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好奇心は問題をもたらす




 玉麗たちとのお茶会を抜けて急いで部屋に戻った雛子を待っていたのは、白髪で眼鏡をかけた女性だった。


 「初めまして、胡 秀琴(こしゅうきん)と申します」

 「周 雛子(しゅうひなこ)です。これからよろしくお願いします」


 かなり年配のようだが、その姿はしゃんとしていて背筋がぴんと伸びている。

 秀琴と名乗った女性が、品良く雛子に微笑んだ。彼女の目尻と口元の皺が深くなる。女性の気品ある雰囲気に、なんだか自然と雛子の背筋も伸びた。


 「圭絽坊ちゃん……、もう坊ちゃんではありませんね。圭絽様に頼まれまして、今日より貴女の講師となります。(わたくし)も頼まれた以上は全力を尽くします。どうかそのつもりでお願いしますね」


 秀琴の固い視線が雛子を捉える。なるほど、徹底的に教え込んでくれるらしい。


 (……要はスパルタだってことね)


 なんだか先行きがとても不安なのだが、後には引けないしやっぱり止めますとも言えない(そもそも雛子に拒否権はない)ので奥歯をぐっと噛み締めた。








 それからというもの、雛子の自由な時間は日を追うごとに減っていった。


 「雛子様、背中が丸くなっています。それと手はこちらです。ここで頭を下げてください。あぁ、そんなに下げなくともよろしいです。貴女がもっとも敬意を払うべきお方は陛下ですよ」


 伸ばしかけた腕をぴしゃり、と扇子でとめられた。


 「先程も言いましたが、右手はまだです」

 「……すみません」

 「謝らなくとも結構。覚えてくだされば良いのです」


 雛子の謝罪が一蹴されるだけでは終わらず、はじめからやり直しという無慈悲な一言が下された。

 どうやら相当まずいらしく、お茶会までに組まれた予定は早急に覆されて休みなしの講習が続いている。

 一応、今までは遠い国で生活していたとして話は伝わっていたようだが、やはり生まれてから徐々に身に付けるべき習慣や作法の土台がない状態なので、なかなか応用レベルに到達しないのだ。

 更に言うと、雛子に求められるのは「公の場で完璧な令嬢として振る舞うこと」であるから、一般的なマナーだけでなく「陛下の隣に立つ」ために必要な教養も学ばなければならない。


 (元の世界でだってこんなに勉強したことないのに……)


 パンクしそうな頭にどんどんと知識を詰め込んで、合間を見つけては後宮の様子を観察する。そこで他のお妃に見つかれば愚痴を聞かされるし、白祥蘭派には冷たい視線をいただくのだ。

 自分はこんなにも辛い思いをして頑張ってるのに、陛下は来ない。音沙汰無しもここまで続くと不安より腹立たしさが勝ってしまう。次会えば「いい加減にしろ」と言いそうなぐらいにで怒りを抑えきる自信がない。


 (命令するだけしといて放ったらかしなんてあんまりだ)


 むすっとしたのが顔に出てしまったようで、秀琴からじろりと睨まれる。


 「そのように不細工な顔は絶対におやめ下さい。良いですか、絶対ですよ」

 「……はい」


 慌ててにっこりと笑えば、彼女はうんうんと頷いた。


 「そうです、そのくらい笑っていた方が周りに与える印象は良いですよ。雛子様、ではそのままで挨拶してみましょうか」


 そうやってみっちりとしごかれながらの講習は朝も昼も夜も続いた。食事でさえ作法の訓練にあてられて、心休まる時はもう就寝する時しかない。眠りこけた前科があるので入浴時は浴室の外に待機されているのだけど、自業自得なのでそれについては何も言えないでいる。


 日に日に追い詰められていく雛子を気遣う侍女頭の采英をはじめとして、みんなから時折心配そうな視線を感じるれけどそれに応える余裕もないまま、その日一日の講習を終えて寝室へと辿り着いた。もう今日は届いた贈り物の確認さえしたくないので、明日の朝に回してもらった。


 「……こっちの偉い人たちってこんなに苦労してるんだ」


 ベッドに倒れこんでぼーっと考え込む。自分は何のためにこんなことしてるんだろう。

 そもそも、最初の約束の時点でこんなに苦労するだなんて言わなかったじゃないか。立派な契約違反だ。


 今日の復習もする気になれなくて、倒れこんだまま窓の外を見る。すべての行動が見られてるみたいでノイローゼになりそうだ。


 (私は普通の高校生だったはずなんだけどなぁ……)


