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第一幕 第一場 転入生

〈彼女〉は門の前で待ち人を待っていた。今日、〈ここ〉から脱出するために。

〈彼女〉は〈ここ〉に来る前、〈ここ〉は楽園だと聞かされていた。皆が幸せに過ごし、同じ時間を共有する。ものに不自由することのない地上の楽園だ、と。

確かに、〈ここ〉に来た頃は同じ感想を抱いた。

人生で初めて友達を作った。時に遊び、時に喧嘩して絆を深めた。

好きな人もできた。一目ぼれではなく、一緒に生活する中で自然と好意を抱いていった。

始めは頼りなく無責任な人だったから良い印象を持たなかったけれど、今では〈彼〉の良いところを〈彼女〉はたくさん知っている。

だが今、彼女はその〈彼〉と共に〈ここ〉から離れようとしている。

約束の時間まであとわずか。

〈彼女〉は門の端にもたれ掛りながら、〈彼〉の姿が現れるのを待つ。

これからのことを〈彼〉にどう伝えようか考えながら。

〈ここ〉から脱出することを〈彼女〉は〈彼〉に伝えていない。

ただ、『門の前で待つ』という書置きだけを〈彼〉の部屋の机の上に置いてきた。

〈彼女〉は話すことを恐れた。

自分の口から発せられる《真実》が自分の耳に流れ込んでくることを。

《真実》が大切な〈彼〉を傷つけ、そして〈彼〉が自分を傷つけることを。

そして、〈彼女〉の口から漏れた言葉が《彼ら》の耳に入ることを。

もしも《彼ら》に知られたら、彼女を消しにかかるだろう。

どのような手段をとるのかはわからない。だが、彼女は確実に消える。

《彼ら》はここでは神であり、〈彼女〉たちは人形なのだから。

〈彼女〉は時計を確認する。〈彼〉との約束の時間だ。

だが、〈彼〉の姿はここにはない。

〈彼〉への未練を殺しながら、〈彼女〉は門へと進む。

〈彼女〉は門に手をかけながら、小さな声で決意を口にする。


「わたしは何があっても〈ここ〉、呪われた『学園』から脱出する。」



 彼女は目を覚ました。眼を擦り、欠伸をひとつして布団から出ようする。

白いカーテンの隙間から見える窓の外では、色づいた木々が風を受けて揺らいでいる。寒い季節は終わりを告げて、華やかな春へと世界は変わっていた。光も温かみを増し、昼間では猫などが気持ちよさそうに日向ぼっこをする。だが、早朝は未だ肌寒かった。

彼女は自分の肌に突き刺さる冷気に身体を震わせ、毛布を一枚ベッドから抜き取ると、体にマントのようにして巻きつける。机の上の時計を確認すると、午前七時だった。

彼女はその姿のまま部屋の扉を開いて消えた。

扉の先には大きな空間が広がっていた。

彼女は迷うことなく部屋の隅にあるキッチンへと向かう。

調理台のビニールから食パンを二枚取り出すとトースターにセットする。

そして、そのまま隣のシャワー室へと進む。

彼女は脱衣所で毛布を落とすと、そのままシャワーの元へと吸い寄せられた。

蛇口を捻ると、恵みの雨が彼女の身体に降り注ぐ。

自分の血の巡りを体中で感じながら、頭が冴えてゆく。

気分が良くなると、濡れた下着を脱ぎ、手に持って脱衣所へと向かう。

脱衣所の洗濯機の中に下着を放り込むと、タオルで髪の水気を丁寧に拭き取る。

脱衣所に置いてあったバスローブを羽織り、落としていた毛布を掴むとキッチンへと戻る。

食パンが周囲に香ばしいにおいをさせながら彼女を出迎える。

毛布をソファに投げると、彼女は熱そうに指先で二枚のパンをつまんで皿に置く。

冷蔵庫からよく冷えた牛乳を取り出してコップに注ぐと、皿とコップを持ってソファへと向かう。

これが彼女の日常だ。


現在、世界から「争い」が消えている。「戦争」を知らない世代が存在する時代だ。

宗教は科学の発達と共に消え、資源問題や民族問題も国際協調の風潮により消えた。

今では、世界中が共に繁栄する手段を模索している。

彼女が生活するここは『学園』。

優れた遺伝子と優秀な頭脳を持つ子供たちが集められる教育機関、学校だ。

ここで三年間、周囲と切磋琢磨し、友情を育み、同じ時間を共有することで、未来の世界を主導する立場の人間同士が互いの考え方や思いを分かり合うことを目的として設立された。

