今
「…心、義心。」
義心は、ハッとして視線をそちらへ向けた。散策を終えた王が、維月と共にこちらへ歩いて来る。義心は、すっかり昔のことに思いが飛んでいたのを感じ、驚いた。これほどはっきりと思い浮かべるなんて。もう、昔のこと。あれから、想いは深くなるばかり…。
「珍しいの、主がぼうっとしておるなど。」維心が言った。「そろそろ十六夜が来る。維月を月の宮へ連れにの。」
維心は、憎々しげに言った。維月が苦笑した。
「まあ、維心様…そのようにご機嫌を悪くなさって…。」
維心は、維月を抱き寄せた。
「まあ、此度は蒼が軍の指南に義心もと言うておるし、洪も参る。我も後から追い掛けて行く口実があって良い。維月…すぐに追って参るゆえ。」
維月は微笑んだ。
「はい。お待ちしておりまするわ。」
「あのなあ、一週間は我慢しろ、維心。」十六夜の声が上から飛んだ。「いくら口実があってもな。お前は里帰りを何だと思ってる。毎回毎回、よく飽きねぇな。感心すらぁ。」
維心は、十六夜を睨んだ。
「三日。」
「…六日。」と十六夜。
「四日。」と、維心。
「五日。」と十六夜。
「四日の昼過ぎだ。」維心が言い切った。「それ以上は無理だ!」
十六夜は頷きながら、維月を抱き上げた。
「よし、それで決まりだ。四日後の昼過ぎまで我慢しな。それからなら、来てもまあ、文句は言わねぇよ。結界も通してやらぁな。」と、義心を見た。「おい、行くぞ。洪はどうした、一緒に来るんだろうが。」
「輿に乗って行くはずだが。」義心は、見回した。「どうしたのであろうの。」
すると、軍神二人に輿を運ばれた洪がやって来た。
「お待たせを!」と、山のように何かを抱えている。「参りましょう。」
維心が洪を見た。
「なんだ洪、何を持っておる。」
洪は頷いた。
「宮の反物をあちらへ持って参って、あちらのタオル地とかに交換をお願いするのでございます。今やタオルは、風呂上がりや、朝の手水には欠かせないものですので。月の宮では、タオル地を織っておるので。」
維心は、自分が何気なく使っているものが、そんな風に手に入れられているとは思わなかった。
「そうか。気を付けて参れ。」
「はい。」洪は上機嫌で頷いた。「では、出発!」
十六夜が飛び上がり、それに義心が続いた。そして洪の輿を持った軍神達がそれに続き、一行は、月の宮へ向けて出発したのだった。
十六夜に抱き上げられた維月は、途端に子供のような顔をしてはしゃいで話している。十六夜はそれをうんうんと相槌を打って聞いていた。どうも、この二人の関係は普通の夫婦とは違うようだ。
義心は、いつも観察していて思っていた。維心と一緒に居る時と、十六夜と一緒に居る時の維月の表情も話し方も違う。十六夜にはそれは目一杯わがままを言っているようにも見えるが、十六夜には予想の範囲内のようで、怒りもしなければ戸惑いもしなかった。維月は、そんな十六夜に心の底から安心して抱かれているように見えた。
「十六夜、私も飛ぶ~。」
十六夜は、維月の手を握って腕から体を離した。
「飛んだってダイエットにはならねぇぞ?歩いたり走ったりしなきゃなあ。」
維月はぷうと膨れた。
「あのね、太ってないでしょ?エネルギー体がどうやったら太るっていうのよ!自分がいいように作ってるのに。」
十六夜は維月に合わせて飛ぶスピードを落として言った。
「そうか、だから出るとこ出るような体型になってるのか。お前、それが中学の時悩みの種だったもんな…」
十六夜が言い掛けると、維月が慌てて口を押えた。
「十六夜!もう、黙ってて!」
維月がプンプン怒って先に飛んで行った。十六夜は慌てて後を追い掛けて行く。
「こら、何怒ってるんだよ、維月?オレは別にどっちでもいいぞ?維心がそっちの方がいいって言うのかよ?おい、維月!」
維月はますますスピードを上げて遠ざかって行った。
「十六夜のバカ!デリカシー無さすぎなのー!」
遠く声が聞こえる。十六夜はそれを追っていた。
「なんだ、結構速く飛べるんじゃねぇか。待て、維月!」
