45. 理不尽を食い破る準備期間
お久しぶりです。
連載再開です。前後関係や伏線整理しながらすすめていきます。
「――いってぇな、クソが」
頬を撫でると、乾いた血の感触が指先に残っていた。 アギュラの街の隅っこにある、いつものコンビニ。一ヶ月という「休職」――実際には死にかけていた期間を経て復帰したばかりの俺、クロ(目繰里無)は、バックヤードの割れた鏡を覗き込んでいた。
「クロちゃん、動いちゃダメだってば。せっかく塞がりかけてるんだから」
ミズナが、前髪に隠れた赤と青のオッドアイを微かに揺らしながら、俺の顔に掌をかざした。彼女の細い指先から、紫色の『癒しのマナ』が立ち上る。それがじわじわと俺の肌に浸透し、店長に叩き込まれたあのアッパーの衝撃を中和していく。
「悪いな、ミズナ。……だが、レベル1の体ってのは不便極まりねぇよ」
鏡の中に映る自分は、かつて第三世界でアスラを蹂躙した「不のもの」の面影を辛うじて残しているだけの、ただのよわよわな少年だった。 『第一世界の支配者:錚々たる松田』。あのおちゃらけた野郎の顕現によって、俺の中にあった『不の力』の大部分は相殺され、強制的にこの世界のシステムに組み込まれた。結果がこれだ。
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【ステータス】
名前:クロ(目繰 里無)
レベル:1
HP:12/12
MP:3/3
不の残滓:???(使用後、バッドステータス)
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「ステータスポイントの振り分けもなし……。地道にレベルを上げて、肉体をこの理に馴染ませるしかねぇってか。チート殺しも大概にしろよ」
俺は毒づきながら、カウンターの外を睨んだ。そこでは店長が、古びた新聞を広げながら煙草を吹かしている。この店の「防衛システム」を管理し、俺というイレギュラーを「従業員」として認めた女。
「店長。俺、明日から『冒険者学校』の入学手続きに行ってくる」
店長は新聞から目を離さず、煙だけを高く吐き出した。
「ふん。レベル1のゴミが学校か。……まぁいい。お前を認めたのはこの店のシステムだ。お前のスキルがその証である以上、俺は止めん。だが、欠勤は給料から引くからな」
店長の態度は相変わらず曖昧だ。俺の中に渦巻く『不』の正体を、あいつがどこまで理解しているのかは分からない。ただ、この店の屋上にある「堂」を守るためには、俺のような「バグ」が必要だということだけは分かっているらしい。
俺は店を出て、夜のアギュラの街へと足を踏み出した。
街並みは、中世ヨーロッパの古都を彷彿とさせる。 石畳の道は長い年月を経て角が取れ、月光を反射して鈍く光っている。石造りの民家からは、焼きたてのパンの香りと、運河の少し湿った泥の匂いが混じり合って漂ってきた。 だが、その情緒ある風景を台無しにしているのが、空に浮かぶ巨大な紋章と、至る所に貼られた「松田」のポスターだ。
この世界において、「松田」という名字は絶対的なブランドであり、同時に呪いだ。 特権階級としての地位を約束される一方で、支配者――『錚々たる松田』の気まぐれで、いつ「錚々たるメンバー(人形)」へと変質させられるか分からない。人々はその恐怖を、華やかな文明の裏側に必死に隠して生きている。
「どけえええ! 『ネビン(子便)』の特急便だあああ!」
凄まじい風。 巨大なネズミ(ムシカ)に跨った配達員が、俺の横をコンマ数秒で通り過ぎていった。 干支を冠した配達システム。その中でも最速を誇るネズミの足。今の俺の動体視力では、その残像を追うのが精一杯だ。
「……ヘビン(蛇便)なら、俺でも追いつけるんだろうけどな」
蛇のように這い回り、遅いが確実に届けるというあっちのサービスの方が、今の俺にはお似合いかもしれない。俺は自嘲しながら、中央広場の巨大な掲示板の前に立った。そこには、冒険者たちが最初に直面する「現実」が書き出されていた。
「依頼:『絶叫スライム』の討伐。……なんだこれ」
俺は近くにいた、キラキラした衣装を纏った小柄な男に声をかけた。
「よぉ、アイドル。お前、これ知ってるか?」
「あ、クロ先輩! もう、アイドルじゃなくて『冒険者志望のアイドル』って呼んでくださいよ!」
松田――かつて俺との「不の共有」の果てに蘇生者として覚醒し、そして支配者にそのスキルを消去された男が、ウィンクを飛ばしてきた。蘇生スキルは失ったようだが、奴の「アイドルとしてのスキル」は微塵も衰えていない。むしろ、そのウザいくらいの前向きさは強化されている気すらする。
「見てくださいよこれ。絶叫スライム。冒険者が最初に倒すモンスターの定番ですけど、こいつ、切るたびに『やめて!』とか『私には帰りを待つ家族が!』って人間の声で絶叫するんですよ。冒険者の良心を物理的・精神的に抉ってくる、嫌な連中なんです」
「……趣味が悪ぃな。この世界の製作者は性格が歪んでやがる」
「でも、実力はスライムですから。今のよわよわな先輩には、ちょうどいいリハビリになるんじゃないですか? 僕も応援の練習台として付き合いますよ!」
松田はそう言って、虚空に向かって「キラりん☆」とポーズを決める。周囲の通行人が、一瞬だけ彼に注目し、そして何事もなかったかのように去っていく。レベル4の【注目】スキル……。支配者の目は逃れても、一般人の目は引きつけるらしい。
俺は掲示板のチラシを引き剥がした。
「……レベルアップ。そして、学校編」
俺の中には、仲間がいる。 内なる不で眠る、相棒のメグリ。 そして、イヒであり、アカメの受肉に不可欠な「コガメ」。 今はまだ、彼らの声を聞くことはできない。だが、俺がレベルを上げ、不の力を少しずつ解放していくたびに、その絆は戻ってくるはずだ。
そして、アカメ。 俺の相棒。
(待ってろ、アカメ。……俺の中のコガメと、お前の失われた記憶を必ず混ぜ合わせてやる)
俺は、街の外れにある『アギュラ冒険者学校』の巨大な校門を見上げた。 そこは、松田の名字を持つエリートたちが集い、この世界の理を学ぶ場所。 レベル1。ステータス最低。 そんな「ゴミ」のような俺が、エリートたちの鼻を明かし、システムの裏をかいて支配者の喉元にまで這い上がる。
「よし、準備は整った」
俺は、手にした「絶叫スライム」の依頼書を握りしめた。 明日からは、もうコンビニのレジ打ちだけが日常じゃない。 絶叫するスライムを黙らせ、レベルを上げ、この馬鹿げた『天上クエスト』を根底から引き摺り下ろしてやる。
空には、不自然なまでに整った満月が、アギュラの街を冷たく照らしていた。
「……まずは一匹。良心を捨てて、ぶっ飛ばしに行くか」
俺は、かつて神を屠った時のように、口元をわずかに緩ませた。




