海に行きたいもんやな」
「海に持っていってどうするの?」
「みんなでKUWATA BANDを聞くんよ」
「すごく楽しそうだね」
スピーカーに耳を近づけて、聞いている夏目にマドカは言った。
「気にいっとるみたいやから、ゆっくり見てて。
うちは3Fのレコード屋にいっちょるから」
そう言うと、マドカさんは売り場の奥に消えた。
しばらく夏目はそのままラジカセの前に立っていて、耳をすませていた。
その横顔があまりに無邪気で見とれていると、彼女は前を向いたままつぶやいた。
「聞いてた? ラジカセ海に持っていくんだって」
「聞いてた。海に持っていくって」
とつぜん夏目は横をむいて、ぼくを見て。
「輪さん。ラジカセをもって、わたしといっしょに海へ行く?」
と言い出した。
胸のあたりから、どくんという音が聞こえるようだが、この音はなんだ?
「海へ? きみと?」
「そうだよ、海。わたしは水着になりたくないから、砂浜でずっと寝そべってるの。
いいでしょう? まわりの人は、わたし一人で海に来てるって思うかもね。けど、そんなことはどうでもいいの」
この人は、ぼくをからかってるんだろうか? 死んだ人間と、いっしょに海へ行く?
ぼくは思わずその光景を想像した。
浜辺で、こんなにきれいな女の子がとなりにいて、
ずっとラジカセから流れる音楽を聞いていられたら。
最高に素敵だろうな。
夏目はぼくを見ていた。その目はやっぱり無邪気で、からかっているような目ではなかった。