義心がそれを黙って見ながら飛んでいると、背後で供の軍神達は違う方向を見て聞いていなかったふりをしているのが分かった。洪も、所在なさげに反物を持ったり下ろしたりしている。義心はため息を付いた…十六夜は、確かに人や神とは少しズレている。困ったものだと思っていると、目の前に月の結界が見えて来た。
先頭を行く維月が事も無げにそこへ入り、十六夜がそれに続き、義心達もそれに遅れては入れなくなると慌ててそこへ飛び込んだのだった。
義心が蒼にも挨拶を済ませ、いつも割り当てられる軍の宿舎の部屋へ落ち着いていると、窓をこつこつ叩く音がした。
見ると、十六夜がこちらを見ている。義心は、窓を開けた。
「どうしたのだ。何かあったか?」
十六夜は中へ入ると、首を振った。
「いや、別に。この間はすまなかったな、義心。夢なら維心も大丈夫かと思ったのに、あいつは何でも気取りやがって。」
それは、夢に入る玉をくれた時の事を言っているのだ。義心が、長年維月をじっと想っているのを、十六夜は知っている。何とかしてくれようと思ったからだった。自分は、あれで夢の中とはいえ維月と愛し合えた。義心はそれだけでも感謝していた。
「何を謝るのだ。我はあれで少し、胸のつかえが取れた気がする。ゆえ、感謝しておるのだ。」
十六夜は苦笑した。
「お前、ほんとに欲がないな。」と、側の椅子に座った。「オレ、あれから記憶を閉じる方法を編み出してよ。」
義心は、急に話題が変わったことに驚いたが、自分もその前の椅子に座った。
「記憶を閉じる?またどうしてそんなことを。」
十六夜は頷いた。
「維月が、維心が心を繋いでも伏せている所があるのが分かると怒ってたのを見て、じゃあオレにも出来るんじゃないかと思ったんだ。案外簡単に出来てな。」
義心は頷いた。それが何の意味があるのだ。
「主に出来ぬ事はないだろうの。」
十六夜は、義心の反応の悪さに顔をしかめた。
「だから、お前と維月に何があっても、それを維心に気取られる事はないって言ってるんだよ。オレがその記憶を閉じるから。」
義心は驚いて目を見開いた。十六夜、まだ我のためにと思ってくれているのか。
「だが、王は常に維月様の様子を探っておられる。離れておられるときは尚更ぞ。維月様に何かあれば、間違いなく飛んで来られるだろう。」
十六夜は、ふふんと笑った。
「いくら維心でも、気を遮断する膜の中までは読めない。オレだってそうだ。お前、膜の作り方知ってるだろう。」
義心はためらいながら頷いた。
「確かに…そうだが。」
十六夜は微笑んだ。
「維月が怒るから、ちゃんと維月には話をして来た。あいつはお前を一番気遣ってるんだ。まだ神の事をよく知らないときに、目を見て話せと命じたばかりにこんなことになっていると思って…お前に縁談があったのも知ってるんだぞ?朱音といったか…お前がどうしてそれを受けないのか、自分のせいかとずっと言ってた。そのうちに、朱音は死んじまったんだな。」
義心は下を向いた。知っておられたのか。
「…あれは、もっと前、我がまだ200歳の時にあった縁談ぞ。その時から断っておったのだ。ずっとそのまま引きずられておったが、我は朱音を愛せなかった。なので、維月様の事は関係ない。」
十六夜は頷いた。
「それを維月に話してやんな。少しは気持ちも楽になるだろう。とにかく、一晩だけならいいと維月は言ってる。お前は、どうする?」
義心は、じっと自分の手を見た。維月様を、この手に…。しかし、かえって辛くなるのではないのか。ここまで忍んで来て、手にしたらもっともっとと抑えられなくなるのではないのか…。
義心が戸惑っているのを見て、十六夜は言った。
「ま、お前次第だ。一生見てるだけでいいならオレも何も言わねぇよ。そういうのがいいってヤツも居るだろうしな。ただ、こんな機会はそうそうない。お前も分かってるとは思うが。」
義心は、手をグッと握った。
「…頼む、十六夜。」義心は顔を上げた。「維月様を、我に。」
十六夜は、頷いた。
「今夜、ここに膜を張りな。」十六夜は立ち上がって窓枠に手を付いた。「維月がここへ来る。」
十六夜は飛び立って行った。
義心は、段々と沸き上がって来る感情に胸が苦しくなった。ついに我が手に出来るのか…。そして、それが最後と思わねばならぬ…。