毎年、三十三人の優秀な子供たちが世界中から入学してくる。合計九十九人の生徒たちと一人の大人が『学園』内にいる人間のすべてだ。

つまり『学園』は子供たち主導で運営されている。

彼らの必要な物資や情報は校外から運ばれてくるため、それらを用いて自主学習し、食事を作り、学校生活を営む。

外部から干渉されるのは月に一度の《テスト》、《入学式》、《卒業式》、《文化祭》くらいのものだ。それ以外では子供たちは大人顔負けの上手な運営をしている。

これは将来を主導する立場に立つことを見据えた教育方法で、この学校独自のものである。

そのために世界中で『生徒による、生徒のための、生徒の学校』と呼ばれ、世界有数の教育機関をして注目されている。

彼女が今食事をしている場所は『学園』内にある寮の一室だ。

『学園』は全寮制であり、校門を一歩でも踏み越えれば郊外との交流は禁止されている。

これは学校生活に集中するための措置だとされている。外部との交流は自粛という形をとっているが、過去に逃走を図ろうとした学生がいたため、港から目隠しをされて校門をくぐる義務が生徒たちに課せられたくらいだ。

寮は二階建てとなっており、一階に玄関から入って手前から広間、娯楽室と食堂と学習室、そして一番奥に大浴場があり、二階は生徒たちのプライベート空間となっている。

寮生活は「班」と呼ばれるグループで行動するよう義務付けられている。

一つの班は三人の生徒で組織されており、班毎に3LDKの部屋が一つ与えられてある。

つまり、寮の二階には3LDKの部屋が十一存在していることになる。

また、食堂の食事係や大浴場と学校中の共用トイレの清掃係なども生活当番も班単位で決められている。

彼女も他の女の子と共同生活を送っていた。


彼女は残り一口となったパンを牛乳で流し込むと立ち上がり、テーブルの上にある自分のパソコンを起ち上げた。

現れた画面にパスワードを打つと自分のメールボックスを確認する。

彼女は口元を歪めると『新着メールなし』と表示された画面を消して、電源を落とした。

そして、鼻歌を歌いながら皿とコップを流し台に持って行くと、自室へと戻った。

彼女は壁にかかった制服を手に取ると壁際に並ぶクローゼットの下から二段目から新しい下着を取り出すと全身を映す姿見の前に立った。

勢いよくバスローブを落とすと、現れた白い陶器のような肌に下着をつける。

少しだけ貧相な胸へ手を当てて、大きくなっていないか確認していると、冷たい風が吹いたような寒気を感じて急いで制服を着てゆく。

『学園』の制服は黒い布地に襟と袖、ポケットの部分に金のラインが縁取るように入ったブレザーと黒と白の菱形を用いたハーリキン・チェック柄のスカート。

ブレザーの胸ポケットには薔薇の形の校章が金の糸で刺繍されてある。

これは『学園』がモチーフとした物語『金色の薔薇と影』に由来するものだ。

物語に登場する『金色の薔薇』は世界で一番美しくて貴重な薔薇で、胸に刻まれた校章は「生徒達が貴重な人材である」ことを示していると生徒たちは誇りにしている。

実際の意図は知られていない。物語中の金色の薔薇が九十九本であることと舞台が『学園』と同じく絶海の孤島であることから生徒たちは自分たちが金色の薔薇であるようにふるまう。

