第一話 12
逃亡するだけなら、そこまで大事件でもないだろうが、しかし、中学二年になったある日のこと、本当に大事件が起こった。いつも迎えに来る母親が迎えに来ず、美帆が一人で松葉杖をついて下校していた時にそれは起こった。
「お前、本当に一人で大丈夫なのかよ」
「大丈夫よ」
心配した隼人が美帆に話し掛けていた。祐樹も一緒だった。僕はと言えば、ことごとく宿題の提出を怠っていたことで、職員室で担任に大目玉を食らっていた。優菜は優菜で、風紀委員ということで、担当教師と他の生徒達と一緒に、学校中の掲示板に「あいさつは、きちんと交わそう」と書かれたポスターを貼りまくっていた。
「家まで送るよ」
「桜木君、ありがとう。大丈夫だよ。たまには一人で帰りたいから」
「そっか」
「うん」
そんな会話をした後、美帆は一人で家に向かっていた。
しかし、運が悪く美帆は、愛川に出くわしてしまった。
「平田、お前、一人で帰ってるのか?」
「……」
美帆は、愛川にそう話し掛けられても答えることができず、無言だった。
「俺、お前に訊きたいことがあるんだよ」
「え? 私に?」
「うん」
「なに?」
「生島なんだけど、アイツ、付き合ってるヤツがいるのか?」
「ええ? なんでそんなことを訊くの? 本人に訊けばいいじゃない」
「いいから、教えろよ」
「いないと思うけど……」
「そうか!」
「でも、好きな人はいると思う」
「え? 誰?」
「……」
「教えろよ」
「知らない。そんな話、しないもの。でも、愛川君じゃないことは確かね」
「なんだと!」
「だって、優菜は弱い者いじめする人なんか嫌いだもの!」
美帆がそう言った途端、愛川は美帆がすがっていた松葉杖を思いきり蹴飛ばし、その途端、美帆は支えを失って転んだ。
すると、その様子を窺っていた者がいたのか、遠くの方から「大丈夫かーっ!」と大声で叫びながら、走って近付いて来た。帰り道は逆方向なのに、美帆が心配で、引き返して来た隼人と祐樹だった。祐樹は、遠くに飛んでいった松葉杖を拾いに行き、美帆に渡していた。一方隼人は、愛川に殴りかかる勢いで叫んでいた。
「お前! 今、何やったんだっ! か弱い女子になんてことするんだっ! やっぱりお前は最低のクズだな!」
「コイツが生意気なことを言うからだよ!」
「本当のことを言っただけじゃないか!」
祐樹が愛川に向かって言った。すると、愛川は祐樹に向かって叫んだ。
「野崎も気に食わないが、お前もだ! お前は一体何様なんだ!」
愛川哲也は祐樹にそう言い放った。祐樹はガタガタ震えながらも、隼人を守るようにして隼人の前に立っていたが、非力な祐樹が愛川哲也に勝てる訳がない。祐樹はいとも簡単に顔面パンチを喰らって転び、転んだ祐樹に愛川が追い打ちをかけようとした時、隼人は祐樹を守ろうと前に立ちふさがった。すると、愛川はにやりと笑ってズボンのポケットからナイフを取り出すと、いきなり隼人を切りつけた。
その時、学校に迎えに来て娘が一人で下校したことを知った美帆の母親と一緒に、優菜と僕は、美帆を探して、この騒動の現場に辿り着いた。美帆の母親は、隼人が血まみれになって倒れているのを見て、その場にへなへなと崩れ落ちた。美帆の母親は、震えながら鞄の中から携帯を取り出し、救急車を呼んでいた。
僕は隼人が腹から血を流しているのを見てパニックになった。
「おのれーっ! やりやがったなーっ!」
僕は、そう叫びながら愛川に馬乗りになり、殴っていた。どれだけ殴ったのか分からないくらい殴った。しかし、愛川も強い。僕を跳ねのけると、今度は愛川が僕の上に馬乗りになり殴り続けた。
気付けば、到着した救急車に隼人は乗せられていき、僕と愛川は、警官に取り押さえられて警察の車に乗せられ、少年鑑別所送りになった。
僕は鑑別所の監視員に「何年くらいの刑? 前科が付くんだろ?」と訊いてみたら、「お前、ガキだろ? 前科なんか付かないよ」と失笑された。色々取り調べをされた後、愛川哲也は人をナイフで切りつけているということと余罪があるということで少年院送りになったようだが、僕は、祐樹の父が僕の保護司代わりになるという訴えのおかげで、保護観察が認められ自宅に帰された。
まだ三十歳だった母は、「なんてことをしたのよ!」と僕の頬を叩いて泣いた。
愛川哲也は、鑑別所で別々の檻に入れられる時、僕に向かって捨て台詞を吐いた、「俺はお前に必ず復讐する! 何年かかってもな! 首を洗って待ってろ!」と。僕は「はぁ? それは俺の台詞だ!」とやり返した。しかし、僕を睨み付けた愛川哲也の瞳の奥の不気味な光は、その後何年も僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
僕はこの事件が起きた時、生まれて初めて心が痛んだ。もしかしたら、僕はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。けれども、美帆や祐樹や隼人のような弱い人間を守って何が悪い? 悪いのは愛川のようなヤツだ! あんな人間は、ぶちのめされて当然だ!
けれども、僕の普段の行いが悪いからこそ、美帆や祐樹や隼人が犠牲になったのではないのか? そう思うと心が痛んだ。