第一話 雪
少女と少年の、清らかなままのはずだった恋の物語です。
白い雪がしんしんと降る。かた雪の上に新雪が毎夜つもるような、そう言う季節の事だった。
明治から大正に移り変わるほどの頃、東北の田舎町にある豪農の家屋。その離れの一室に、少年はいた。朝になった障子の外は明るく、まだ布団の中に足をいれ座る、少年の横顔を明るく照らしている。少年は、何かいいことが起きる事を察しているかのように、足音を聞いていた。
(ばあやの足音だ。けさも起こしに来たのだな)
耳を澄ましていると、別に小さな足音も聞こえて来た。おや? と首を傾げていると、障子が音もなく、すっと開いた。そこには、こちらを向いてお辞儀をする二人の姿があった。一人は、鬢に白髪の見えるばあや。もう一人はーー。
「ぼっちゃまの新しいお友達ですよ」
「友達?」
女中じゃないのかと言おうとした時、ぱっと顔を上げた少女の眼と目が合った。まんまるに見開かれた大きな瞳は、少年を見るといよいよ大きくなった。頬は赤みが差し、少女はため息とともにつぶやいた。
「はぁー、たまげた! まつぽい坊ちゃん!」
「こら、雪! ご挨拶なさい」
ばあやに小突かれ、雪と言う少女は丁寧に三つ指をついてお辞儀をすると、はずかしそうに、にっこりと笑った。
「お前、色が白いなあ。雪ん子みたいだ」
「ぼっちゃま、おいは一生懸命働きます。どうかここに置いてけれ」
「もちろんだ。僕は病気がちで遊び相手がいなかったんだ。ぜひそうしてくれよ」
それからと言うもの、二人はいつも一緒だった。兄弟のように、友達のように、とても女中と主人の様ではなかった。
あるとき、遊び疲れて、二人は蚕に与える桑の葉がつまった倉庫の前に座り込んで、話しだした。すでに時は日暮れどきで、カラスが山の方に帰って行くのが見えた。だんだんと暗くなって行く隅々と同じように、雪の白い顔にも影が差していた。
「おい、おとっちゃんいねぇんでがす。戦争さ行ったのか、ががは話してくれねっから、おい、なんもわからねっけど」
そう言って、父がないと告白した雪は、懐から包みにくるまれた銭を出してみせた。それは古銭のように見えた。
「それは?」
「おとっちゃんの形見だべっちゃ。おとっちゃんがががと別れる時さ渡したのでがす」
少年は、それをしばらくじっと見守っていたが、急に少女の横顔から視線を外し、空を見上げる。
「お守りの銭などもういらないよ。僕が雪を守る。僕が稼いで、幾らでもあげる」
少年は、ちらりと少女に目を向け、あっと口を両手でおおった。少女は、ぽろぽろと大粒の涙を流していたのだ。それは夕焼けの色と、迫りくる影の色とを内包した、複雑な色の涙だった。
「おい、ぼっちゃまが好きだ! ずっとここにいたい!」
「雪……」
少年は、ぎゅっと雪の手をつかむと、まじめな顔で言った。
「僕、絶対離さないよ」
「ぼっちゃま」
「この手、離さない」
そのとき、倉の方から太くて低い声が響いた。
「ほう、おあついものだね」
驚いて二人が振り返ると、背の高いランニングシャツにズボン姿の男子が立っていた。既にひげが少し生えたほどの年頃で、すこしだけ坊ちゃんに似ている。
「貫一兄さん」
少年は貫一と言う少年の登場にも怯まず、雪の手を握り続けている。
「ふん、色気付いたみたいだな、衛二。そこを通してくれ。暇ならお前も桑の葉くらいとってくるんだな」
そう言って、二人を迂回して貫一は去って行った。
「いまのは貫一兄さん。父の前の奥さんの子供で、その奥さんが亡くなったので後妻が来た。その子が僕」
衛二はすっかり暗くなって来たので、雪とともに立ち上がって離れに向かう。虫の音があたり中から聞こえはじめている。
「前の人は没落華族で、身寄りがなかった上に亡くなってしまったので、貫一兄さんも後ろ盾がない」
ウシガエルが不気味に哭きはじめ、あたりはすっかり夜である。
月明かりが少年の顔を青白く浮かび上がらせる。
「だから、そのうちに貫一兄さんは僕の手足になるのさ」
いっそう強く、少年の目が光る。
「ぼっちゃま?」
雪の声にはっとして、少年はぱっと柔和な笑みに浮かべ替え、雪の手を離した。
「夕餉だ」
女中たちに混じっておひつのご飯を少々いただき、雪は風呂に向かう。風呂をのぞくと、すでに湯は少ない。がっかりしていると、風呂殿の桟の向こうに、人影が走る。ぎょっとして見ていると、太い声が風呂殿に響く。
「雪。お前、色が白いから雪と言うのだろう? 本当の名はなんと言うんだ」
「おいは雪だ。生まれてから、ずっと」
「そうかい? お前の腹の中は相当黒いんじゃないか?」
目を凝らすと、桟の向こうにあちらを向いて貫一が立っていた。
「時々なまりが薄れる事がある。気をつけなさい」
そう言って、影はまた闇の方に消えて行った。雪はぞっとして、立ち尽くしていた。
「雪」
衛二が指を指すので、雪もそちらを見る。真っ赤な花弁に雪が積もり、重たげに首をうなだれている花が見えた。
「椿だよ」
少年はすでに高等学校に通うようになっていた。体も丈夫になり、毎日車で送られて、遠くの学校に通っている。
「美しいです」
消えそうなほどの透明感を讃え、雪は微笑む。青磁色と青灰色の縞でおられた片貝木綿を着て、ずっとこざっぱりした雰囲気になった。前髪もとうにあげ、美しい額には知性のつやがあった。それを、厚手の地味色の着物を重ね着して、袴姿の衛二が、はにかむように見つめている。
「この椿は、首が落ちるようにぼとりと花ごと落ちる。武家には嫌われるらしいが、僕は嫌いじゃない」
「そうなのですか?」
「うん、潔いじゃないか。ぼくもそうありたい。終わるときには、きれいさっぱりと終わらせたい」
「不吉です」
不安げな雪の表情に、一瞬の媚びがあった。衛二はどぎまぎとして、顔を背ける。
「僕はもうじき、東京の大学に行くんだ。貫一兄さんの下宿先に、僕も入るんだ。それで」
衛二は思い切って、顔を上げる。
「お前も来い」
「え、でも」
「僕は、お前を離さないって言っただろ」
雪は、こっくりと小さくうなずいたが、それほど乗り気でもないのか、心配事があるのか、顔色は冴えなかった。しかし、坊ちゃんはうなずいてくれた事実にのみ気が向いて、その表情には気づかないのであった。
冒頭の方言、ちょっと自信ないです。