準備をしましょう
「だから! そんな話をどう信じろと言うんです!」
「……お前、本当に頭が固いな」
窓の向こうへ意識を向けていたら、一際大きな声が響いた。
「仕方ないでしょう……!? 信憑性に欠け過ぎなんです!」
「やはりこの部屋、防音にしといて良かったな。外に漏れては困る話もしやすい。今のお前の叫び声もきっと聞こえてないぞ」
「費用を工面した甲斐がありましたね。って、そんなこと今はどうだって良いんです!」
ぜぇはぁ言いながら肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す圭絽という男が可哀想に思えてくる。信じられることと信じられないことがあるものね。今回のは後者。仕方ない。
「……陛下、無理もありませんよ。突然のこと過ぎますし」
「あのなぁ、圭絽が了承しなければ、お前の後宮行きの話は無くなるんだぞ? 生活保護の話も無しだ。一番困るのは雛子、お前だろう?」
「それもそうだ……。圭絽さん! どうかお願いします! 私を後宮に入れてください!」
ここで放り出されては生きていけないと悟った雛子の、力強い語気に圭絽は一瞬怯んだ。
「な? 話した通りの性格だろう?」
「はぁ……」
「必ず役に立つはずだ」
圭絽の慌てぶりを面白がっていた祇琅が目を細める。
「俺たちでは手に入れられない情報も、雛子なら手に入れられる」
「…………陛下、貴方の言うことが仮に嘘であっても、主君を信じるのが家臣である私の役目です」
「嘘ではないがな」
「えぇ、分かっています。単なる例えですよ。私は貴方を疑う程落ちぶれてはいませんし、陛下が考えなしで動くような方ではないと知っております」
困ったような笑みを浮かべたまま、圭絽は二人を交互に見た。
「この件は了承いたしました。雛子様の後宮入りは私が面倒をみましょう」
――良かった……! これでとりあえずは生活していける!
「しかし、名前はどうなされるのです?」
圭絽の質問に雛子は戸惑った。
――陛下も最初そんなようなこと言ってたけど、そんなに私の名前って変わってるのかしら。
「珍しいがこのままでも良いだろう。皇帝側近のお前が後ろ楯に付く時点で注目は嫌と言うほどされるだろうしな」
……注目、されるんですね。
「……よくよく考えたら、私が権力争いに参加したと思われません? 雛子様も他の妃たちに快く思われないでしょうし」
偶然にも自分の気持ちを代弁してくれた形となった圭絽の質問に陛下はふん、と鼻を鳴らした。
「お前の上の地位は皇帝ぐらいしかないだろう。そそこまでの野心家だとは思うまい。それともなんだ? 狙うか?」
「狙いません! 冗談でも勘弁してください」
「そういうことだ。本人にその気がないことくらいそのうち広まるさ」
雛子にしてもそうだ、と圭絽へ向けていた視線が自分へ向けられる。
「あの後宮で俺の寵愛を受けたいと思ってる妃はおらんだろう」
どことなく意味深な台詞に疑問がわく。
――陛下ってもしかして嫌われてたりするの?
流石に面と向かって「嫌われてるんですか」と聞くのは失礼だろうと踏みとどまる。
「“陛下って嫌われてるんですか”とは聞かんのか?」
「何故それを……!」
お前のことだ、どうせそう思っただろうに、黙っておくことも出来るのだなって、え、私のこと馬鹿にしてます?