 身の丈に合わない広いベッドも綺麗な服も、ここに来て与えられたもの全部を放り投げたい感覚に襲われる。でもそしたら、あの陛下はどんな顔をするだろうか。軽蔑されててまだ見ぬ非情な皇帝陛下っぷりを実感することになるのだろうか。


 (あー……、何これ。もう陛下のこと考えるのやめたい)


 知り合いも頼れる人も少ないから、こういう時にどうしても脳裏をよぎってしまうから困りものだ。

 別に好んで考えてる訳じゃないのに無意識とは恐ろしい。そんなことをしばらく考えていた雛子はふと頭に一つの案が浮かんだ。


 そして再び窓を見る。その外を見ながら体を起こした。


 (一回考えるのやめよう)


 自分がしたいことをしてやろう。抑圧されてるからストレスの発散も出来ずに変なことばかり考えるのだ。きっとそうだ。


 雛子はふらふらと引っ張られるようにして窓辺に立った。靴と上着を用意して窓を開ける。


 (大丈夫、大丈夫。朝までに戻ってこれば良いんだから)


 こっちにきて初めて、寝巻きを膝上まで捲り上げた。片足から順番に窓の外へと出して、勢いよく飛び降りた。

 雛子の部屋は隠し通路の関係もあってか、廊下の端にありそんなに高い位置にある訳でもない。そのおかげで何の障害もなく地面に足をつくことが出来た。軽く脱走するには全てがちょうど良かったのだ。


 (こんなに上手くいっちゃうとは思わなかったけど……)


 みんな寝てしまっているようで、後宮の廊下には人影もない。時々侍女が歩いてる姿を見るが、昼間よりも人通りが少ないので隠れてやり過ごすことぐらい造作もなかった。


 そうやって何も考えずにふらふらと夜の後宮を歩いていると、世界に自分だけみたいな感覚に陥る。静かで誰もいない世界は少し寂しい。あとちょっと肌寒い。

 そして気付く。何かが聞こえることに。

 ひくひくと啜り泣く声が、かすかだけれど確実に雛子の耳に入った。

 立ち止まってよく耳を澄ますと、やはり空耳ではない。物音らしい音もしない夜の廊下でそんなものが聞こえてきては素通り出来ない。いつもなら怖くて逃げ出していたかも知れないが、今日の雛子は脱走したことで気が大きくなっている。


 (まぁ、陛下に報告する材料にはなるだろうし……)


 好奇心に従って声のする方へとたどり着いた雛子が目にしたのは、背中を丸めてうずくまっている人影だった。

 服装からして侍女だろう。だとすればこんなところで何をしているのだろうか。

 こんな夜中に一人で泣いてるその人に思わず声をかけてしまった。


 「……ねぇ、どうしたの?」


 それまで足音を立てないように静かに近付いていったからか、雛子が話しかけたその人は急なことに驚いて振り返った。


 「ひっ……」


 短い悲鳴のあと、慌てたように大きく首を振りはじめた。


 「なんでもないです! すみません、直ぐにどきます、ごめんなさい」

 「待って、落ち着いて? ね?」


 なんとか落ち着いてもらおうとする雛子とは対照的に、ぶるぶると震えている彼女がもう一度小さく悲鳴をあげた。


 「貴女はもしかして……、あの、失礼ですが、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか……?」

 「周 雛子ですけど……」


 答えるや否や、目の前の彼女は顔面蒼白となり、勢いよく頭を下げた。


 「わ、わたしはメリカと言います……! 気付くのか遅くなりましてご無礼を働きましたことを……!」

 「待って! 待ってってば! 顔を上げて。そんなことは良いのよ」

 「ですが、わたしみたいなただの侍女がこんなところでお妃様に迷惑かけたなんて……。知られたらまた言われてしまいます」


 どんどんと小さくなる語尾に引っかかりを覚える。どうやら訳ありの様子である彼女をなんだか放ってはおけない。


 「別に何にも迷惑かけてないから大丈夫だよ。ここで会ったのも何かの縁と思って、貴女の話を聞かせて欲しいの。誰に何を言われるの?」


 短い沈黙のあと、決心するかのように深呼吸したメリカと名乗った侍女が口を開いた。


 「わたしは祥蘭様方のお世話をしている侍女なのです」

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