第43話『女神と少年』
「マスター、聞こえるか?」
「……アイフィ…………?」
光に包まれた壁のない無限に広がる空間、唯一実態を感じ取れるのは自分の足で踏みしめているこの見えない床だけだ。遠くもない近くもない一メートル先には左目が真っ赤に輝くアイフィの姿がある。
クダリの姿は、アイフィから貰ったコートが無事であることから察するに、焼き焦がされる前の姿になっている。
「俺は……また、死んだのか……?」
「……そうみたいだな。でも、大丈夫だ、我が――」
「だめだ!」
アイフィの言おうとしていたことをクダリは瞬時に理解する。自分の最後の生命力を使ってクダリを再び生き返らせようとしているのだ。
「マスター、なぜだ?」
アイフィの存在をここに生きている、これからも生き続けるという証を俺なんかのために使っていいはずがない。
「俺は、偽物なんだ。そんな俺に命を捧げる必要はないだろう。偽物の俺の命に価値なんてないんだ」
アイフィはその言葉を聞くと、顔を俯かせ、一粒の涙を流して一歩踏み出す。
「マスター、ひとつ我の話を聞いてくれないか?」
俺はアイフィの問いに無言で承諾の返事をする。
「我が神界で偽りの世界を暇だったから監視していたときのことだ……」
偽りの世界の様子は無数にある水晶玉に偽りの世界が一つずつ映る。そこに、一人の少年を中心に世界の様子が伝えられる。
その少年は、どちらも笑顔で子どもの誕生を喜ぶ母と父の間で生まれた。
「まあまあ、かわいいわね。あなた、この子の名前はどうしましょうか?」
母親が元気いっぱいの赤ちゃんを抱いて父親に話しかける。
「そうだなあ。――――なんてどうだ?」
「まあ、素敵ね! そうしましょう!」
少年は母、父、両方の愛情を与えられて育てられていったのだ。そして、少年が生まれた二年後に妹となる少女が生まれた。
「この子が――の妹ね。名前はどうしましょうか?」
「うーん、――――なんてどうだろうなあ」
「ふふっ、やっぱりあなたのつける名前はどこか優しさがこもっているわ。――、お兄ちゃんが困っていたら手助けしてあげられる優しい人になるのよ」
こうして、二人はすくすくと成長していき、兄が四歳、妹が二歳になったころに事件は起こった。
ある日、父が目を覚ますと、ドアの向こうに明かりがついていることに驚いた。隣には母が妹と一緒に寝ており、父の横には兄が寝ているのだ。電気の消し忘れだろうか。だが、ガラスの割れる音が響いたりタンスを開ける不審な音が耳に入るのだ。ただごとではないと父は家族を起こさないようにドアの向こう、リビングへと移動する。
「あなた? どうしたの?」
「ああ、悪い、起こしてしまったか。いや、リビングで変な音がするから様子を見に行こうと思ってな。そこで待っていてくれ、すぐ戻る」
「いえ、私も行くわ。ここは私たちの家だもの。私だって家の手助けになることはしたいわ」
母の目には強い信念がこもっていた。同様に父も、その目を向けて無言でうなずく。二人で寝室から廊下に出て、リビングのドアを勢いよく開く。
「そこに誰かいるのか!」
「く、くそっ!」
リビングを荒らしていたのは赤いレスラーのマスクを顔につけ、手に包丁を握り締めた窃盗犯と断定できる格好であった。その窃盗犯は二人の夫婦に気づくと、証人の抹殺のためか真っ先に包丁を振りかざす。その刃は後ろで怯えている母親に向けられる。
「危ない!」
だが、咄嗟に父親が母親の前に立ち、母親を助けたが、父親は男の包丁を心臓部分に直接刺され、滝のように流れる血を見せながらフローリングの上に倒れる。
「きゃあああ!」
「うるせえ! 静かにしろ!」
男は母親にも包丁を刺して殺すと、パトカーのサイレンに気づいて侵入するときに割った窓から脱出した。男のその後は不明だが、彼ら兄妹の両親はともに急所を刺され、即死ということらしい。
「ねえ、誰が引き取ります?」
「でも、二人もだろ……。金がかかって仕方がない」
「こらこら、なんてことを言いなさるんですか……」
「じゃあ、あなたの家が引き取るんですか?」
