第三話 1
次の日の朝、僕は優菜の家の食卓で、優菜と向かい合って朝食を食べていた。優菜は随分テキパキと朝食を作ってくれた。しかも、彼女は、目玉焼きは半熟で塩コショウではなく醤油をかけて食べるのが僕の好みだということも熟知していて、僕が目玉焼きに箸を付けようとすると、「はい、どうぞ」という感じで醬油差しを差し出してくれたのだった。
しかし、眠い。昨日は、全然眠れなかった。昨日の夜、食後に優菜が淹れてくれたコーヒーは優菜とペアのマグカップに入っていたし、洗面所で歯を磨こうとしたら、ブルーとピンクの歯ブラシがあるし、寝室を覗いてみたらダブルベッドだった!
でも、流石にいきなり優菜と一緒のベッドで寝るわけにはいかないと思ったので、和室に布団を敷いて一人で寝ることにした。けれども、目を閉じてみても神経が高ぶって全然眠れない。眠れないので、布団に横たわったまま、じっと天井を見つめていたが、目の前にあるのは綺麗な木目の見慣れない天井で、あの古ぼけたアパートの染みだらけの薄汚れた天井ではなかった。
「どう? 眠れた?」
「……」
「あ、ごめん。眠れるわけないよね。でも、もう一日家でゆっくり休んで、仕事は明日からにすれば良かったのに……。今日は休むって、桜木のおじさんに電話してあげようか?」
「い、いいっ、休むなら自分で電話するからっ」
「そう?」
「うん」
「私は、昨日休ませて貰ったから、今日はどうしても仕事に行かなくちゃいけないの」
「そうか……」
「うん」
「じゃ、気を付けて行っといで」
「うん! 出かける時、ちゃんと家の鍵を掛けて出かけてね」
「あ、うん」
そう会話して、優菜は玄関に向かったが、途中、立ち止まって僕の方を振り返り、「……亮ちゃんは、もういなくならないよね?」と呟いた。その顔は、どこか淋し気だった。
「え? どういう意味?」
「この家に一人で住むのは淋しいなと思って……」
「そうか、俺、入院してたしな。優菜に追い出されない限り、いるとは思うけどな」
僕がそう言うと、優菜はにっこり笑って「じゃあ、行って来ます!」と言って仕事に出掛けた。
優菜からすれば、久々の僕との二人の生活が戻って、嬉しかったのだろう、玄関前で僕が彼女を見送っていたら、彼女は何度もこちらを振り返り、手を振りながら通りを速足で歩いて職場に向かって行った。
しかし、それにしても優菜と違って僕は混乱したままだった。ガキの頃から、憧れていた優菜と自分が結婚していたのは、予想外の嬉しい出来事だったが、それにしても刺激が強すぎる。優菜はただでさえ高嶺の花だったのだから、ちゃんと順を追って覚悟を決めて彼女と結婚したのだという過程を実感しなければ、自分はずっと混乱したままだろうと思う。第一、プロポーズの言葉も思い出せないなんて、そんなの悲しすぎるではないか!
笑顔で仕事に出掛けて行った優菜の顔を思い浮かべていて、突然、昨日の見知らぬ男の顔が優菜の顔を遮った。昨日の夜、優菜から返された自分の携帯の中の電話帳に、「角田圭吾」という見知らぬ人間の名前があることに気付いていた。メールやラインも調べてみたが、その角田圭吾という人間とは、やり取りした形跡がなかった。彼とは、常に電話でしか連絡を取っていないようだった。昨日の会話を思い出してみたが、どう考えてみても不安要素しかない。彼の言っていた消息不明の「アイツ」とは一体誰なんだろう? 俺は、「昔の仲間と縁を切っているアイツ」を探しているんだろうか? 何のために?
悪い予感が過ぎった。一体、過去の自分は何をしていたのか、そのためにも、僕は芳子に頼んで、失われた記憶を取り戻さなければと思った。




