羊獣娘(オビスアリエス)の来訪者(2)
ぼくの心配をよそに、ウルは『特等工女』としての仕事を黙々とこなしていた。
階差機関による演算が必要な作業のせいか、部屋にこもるわけではなく、工房の作業机で片眼鏡顕微鏡をかけて歯車を弄っている。ぼくはそろばんを弾きながら、事務机からちらちらと彼女の様子を伺っていた。
本来、人間社会を嫌い、群れで生活をしている羊獣人。だけれど、彼女はへんてこで、時計の精密な技術を愛し、祖父の一番弟子となり、この工房唯一の技師となっている。それがウルウル=ドリィメリィの姿だと、ぼくはずっと思っていた。ここに来る前の、まったくもって科学的ではない血と星の迷信に縛られる姿なんて知らなかった。
「ね、ねえ、ウル」
「……うるさい!」
珍しい舌打ちが聴こえて、ぼくは肩をすくめた。こんなウルを見るのは初めてだった。動揺するのは理解できる。事情は詳しくないが、半ば無理やり羊獣人の群れを飛び出してきたのだろう。トラブルがなかったとは思えない。
「あ、」
細かな部品が跳ねるのがこちらからでも伺えた。ピンセットで摘みそこねたのか、バネの調整を誤ったのか。彼女はぷんすこという雰囲気を出しながら立ち上がり、床に這いつくばって、小さな部品を探している。本当に彼女らしくない。
「……クスト」
「ん、一緒に探そうか?」
「あの猫のところにいく」
立ち上がってこちらを振り返ったウルの瞳は、真っ赤に充血していた。
※
「こちら、つまらないものですが」
「あらあら、まあまあ。ローラン、あそこの棚のお菓子を出して頂戴な」
大時計がそびえる蒸気の街。その東側の貴族街に、フェレスリュンクス家はある。
今日は傭兵のローランもいるようで、お邪魔しちゃった感が否めなかったが、ガブリエッラはぼくたちの訪問を笑顔で歓迎してくれた。戦災孤児となったころの怪我で車いすに乗っているが、蒸気機関を絡めたギミックが詰め込まれているようで、サブアームをわきわきと動かしては、美味しい紅茶を淹れてくれた。
ウルはガブリエッラに技術的な相談があったようだった。『魔法と歯車の完全調和』の研究に行き詰っていたのだろう。『魔力伝達の応答関数』であったり、『マナを用いた疑似神経接続』の話、『638型コペルニクスギア』の最適配置の話などを深刻な顔をして話していた。その多くはぼくたちでは理解できるものではなく、ガブリエッラが、時には図面を起こしながら相談に乗っていた。どうやら時計ではなく、レンズを用いた何かのようだった。
一時間もすれば、ウルがトイレに立った。
「一体どうしたんですか。付き合いは長くありませんが、どう考えてもおかしいですよ、あの娘」
「実は――、」
さすがにガブリエッラにも伝わったのだろう。いつもは技術の話をするウルはもっと身を乗り出して、眼を輝かせていた。今日は追い詰められるような深刻さが滲み出ていた。簡潔に経緯を説明すると(といっても、今朝の出来事以上のことは知らないのだが)、ガブリエッラの柔和な顔から表情が消えた。
「なるほど。そういうことですか」
カタカタと音がするのでそちらに顔を向けると、ローランが震えていた。
「そこの狼、どうしたのですか?」
「お、俺が、旅の商人に懐中時計の話をしたんだ……。単なる飲み屋での雑談だ、でも、羊獣人のしかも時計技師なんて珍しかったから話しちまった。いま思えば、次はケムリュエに街の物資を売りに行くとそいつは言っていた」
「あんただったのか!」
「すまん……」
立ち上がったぼくに、ローランは気の毒になるほど小さくなった。この傭兵狼、前の事件の時も思ったけど、意外と小心者なのかもしれない。そしてそれ以上にトラブルメーカーだ。何年も継続できていた工房での生活が、まわりまわってこんなかたちで破壊されてしまうとは。
「クスト、どうしたの?」
トイレから帰ってきたウルが首を傾げていた。「な、なんでもないんだよ」と椅子に座ったぼくの隣を、蒸気駆動音を鳴らしながら、ガブリエッラの車いすがすり抜けていった。すれ違うときに、小さな歯軋りが聞こえた。
「ウル。ウルウル=ドリィメリィ特等工女。事情はクストさんから聞きました。そんなことがあって塞ぎこんでいるのですね。どうやらうちの馬鹿狼がきっかけみたいなんですが、そのあたりのことはあとでクストさんから聞いてください。そんなことより――」
一歩後ずさったウルの距離を、すかさず車いすが詰める。
「あなたはどうする心算なのです。特等皇女としてケムリュエに帰るのか、特等工女としてクロックワイズ・メカニクスに残るのか」
ウルが動揺していることはわかっていた。事情もある程度はわかっていた。でも、ウルの選択については、ぼくは訊きたくても訊けなかった。それをずばり、このガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクスは切り込んだのだ。
重い沈黙ののち、ウルの小さな口が開かれた。
「……かえりたくない」
「なぜ?」
「それは――」
何かを言いかけて、ウルはぼくの方を見、口を噤んでしまった。
「ウル。不幸自慢をするわけではありませんが、わたしには帰るべき故郷はありません。一族も根絶やしにされました。もし帰りたくない理由がただのわがままであったなら、わたしはもう二度とあなたには逢わないでしょう。あなたがどれだけ恵まれているか――」
「やめとけ」
傭兵狼が彼女の頭を撫でる。
「羊っ娘には羊っ娘なりの理由があるんだろ」
