54. 幻影の回廊とトラウマ
2026/2/10 クロのレベル設定表記を修正しました。
地下二階層へと続く螺旋階段を降りきった瞬間、世界の色が変わった。
一階層の無機質な瓦礫と鉄錆の臭いは消え、代わりに湿度を帯びた、生温かい有機的な腐臭が鼻腔を犯す。壁面には発光する粘菌が血管のように脈打ち、足音さえも吸い込むような不快な静寂が支配していた。
「……なんか、嫌な感じですね。一階層みたいな『敵がいる』って感じじゃなくて、こう……誰かに内臓を覗かれてるような……」
ラベルが自分の身体を抱くようにして震える。彼の直感は正しい。
俺、クロ(目繰里無)は、コンビニの『強力LED懐中電灯』で先を照らしながら、警戒レベルを最大に引き上げた。光源が届く範囲は狭い。光が闇に吸われているようだ。
「……油断するな。看守の爺さんが言っていた『精神干渉系』の魔物が出るなら、この辺りからだ」
俺の中のイヒが、微かに、だが強く警告のシグナルを送ってくる。
物理的な脅威ではない。もっと粘着質で、内側に入り込んでくるような気配。
本来、この階層はもう少し「浅い」はずだ。だが、何者かの手によって、深層の淀みが意図的に引き上げられ、凝縮されている。
「……霧?」
先頭を歩くガロンが足を止めた。
通路の奥から、乳白色の霧が音もなく流れてくる。
それはただの自然現象ではない。霧の中に、無数の視線と、怨嗟の声が蠢いている。
逃げ場はない。通路の前後を塞ぐように、霧は一瞬で膨れ上がった。
「……みんな、固まれ! 霧を吸うな! 口を塞げ!」
俺が指示を出した瞬間、霧は生き物のように加速し、俺たちを飲み込んだ。
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視界が白に染まる。
隣にいたはずのガロンの背中が消え、ラベルの騒がしい声も、ピコの金属音も、ネイの静かな呼吸音も、すべてが遮断された。
絶対的な孤独。方向感覚さえも奪われる白の世界。
「……チッ、分断されたか」
俺は懐中電灯を振るが、光は霧に乱反射して数メートル先も見通せない。
その時、右側から風を切る音がした。
殺気だ。明確な殺意を持った一撃が迫る。
「……ガロン、そこか?」
声をかけた瞬間、巨大な質量が俺の横を通り過ぎ、壁を粉砕した。
ドォォォン!!
砕けた石礫が顔に当たる。
霧の晴れ間から見えたのは、目を赤く充血させ、涎を垂らしたガロンだった。
彼は俺を見ているようで、見ていない。焦点が合っていないのだ。
「……うぅ……あぁぁぁぁッ!! 来るな! 俺をいじめるな!」
ガロンがタワーシールドを振り回す。
彼の目には、俺が「過去に自分を虐げた同族」に見えているのだろう。
霧の向こうから、彼にしか聞こえない幻聴が響いているのが、俺の『不』の感覚を通して伝わってくる。
『……図体ばかりでかい出来損ないめ』
『……なぜ殺さない? なぜ戦わない?』
『……お前ごときが『戦士』を名乗るな。一族の恥晒しが』
獣人社会における「弱さ」への弾圧。それが彼のトラウマだ。
レベル9の身体能力を持つ獣人の暴走。レベル3の俺がまともに受ければ、即死する。
「……くそっ、幻覚だけじゃない、同士討ちをさせる気か!」
ガロンが再び盾を振り上げる。
俺は『這う這うの体(簡易版)』でバックステップを踏み、間一髪で回避する。
だが、衝撃波だけで吹き飛ばされ、地面を転がった。
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「……ひぃぃぃ! 見ないで! 僕を見ないでぇぇぇ!」
反対側ではラベルが錯乱していた。
彼は頭を抱えて蹲っているが、その周囲の空間が歪んでいる。
彼の見ている幻影。それは、華やかなステージだ。スポットライトが彼を照らしている。だが、客席には「誰もいない」。あるいは、無数の観客がいるが、全員が背を向け、耳を塞ぎ、ラベルの存在を完全に無視して通り過ぎていく。
『……』
『……見てて痛々しいね』
『……誰こいつ? 興味ない』
『……消えればいいのに』
彼にとって、「見られない」ことは死以上の恐怖だ。
錯乱したラベルは、無意識にスキル【注目】を暴発させている。
「見ないで!」と叫びながら、その能力は「僕だけを見て!」と強制しているのだ。
この矛盾した強制力が、俺の平衡感覚を狂わせる。
敵意を向けて突っ込んでくるガロンを見なければ回避できないのに、首が、目が、勝手にラベルの方へ吸い寄せられる。
「……最悪のコンボだ!」
ドゴォッ!!
