第九話 6
僕は、いつの間にか涙を流していた。芳子の「大丈夫?」という声が遠くで聞こえる。僕は涙を拭い「大丈夫」と答えた。そして、また、母が現れた。さっきの母よりも歳を取っている。母は、「私が死んで淋しいと思ったら、この手紙を読んでね」と僕に言った。おそらく、僕は二十歳くらいだったのだろう、同級生の母より随分若い母が、死ぬわけないじゃんと思いながら、母のその言葉を聞いていた。そして、母は、元々菓子が入っていたのだろう四角い金属製の大きな箱に、僕の幼い頃の写真と共にその手紙を入れた。そして、アパートの押し入れにしまい込んだ。僕は、その光景を見ながら、「そうか、あの箱に手紙が入っているのか」と思い出していた。そして、またすぐに、意識が飛んだ。母は、さっきよりもまた歳を取っている。母は病院のベッドで寝ていた。母は肝炎を患っていた。母は、僕が二十歳になると旅館の住み込みの仲居をするために、アパートを出た。僕は一人暮らしになった。それから、三十歳で優菜と結婚し、それを機に、一人暮らしをしていた祖母の面倒をみるために、優菜の両親は故郷である三重に帰って行った。そして今、僕は、三十二歳、母は四十八歳になっていた。三十二歳の子供の母親にしては、四十八歳の母は随分若い。しかし、病魔に侵された母は、年齢よりも随分老けて見えた。母の病室でベッドの脇に座っていると、母が「亮、親らしいことをしてあげられなくてごめんね」と言った。
「何弱気なことを言ってんだよ、今から死ぬみたいなこと言って」
「お母さん、もう長くないと思う」
「まだ四十八歳だろ? 人生、まだまだ、これからじゃん」
「亮を幸せにしてあげたかったのに、頑張れば頑張るほど空回りして、結局、身体を壊しただけだった」
「身体が弱いのに、無理して仲居なんかするからだよ。でもな、母さん、誤解すんな。俺、今、幸せだから」
「そっか、優菜ちゃんと一緒だもんね」
母はそう言うと、笑顔になった。
そして、そんな会話をした三日後、容態が急変し、母は亡くなった。母の葬式はひっそりと行われた。僕よりも優菜のほうがずっと泣き続けていた。