「ローラン……、そうね、ごめんなさい。ウル、クストさん。今日は楽しいお話が出来てよかったわ。わたしの研究の参考にもなりました。それに、それにね……、さっきはああ言ったけれど、『家族』はいるのよ」
そう言って、ガブリエッラはお腹を両手で擦るような仕草をした。その意味するところに驚いてしまい、ぼくは言葉を失ってしまった。まだ同年代だと思っていたけれど。余計なことまで頭が回ってしまい、何を言ったらいいのかわからなくなってしまう。それはウルも同じようで、顔を真っ赤にして眼を丸くしていた。
ちなみにこの中で、ローラン=ロムルスレムスが一番驚いていた。
※
「びっくりしたね」
「……びっくりだ」
「ウル、もしクロックワイズ・メカニクスのせいで帰りたくないと思っているのなら、気にしなくてもいいよ。縛るのは良くないと思うし、うん。他の技師をぼくが責任を持って探すからさ」
「お金が入るもんね」
そういうつもりじゃないと言う間も与えてくれず、ウルはそっぽを向いてしまう。それからしばらく、ウルは口を聞いてくれなかった。
※
「あれ、君は」
「うぐぅ」
夕食の買い出しに街の中心部へ出掛けていると、羊獣人に出逢った。例の一族独特の衣装を身にまとい、ぼさぼさの髪の毛が片方の眼を隠している。出店の多く立ち並ぶ噴水広場で、エルエル=ドリィメリィはベンチに腰掛けていた。お腹を抱えている。
「どうしたの?」
「お腹がすいた」
思いがけない素直な返事に少し笑ってしまいながら、ぼくは彼女の手を引いて、ずっと彼女が見つめていた出店に連れて行った。幼いころに祖父によく連れて行ってもらった、老舗のからあげ屋さんだ。
「クストじゃないか、ウルとは別れたのか!?」
「リィさん。そもそも付き合ってませんし、この子ともそういう関係じゃありませんから」
なんだ残念だ、とリィさんは笑いながら、ぼくにからあげ五個入りの紙の器をふたつ差し出した。対価としてポケットからコインを渡す。豊穣の作物と歯車がデザインされた、穴の空いている真鍮のコイン。
そのさまをエルエルは眼を皿のようにして見つめていた。
やっぱりだ。
羊獣人は群れでの閉鎖的な共同生活を営んでいるせいで、一部の交易役の人間を除いて、貨幣経済を理解していない。
どうしてそんなことがわかるかって? ウルがうちの工房に飛び込んできたときもそうだったからだ。ちなみにあのときは、いまのエルエルほど大人しくはなく、出店のものを我が物のように食べ回って大変だった。
「なるほど、これはそう使うのか」
エルエルは大事に抱えた布袋を見つめた。そこには羊獣人を模した紋章が入っており、落とさないように手首に巻き付けてある。彼女が言っていた大金というのはこれのことだろう。じゃらじゃら音がするし。
「知らずに持ってきたの?」
「……うるさい。道理でお金を使わずに食べたら怒られたわけだ」
「君もやったのか」
ぼくたちはベンチに座り、爪楊枝でほかほかの唐揚げを食べることにした。ぼくは慣れているからいいものの、エルエルは出来たての熱さが予想できなかったのか、はふはふ言いながら涙目でこちらを見つめてきた。
「……おいしい、これ!」
「ウルも好きで、よく買い出しに来させられるんだ」
「姉さまも」
「聞かせてくれないかな。ウルのこと。彼女がうちの工房に来てからずっと一緒だったけど、それ以前のことをぼくは何も知らないんだ」
唐揚げを食べ終わったエルエルは、何度か逡巡しながらも、「この美味しいものの借り」と言って、口を開いた。
ウルウル=ドリィメリィ特等皇女。群れを好む羊獣人にして皇女の立場にありながら、時計に魅了されて群れを飛び出してきた少女。
『輝き征く暁光の星配置』と『翳り逝く宵闇の星配置』によって社会的な役割が決められてしまった運命の双子は、その鏡写しのような容姿とは裏腹に、対照的な人生を送ってきた。
特等皇女として、のちの群れを担う少女。高等な教育が施され、大地と星とを繋ぐ巫女としてさまざまな儀式を行ってきた。だからこの工房に来た時点でウルにはある程度の素養があったのだ。
一方で、エルは何の肩書も持たず、それどころか皇女の血筋にありながら虐げられていた。熱病で倒れてうなされているときも、ウルの典礼の最中だからといって放置され、その結果として――。
「これがね……」
ぼさぼさに伸びた毛並み、前髪をかきあげると、そこにはあるべきものがなかった。ただ眼を背けたくなるような眼窩がぽかりと。適切な処置がされなかったのだろう、その跡は非常に生々しかった。
「たしか姉さまが群れを飛び出したのはそのころだった。本当に、立ち寄った行商の時計に感動して飛び出したのか、それともうちがこうなってしまった罪から逃げ出したかったのかはわからないけどね。いずれにせよ、姉さまがいなくなったところで、『翳り逝く宵闇の星配置』に継承権が移るわけでもない。群れを混乱させただけの、ただのわがまま」
彼女は立ち上がり、空になった唐揚げの容器をぼくに渡した。
「犬獣人にも良い奴がいるんだね、おいしかった。ついでにもうひとつお願いを聞いてくれないかな」
「なに?」
「姉さまを説得してよ。でないと、うち、どんな酷い目に合うかわからないよ?」
※
「ウル、ただいま」
「おかえり。ちょっと集中したいから、独りにしてね」
「こんなときに何をずっと造っているんだ?」
「わたしがあの群れを飛び出したときから、ずっと造りたかったモノ」
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