「いえ、私たちの家にはそんなお金……」
兄妹の引き取り先を決める相談で彼らの両親の親せきが会議を開いていた。あれやこれやと話し合いは行われているが、一向に決まる気配はない。そんな中、一人の老人男性が手を挙げる。
「ならば、わしが育てよう。これでも、祖父だからな」
「さすが、――さん!」
「やはり、お優しい方だ……」
周囲からは称賛の言葉が浴びせられるが、この場の誰もが内心では「自分がハズレくじを引かずに済んでよかった」と思っていたのだ。
二年の月日が経ち、兄は六歳、妹は四歳になった。兄は小学校に通い始める時期となった。
「はい、おじいちゃん!」
「ん? ――、なんだねこれは?」
「石! 道路に落ちてたのを拾ったんだ! おじいちゃんにあげる!」
兄妹二人が大きな石を机に座って作業をしている祖父に渡す。
「おお、ありがとう。大切にするよ」
祖父は石を机の空いている端に飾る。祖父は両親と同じようにとてもやさしい心の持ち主だ。二人はとても家族に恵まれた子どもたちだった。だが、そんな恵まれた生活も続かない。
月日は流れ、兄は十歳、妹は八歳になった。
「――、ワシの机の引き出しにもしワシが死んだときのためにこれから生活するために重要なことを全部まとめておいた。金も入っておる。兄であるお前が、妹の面倒を見てやってくれ……」
病院で祖父は二人の兄妹に看取られて亡くなった。彼の言った通り、机の大きな引き出しには生活に必要な料理、洗濯など家事全般の知識と相談に乗ってくれる祖父の友人の電話番号も書かれていた。用意された金は現金で用意されており、一万円札が封筒にぎっしりと詰まっていた。兄はこれだけの情報でなんとか生活できるよう努力した。最初は失敗ばかりで上手くいかないときもあった。料理は焦げるし、洗濯は泡だらけになって危うく壊しかけたこともあった。それでも、妹のためとがんばった。
ある日、妹が泣いて家に帰ってきた。
「――、どうしたんだ?」
「うっ、うっ、お兄ちゃん! ――は我慢しないといけないの?」
「い、いきなりどうしたんだ?」
「今日ね、先生に言われたの。あなたの家は特殊だから、あなたは泣くのも、遊ぶのも我慢してお兄ちゃんのお手伝いをしなさいって」
風のうわさで妹の先生は知っていたのだろう。
「なあ――、たくさん遊びたいか?」
「え、う、うん……」
妹は泣きながら答える。
「じゃあ、思う存分遊べよ。たくさん泣いたっていい。そうやって自分を偽ろうとしなくても、俺は――の好き勝手に遊んで泣いて笑っているところが好きなんだよ。だから、誰に何を言われても本物の自分を見失うなよ!」
「…………うんっ!」
妹は兄の言葉を聞くと泣くのをやめ、笑顔で返事をする。
その言葉は妹だけではなく監視していた我の心にも響いたのだ。運命という自分の本当の能力を偽り続けていたが、彼の会話を聞いて偽ることをやめたのだ。だが、親友を除いて誰からも認めてもらえず、つらくなって諦めてしまったがな。
「――という話だ」
俺は知っている、その兄妹を。いや、知っているなどという範疇ではない。
「その兄妹って……」
「ふふっ、そういうことだな」
質問は最後まで言わなかったが、アイフィはクダリがこの質問をすると最初からわかっていたのだろう。
「我はマスターには感謝しているのだ。マスターは偽物なんかではない、我の中では全世界の中でたった一人の、我の唯一認めた本物のマスターだよ。だから、自分は偽物で自分の命に価値がないなんて言わないでくれ、マスター。我の、我だけのカッコいいマスターだということを否定しないでくれ」
アイフィの頬を涙が流れ、顎から白い床に何粒も落ちていく。そして、アイフィは一歩、また一歩と踏み出し、俺の前に立つとそのまま流れるように抱きしめる。その抱擁は今まで感じたどれよりも慈愛に溢れていた。
「アイフィ……」
アイフィの名前を呼んで、自分の頬が濡れていることに気づく。そうか、俺もアイフィのことが――――好きだったんだな。
「だから、我の命、受け取ってくれるか……?」
「………………」




