52. 地下迷宮の洗礼
アギュラ冒険者学校のチャイムは、どこか古びた教会の鐘の音に似ていた。 重々しく、腹の底に響き、逃れられない規律を告げる音。 Fクラスの教室――通称『隔離棟』の空気は、昨日の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。だが、その静寂は平和なものではなく、嵐の前の重苦しい気圧低下に似ていた。
黒板には、教師ヴェルトが殴り書きした文字が残っている。
『特別課題:旧校舎地下迷宮の探索』
クロは、硬い椅子に座りながら、配られたばかりの『生徒手帳』という名の分厚い羊皮紙の束をパラパラと捲っていた。 そこには、この学校における絶対的なルール、そして俺たちに課せられた過酷なタイムリミットが記されていた。
「……前期と後期、か」
俺が独りごちると、隣の席でキラキラしたペンを走らせていたラベルが顔を上げた。
「なんですか、それ? ライブのツアースケジュールですか?」
「いや、俺たちの処刑までのカウントダウンだよ」
俺は手帳の該当ページを指差した。 アギュラ冒険者学校の修学期間は三年。 一年間は「前期」と「後期」に明確に分けられている。 そして、半期ごとに厳格な『適性評価(ランキング・更新)』が行われ、その結果によってクラスの昇降格、あるいは――。
「……『退学処分』、および『再教育施設への移送』」
ラベルがその文字を読み上げ、ゴクリと喉を鳴らした。
「再教育って……響きが怖くないですか? ダンスのレッスンとかじゃなさそうですね」
「ああ。おそらく、創造主にとって都合の良い『部品』に加工されるってことだろ」
Fクラスの俺たちには、猶予がない。 半年後の前期評価期間までに、学校側――ひいてはこの世界のシステムに、「存在価値」を認めさせなければならない。でなければ、俺たちは社会的に抹殺される。 発展した科学と魔法が混在し、あらゆる技術が飽和したこの第一世界において、「無能」のレッテルを貼られることは死と同義だ。少なくとも、この国では。
俺は自分の手のひらを見つめた。 【レベル2】。 今の俺のステータスだ。 かつて、第三世界で神と殺し合った時の俺は、遥かに強かったと思う。 この世界の冒険者ランクで言えば、最高峰の『 星晶石 』級に相当する。 国一つを単独で落とせる災害級の力。理不尽な神の理すらねじ伏せる「不」の権能。 それが今や、スライム数匹倒してようやくレベル2になったばかりの、吹けば飛ぶような存在だ。 『錚々たる松田』による弱体化とシステムへの強制編入。 奪われた力の大きさよりも、この「脆弱な器」で生き抜かなければならない現状に、俺は苛立ちを覚えていた。
「……ふん。システムに従うつもりはないが、利用してやる必要はあるな」
俺は手帳を閉じ、教室を見渡した。
爆弾魔のドワーフ、ピコ。 内気な巨漢の獣人、ガロン。 そして、相変わらず窓際で世界を拒絶している灰色の少女、ネイ。 そして、アイドルのラベル。
バラバラだ。 だが、このバラバラな「バグ」たちを束ね、半年でAクラスの連中すら食い破るチームに仕立て上げる。 それが、俺の――かつて神を殺した「不のもの」としての、最初の攻略チャートだ。
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「おーい、Fクラスの諸君! そろそろ出発の時間だぞー!」
ラベルが教壇に飛び乗り、マイク(自前)を構える。 誰も反応しない。ピコはスパナを磨き続け、ガロンはぬいぐるみに話しかけている。
「……はぁ。まとまりがないですねぇ」
「お前がうるさいだけだ。……行くぞ」
俺たちは教室を出て、校舎裏手にある『旧校舎』へと向かった。 鬱蒼とした森を抜けると、古びた石造りの塔が見えてくる。 白亜の本校舎とは対照的に、黒ずんだレンガと剥き出しの鉄骨が絡み合う、歪な建築物。蔦に覆われたその姿は、この世界の「発展」から取り残された墓標のようにも見える。
その入り口の手前で、俺は足を止めた。 空から、ヒュルルル……という風切り音が聞こえたからだ。
「……来たか」
ドサッ!