中には自分たちを「生徒」という言葉を使わず、「薔薇」と称する生徒までいるほどだ。

彼女はスカートのファスナーを上げてブレザーを着ると鏡の前でターンした。

スカートは綺麗な円を作りながら広がり、自慢の黒髪も舞い上がる——はずだったのだが、背中までかかる長い髪はブレザーの中に入ってしまっていた。

彼女は顔の温度が上がるのを感じながら、慌てて髪を跳ね上げた。

黒い絹のような髪ははらはらと漂い、頭を左右に振るとまとまって垂れた。

彼女にとってこの美しい髪は自慢だった。

つづいて鏡に映る自分の顔を凝視する。

目の前には細い眉とアーモンド形の二重の瞳、上へとがった小鼻と薄いサクランボのように紅い唇が映っている。

彼女自身、その顔を見て猫みたいだと感想を抱く。

我が強そうで自由気ままな猫のような顔をしている。

その顔と長い黒髪、黒い制服により鏡に映る自分は一匹の黒猫だった。

身だしなみの確認が終わると、彼女は扉を開けて談話室へ向かう。テーブルの上にあるメモ帳にルームメイトに対しての朝のあいさつを書くとのんびりと部屋を後にした。

ソファの上には毛布が残されたままだった。

時刻は午前七時半。生徒が登校するには少し早い時間だ。

彼女はスキップしそうなほど軽やかに地面に生い茂るクローバーを踏みしめて歩く。

サクラの樹から舞い落ちた花びらが指の数ほど頭の上に積もる。道端の花壇には園芸部が育てた色とりどりの草花が咲き乱れ、春の色鮮やかな風景を作り上げている。

彼女が入学してまだ一ヶ月も経っていない。入学前の生活に比べるとここは楽園みたいな場所だった。

彼女は優秀な遺伝子や頭脳を持っているわけではない。

貧しいスラム街で生まれ、親の顔を見る前に教会の前で捨てられた。

教会の神父は自分が貧しい生活をしていることも気にせずに彼女を拾い、育ててくれた。

彼女が拾われ育てられているのを見て、教会には何人もの子供たちが捨てられた。

神父が拾ってくれることを期待しているのだ。

神父は捨て子をすべて拾い、育てた。

その頃には彼女は大きくなっていたので、路上で靴磨きや花売りをしてお金を教会に入れていた。

そんなある日、彼女の元に『学園』から誘いがきた。彼女に入学許可が下りたのだ。

始めは信じられなかった。『学園』がどういう場所か知らなかったが、学校に通うことができることを喜んだ。ただ、教会の家計について不安を感じていた。

すると神父が彼女の背中を押した。『学園』は楽園のような場所なのだと。

そして、彼女は『学園』に入学することを決めた。

その日から《入学式》の日まで神父さんに勉強を教えてもらい、今の自分がいる。

彼女は心の何処かで昔の生活に戻ることを恐れながら学校生活を送っている。

そのために普段は猫かぶらなくてはならない。大人しく、人当たりの良いお嬢様としてふるまわなくてはならない。

スラム出身者など知られたら学校生活に支障がでる。彼女は自分を押し殺し生活する。

我慢を続ける彼女にとって早朝の校庭は唯一、自分をさらけ出せる場所だった。彼女は花びらを手ですくい空へと投げる。はらはら落ちる花びらを楽しそうに眺めて笑った。

すると、遠くに校門が開いているのが見えた。

校門は《入学式》と《卒業式》、《文化祭》の時だけ開かれる。それ以外では決して開くことは無い。今日はそのどれでもない。異例のことだった。

異例のことと言えば、もうひとつある。それは今年の入学者の数が三十二人だけなのだ。

一人足りない。このことは『金色の薔薇と影』を信奉する生徒たちの間で何度も話題に上がる。このことが今年入学した彼女たちと上級生たちの間に溝を作っていた。

新入生は一人足りないために『学園』の入学者と認めない、と上級生が言うのだ。これに対して新入生は言い返す言葉が見つからない。自分たちの学年が異常であることを自覚しているだけに、黙って我慢するしかなかった。

そのため寮の食堂も大浴場も新入生は使用させてもらえないのだ。

彼女には自分が『金色の薔薇』であるという認識が薄い。だから、今回の上級生と下級生の間の争いを内心、馬鹿らしく思いながら眺めている。

不満があるとすれば、毎日の食事を談話室で作る破目になり、キッチンが充実してしまっていることに対してだけだ。

彼女は周囲の学生よりも料理に慣れているため、料理の苦手な学生たちが彼女に料理を習いに通ったのだ。

おかげで彼女たちの部屋は他の部屋よりも物が増えて、談話室が狭くなっている。

彼女は校門が開いているのを見て、転入生だといいなと考える。

転入生が来ることが『学園』内の争いを解決する手ごろな方法だったからだ。

『学園』にはいままで転入生が存在したことがない。人数が定員を切ったことがないからだ。だが、今年は転入生が来る可能性がある。

新入生と上級生の争いはこの学校の理事にまで聞こえている。何度も生徒が人数補充の嘆願書を出したのだ。もしかすると理事が補充の人員を送ってくれたのかもしれない。そう考えるのは当然のことだった。

