筆頭軍神
義心は、神の世最大の宮、龍の宮の筆頭軍神だった。
今日も、王が妃の維月と共に散策するのを、傍で控えて見ていた。維月は、義心から見て誰よりも美しかった。年々神として成長し、義心が一番最初に維月を見上げた時より、格段に慕わしい気を放つようになった。
自分は、いつからこれほどに維月を愛するようになったのだろう。
義心は、時々気遣わしげにこちらを少し振り返る維月を、眩しげに見つめながら、思いを馳せた。
義心の父は義光、同じく筆頭軍神として軍神達に君臨し、代を義心に譲った。義心は、その才能を成人前から現していた。皆に認められた息子に、義光も安心して代を譲ったのだ。
筆頭軍神の座に就いた義心は、まだ200歳で、成人したばかりだった。だが、その前から次席軍神にまで上り詰めていたので、反対するものなど誰もいなかった。
生まれながらの筆頭軍神…。
同僚だった軍神達は、皆一様にそう言って羨んだが、義心は生まれ持ったその強い気に甘んじていたのではない。
誰よりも修練し、いつか見た龍王、維心様のように強大で絶対的な軍神になるのだと心に刻み、その敬愛する王のお側でお役に立ちたいとそればかりを思って精進していたのだ。
そして手に入れた技術と力はいつしか父をも凌ぎ、義心は筆頭軍神になったのだった。
そんな努力を怠らない義心は、当然のこと浮いた噂の1つもなかった。そんなことは考えてもいなかった。
なのにある日、父は義心に切り出した。
「のう、義心よ。どうしても主に嫁ぎたいと言う女が居る。歳も近く、見目も良いし、我の友、怜久の娘なのだ。主、そろそろ身を固めぬか。」
義心は面食らった。我に妻を迎えよと?
「…お言葉ですが父上、我はそれどころではありませぬ。」義心は、眉を寄せて言った。「それでなくてもこの歳で筆頭軍神など畏れ多い役をお受けして、毎日次席の慎怜と寝る間もないほどであるのに。お断りくださいませ。」
とりつく島もない。きっぱりと言い放つ義心に、義光は仕方なく頷いた。
「そうか。であろうな。では、我からそのように。」
義心がホッとしたように頭を下げると、そこに慎怜が駆け込んで来た。
「義心!急ぎ王の居間へ!」
義心はサッと立ち上がった。
「失礼します、父上。」
義心はそこを出て行った。
義光は、その背を見送りながらため息を付いた。
義心が慌てて駈け込んだ王の居間では、維心が抜き身の刀を血に染めて立っていた。
「遅いぞ、義心。」維心は、何でもないように言うと、刀を差し出した。「手入れをさせよ。それから、これの始末を。」
王の足元には、斬り捨てられた臣下と、着飾った女が一人転がっていた。慎怜が膝を付いて義心を見上げる。義心は、刀を慎怜に渡して頷いた。
慎怜がサッとそこを出て行く。軍神達に指示をするために行ったのだ。義心は言った。
「王、これの始末を付ける間、申し訳ありませぬが、お部屋をお移ししてよろしいでしょうか。」
維心は、面倒そうに手を振った。
「良い。我は結界内を見回って参る。その間に済ませよ。」
維心は居間の窓に歩み寄ると、飛び立って行った。入れ替わりに、軍神達がわらわらと入って来て、遺体を運び出し、血だまりの始末を黙々としている。
義心が黙ってそれを見ていると、傍らの、まだ400歳ほどの洪が言った。
「列実…」洪は、うなだれた。「ただ、もう1600歳におなりの王に、妃をと連れて参っただけであったのに。王のお言葉に少し食い下がっただけで、呆気なくこのようなことに…。」
義心は、大量の血だまりを見た。王は、逆らう者は容赦なく斬り捨てられる。女であろうと、臣下であろうと、それは変わりない…。
義心は、王が恐ろしかった。しかし、王は誰彼かまわず斬り捨ててしまわれるのではない。逆らわなければ、これほどに心強い王は他にはおらぬ…。
それでも、王が妃候補を臣下もろとも簡単に切り捨ててしまった出来事は、宮の中ですぐに知れ渡った。王は、何者にも情けは掛けられぬ…。