俺の目の前に、茶色いダンボール箱が落下してきた。 普通の配達便ではない。箱には『蛇便急送』の焼き印が押されている。 そして、箱の上には、半透明な小さな蛇のような精霊がトグロを巻いていた。
『……シャァ。……届けたぞ、クロ』
蛇が俺の脳内に直接話しかけてくる。 この世界の配送システムの一つ。ネズミ(速さ重視)と違い、蛇は「隠密性と確実性」を売りにしている。
「ご苦労。……で、代金は?」
『……店長より伝言。「今月の給料から天引きしておく。手数料込みで5000バジュだ」。……サインを』
「……あの守銭奴め」
俺は苦い顔で伝票にサインをした。5000バジュ。この世界の物価で言えば、新人冒険者の一ヶ月分の生活費が吹き飛ぶ額だ。 蛇は満足げに煙となって消えた。
「クロ先輩、なんですかその箱? ファンからの差し入れ?」
ラベルが覗き込んでくる。 俺はカッター(自前)で箱を開封した。
中に入っていたのは、見慣れた「コンビニ商品」の数々だった。 この世界は、様々な世界から来た「挑戦者」たちが持ち込んだ技術や文化が混ざり合っている。魔法のスクロールの隣でスマホのような通信機が売られ、剣と魔法の冒険者がコンビニでおにぎりを買う。そんなカオスが日常として受け入れられている。 だから、この箱の中身も、この世界では「高品質な日用雑貨」として流通しているものだ。
500ミリリットルのペットボトル水(10本)。 カロリー調整食。 ライター(100円のもの)。 軍手。 そして、業務用ガムテープ。
「……うわぁ、先輩のお店の商品ですね! これ、準備してくれたんですか?」
「……俺の給料から引かれてるけどな」
レベル2の俺にとって、これらは魔法のスクロールよりも頼りになる「武器」だ。 特に、このペットボトルの水。 ただの水だが、俺のスキル『成る(kame-Leon)』の触媒として使うことで、様々な形状に変化させることができる。魔力(MP)の消費を抑えつつ、物理現象を引き起こすための命綱だ。
「みんな、これを持ってろ」
俺は水を一本ずつ配った。 ネイは受け取るのを拒否しようとしたが、俺が「飲まなくていい。持ってるだけでいい」と言うと、渋々受け取った。彼女の手が触れた瞬間、ボトルの表面が少し歪んだ気がしたが、なんとか形を保っている。
「……さあ、準備はいいか」
俺はリュックに物資を詰め込み、旧校舎の重い鉄扉を見上げた。
扉の前には、一人の老人が立っていた。 背は低く、腰が曲がっているが、その瞳だけは異様に鋭い。 古びたローブを纏い、腰には警棒のような魔導具をぶら下げている。 この地下迷宮の管理を任されている看守、ゴズだ。
「……ヒヒッ。来たか、Fクラスの若造ども」
ゴズは枯れ木のような指で俺たちを数えた。
「五人。……さて、夕方までに何人戻ってくるかのぅ」
「……脅かすなよ、爺さん。ここは学校の施設だろ? 安全管理はどうなってるんだ」
俺が問うと、ゴズはカカカと笑い、鉄扉の鍵を開けた。
「安全? ヒヒッ、ここは『廃棄区画』じゃよ。学校が管理しきれなくなった失敗作、実験体、そして過去の文明が生み出した危険な遺物を捨て置く場所じゃ」
重い扉が、悲鳴のような音を立てて開く。 中から、カビと錆、そして微かな血の匂いが漂ってきた。
「……いいか、よく聞け」
ゴズの声が、急に低く、真剣なものに変わった。
「この地下迷宮は、全10階層と言われておる。……だが、学校側が把握し、地図があるのは『地下3階層』までじゃ」
「……それより下は?」
「……誰も帰ってこん。あるいは、道が塞がれているか。……とにかく、4階層より下は『未知の領域』じゃ。絶対に降りるなよ」
地下1階から3階までが、俺たちの探索範囲。 それでも、普通の生徒が立ち入る場所ではないらしい。
「……分かった。3階層で引き返す」