開いた門に近づくと、彼女は校門を通ってやってくる生徒を探した。

校門の奥には暗闇が広がっており、先を見ることはできない。

そこへ一人の生徒が壁に手を付けながら歩いてくる。全身が黒っぽくなる『学園』の制服により、暗闇を固めて現れたような印象を受けた。

その学生は短い黒髪と線の細そうな男子生徒だった。

校門が閉じると、男子学生は目隠しを取る。そして、ブレザーの胸ポケットからメガネを取り出すとかけた。彼は光輝くような青色の瞳をしていた。

その瞳は見つめると吸い込まれそうなほど澄んだ青色をしており、彼が怪訝そうな顔をしていることで、彼女は自分がじっと見つめていることに気がついた。顔が一度に赤くなり、慌てて目を逸らして、もう一度様子を窺うように視線を彼にやる。

その様子が可笑しかったのか朗らかな笑い声を上げながら、彼は目元をぬぐう。どうやら笑いすぎて涙目になっていたらしい。そして、右手を出すと彼女に自己紹介した。

「はじめまして。僕は今日からこの『学園』で暮らすことになった『影』です。よろしく」

 あいさつを聞いて、彼女はしかめ面をした。彼の言った『影』が物語『金色の薔薇と影』に登場する『影』のことだと気がついたのだ。

 作中の『影』は薔薇たちに憧れ、嫉妬して一本の薔薇を折ってしまう。そして、その一本に成りすまし、薔薇たちのいる園に侵入を果たす。

 彼は『学園』の生徒たちが自分たちを「薔薇」と自称することに対して自分を「影」だと皮肉ったのだ。自分は周囲の学生とは違い、補充員として選ばれた転入生であると。

 彼女はそれを聞いて、わざとらしく怒った顔をつくると返事を返した。

「やめてください。今日からあなたも『学園』の薔薇ですよ。わたしは『黒猫』。よろしくお願いします。ようこそ『学園』へ」

 先ほどから彼女たちが言っている『影』や『黒猫』とは呼び名のことである。『学園』では外部の関係を校内に持ち込ませないために、生徒達で呼称をつけあう決まりになっている。

 彼女の「黒猫」は彼女の容姿と猫かぶっている性格を合わせて彼女のルームメイトがつけた。

 彼女の言葉を受けて笑顔を苦笑に変えながら「影」は答えた。

「そうですね。そういうことにしておきます」

「『そういうことにしておきます』ではありません。そういうことです。ただでさえ、今は学校内が二つに割れる争いをしている最中なのに、冗談が冗談ではなくなってしまいます。上級生側に付け込まれるような発言は控えてください」

「わかりました。ところで、ぼくはこれからどこへ行けばいいのですか?」

「ここに来るまでに話をきかなかったのですか?」

 思わす、質問に質問で返してしまった。彼女たちが入学したときは、そのまま《入学式》が開かれたので、人の流れに流されていればよかったのだ。転入生など『学園』にとって初めてのことで、どう対応すればよいかわからない。

そもそも彼女は「影」を出迎えるために居たわけではない。たまたま偶然に出会っただけなのだ。

「いえ、なにも。向こう側の生徒にまかせる、と言われました。『黒猫』さんは出迎えてくれる生徒ではないのですか?」

「わたしは偶然、通りかかっただけです」

「それは困りましたね。少し早く着いたのでしょうか」

 「影」は少しも困っていないような調子で言った。

「それならば、ここで待っていた方がいいですね。すぐに誰かが来るでしょう」

 彼女はそう言うと校舎の方へ歩いていこうとした。

「待ってください。知り合いのいない場所に一人でいるのは心細いです。よかったら、一緒にいてもらえませんか」

 彼女は動きを止めた。「影」の発言を受けて立ち止まった訳ではない。彼の情けない発言に自然と拳に力が入ったのだ。思わず怒鳴ってしまうのを堪えて、額に青筋を浮かべながら作り笑顔でふりかえった。