それから、義心は何度もそんな現場の後始末を言いつけられた。時には、目の前で一瞬の内に斬り捨てられるのも何度も見た。
戦場では、維心の容赦なく笑みすら浮かべている様子に、義心は背筋が凍る思いだった。そして、まだ敵にも情けを掛ける情を残していた義心は、段々に戦場での厳しさ、強い者だけが生き残る軍神の世界の非情さを学んで行った。
それから、百年の歳月が流れた。
義心は300歳になり、すっかり筆頭軍神として板に付き、後進の育成にも力を入れていた。
その日も朝から訓練場で汗を流し、皆の相手をした後、義心が宿舎へ引き上げようとしていると、目の前に見慣れない女が立っているのを目にした。自分に、深々と頭を下げている。義心は、軽く返礼した。
そのまま通り過ぎようとすると、相手は義心を呼び止めた。
「義心様!」
義心は、誰であっただろうと振り返った。相手は、黒髪に緑の目の、快活そうな女だった。どこかで見たような気がするが。
「朱音でございまする。」相手は、必死の顔をで言った。「父は怜久。義光様の友でありました。」
義心は思い出した。父は数年前に他界したが、その葬儀の際に、怜久と共に来ていたのが、この女だったのだ。
「朱音殿。いつぞやは、父の葬儀に参列いただき感謝し申す。」
朱音は、首を振った。
「そのようなことではないのです。」朱音は、それでも必死なようだった。「義光様が生前、我をそちらの家へお迎えくださると言って下さっておられましたのは、ご存知でしょうか。」
義心は驚いた。父上、このように若い女を、あのお歳で迎えるつもりだったのか。我とそう歳が変わらぬのではないか。
「知らぬ。まさか父上が、妻を娶ろうと思うておったなど思いもせなんだ。何しろあのように病がちであられたし…」
「そうではありませぬ。」朱音は、食い下がった。「義心様の妻として、屋敷へ迎えてくださると。いつになるかは分からないが、落ち着かれたらと。それまで待てるのならと申されました。」
義心は、はたと思い当たった。そういえば、我がまだ筆頭軍神になって間もない頃、そんな話が来ておったような。父上は、友の娘に断りづらかったのか。ということは、確かに我と同じぐらいの歳。もう300歳を越えているのか。
「…我は、一度父上からその話を聞いたのみ。その時には断ったつもりでおったし、父上からその話が聞かれることはついぞなかった。何しろ、あれから病に伏してあられたのでな。」
朱音は、下を向いて頷いた。
「義心様、我はお待ちいたしました。もう、落ち着かれたのではないかと、いつもお見上げ致しておりましたが、一向にそのようなお話はありませず…はしたないとは思いながら、こうしてお話に参った次第でございます。」
義心は、ため息を付いた。
「…すまぬな。ここまで待ってくれた申せ、我は知らなんだ。それに、我はまだ身を固めるつもりはない。王の求めに瞬時に応えるのが我の役目。他の縁談を受けるが良いぞ。我には、そんな余裕は今もない。」と、踵を返した。「ではの。」
「義心様!」
朱音はその背に何度も呼んでいたが、義心は振り返らなかった。王を見て知っている。想ってもない女に、少しでも情を掛けてはならぬのだ。なぜならその女に纏わりつかれ、ついには推し掛け女房よろしく、屋敷に居着いてしまうことがあると申すから…。王のように斬り捨てはせぬが、とても自分には優しくなど出来ぬ。
義心は、朱音がこれで諦めてくれるのを信じた。
義心は、いつものように王の傍に控えて膝を付いていた。
王は珍しく、じっと空を見上げてため息を付いている。今まで、険しく眉を寄せて考え込んでばかりでいた王が、こんな様子であるのは初めて見た。
王は、最近になって月を見つけたと興味深げであられた。最近は、月の小さな屋敷に、気の調整がどうのと言われて、お一人で出掛けて行かれる。月と何かおありになったのだろうか…。
義心がそんなことを考えながら維心を見ていると、維心が、不意に言った。
「義心よ。人とは、何を好む。」
義心は、いきなりのことに面食らった。人の好み?