「ヒヒッ。……生きていれば、な」
ゴズはランタンを掲げ、暗闇への道を照らした。
「……さあ、入れ。地獄の授業の始まりじゃ」
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階段を降りた先には、広大な地下ホールが広がっていた。 石造りの壁は崩れかけ、天井には剥き出しの配管が走り、所々から蒸気が噴き出している。魔法文明と機械文明が不気味に融合した、この世界特有のダンジョンだ。 発光する苔と、切れかけた電灯がチカチカと明滅し、不安を煽る。
俺たちは円形に集まった。 本格的な探索を始める前に、やっておくべきことがある。
「……さて。これから命がけの遠足だ。互いの手札を知らないままじゃ、全滅する」
俺は全員を見回した。
「自己紹介をしないか?名前と、得意なこと。それから……言える範囲でいい、レベルとスキルを教えてくれ」
沈黙が流れる。 この世界において、ステータスは個人情報の最たるものだ。安易に他人に教えるものではない。 だが、口火を切ったのはラベルだった。
「はいっ! 僕は松田ラベル! レベルは……えっと、1です!」
ラベルがVサインをする。
「職業はアイドル! スキルは【注目】と……あと、【夢を現実に】っていう、なんかすごいバフスキルがあります! 効果は……みんなが盛り上がると、強くなる! みたいな?」
「……アバウトだな。だが、昨日のスライム戦で効果は実証済みだ。後衛でのバフと囮はお前に任せる」
次は、おずおずとガロンが手を挙げた。
「……俺は、ガロン。レベルは……8だ」
「ええっ!? レベル8!?」
ラベルが驚愕の声を上げた。 俺も少し目を見開いた。新入生で、しかもこの時期にレベル8というのは破格だ。Aクラスのエリートでもレベル4か5がいいところだろう。
「すっげー! ガロン君、エリートじゃん! なんでFクラスにいるの?」
「……違う」
ガロンは俯き、ポポちゃん(ぬいぐるみ)を強く抱きしめた。
「……俺は、獣人だ。俺の故郷では、子供の頃から狩りをする。……同い年の他の奴らは、もうレベル15を超えている。……俺は、戦いが怖くて……逃げてばかりいた。……だから、8しかないんだ」
獣人族。 生まれながらにして高い身体能力と戦闘本能を持つ種族。彼らにとって、レベルとは生きるための呼吸と同じだ。 人間基準で見ればレベル8は高水準だが、獣人社会の基準で見れば、ガロンは間違いなく「落ちこぼれ」なのだろう。 恵まれた体格とステータスを持ちながら、精神がそれに追いついていない。それが彼のエラーだ。
「……スキルは【硬化】と【咆哮】があるが……大きな声を出すのは、苦手だ……」
タンク役としてのスペックは高いが、メンタルが紙のようだ。
「……次は私、ですね……」
ピコがゴーグルをいじりながら言った。
「ピコです。レベルは2。……得意なのは、機械の分解と……爆破です。スキルは【解体】と【火薬調合】。……あの、狭い場所で爆発させると、私たちも死ぬので……気をつかいます……」
自爆テロ要員か。使い所が難しいが、火力はありそうだ。
そして、視線はネイに集まる。 彼女は俺たちから距離を取り、壁にもたれかかっていた。
「……ネイ。それ以外、教えることはないわ」
「……レベルくらい教えろよ。連携に関わる」
「……知らないわよ。自分のステータスなんて、見たこともないし、見たくもない」
彼女は吐き捨てるように言った。 自分の存在そのものを嫌悪しているかのような口ぶりだ。
「……スキルは?」
「……『触るな』。それだけよ。……私に近づくと、消えるわよ」
取り付く島もない。 だが、昨日の試験会場で見せた、あの「消失」現象。あれが彼女の無自覚なスキルなのは間違いない。彼女自身も制御できていないようだ。