「ええ。いいですよ」

 こういう時に、猫かぶった性格を悔やむ。思いっきり拒絶することができればどれほど楽なことか。だが、出自がバレないようにするためにはしかたがなかった。

「『黒猫』さんはどこから来たんですか?僕はですね——」

「『学園』敷地内では出身地の話はタブーです。むやみやたらと話してはいけません。個人を特定できる情報はすべてタブーですので、気を付けてください」

「そうなんですか?」

「そうなのです。校則についてはパソコンで自分のIDに接続して、学校指定のファイルに校則と書かれたモノがありますから、そこで確認しておいてください」

「わかりました。もし校則を破ったらどうなるんですか?」

「校則を破ったときは《風紀委員》が処罰します」

「ですが、いくらなんでも、今ここにいないでしょ。バレませんよ」

「バレなければいいという問題ではありません。それに《風紀委員》がどこで見ているかわかりませんよ。《風紀委員》は匿名性が高いですから。本人以外誰も知りません」

「そうなんですか。わかりました。気をつけます」

 彼女は顔を蒼くした「影」を見て、ふぅとため息をついた。

 彼女は「影」をもう少し頼りになる存在だと思っていた。第一印象では頼りにならないイメージを受けたが、初対面の相手に対して笑いながら自分を皮肉り、話す様子は彼女にとって好印象だった。だが、先ほどの情けない発言と今の表情で、「影」は彼女のなかで頼りにならない存在と判定された。

 彼女の内面を知らずに「影」は会話を続けた。

「『黒猫』さん。どうしたんですか?疲れているんですか?もしかして、『学園』の生活はハードなものなんでしょうか?」

 「影」の的外れな心配に対して呆れ顔で返事を返そうとすると、

「おい、『黒猫』じゃないか。どうしてここにいるんだ。」

 寮の方から歩いてきた年上の男子学生が声をかけてきた。

 背の高さは「影」よりも頭一つ高く、肩幅があり、腕が彼女の足くらい太さがあることからスポーツしていることが分かる。足はスラリと長く、顔もハンサムだ。女子生徒の間では割と人気のある生徒だ。着ているブレザーの金色のラインが二本であることから二年生であることがわかる。

《入学式》の後、敷地内の説明の際、彼女たちを引率してくれた先輩だ。敷地内の説明が班毎であったため、彼女とルームメイトは周囲の女子生徒から羨ましそうに見られていたものだ。そのときに自分のことは『先輩』と呼んでほしいと言われている。