「…どうでありましょうか。我は人と接することがありませなんだので、お調べ致しましょうか。どういった方面の好みを探ればよろしいでしょう。」
維心は、頷いた。
「…着物や、食物、何でも良い。婚姻の理など、習慣に関することもだ。」
義心は訳が分からなかったが、頭を下げた。
「は!早急に。」
その場を下がりながら、義心は首を傾げた。このような任務は初めてだ。しかし、人の世を調べて参らねばならぬな…。
義心は、慎怜を呼んだ。
「慎怜!」
義心の前に、すぐに慎怜が膝を付いた。
「御前に。」
友とは言っても、筆頭と次席で上司と部下の二人は、任務中は職務に忠実だった。義心は言った。
「主、人の世に詳しいの。主の妻であったのは、人だったろう。」
慎怜は眉を寄せた。
「義心、それは主ゆえに話したこと。他言無用ぞ。わかっておろう。」
義心は頷いた。
「分かっておるが、我は王に命を受けての。人の世のあれこれを探らねばならぬ。では主の他に、人の世に詳しい者を知っておるか。」
慎怜は首を傾げた。
「…確か、怜久殿がお詳しかったの。娘を連れて、よく出掛けたと言うておるのを聞いたことがある。」
義心は眉を寄せた。
「…朱音殿か?」
慎怜は頷いた。
「なんだ、知っておるのか。ならば話は早いわ。聞いて参れ。」
義心は首を振った。
「ならぬ。我は変な気を起こされたくはない。怜久殿から縁談が来ておったのが100年前、我はそれを蹴っておるのよ。そして最近、その娘から催促を受けた。我はそんな気はない。」と、義心は踵を返した。「もう良い、己で調べて参る。役に立たぬの、主も。」
慎怜は心外な、という顔をした。
「ちょっと待て、なんだその言いぐさは!義心!」
義心は、飛び立って行った。
義心はさっさと人の世へ降りて、いろいろな事を書籍から調べた。人の世には普通の書籍と雑誌という書籍がある。全てをサッと気で探って読み、後で実際に人を観察して事実確認をして、一気に頭に入れると王の前に進み出て膝を付いた。維心は、気だるそうにしていたが、義心を見ると、少ししっかりとした視線になった。
「義心。何か分かったか。」
義心は緊張気味に頷いた。
「はい。なんなりとご質問くださいませ。」
大体のことは、頭に入れて来たはず。王の求めには、応じられるはずなのだ。そうでなければ、自分は斬り捨てられるやもしれぬ…。
そんな義心の気持ちを知ってか知らずか、維心は頷いて言った。
「人の世の婚姻の形と、神の世の婚姻の形の違いを教えよ。」
義心はびっくりした。王から一番聞かれないことだと思っていたことだからだ。だが、そこはきちんと押さえて来た。何を聞かれてもいいようにと思ったからだ。
「はい。人の世では、略奪婚はありませぬ。それは罪とみなされるため、一部の部族などで習慣を残す場合もありまするが、大体において双方合意の上、お互いただ一人と婚姻関係になるのが一般的であるようです。」
維心は頷いた。
「…ただ一人か。」
義心は頷いた。
「はい。しかし人の世でも、男が婚姻関係を結ばずに通う女を作る場合もあるようで、それは法に触れる行為とみなされるようでございます。その場合、女の方からも婚姻関係の解消を言い出すことが出来まする。」
「女がそういうことはないのか。」
義心は驚いたが、首を振った。
「いえ、女の場合もございます。同じように法に触れる行為とみなされまする。」
維心はしばし、黙り込んだ。義心は次の質問を待った。何を聞かれるのだろう…。
「…して、一般的に人の女は、何をもって相手を選んでおるのだ。」
義心は己の頭の中を探った。確か雑誌に嫌というほど書いてあった。あれをまとめねばならぬ。
「個人差はあるようでありまするが、美しいと言われる容姿の者を好みまする。」
維心は眉を寄せた。
「容姿?姿形か?」
義心は慎重に頷いた。
「はい。しかしそれだけではありませぬ。まずは容姿の者が多いようでありまする。そして性質、そして収入…これは、人の世では命の気を取るために食しまするので、それを得るための金と申すものをどれぐらい持って帰るかということでありまする。要は、必要なものをどれだけ女に揃えて出せるかというところでございましょうか。」
維心はますます眉を寄せた。
「…ふむ。人とは、理解が難しいの。容姿が美しく、性質が良く、権力を持つものが良いということか?」
義心は首を傾げた。
「必ずしも全てではないかと思いまするが、そのようでありまする。しかし、人も様々。その人によって違って参るものではないでしょうか。」
維心はため息を付きながら頷いた。
「主の言う通りぞ。」と、横を向いた。「良い。ご苦労であった。このこと、洪達には申すな。また要らぬ気を回すゆえ。何でもないことぞ。」
義心は、無事に王に必要な情報を渡せてホッとしたが、聞かれたのが婚姻やら女の好みのことだったので、拍子抜けしていた。もっと、違ったことかと思ったのに…王は、いったい何をお考えなのか…。
義心の気持ちなどどこ吹く風で、維心はまた、月を見上げていた。