視線を奪われた俺は、ガロンの盾の一撃を避けきれず、真横から吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
壁に叩きつけられ、肺の空気が絞り出される。
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さらに状況は悪化する。
カチャカチャカチャ……。
震えるような金属音が聞こえたかと思うと、ピコが頭を抱えて座り込んでいた。
「……やめて……ごめんなさい……! 私が作ったから……私が……!」
彼女の周りに、火薬の臭いが立ち込める。
彼女が見ている幻影。それは、燃え盛る工房のような光景だった。
足元には、爆発して黒焦げになった機械の残骸と、それに巻き込まれて負傷し、呻く師匠や仲間たちの姿。彼女の両手は油と血で真っ黒に汚れており、どれだけ拭っても落ちない。
『……また失敗か! 貴様の作るものは兵器ばかりだ!』
『……呪われた手だ。触れるもの全てを破壊する』
『……お前ごときが『創造』などおこがましい。壊すことしかできない欠陥品め』
ピコは自分の手を見つめ、震えていた。
「私が何もしなければ、誰も傷つかない……私が壊れることで償わなければ……」
彼女の手が、無意識に鞄の中の「坑道崩落用」の特大爆弾へと伸びる。
ここで自爆する気だ。
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そして、ネイ。
彼女の状態は、最も深刻で、最も異質だった。
霧の奥、無機質で冷たい白い実験室の幻影の中に、彼女は立っていた。
彼女の体には無数の管が繋がれ、魔力や生命力を強制的に循環させられている。
周囲を取り囲むのは、顔のない白衣の「研究者」たち。彼らはネイを人間として見ておらず、ただの「部品」として扱っている。
『……適合率、低下。エラー発生』
『……また失敗か。この個体(灰色)には【役割】が定着しない』
そして、マジックミラーの向こう側には、「赤い髪をした成功作の少女」が、研究者らしき男に愛でられている光景が映し出されている。
『……あちら(赤色)は完璧なのに。なぜこの個体は拒絶する?』
『……廃棄だ。あるいは、部品取りにするか』
『……自我など不要だ。器になれ』
「……やめて! 私は、私よ! 誰かの代わりじゃない!」
ネイが叫ぶ。
「自分」という存在を否定され、誰かの代用品、あるいは失敗作として扱われることへの根源的な拒絶。
彼女の『拒絶』の力が暴走を始めた。
「……来ないで。私に触らないで……! 私の中に、何も入れないで!」
ブォン! ブォン!
空間がランダムに削り取られていく。床が消え、天井が消え、支柱が消える。
このままでは、迷宮ごと崩落して生き埋めだ。
(……なるほどな。こいつらの抱える闇、思ったより深いぞ)
俺は血を吐き捨てながら、冷や汗を流した。
ガロンの暴力、ラベルの視線誘導、ピコの自爆、ネイの空間消滅。
Fクラスのメンバーは、落ちこぼれなんかじゃない。一歩間違えば味方すら全滅させる、歩く災害の集まりだ。
こいつらを相手に、レベル3の俺が一人で立ち回る?
正気の沙汰じゃない。
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だが、やるしかない。
俺の周りにも、幻影が現れようとしていた。かつて第三世界で殺した神、アスラ。あるいは、雪山で何度も死のうとした過去の自分。
だが、それらは形を結ぶ前に霧散していく。
俺とメグリの記憶は、既に統合され、消化されている。今さらトラウマを見せられたところで、「ああ、そんなこともあったな」程度の感想しか出てこない。
「……悪いな。手荒くいくぞ」
俺はリュックを探り、蛇便でコンビニから仕入れてきた「ある商品」を取り出した。
パッケージに髑髏マークが描かれた袋。『激辛・激臭・眠気覚ましキャンディ(罰ゲーム用)』。
第一世界でも一部の物好きにしか売れない、悪ふざけのような商品だ。だが、その効果は劇的だ。味覚と嗅覚を暴力的なまでに刺激し、強制的に意識を覚醒させる。
「……まずは一番厄介なピコだ! あれが爆発したら終わりだ!」
俺は走る。だが、視界はラベルに固定され、ガロンが暴れまわり、ネイが床を消している。まともに走れる状況じゃない。
だから、使う。
俺の中に眠る、這いずり回って生きてきた男の記憶を。
「……『 這う這うの体』、起動!」
左手の指先から、圧縮空気を噴射する。
視界に頼るな。気配で動け。
パシュッ!