彼女は驚き、先ほど自分が恥ずかしい顔をしていたことを思いだし、耳を赤くしながら事情を説明する。

「わたしがたまたま早朝に校庭を散歩していたら、転校生と遭遇して、そのまま会話していただけです。もしかして、先輩が彼の出迎え要員ですか」

「そうなんだよ。時間通りに来たつもりだったが、遅かったか。悪いな」

 「先輩」はバツが悪そうに自分の鼻をかき、笑いながら答えた。

すると、「影」が慌てて反応した。

「いえ。自分が早く着いただけですから。先輩は悪くありません」

「そうか。なら、これから寮に荷物を置いて、敷地内を回るか」

 「先輩」はすぐに背中を向けて、寮へと向かおうとした。

「先輩。ひょっとして、彼はわたしたちの部屋に来るのですか」

 彼女は寮へと歩き出した「先輩」に声をかけた。

「ああ。班員が二人の部屋はお前と『ニコ』のところしかないからな」

「それなら、わたしもご一緒してもいいですか?自分の部屋を自分がいないところで見られるのは恥ずかしいですから」

「いいぞ。おい、お前もいいだろ?」

 「先輩」は「影」へと乱暴に声をかける。

 突然、声をかけられた「影」はビクリと肩を上げて、動揺したように眼が左右に揺れる。

その姿を見て、「先輩」は呆れながら言った。

「お前。ビビリすぎだろ。もっとリラックスしていけよ。」

「は、はい。あ、あの・・・」

「なんだ。言いたいことがあるならはっきりと言え。」

「自己紹介しなくて、いいんですか?」

 「影」は自信なさそうに呟いた。それを受けて「先輩」は再び呆れたような顔をして、

「自分がしたいなら、しろよ。俺から強要しない。自分のしたいようにしろ。それがここのルールだ」

と告げた。その言葉は短かったが、この『学園』で生活する上で必要なことが十分に含まれたアドバイスだった。


 三人が寮にある彼女たちの部屋の前に着くと、彼女は急いで独りだけ部屋の中に入った。そして、扉を少しだけ開けると顔を覗かせて、短く言った。

「五分待ってください。」

 彼女は言うや否や扉を急いで閉め、談話室中を駆け巡った。

 今朝着ていた、濡れている下着とソファの上にある毛布を掴んで自室の中に放り投げ、消臭用のラベンダーの香りのするスプレーを部屋の至る所に噴射し、流し台に溜まった食器類を慌てて洗って、濯いで、拭いた。他にも掃除機をかけたり、雑巾がけをしたりと必死になって部屋の整理整頓をした。

 「影」だけなら、今後自分たちの自堕落な生活空間をみせることになるので構わないが、「先輩」には見せたくなかったのだ。彼女も他の女子生徒と同じく「先輩」に憧れていたのだ。その憧れの先輩には少しでも自分の良いところを見て欲しいと思う乙女心が今の彼女の原動力だった。

 彼女が慌てて掃除をしていると、ルームメイトが自室から顔を出した。

「おはよう。何を慌ててるの。物音がうるさくて眠れないじゃない。それにもう八時よ。いつもの散歩はどうしたのよ。」

 自分が一生懸命に乙女のプライドを守ろうとしているときに、横で当事者に他人事のように話しかけられて、彼女の怒りのボルテージは高まった。

「『おはよう』じゃないわよ。一体誰のせいで独り一生懸命掃除をしていると思っているの。転校生が来たのよ。だから、部屋をきれいに掃除しているの。」

 つい、彼女の地が出てしまった。

未だ扉の近くから動こうしないルームメイトは何を今更と言いたげな表情で答えた。

「何言ってるの。どうせこれから、わたしたちの見苦しい生活を共有する相手じゃない。今、きれいな部屋を見せて期待させるくらいなら、いっそ汚い部屋を見せて落胆させた方が今後の為よ。」

「『先輩』も来ているの。見苦しいところ見せるわけにはいかないでしょ。」

「見苦しいって。既に見苦しいわよ、『猫』ちゃんの姿が。今こうしている間にも『先輩』は廊下で待っているんでしょ。部屋の音から大体の想像がついているわよ。それに『学園』でもう一年過ごしているのよ。女に対して幻想を抱いているわけないじゃない。」

「『ニコ』は黙ってて。」

彼女が絶叫すると、「ニコ」と呼ばれた女子生徒はにこやかな顔でその様子を眺めていた。


 彼女のルームメイト「ニコ」は肩まで垂らしたストレートの金髪と常にまぶしい色のはっきりとした肌、それに笑うと愛嬌のある目元が特徴的な女子生徒だ。好きなことは噂話、趣味は噂集めと噂大好きの女の子で、常にニコニコと笑顔でいることから彼女が「ニコ」と命名した。

だが、性格は見た目ほど爽やかではない。今、彼女が掃除しているこの談話室にあるゴミや汚れのほとんどが「ニコ」のせいだ。アイスを食べたら、そのまま。クッキーの箱もそのまま。お茶をこぼしてもそのまま。恐らく、彼女は『食べ物がなければケーキを食べればいいじゃない』と言うような人種ではないかと常日頃、彼女は思っている。

 自堕落な生活を送る噂好きな女の子である「ニコ」と出自を隠して猫かぶる彼女では始めは相性が悪かった。彼女が外面よくするために整理整頓された部屋を心がけている一方で、「ニコ」が所構わず部屋を汚して、気にせずに生活するのだ。彼女は自分の目の前で自分のしたいようにする「ニコ」が大嫌いだった。だから、同じ部屋で暮らすようになって一週間も経たずに喧嘩した。それも部屋の物がほとんど飛び交う大喧嘩だった。その時に、あまりにも頭にきていた彼女は自分の出自を口走ってしまった。その後で自分で自分の口にしたことを思い出し、顔が蒼くしていた彼女に「ニコ」は言ったのだ。