「……分かった。最後は俺だ」
俺は一歩前に出た。
「クロだ。レベルは2。職業はコンビニ店員……じゃなくて、まあ、何でも屋だ。スキルは、物を変化させたり、少しだけ火を出したりできる。……前衛も後衛もやるが、器用貧乏だと思ってくれ」
俺は『不』の力については伏せた。 「不変」や「不自然な手」といった強力なスキルは、今のレベル2の肉体では負荷が大きすぎてまともに使えない。使えるのは、小手先の『成る(kame-Leon)』と、着火程度の『不知火』、そしてメグリの記憶にある移動術くらいだ。
「……へぇ。コンビニ店員って、器用なんですねぇ」
ラベルが感心したように言う。
「……よし。陣形を決めるぞ。レベルが高いガロンが先頭だ。俺とピコが中衛。ラベルとネイは後衛だ。……いいな?」
「……私に指図しないで」
ネイは不服そうだが、最後尾についた。 ガロンが震えながら先頭に立つ。
「……い、行くぞ……ポポちゃん……」
Fクラスの初探索が、幕を開けた。
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地下1階層は、かつて実験施設だった場所のようだ。 崩れた壁の隙間から、錆びた鉄格子や、割れたガラス管が見える。 床には、何かの骨や、機械のパーツが散乱していた。
「……ギャッ!」
通路の曲がり角から、奇妙な音が響いた。 現れたのは、スケルトンだった。だが、普通の骸骨ではない。 腕の代わりに錆びたドリルや剣が埋め込まれ、肋骨の中には機械の部品が詰まっている。 魔力と科学技術の悪魔合体。 『廃棄実験体』。
「ひぃぃ! ボーンさんが改造されてますぅ!」
ラベルが悲鳴を上げる。 敵は一体ではない。カシャカシャと音を立てて、五体、六体と現れる。
「ガロン! 前を止めろ!」
「……う、うわぁぁぁ!」
ガロンは悲鳴を上げながらも、反射的に前に出た。 スキル【硬化】。彼の体毛が鋼のように硬質化する。
ガキンッ!
キメラのドリルが、ガロンの腕に弾かれる。 さすがレベル8。素の防御力が段違いだ。キメラの攻撃がまるで通じていない。 だが、ガロンは攻撃に転じられない。目を瞑って震えているだけだ。
「ピコ! 関節を狙え!」
「は、はいぃぃ!」
ピコがスパナを投げる。 カーン! 見事にキメラの膝関節にヒットし、体制を崩させる。機械いじりが得意なだけあって、構造的な弱点を見抜くのは早い。
「ラベル! 歌え! バフをかけろ!」
「了解です! 『地下迷宮で愛を叫ぶ』、スタート!」
ラベルが歌い出すと、俺たちの体に力がみなぎるのを感じた。
【夢を現実に】
ステータスが底上げされる。
「……よし、行くぞ」
俺は前に出た。 手には、コンビニのバックヤードから持ってきたモップの柄(先端をナイフのように加工済み)。 だが、ただ突くだけでは、この鉄骨混じりのキメラは倒せない。
俺は左手を握りしめた。 指先に意識を集中する。 俺の中に眠る、かつての記憶。メグリの記憶。 かつて第二世界を「逃げ回って」クリアした男の、生存本能の結晶。 スキル『 這う這うの体 』。
本来は、指先から圧縮空気を極限まで高めて噴射し、空中での軌道変更や超加速を行う移動スキルだ。 だが、今のレベル2の脆弱な肉体でそれをやれば、反動で筋肉が断裂し、骨が砕ける。 だから、限定的に使う。 移動のためではなく、攻撃の「加速」のためだけに。
「……『 噴 ( フ ) 』ッ!」
俺はモップを持つ右手の肘の後ろに、左手の指を添えた。 指先から、指向性を持った圧縮空気が爆発的に噴射される。
パシュッ!!
空気の炸裂音が響き、俺の右腕がロケットのように加速された。 ただの突きではない。ジェット推進を乗せた刺突。
「……貫け!」
モップの先端が、音速に近い速度でキメラの頭部にある核を捉える。
ドォォン!!