俺の体は不規則な軌道を描き、ガロンの豪腕を紙一重でかわす。
「うあぁぁぁ!」
ガロンの拳が空を切り、風圧が俺の頬を裂く。
俺は地面を転がりながらピコへ肉薄する。
「……ピコ! 口を開けろ!」
「……あ、あぁ……壊れる……」
ピコが信管に手をかける寸前、俺は彼女の手首を掴み、ねじり上げた。
「いっ!?」
痛みに反応して口を開けた瞬間、キャンディを放り込む。
「……んぐっ!? ふぎゃぁぁぁっ! か、辛いですぅぅぅ! 舌が、舌がぁ!」
ピコが涙目で跳ね回る。爆弾の信管から手が離れた。
よし、自爆は阻止した。次はラベルだ。こいつの視線誘導がある限り、まともに動けない。
俺は視線をラベルに向けさせられたまま、バック走で彼に近づく。
【注目】のせいで、彼から目を離せない。なら、見つめたまま突っ込むまでだ。
俺はラベルの足元へスライディングし、強引に足払いかけた。
「うわっ!」
転倒したラベルの顔面に、俺は自分の額を叩きつけた。頭突きだ。
ゴチンッ!
「いってぇぇぇ!」
俺も痛いが、ラベルも悶絶している。その隙に、キャンディを口にねじ込む。
「……んんっ!? ぶほぁっ!! 喉が! 僕の美声がぁぁぁ!」
ラベルがのたうち回る。視線誘導が解け、俺は自由を取り戻した。
だが、息つく暇はない。
「グオオォォォ!」
背後から、殺気。ガロンだ。
こいつはキャンディ程度じゃ止まらない。物理的に制圧する必要があるが、レベル差がありすぎる。
俺はとっさに、ピコが落とした爆弾(不発)を拾い上げた。
「……ガロン! お前の好きな『強い衝撃』だ、食らえ!」
俺は爆弾をガロンの足元に投げつけ、同時にライターで着火した。
ドォォン!!
小規模な爆発。だが、足元をすくうには十分だ。
巨体が揺らいだ隙に、俺はガロンの顔面によじ登り、鼻の穴にキャンディを突っ込んだ。
「……んがっ!? !?!?」
鼻粘膜への直接攻撃。獣人の鋭敏な嗅覚には劇薬だ。
「ガァァァァッ!! か、辛いっ! 臭いっ! 鼻がぁぁぁ!」
ガロンが火を噴く勢いで飛び起きる。
残るは、ネイ。
彼女の『拒絶』の波動が、俺の服を、皮膚を削り取っていく。
痛いなんてもんじゃない。「存在」を削られる喪失感。
だが、俺は止まらない。俺の中にある『不』の残滓を全開にする。
彼女の『拒絶(世界はいらない)』に対し、俺の『不(そんな理屈は認めない)』をぶつける。
「……『不自然な手』、部分解放!」
俺は左腕に、無理やり不の力を流し込んだ。
ガロンの一撃でヒビが入っていた骨が、この負荷できしむ。
俺はその手で、ネイの『拒絶』の波動そのものを「掴み」、強引にいなした。
「……え?」
ネイが目を見開く。
自分の力が、他人に触れられたことなどなかったからだ。
「……食らえ」
俺は彼女の口にも、容赦なくキャンディを突っ込んだ。
「……んっ!? ……っ!!!」
ネイの動きが止まる。
目から涙が溢れ出し、顔を真っ赤にして咳き込んだ。
白衣の大人たちの幻影が、彼女の咳き込みと共に霞んで消える。
「……おはよう。悪夢の味はどうだ?」
俺は膝をついた。
全員、正気に戻った。
だが、俺の体はボロボロだ。肋骨は痛み、全身擦り傷だらけ、左腕は不の使用で赤黒く変色している。
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その時、霧が凝縮し、一つの巨大な影となった。
【幻影の主 Lv.22】
ヴェルトの呪符によって呼び出された、この階層のイレギュラーボスだ。
不定形の霧が凝縮し、一つの怪物となっているが、その姿は一定しない。
ガロンが見た族長。ラベルが見た無人の観客席。ピコが見た怒れる親方。そしてネイが見た白衣の研究者。
それら全てのトラウマが高速で切り替わり、混ざり合い、おぞましいキメラとなって実体化している。
「……物理攻撃無効、精神干渉あり、変幻自在か。クソゲーだな」
俺はふらりと立ち上がった。
満身創痍だが、やるしかない。
だが、ファントム・ロードは狡猾だった。
奴は俺ではなく、まだ涙目で立ち上がれていないピコとラベルに向けて、霧の体を変化させた。
無数の鋭利な槍。
それが、一斉に発射された。
「……あ……」
ピコが動けない。ラベルも反応が遅れている。
このままでは串刺しだ。
「……クソッ!」
俺は反射的に動いた。
思考する時間はない。レベル2の身体能力では間に合わない。
だから、使う。
限界を超えた『不』の力を。
「……『 這う這うの体 』、最大出力!」
ドォォン!!