「あなたがどこのどなたでも構わないわ。今、ここにいることが大事なのよ」

 彼女は「ニコ」の言葉を受けて、気が楽になり一晩中泣いた。

 それから彼女は「ニコ」の前では猫かぶることを止めた。そしてその時に『黒猫』という彼女に合った愛称をもらったのだ。


 彼女が掃除を終えて部屋の扉を開けたとき、「先輩」は苦笑いを浮かべて立っていた。

 それを見て、彼女は「ニコ」の言葉通りであったことを悟った。

「すみません、『先輩』。見苦しいところをお見せしました」

 彼女が「先輩」の顔を見ることができずに伏せがちに謝罪の言葉を口にすると、「先輩」の気を使ったような声が頭の上から降ってきた。

「いや、立派なことだよ。うん。客を部屋に入れるときになるべく部屋をきれいにしようとすることは。それに突然部屋に押し掛けることになって、その、悪かったな」

「す、すみません。突然、転校してきて」

 二人から気を使われて彼女は居た堪れなくなった。

 「先輩」と「影」が部屋に入ると、「ニコ」は既に制服に着替えてソファに座って朝食をとっていた。「ニコ」の姿を確認した「先輩」が声をかけた。

「おはよう、「ニコ」。新しいルームメイトを連れてきたぞ」

「おはようございます。「先輩」、先ほどはすみませんでした。どこかの『猫』ちゃんが部屋を散らかしていまして。廊下に立たされて寒かったでしょ。コーヒーでもどうぞ」

 「ニコ」は自分の所業をすべて彼女に被せて、「先輩」から好印象を得ようとテーブルの上のコーヒーを指さして座るように促した。彼女が談話室の掃除をしている間に準備していたのだろう。

 「先輩」は少しの間躊躇ったがすぐにソファに座り、コーヒーを飲んだ。

その様子を見た「影」が渇いた笑みを浮かべながら、「ニコ」に向かって尋ねた。

「あの・・・僕の分のコーヒーはないんですか」

「あら、ごめんなさい。忘れていたわ。『猫』ちゃん。キッチンでコーヒーを入れてきて差し上げたら」

「わかったわ。少し待っててね」

 彼女は作り笑顔で返事を返すとキッチンへと消えた。

 「ニコ」はこういう時に人を使うのが上手い。今も彼女が猫かぶらざるえないことを把握したうえで頼みごとをしている。「先輩」の前では彼女は大人しく人当たりの良いお嬢様を演じなければならないのだ。いくら額に青筋を浮かべていたとしても。

 彼女がコーヒーを淹れて戻ってくると、「ニコ」と「先輩」の話が終わったところだった。

 先輩は自分の腕時計を見ると、

「時間がないな。おい、すぐに出るから、コーヒーをすぐ飲んで敷地を回るぞ。」

慌てたように「影」に向かって無茶な要求をした。

「影」は数瞬躊躇うと覚悟を決めたのか、彼女の持つまだ熱いコーヒーを受け取ると数回息を吹きかけた。そして深呼吸を数回すると一気に飲もうと口をつける。しかし、コーヒーが熱すぎて半分も飲むことができなかった。舌を火傷したようで犬のように舌を出す。その様子を見ていて、彼女は「影」に助け船を出した。

「別に、無理して飲まなくてもいいですよ。急いでいるのなら構わずに行ってください。」

 彼女の言葉を受けて、「影」は何度も「すみません」と頭を下げて、二人は彼女たちの部屋から出て行った。

二人の姿が見えなくなると彼女は「ニコ」に食って掛かった。

「ちょっと、どういうつもりよ『ニコ』。談話室を汚していたのはあなたでしょ。おかげで『先輩』から片付けのできない女と思われたじゃない。それにわたしが苦労している間に『先輩』から点数稼いでいるし、何とか言いなさいよ」

「何を甘いこといっているの。事実なんて大したことじゃないわよ。大事なのはそう思ってほしい相手にどのようにして思わせることができるか、よ。今回がいい例ね。よかったじゃない。いい勉強になって」

「何よそれ。あなた、詐欺師になる才能あるわよ」

「褒めても、何も出てこないわよ」

「褒めてないわよ」

 彼女と「ニコ」はいつものように軽口を言い合い、互いに顔を見合わせてどちらからともなく笑い声をあげた。



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