「思いましたけど、聞くのは失礼かなって……」
「……それを言っている時点で十分失礼にあたりますよ」
圭絽がとんでもないものを見るような視線を投げ掛けてくるから居たたまれない。
「さて、先ずは衣服を用意させて、さっさと雛子を後宮へ入れよう」
「もうですか?」
「何だ、不服か? 幸い空き部屋があるし、俺はそろそろ公務へ戻る。この部屋から出るにはあまり人目につかない今の時間帯を狙う方が良い」
「ならば婚儀はいつになさるおつもりです?」
「婚儀!? 誰と誰の! まさかとは思いますが、私と陛下の婚儀じゃありませんよね……!?」
いっぺんに喋るな騒々しい! と一喝されてしぶしぶ押し黙る。
「婚儀の準備は今からさせろ。今夜行う」
「…………陛下。貴方、午後の公務をサボりたいだけとかじゃありませんよね?」
「何でそうなるんだ」
意味が分からんと呟いた祇琅に圭絽が食ってかかる。
「今日の午後は、陛下のお嫌いな者が謁見する予定でしたし」
「圭絽……。俺を疑うわけないと言い切ったあの言葉は偽りだったのか」
「それはそれ、これはこれです」
そんなわけあるか、いやそうとしか思えません、という賑やかなやり取りを聞き流しつつ、雛子は一人固まったままだ。
何でもっとちゃんと考えなかったんだろう。後宮って、陛下の奥さんがわんさかいる場所じゃない……!
――私、会って間もないこの人と結婚するってこと……!?
▼
「後宮に新たな妃を迎える」という皇帝の突然の発言に、城内はパニックに陥った。雛子は予定通り一度、圭絽の家に避難し、必要な衣服や小物、侍女をこれでもかと宛がわれた。やることなすこと初めてのことばかりで、息つく暇もない。途中、疲労で本当に倒れかけ、やむなく一時の休息をもらった。
「雛子様、圭絽です。入りますよ?」
部屋で一人休んでいると、控えめなノックのあと、城から戻ってきたのであろう圭絽が会いに来た。
「その雛子様っていうの、やめませんか? 私はそういう身分でもないですし……」
「今はそうでも、今夜からは様付けされなければならない身分のお方です。この国の皇帝陛下に嫁がれ後宮に上がられるのですから」
その言葉に、妙な気分になる。
婚儀とはつまり結婚。そんなあっさりと決められても、こちらとしては心の準備というものが必要な訳で。
「……嫁ぐ、んですよね」
何を今更とでも言いたげな圭絽が顔をしかめる。
「後宮に上がられるというのは、そういうことです」
――私、よく知らない相手に、嫁ぐんですね。
声に出してしまえば、困らせるだけだと分かっているから心の中に留めておく。
しかし、圭絽から見れば明らかに沈んでいるのは一目瞭然。
「陛下は、噂程厳しくはありません」
その噂がどんなものかを知らないので返答に困っていれば、見越した様に圭絽がまたもや口を開いた。
「雛子様がご存知ないのは当然ですよね。失礼しました。……陛下は“冷酷無比”なんです」
「冷酷、なんですか?」
確かに第一印象では冷たくて怖いと感じがした。それでも話してみれば、身元不明の自分に何もかも与えてくれると約束してくれた。……陛下の部下として潜り込むと言ってもその内容は、待遇から考えてもそれにそぐわない、遥かに楽なものだろう。
「貴女はちょうど休憩中に現れたので、いくらか素に近い態度のままになっていたのでしょう。しかも陛下の秘密裏の命を受けていますし、例外なんです」
ごくりと生唾を飲み込む。ならば普段はどれ程の態度なのだろう。冷酷と噂されるなんてよっぽどではないか。
「皆が陛下を畏れています。表立っては逆らえない程にです。……それをあの方は良しとして、訂正する気が丸っきり無い様なんですよ。そのせいで裏では冷酷だの非道だの、好き勝手言われていますがね」
でもこれは、噂にしか過ぎませんから。本来のあの方は、言うほど非情ではありませんよ。
そう語る圭絽の目はとても穏やかだ。
「ですから、雛子様が嫌がるような真似をするなど、無いと思うのです」
――気遣ってくれてるんだ。
自分の不安を見抜くなど、陛下の側近とはなかなかに鋭い方なのかもしれない。
「……圭絽さん、ありがとうございます。少し安心しました」
「それは良かったです」
にっこりと微笑んだ圭絽に、雛子も自然と笑顔を返していた。