俺の左手の指先から、爆発的な圧縮空気が噴射された。
身体が弾丸のように加速する。
筋肉が断裂する音が聞こえる。だが、構わない。
ファントム・ロードの攻撃軌道上へ、俺の身体が割り込む。
ピコとラベルの前へ滑り込み、二人を突き飛ばすと同時に、俺は左腕を盾にして霧の槍を受け止めた。
バキィィィッ!!
乾いた、嫌な音が迷宮に響き渡った。
霧の槍は物理攻撃無効の相手だが、攻撃自体には強烈な質量がある。
レベル22の攻撃を、レベル3の肉体、しかも『這う這うの体』の反動で悲鳴を上げている左腕で受け止めたのだ。
結果は明白だった。
「……ぐ、がァァッ……!」
左腕が、ありえない方向に曲がった。
激痛が脳を焼き、視界が明滅する。
骨が折れた。いや、砕けた。
神経が焼き切れ、感覚が消失する。ただ「熱」だけがある。ぶら下がっているだけの肉塊と化した左腕。
「……く、クロ先輩!?」
ラベルが悲鳴を上げる。
俺は脂汗を流しながら、右手に持ったライターを弾こうとするが、指が震えて力が入らない。
目の前には、悠然と再生を終えたファントム・ロードが立っている。
無傷。
こちらの最大戦力である俺が重傷を負い、他は戦意喪失。
完敗だ。
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『……終ワリダ、ゴミドモ』
ファントム・ロードが、トドメの一撃を放とうと腕を振り上げる。
「……まだだ!」
俺は残った右腕で、懐から「あるもの」を取り出し、地面に叩きつけた。
コンビニで売っていた『業務用強力発煙筒』。
シュゥゥゥゥ!!
猛烈な赤い煙が噴き出し、視界を遮る。
「……走れ! 戻るぞ!」
俺は叫んだ。
「えっ? でも、先輩……あなたの腕が!」
ラベルが涙目で口を開く。
「僕のせいで……僕が、足手まといだったから……!」
「……馬鹿野郎! 泣いてる暇があったら足動かせ! 全員生きて帰るんだよ!」
俺の怒声に、ラベルはハッとしたように涙を拭った。
いつものおちゃらけた態度は消え失せ、必死の形相で俺の肩を貸そうとする。
「……はい! 絶対、帰ります! 先輩を死なせるわけにはいきません!」
ガロンが俺を背負い上げる。
俺たちは煙幕に紛れ、重い足取りで地上への道を戻り始めた。
背後では、ファントム・ロードの咆哮が響いていたが、深追いはしてこない。
奴は知っているのだ。今の俺たちが、狩る価値すらない「敗北者」であることを。
(……クソ。レベルの壁が、ここまで厚いとはな)
俺はガロンの背中で、悔しさに唇を噛んだ。
かつて神を殺した男が、たかだか地下2階層で撤退。
だが、これが今の現実だ。
そして、この左腕。自然治癒には時間がかかりすぎる。学校の保健室に行けば、俺の『不』の力に気づかれるかもしれないし、そもそもレベル3の体でこの重傷は、下手をすれば腕の切断もありえる。
明日からの探索に間に合わせるには、普通の手段じゃ治せない。
(……店に戻るか。あいつなら、何とかできるかもしれない)
俺の脳裏に、コンビニの同僚、オッドアイの少女ミズナの顔が浮かんだ。
彼女はただの店員じゃない。店長が置いているということは、何かあるはずだ。
夕闇の中、俺たちはボロボロになって地上へと帰還した。
だが、その目には、昨日とは違う光が宿っていた。
それぞれのトラウマと向き合い、それを共有し、そして助け合ったという、奇妙な連帯感。
そして、「悔しさ」という共通の感情。
Fクラスは、傷だらけになりながらも、少しずつ「パーティ」になり始めていた。
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【現在のステータス】
名前:クロ(目繰 里無)
レベル:3
HP:1/35(瀕死・左腕粉砕骨折)
MP:0/10
不の残滓:2.3%
状態:要治療(緊急)
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