<ⅩⅡ>
次の日の朝、教室で私は鍵の持ち主を探し回っていた。でも、思い当たる人を全員あたってみても、カギの持ち主は見つからなかった。
始業の鐘がなり、私は仕方なくカギをポケットの中にしまった。
みんなが席につかずにお喋りしていると、ガラガラと、教室の扉が開く音がした。
背の小さい、年配の古文の先生が入って来て、それを合図にみんながだらだらと席についた。
「……それでは、授業を始めようかと思うのですが、皆さん、いいでしょうか?」
先生のいつものおっとりとした号令の合図で、日直が号令をかける。
「え~っとですね……、では、昨日に続いて、今日も古文をやっていこうと思うのですが、今日は、昨日おさらいした文法たちを使って、一つ、文章をやっていこうと思います」
先生はそう言いながら、B4判の大きさのプリントを配っていった。
内容は、「平家物語」だった。
「え~っとですね……、これは皆さんもよく知っているでしょう、小学校とかで暗記させられるやつ、『平家物語』でして、ご存じのとおり、平家の栄枯盛衰を描いた軍記物語でして、これは平清盛が太政大臣となり栄華を極めた時期から、平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの約二十年間を主題とする語りをもとにして、それを本にまとめたものです。本来だったら、これは高校二年生でやる内容なのですが、せっかくなので今からやってもらおうと思いまして……」
先生の話し方がおっとりしているせいか、私はとても眠くなってきた。
それでも、寝るのは夏期講習を取った意味がないので、私は自分の舌を軽くかんで、痛みで無理矢理起きていた。
「それじゃぁ、読んでいきましょうかね。まず、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ』。え~、これは、有名な冒頭の部分なのですが、意味は、結構面白いんですよね。まず、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。』のところ、これは、祇園精舎の鐘の音には、万物は変転し、同じ状態でとどまることはないことを暗示するような響きがある、という意味でして、『沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。』は、沙羅双樹の花の色、沙羅双樹とは、仏教とすごい深い関係にある植物なのですが、とにかくこの文は、沙羅双樹の花の色は、どれだけ盛んな者も、必ず衰えるというこの世の道理を表す、そういう意味なんです。この後に続く、『おごれる人も久しからず、ただ春の夢のごとし。』の部分は、おごり高ぶっている人の栄華も長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようである、こういう意味です。そして、『たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ』と、勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである、という意味へとつながっていきます。」
先生はなおもおっとりとしながらそう言った。
先生の話を聞いて、私は、何か不思議なものを感じた。どんなに丈夫な盾でも、何回も攻撃を防いでいたらいつかは壊れるし、どんなに立派な人でも、いずれはどんなに頑張っても死んでしまう。いくら医療が発展しても、いくら健康な生活をしていようと、限界はいつかは来る。そんなことを、こんなに昔から言っているように、私は感じた。先生が、面白い、と言った理由が、なんとなくわかった気がした。
「ここまでだったら、皆さんもよく知って言うでしょうね。小学校でやる古文はここまでですから。え~、この平家物語の作者とされているのは、琵琶法師ですが、まぁ、琵琶法師と言っても、それはあくまで人の名前ではないので、作者と言えるのかどうかは疑問に思いますが、とにかく、琵琶法師は今の主張に対して具体例を挙げています」
先生はそう言って、黒板に中国の地図を描き始めた。とはいっても、おなかがまんまるとした謎の生物のようなものをイメージさせる、よくわからない地図なのだが。
「ここ、『遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみをきはめ、いさめをも思ひ入れず、天下の乱れむことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり』で、いままで悪政をして滅んできた王朝たちの名を出し、それらの人が最期には先ほど出てきた通りに『盛者必衰の理』に従わざるを得なかったことを強調しています。そして、『近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね』と、ここで本朝、つまり日本の例を出しながら、最後に平清盛を出し、今まで上げた例と比べているんですね」
先生はなおも授業を続けていく。その授業に、私は深い興味を持ちながら臨んだ。先ほどの眠気は、もうどこかへ飛んでいっていた。
隣の席からは、いびきの音が聞こえてくる。女子がいびきをかくなんて、漫画や本の中ではありえないが、なんて言ってもここは女子校だ。失うものは何もない。でも、たとえこの授業がどれだけ彼女にとってつまらないものでも、この授業はとても真剣に聞いておくべきものだと、私は思った。
私は改めて黒板を見た。先ほどの地図に、きれいな字でびっしりと国名が書かれていた。私はあわててノートを開けると、地図を描いて、そして板書を書いていった。
こうして、あっという間にその日の夏期講習の百分間は過ぎ去っていった。