物理法則を無視した運動エネルギーが、硬い頭蓋骨と金属パーツを粉砕した。
「ぐっ……!」
反動で、俺の右肩に激痛が走る。 関節が悲鳴を上げている。レベル2の肉体には、この出力はまだ荷が重すぎる。 かつての肉体を持っていた頃なら、息をするように使えた技だ。だが今は、一撃放つだけで腕が使い物にならなくなるリスクがある。
「……一体、撃破!」
しかし、敵はまだ残っている。 一体のキメラが、俺たちの連携の隙間を縫って、後衛のネイに襲いかかった。
「ネイ! 危ない!」
俺が叫ぶが、間に合わない。 キメラの錆びた剣が、ネイの白い喉元に迫る。
ネイは動かない。 ただ、その灰色の瞳で、迫りくる「死」を見つめた。 彼女自身、自分がどうしたいのか、どうすればいいのか分かっていない。 ただ、嫌悪感だけがあった。
汚い。来ないで。
「……来ないで」
その言葉は、懇願ではない。 絶対的な「命令」。あるいは、世界への「拒絶」。
ブォンッ!!
空間が歪んだ。 キメラの剣が、いや、キメラの上半身そのものが、見えない力によって弾き飛ばされた――のではない。 「そこに在る」ことを拒否され、座標を強制的に排除されたのだ。
バヂヂヂッ!
空間が修復される時のスパーク音と共に、キメラは粉々になって消滅した。
「……え?」
ラベルが口を開けて固まる。 俺も冷や汗をかいた。 あれが『拒絶』。 魔法でも物理でもない。対象の存在を否定する、俺の『不』に近い、だが対極にある力。 彼女自身も何が起きたのか分かっていないようで、震える手を見つめていた。
「……今のは……?」
「……ボサッとするな! 次が来るぞ!」
俺の声で、全員が我に返る。 俺たちは傷だらけになりながらも、なんとか第一波を撃退した。
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キメラの群れを退け、息をつく暇もなかった。 地下1階層の通路が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
『……主よ』
イヒが警告する。
『……迷宮の構造が、おかしい』
「どういうことだ」
『……察知した空間と異なる。それに、敵の湧き方が不自然。まるで、誰かがリアルタイムで難易度を調整しているよう……』
俺は天井を、いや、足元の深淵を見下ろした。 この迷宮の最深部、10階層。 そこに、何かがいるのか。
『錚々たる松田』ではない。あいつなら、もっと派手で悪趣味な干渉をしてくるはずだ。 これはもっと陰湿で、実験的な視線。 俺たちを「観察」し、データを取るために、あえてギリギリの強さの魔物をぶつけてきているような……。
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10階層の暗闇の中。 モニターのような水晶に囲まれた部屋で、一つの影が蠢いていた。 機械仕掛けの義手を持つ、白衣の人物。
『……ほう。面白い。「不」の因子に、「拒絶」の因子。そして蘇生者の残滓か……』
影は、手元のレバーを操作した。
『……少し、データを取らせてもらおうか。君たちが「ゴミ」なのか、それとも「素材」になり得るのか』
カチャン。
その操作音と共に、俺たちの目の前の空間が歪んだ。 本来、ここにあるはずのない「深層の気配」が漏れ出す。
「……おい、見てくれ」
先行していたガロンが、足を止めた。 地下1階層の広間。 そこに、巨大な肉塊が鎮座していた。
『廃棄合成獣 Lv.20』
本来、この階層にいるはずのないボス級モンスターだろう。 レベル平均2(ガロンだけ8)の俺たちにとっては、絶望的な壁。 全身が廃棄された武具や瓦礫で構成され、中心には赤いコアが脈打っている。
「……うそでしょ。あんなの、勝てないですよぉ……」
ラベルが膝をつく。 俺も舌打ちした。
(……俺たちをここで殺す気か、それとも「何か」を引き出そうとしているのか)
ゴーレムが動き出す。
ズズズ……
その巨体が、通路を塞ぐように迫ってくる。
「……戦うか?」
ピコがスパナを構えるが、手は震えている。
「……いや」
俺は冷静に判断した。 今の俺たちのリソース(体力、MP、そして俺の身体強度)では、こいつを倒すのは不可能ではないが、リスクが高すぎる。 ここで全滅すれば、元も子もない。 俺たちは「英雄」になるために来たんじゃない。「評価」を得るために来たんだ。 生き残ることこそが、最大の評価だ。
「……撤退だ」
俺は叫んだ。
「えっ!? でも、課題が……」
「死んだら課題もクソもねぇ! 全力で逃げるぞ!」
俺はリュックから、最後の切り札を取り出した。 蛇便で届いたコンビニ商品の『食用油』のボトルと、『殺虫スプレー』、そしてライター。
「……ピコ! お前の爆弾、あといくつある!?」
「えっ? あ、あと一つだけ……!」
「それをあいつの足元に投げろ! 同時に俺が火をつける!」
「は、はいっ!」
ピコが最後の爆弾を投げる。 俺は油をばら撒き、殺虫スプレーのガスを噴射しながら、ライターで着火した。 簡易火炎放射器だ。
ドォォォォン!!
爆発と炎が、ゴーレムの足を包む。 ダメージは少ないだろうが、視界を奪い、足止めにはなる。
「……走れぇぇぇっ!」
俺たちは背を向け、来た道を全力で駆け戻った。 後ろから、ゴーレムの怒号と地響きが聞こえるが、振り返らない。 ガロンがラベルを抱え、俺がピコの手を引く。ネイは意外にも足が速い。
這う這うの体を使うまでもない。ただ全力で、地上への階段を駆け上がった。
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鉄扉の外に出た時、空は既に茜色に染まっていた。 俺たちは草むらに倒れ込み、荒い息を吐いた。
「……はぁ、はぁ……死ぬかと、思った……」
ラベルが大の字になって空を見上げる。 泥だらけのアイドル衣装。だが、その顔には生還した安堵が浮かんでいる。
「……怖かった……」
ガロンがポポちゃんを抱きしめて泣いている。 レベル8の肉体を持っていても、心はまだ幼い。だが、彼は最後まで前衛として耐え抜いた。
ピコもゴーグルを外して涙を拭っている。 ネイは少し離れた場所で、膝を抱えて座っていた。
完全な敗走だ。 1階層でいきなり強敵に遭遇し、逃げ帰った。 評価としては「失敗」かもしれない。
だが。
「……生きてるな」
俺が言うと、ラベルが体を起こした。
「……はい。生きてます」
「……なら、勝ちだ」
俺は身を起こし、リュックからコンビニで買った『おにぎり』を取り出した。 潰れてしまっているが、味は変わらないはずだ。
「……食うか?」
俺はおにぎりを割り、みんなに差し出した。 ラベルが恐る恐る手を伸ばし、一口食べる。
「……んぐ。……美味しい……」
その言葉を皮切りに、ガロンも、ピコも、おにぎりに手を伸ばした。 具はただの塩と昆布。 だが、極限状態から生還した後の飯は、どんな高級料理よりも美味かった。
「……次は、もっと上手くやれる」
俺は言った。
「ガロン、お前の硬化は通用した。さすがレベル8だ。もっと自信を持って前に出ていい。……ピコ、爆弾のタイミングは完璧だった。次はもっと量を作れ。……ラベル、お前のバフがなければ、最初の部屋で死んでた」
それぞれが、自分の役割を果たした。 バラバラだった歯車が、少しだけ噛み合い始めた気がした。
「……ネイ」
俺は最後に、孤立している少女に声をかけた。 彼女は俺を見ない。
「……お前のあの力。……制御できれば、最強の武器になる」
「……うるさい。……あんなの、私の力じゃない」
彼女は否定したが、差し出されたおにぎりを拒絶することはなかった。 小さくちぎって、口に運ぶ。
「……」
俺たちは夕焼けの中で、泥だらけのままおにぎりを食った。 『Fクラス』。 落ちこぼれ、規格外、バグ。 だが、俺たちは今日、生き残った。
「……明日は、あのゴーレムをぶっ飛ばすぞ」
俺の言葉に、ラベルがニカっと笑った。
「はいっ! リベンジマッチですね! チケットは完売間違いなしです!」
俺たちは立ち上がった。 影が長く伸びる。 その影の中に、俺の中のイヒが、そして10階層の謎の人物が、静かに笑っているような気がした。
冒険者学校での最初の一日が、こうして終わった。
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【現在のステータス】
名前:クロ(目繰 里無)
レベル:2
HP:28/28(回復中)
MP:2/8
不の残滓:2.0%(微増)
状態:右腕筋肉痛(『這う這うの体』の反動)
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